syuの日記・気まま旅

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忠臣蔵を歩く 早稲田

2013-01-29 | syu散歩

1710年東海道の江戸に出入する人々を調べる為に作られた「高輪大木戸跡」先の交差点、角にビルの「高輪稲荷神社」に入ると正面に赤穂浪士四十七士が、浅野家の菩提寺「泉岳寺」である。寺は、1612年徳川家康が創建し開府六ヶ寺の一つで、曹洞宗江戸三ヶ寺の一つに数えられている名刹である。

戦災にまぬがれた重装な山門の脇に、連判状を手にした「大石内蔵助良雄の銅像」が建っていた。広い境内に宝物館(義士館)、梅、血染石
首洗井戸などがある。その奥に玉石垣をめぐらせた「赤穂義士四十七士の墓、浅野内匠頭長矩の墓があり、お線香の煙が各墓から登っていた。

浅野家上屋敷裏門であった      門楼       大石内蔵助良雄像
    

元禄15年12月14日吉良邸討ち入り、吉良義央の首級を挙げて主君の復讐を遂げ翌15日「泉岳寺」に引揚げ主君の墓前にその報告を成し遂げた。
幕府は、義士一党を細川家などに分ち預け、幕命を待った。
元禄16年2月4日一党切腹を命じた。

門楼                    本殿                鐘楼
    

主な「四十七士義士の墓」は、大石内蔵助良雄、国家老、1500石(譜代)。討ち入りの指導者。享年45。辞世は「あら楽や思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし」。大石主税良金、部屋住み。大石良雄の長男。討ち入りのときは裏門の大将をつとめる。最年少の同志。享年16。辞世は「あふ時はかたりつくすとおもへども別れとなればのこる言の葉」。

原惣右衛門元辰、足軽頭、300石(新参)。早くから江戸の急進派に同調していた。享年56。辞世は「君がため思もつもる白雪を散らすは今朝の嶺の松風」。片岡源五右衛門高房、側用人・児小姓頭、350石(譜代)。忠臣蔵では浅野長矩切腹の際に最後の対面をした。仇討ちを強硬に主張し独自の行動をとっていた。享年37。堀部弥兵衛金丸、前江戸留守居、前300石、隠居料20石(譜代)。同志のうち最年長者。享年77。辞世は「雪はれて思ひを遂るあしたかな」。堀部安兵衛武庸、馬廻、200石。越後国新発田藩出身、旧姓中山。父の代に新発田藩を放逐となり浪人していたが、高田馬場の決闘での活躍により、堀部金丸の婿養子となり、赤穂浅野家の家臣となる。仇討ち急進派の中心人物。討ち入りでは大太刀を持って大いに奮戦したと伝わる。享年34。辞世は「梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思はば」。
吉田忠左衛門兼亮、足軽頭・郡奉行、200石役料50石(譜代)。浪士の中では大石内蔵助に次ぐ人物として、これを補佐した。享年64。辞世は「かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山道」。

吉田沢右衛門兼貞、部屋住み。蔵奉行吉田兼亮の長男。享年29。近松勘六行重、馬廻、250石(譜代)。討ち入りの際に負傷する。享年34。
間瀬久太夫正明、大目付、200石役料50石(二代)。享年63。間瀬孫九郎正辰、部屋住み。間瀬正明の長男。享年23。
赤埴源蔵重賢、馬廻、200石(譜代)。忠臣蔵では「徳利の別れ」で有名。享年35。潮田又之丞高教、郡奉行、絵図奉行、200石(譜代)。享年35。辞世は「武士の道とばかりを一筋に思ひ立ぬる死出の旅路を」。富森助右衛門正因、馬廻・使番、200石(二代)。享年34。辞世は「先立し人もありけりけふの日をつひの旅路の思ひ出にして」。不破数右衛門正種、元馬廻・浜奉行、元100石(譜代)。浪人していたが懇願して義盟に加わる。討ち入りでは最もめざましい働きをしたと伝わる。享年34等。

寺坂吉右衛門信行は、吉田兼亮の足軽、3両2分2人扶持。足軽では唯一の参加者。討ち入り後に一行から立ち退いている。討ち入り時は38歳。事件後に幾つかの家に仕えた後、江戸で没。享年83。

大石主税9名は、この梅樹下で切腹                四十七士墓地前
    



「義士祭(冬)」は、 毎年12月14日。墓前供養 浅野長矩公之墓所 等、

「義士祭(春)」は、 毎年4月1日~7日  義士追善供養(本堂)等、 泉岳寺所蔵の寺宝を公開あり、本堂に入れるのは、義士祭(春)の時のみ。大石内蔵助の守り本尊でもある摩利支天(秘仏)や幕末の三舟・良寛和尚・藤田東湖などの書、お経文で描かれている蓮舟観音図などが観られという。

首洗井戸跡碑                         浅野長矩奥方の墓
    

儒学者の見解
赤穂浪士の沙汰については、学者もそれぞれの意見を述べている。まず赤穂浪士助命を唱えたのが聖堂学問所を取り仕切る大学頭・林信篤。
学問好きの綱吉は、将軍宣下を受けた翌月には林を招いて議論をし、その後、林家の私塾を湯島聖堂に移築して林を大学頭に任命。旗本や御家人に朱子学を講義させたという経緯がある。
「昔から主君の仇はとるというのが人の道の大原則である。今、赤穂浪士に厳罰を加えれば、天下に笑われることはもちろん、忠義の道が廃れることは間違いない。」となる。林は赤穂浪士を忠義の士とし、助命を唱えた。

一方、綱吉の側用人・柳沢吉保のお抱え学者である 荻生徂徠 古学派は、林の意見とは対立。
「そもそも浅野が吉良を殺そうとしたのであって、吉良が浅野を殺そうとしたのではありません。だから、吉良は浅野の仇ではありません。浅野は殿中にも関わらず刃傷に及んだが打果せずに罰せられました。浪士たちは浅野の邪志を継いだ者であり、義士ではありません。」
と、赤穂浪士は「義士」とは言えないとしている。

幕府は、義士一党を細川家など四大名に分と預け、元禄16年に切腹を命じた。
  

庶民では赤穂浪士討ち入りが大ニュースとなり、彼らは一躍ヒーローとなって話題を独占した。
ある商人は手紙に「江戸中の手柄」と書き記している。また、こんな落首が現れた。
「たのもしや 内匠の家に 内蔵(くら)ありて 武士の鑑を 取り出しにけり」、頼もしいことではないか。内匠の家(浅野内匠頭)に内蔵(大石内蔵助)があって、武士の鑑を取り出してきた。
このように、討ち入り直後は幕府、庶民共に討ち入りを忠義の行動と褒め称える声が圧倒的に多かったようだ。

寺坂は、大石の命を受け、一党遺族に報告の為戻り、自首をしたが時効で、83歳の天寿を全うした。
    

「大塚」は、大きな古墳があったことから名づけられたのでは、が、古墳は多いが、これと云う古墳は、見当たらない。また、水戸藩邸、古き奥州街道一里塚の、榎の大木のあるのを「大塚」と言った、又、富士見塚の波切不動のある塚のことだともいう。又、御茶ノ水女子大校内のあった塚ともいう、また、豊島ヶ岡御陵、護国寺、儒者捨て場、大塚花柳界で大繁盛など歴史のある大塚駅である。
明治の頃は、一面畑だったという、一丁に1~2軒と云う寂し所でキツネ、タヌキが出たという。

久し振りの下車、駅ビルの工事で変わりつつあるが、ただ一つ残っている都電の真ん中の駅が「大塚」この辺は変わりようがなようだ。
「大塚」から「早稲田の終点一つ手前、面影橋」で下車する。

JR大塚駅は、駅ビル建設工事中           昔と変わらぬ都電
  

「面影橋」は、新目白通りの北に神田川が流れ、そこに架かる橋。
駅名の由来となった面影橋は、江戸時代から代替わりしながらこの位置に架かる橋という。橋を渡ったところに、「太田道灌ゆかりの山吹の里の碑」がある。
南東に100mほど離れて「甘泉園公園」がある。

コンクリートの神田川           面影・姿見の橋
    

「甘泉園公園」は、新宿区西早稲田にある区立の公園。徳川御三卿の一つ・清水家の下屋敷があったところで、公園は屋敷にあった回遊式庭園であったという。湧き出ていた湧き水がお茶に適して評判であったことから、「甘泉園」と呼ばれていた。
明治時代には相馬子爵家の邸宅になったが、昭和13年に近隣にある早稲田大学の施設となった。1969年に新宿区の管轄となって現在に至る。

早大向かいの甘泉園入り口              園内
  

公園に隣接し、早稲田大学構内にあった「水稲荷神社」がある。神社入口に堀部安兵衛の碑もある。
水稲荷神社の境内には、「高田富士」と呼ばれる富士塚が造られている。富士山を模したかなり立派な塚、というか山で、高さは十数mもあったようだ。「江戸名所図会」にも載る史跡である。

園内                       水稲荷神社
    

「堀部安兵衛」1670-1703 喧嘩安兵衛、のん兵衛安、赤穂浪士の一人。

新潟県、新発田城と安兵衛は、新発田の生まれ。
新発田藩士中山弥次右衛門の息子で、母方の祖母は藩祖溝口秀勝の娘という由緒正しい血筋でしたが、13歳のときに中山家が断絶。
家名再興を志して江戸に出た安兵衛は、高田馬場の仇討ちによって名を挙げて、赤穂藩士堀部家の婿となり、討ち入りに加わって本懐を遂げた。新発田城跡に その堀部安兵衛の像が今も江戸の方向を見据えている。


ハ丁堀から駆けつけた堀部安兵衛の碑
    

「高田馬場の決闘」は、安兵衛が高田馬場に行ってみると、果たし合いはもう始まっていたが、見ると菅野ひとりに対して、向こうは何人もいて苦戦している。これはいかんと安兵衛はただちに刀を抜いて、助太刀に入り、これで戦況は逆転。
村上庄左衛門らは不利と見て逃げ出してしまう。

この決闘を見ていたのが堀部弥兵衛で、彼は安兵衛にぜひ自分の養子になって欲しいと彼を説得し、「中山」の名前をそのまま使ってもいいから、とまで言う弥兵衛の熱意にほだされて、彼は堀部の家に養子に入ることになり、赤穂家の家臣となる。
そしてその7年後、松の廊下での刃傷事件が起き、彼は忠臣蔵の義士たちの中でも仇討ち派急先鋒として、江戸の浪士グループの中心的存在となる。

夏目漱石生誕の地でもある。堀部安兵衛は、この酒屋で升酒を、その升が現存とか
    

次回は中野新井薬師方面へ。

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