中央区の南部、月島内で埋め立て地隅田川と朝潮運河を隔てて築地・晴海に相対し、朝潮運河沿い倉庫、高層ビルが立地、隅田川最下流。
「勝鬨橋」が架かる。この橋、シカゴ跳ね橋をモデルに日中戦争勃発時 1937年の架け橋工事が始まった。
戦勝を期して名づけられて。中央部で跳開し、3千t級の船舶航行が可能であった。
現在は、東京湾埋め立て、自動車の発展、河港がら海湾の利用へと変わり開くことは無い(1970年)。
地下鉄は、大江戸線、勝鬨・月島・越中島・江東区門前仲町進行、又中央区役所から佃、豊洲の有楽町線が交差している。
築地から中央区、駅の出口は、「晴海通り」。
東京港修築計画に基づいて架けられた勝鬨橋は、国家的イベントとして予定されていた万国博覧会へのメインゲートとしても利用するために、我が国、最先端技術の粋を集めて建造。
万博自体は戦争の激化により中止となりましたが、勝鬨橋は昭和15年完成。中央が開閉する勝鬨橋は、完成当時は跳開橋として東洋一の規模を誇っていたが、隅田川を航行する船の減少、交通量の増加などによって、昭和45年の開閉を最後に、現在では開かずの橋となっている。
資料館あり、使われなくなった、変電所を改修し、この勝鬨橋をはじめ隅田川の橋について、資料や関連情報等を展示・公開している。
朝潮運河、埠頭が晴海になるが、大江戸線は「月島」-「佃」の晴海通りを江東区へ
15世紀に江戸城を築いた太田道灌が江戸前島の平川河口に江戸湊を開き、海上輸送を行ったのが始まりであると言われている。
17世紀になり江戸に幕府が開府してからは、江戸庶民の生活に必要な物資の輸送手段として大量輸送できる海運がそれまでより一層重視され、諸国とを結ぶ廻船の重要な寄港地として大きな役割を果たした。
幕末の1858年に結ばれた日米修好通商条約により隣の横浜港が開港(1859年)したものの、東京港が国際港として開港するのは大正時代の関東大震災を契機に日の出・芝浦・竹芝の各埠頭が整備される1941年を待つことになる。
戦後の経済成長に伴い首都直下の港湾施設の拡張が急務となり、豊洲埠頭が整備された。
1951年には特定重要港湾に指定され、間もなく晴海埠頭も整備される。
その後の世界的なコンテナリゼーションに対応するため、1967年に品川埠頭が神戸港摩耶埠頭とともに日本初のコンテナターミナルとして運用を開始し、1975年に大井コンテナ埠頭が完成、全国でも最大級の連続8バースにわたるコンテナターミナルが誕生した。
その後1985年に青海コンテナ埠頭の運用も開始。2004年には大井コンテナ埠頭再整備も完了。
戦後処理によってGHQに港湾機能の多くを接収されていた(現在も一部は接収が解除されていない)横浜港を尻目に急成長して、2000年代には横浜港を抜いて東日本最大の港となり、五大港の一つとして今日では日本の港湾物流の中心的な役割を担う。
大江戸線、晴海通り(勝鬨橋)、有楽町線(佃大橋)通る。小学区は月島第一・第二の二校・晴海に第三がある。
月島西仲、もんじゃ通りは、中央区月島の「西仲通り商店街」。
「もんじゃ焼きの街」の「もんじゃストリート」と呼ばれ観光客で賑わう。
現在もんじゃ屋が75店ほどあるが、歴史のある店は数店であり、他の店は1980年代後半の「もんじゃブーム」で他の商店からもんじゃ屋にくら替えしたケースが多い。
もんじゃ焼きの店舗でも、お好み焼きをも供するのが一般的である。
ここでは、「いちごみるくもんじゃ」などアレンジされたもんじゃを提供している店もある。
向かいは、築地市場 のっぽビルが多い
「月島」駅下車する。
2011年7月現在の人口は、12,287人。埋め立て当時の月島は、富国強兵の国策に沿い重工業地帯とされ、鉄工所が多く造られた。
工場、商店が多かったが、最近は、高層マンションも増えてきている。面積は、2.279km2。
1892年(明治25年)の「東京湾澪浚(みおさらい)計画」に基づき、東京湾から浚渫した土砂を利用して埋め立てられた地域、
月島1号地(現在の月島一丁目から月島四丁目まで)として完成し江東区と続いて行く。
中央区は、「月島」駅で、次は江東区へ
「佃」
1590年 家康が江戸城に移り、森孫衛門を筆頭に漁民30余名も、徳川家の御肴役として移住。
今の佃地区ではなく、小石川や小網町の武家屋敷内に済むことが許され、掘り番として手当も受けていた。
家光時代、 町家と武家との居住分離が始まり、関西の佃村から移住してきた漁民たちも多くなったので、新しい土地で、武士とは別の住まいが必要になってきた。
1645年 漁業に便利な生活の場として鉄砲洲の東の干潟の使用を許可を申し出て、幕府は100間(約180m)四方を築島して郷里の佃村にちなんで「佃島」としたとある。
江戸中~末期に入り、 漁民たちは江戸前の新鮮な白魚を主に献上魚として、残った雑魚を市中で商いした。
保存食として、雑魚を醤油炊きにしておいたが、やがて白魚やハゼ、小海老も煮込んだ。大名の食膳や国許への土産となって、佃煮は全国に広がった。このころはまだ高級美味珍味だった。
雑魚を塩漬けしたものを「潮(うしお)煮」ともいわれた。
月島第二小学校正面 昔ながらの長屋が
「相生橋」は、鉄骨を角型に組み合わせたトラス型の橋。
共に生きるという「相生」という名称は、長短二橋で構成されていたことから「相生の松」に由来して名づけられたという。
橋下には、「中の島公園」。隅田川唯一の水上公園。埋め立て、運河造成によって佃島は大きく工業化され、さらに近年隅田川下流はウオーターフロントということで、その変化は大きく、超モダンなビル群リバーシティ21が造られた。
月島のもんじゃ焼き、昔ながらの路地、お店が残る、なつかしい雰囲気のまちでもある。
ここから先の下流に春海橋が見える。この春海橋あたりから下流は、「晴海運河」と位置づけられるエリアとなる。
行政上は、隅田川本流から分岐しての0.9kmは隅田川派川。春海橋と、最近架けられた晴海大橋、豊洲大橋が あり、東京湾に至る。
隅田川22番目の橋、「相生橋」と橋下の左奥に春海橋が見える。1998年竣工。翌1999年全通。
3径間鋼トラス桁橋。橋長149.1m。幅員22.0m。
最初の橋は、1903年に架けられ、それ以前は佃の渡しと月島の渡しなどの渡し船であった。
相生橋渡ると江東区越中島、東京海洋大学(明治丸)に
「越中島公園」は、江東区越中島にある晴海運河沿いの区立公園。
北は、大島川水門、南は清澄通りまで伸びる、南北に細長い公園で、屋形船の出入りが見られる。
スロープでつながっている。足腰の不自由な人や、自転車・車椅子に乗りながらでも移動できるバリアフリー。
子どもの自転車教習の小型信号機や車線のほか、簡易な砂場や子ども用水遊びジャブジャブコーナーなどがある。
ベンチと草花に囲まれた静かだが、狭く利用する人は少ないようだ。
越中島公園 海洋大学構内明治丸
「明治丸」は、明治初頭、洋式灯台の建設に伴って、その測量やメンテナンスのために灯台巡視船が日本にも登場した。灯台の増加により新鋭船が必要となったため、日本政府はイギリスのグラスゴーにあるネピア造船所に本船を発注した。
1874年に進水し、同年11月竣工。「明治丸」と命名された。1875年に横浜港に到着し、灯台巡視船の任に就いた。
日本に回航された1876年には、イギリスとの間で小笠原諸島の領有問題が生じたため、11月、日本政府調査団を乗せて横浜港を出航し、24日に父島に入港した。
新造船で船足が速く、22日に同じく横浜を出航した英国軍艦「カーリュー」より2日早く着き、調査を進められたため、日本の小笠原諸島領有の基礎を固めることができたとされている。
旧商船大学ー海洋大学に 明治天皇も乗船した。
「東京海洋大学の前身」は、内務郷 大久保利通は, 明治政府の自立的な海運改革を進めるにあたり, 船員教育の急務を提唱し,
三菱会社長 岩崎弥太郎に命じて, 明治8年この地に商船学校を開設させた。
当初の教育は, その頃隅田川口であり, 海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に,「成妙丸」を係留して校舎とし 全員を船内に起居させて行われたが, これが近代的船員教育となった。
船員教育の成果は, 我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが, その歴史的使命は幾変遷をへた今日, 江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられているとある。 船員教育発祥の地より。
煉瓦造り校舎 校内
「海王祭」は、 越中島キャンパスで毎年6月の第一土曜・日曜日に開催される。
前日には宣伝のため越中島周辺の運河でカッターパレード。
模擬店や研究室(海事、船舶、機械、物流など)の公開、ミスネプチューン(女装大会ー海王寮寮生の伝統行事として位置づけられている)や浴衣コンテスト(海洋科学部女子学生が参加する。
大学の船である「やよい」の試乗会(東京湾クルージング)は人気で毎年整理券の入手の列ができるほど好評と云う。
レンガ八角型の平家造り「観測台」 奥深い校内
「門前仲町の火の見櫓」は、(鉄骨造地上二階建築面積23.45m2 高さ9m)
深川の南部に、佐賀町下の橋際(佐賀二)・富吉町(永代一)門前仲町などに火の見櫓が立てられている。
門前仲町の櫓は今の門前仲町の交差点付近かつての富岡八万宮一の鳥居近くにあり、周辺は永代寺富岡八幡宮三十三間堂といった江戸名所が集まり現在同様に門前町としておおいににぎわっていた場所。
この櫓は深川の繁華街を守ると云う大きな役割をはたし、「災害のない街」を願う気持ちは今も昔も変わらない。
稲荷神社、 黒船橋 江戸時代火の見櫓
永代通りと清澄通りが交差点に「門前仲町駅」が
次回は舎人ライナーを歩きます。
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