「幸田露伴」は、「五重塔」を書いた明治24、5年は、20代前半、独身で、谷中の天王寺・五重塔のよく見える借家に住んでいた。
その後何度も居を変えたが、一番長く住んだのは、ここ向島の蝸牛庵だった。
後に作家となった娘の幸田文は、この家で生まれている。
蝸牛庵の建物は現在、犬山市の明治村に移築保存されているが、同じように移築・保存されている啄木の住んだ「本郷喜之床」、「小泉八雲避暑の家」、「森鴎外・夏目漱石住宅」に比べても格段に構えは大きく立派。
蝸牛庵跡地、露伴の名の付いた児童公園に、文学碑が片隅に建っていた。
幸田露伴 1867-1947 第一回文化勲章受章小説家。東京下谷生まれ、中学半ばにして電信技師に、北海道に渡る。
1889年「風流仏」で文壇に、「五重塔」など男性的理想主義的なロマンチシズムに溢れた特異的な作品を発表している。
尾崎紅葉と文壇を二分する勢力示している。「頼朝」「運命」「芭蕉七部集」、評論で「一国の首都」、随筆「長語」文学博士に。
「運命」
明の始祖・光武帝の長男がなくなったのが運命の始まり。はじめは光武帝も自分の息子のうちで才能豊か燕王を帝位につけようと思っていた。しかし結局は亡くなってしまった長男の子、光武帝にとっては直系の孫である後の建文帝を皇太子に決める。
脆弱な孫のために光武帝は有能な部下たちを次々に粛清までして。しかしそうまでして皇位につけた建文帝は皇帝たる素質にかけていた。
これが運命。
始めから燕王を帝位につけていたら、後に大乱はなく、多くの人が死なずにすんだ。建文帝も、一王として平和に暮らせたかもしれない。
しかし、運命はそれを許さない。
幸田露伴「蝸牛庵」跡地 今は、露伴児童公園に
「向島百花園」隅田川七福神の「福禄寿」
仙台出身の骨董商、佐原鞠塢がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し、1805年に開園。
360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていたが、1809年頃より
百花園と呼ばれるようになった。
江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、著名な利用者には「百花園」の命名者である絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。
園主や文人たちの構想で詩歌にゆかり深い草本類を多数栽培した。
園内には多数の野草が植えられ、とくに秋の七草その他、秋の草花の美しさで知られ、池泉、園路、建物、30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名。
向島百花園正面 入り口に東京市碑が
「向島白鬚神社」隅田川七福神の寿老神
と垂仁天皇の25年、「倭姫命」により社殿を創建したのに始まると云う古い神社。
674年、天武天皇の勅旨により比良明神の号を賜っている。
「延喜式神名帳」には記載されていないが、「日本三代実録」の、865年、正月18日条に比良神が従四位下の神階を受けたとの記述がある国史見在社である。
本殿・若宮社・伊勢両宮及び八幡三社は、豊臣秀吉の遺命を受け、豊臣秀頼が片桐且元を奉行に命じ、播磨の大工の手によって造営されたものと云う。
白鬚神社 墨東の先陣を切る夏祭り 寿老神 石鳥居
隅田川の東岸・墨東地区最初の夏祭りで、3年に一度、1848年に作られた 神社神輿が巡行する。
戦前は周辺三神社に計13基の神輿があり、最も大きい白鬚神社の神輿が「十三番」の番札をつけたことから、「十三番神輿渡御」とも呼ばれ、
見ごたえあり。
神輿は約80人で担ぎ、交替要員を含めると250~300人の人手が、神輿の指揮をする年番頭、拍子木を叩いて「進め」「停まれ」などを指示し、神輿を担ぐときの掛け声は「セイヤ セイヤ」と小刻みで軽快で、お囃子も軽快なリズムで渡御を盛り立てる。
隅田川七福神 方災厄除けの神 東向島
「台東区三ノ輪(荒川区隣接)江戸時代蓑里と呼ばれていた。大名の下屋敷が多い、今は明治通りが二分させ、昭和通りと交差で万年渋滞地域
都電荒川線の終点地で荒川区南千住に位置している。
岡本綺堂の小説「箕輪の心中」の舞台でもある。
「岡本綺堂」1872-1939 半七捕物帳で知られている小説家。新歌舞伎作家でもある。
「目黄不動の永久寺」
目黄不動は、江戸五色不動の1つとして知られている。
江戸五色不動とは、目白・目赤・目黒・目青・目黄の各不動尊のことで、1624-43年の中頃、 徳川三代将軍家光が寛永寺創建で知られる天海大僧正の具申により、江戸府内の名ある不動尊を指定したと伝える。
不動明王は、密教ではその中心仏とされる大日如来が、悪を断じ、衆生を教化するため、外には忿怒の形相、内には大慈悲心を有する民衆救済の具現者として現れたとされている。 また、宇宙のすべての現象は、地・水・火・風・空の五つからなるとする宇宙観があり、これらを色彩で表現したものが五色といわれる。
不動尊信仰は、密教がさかんになった平安時代初期の頃から広まり、不動尊を身体ないしは目の色で描きわけることは、平安時代すでに存在したという。
永久寺 拝殿 石塔
「音無川と日本堤」
音無川は、王子で石神井川からわかれている。その清流は田端・日暮里・金杉を流れ、三ノ輪橋をくぐり、浄閑寺の西側にそって、ここから山谷堀をへて隅田川にそそいでいる。
明治のおわりまで灌漑用水として使われていた。
音無川にそって、三ノ輪から聖天町(現浅草7丁目)まで続く土手を「日本堤(吉原土手)」といった。
安藤広重の「名所江戸百景」に描かれ、新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。
浄閑寺前の三叉路の最も南寄りの道路がその名残であると云う。
昔は音無川が 浅草日本堤へ
「浄閑寺」は、山号ー栄法山、浄土宗の寺、本尊ー阿弥陀如来、創建年ー1655年、開山ー源空、正式名ー栄法山清光院浄閑寺(投げ込み寺)
吉原遊廓の誕生(1657年)よりも2年早い。
寺が投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによる。
病気などで死んだ遊女は吉原遊廓の場合、浄閑寺に「~売女」という戒名で文字通り投込まれた」という説もあるが、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが最近の研究で明らかになった。
史跡は、新吉原総霊塔 - 関東大震災や東京大空襲で死んだ遊女も祀られている。 永井荷風文学碑・筆塚等がある。
浄閑寺 本堂
次回は、芭蕉と千住、素盞雄神社方面へ。
その後何度も居を変えたが、一番長く住んだのは、ここ向島の蝸牛庵だった。
後に作家となった娘の幸田文は、この家で生まれている。
蝸牛庵の建物は現在、犬山市の明治村に移築保存されているが、同じように移築・保存されている啄木の住んだ「本郷喜之床」、「小泉八雲避暑の家」、「森鴎外・夏目漱石住宅」に比べても格段に構えは大きく立派。
蝸牛庵跡地、露伴の名の付いた児童公園に、文学碑が片隅に建っていた。
幸田露伴 1867-1947 第一回文化勲章受章小説家。東京下谷生まれ、中学半ばにして電信技師に、北海道に渡る。
1889年「風流仏」で文壇に、「五重塔」など男性的理想主義的なロマンチシズムに溢れた特異的な作品を発表している。
尾崎紅葉と文壇を二分する勢力示している。「頼朝」「運命」「芭蕉七部集」、評論で「一国の首都」、随筆「長語」文学博士に。
「運命」
明の始祖・光武帝の長男がなくなったのが運命の始まり。はじめは光武帝も自分の息子のうちで才能豊か燕王を帝位につけようと思っていた。しかし結局は亡くなってしまった長男の子、光武帝にとっては直系の孫である後の建文帝を皇太子に決める。
脆弱な孫のために光武帝は有能な部下たちを次々に粛清までして。しかしそうまでして皇位につけた建文帝は皇帝たる素質にかけていた。
これが運命。
始めから燕王を帝位につけていたら、後に大乱はなく、多くの人が死なずにすんだ。建文帝も、一王として平和に暮らせたかもしれない。
しかし、運命はそれを許さない。
幸田露伴「蝸牛庵」跡地 今は、露伴児童公園に
「向島百花園」隅田川七福神の「福禄寿」
仙台出身の骨董商、佐原鞠塢がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し、1805年に開園。
360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていたが、1809年頃より
百花園と呼ばれるようになった。
江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、著名な利用者には「百花園」の命名者である絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。
園主や文人たちの構想で詩歌にゆかり深い草本類を多数栽培した。
園内には多数の野草が植えられ、とくに秋の七草その他、秋の草花の美しさで知られ、池泉、園路、建物、30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名。
向島百花園正面 入り口に東京市碑が
「向島白鬚神社」隅田川七福神の寿老神
と垂仁天皇の25年、「倭姫命」により社殿を創建したのに始まると云う古い神社。
674年、天武天皇の勅旨により比良明神の号を賜っている。
「延喜式神名帳」には記載されていないが、「日本三代実録」の、865年、正月18日条に比良神が従四位下の神階を受けたとの記述がある国史見在社である。
本殿・若宮社・伊勢両宮及び八幡三社は、豊臣秀吉の遺命を受け、豊臣秀頼が片桐且元を奉行に命じ、播磨の大工の手によって造営されたものと云う。
白鬚神社 墨東の先陣を切る夏祭り 寿老神 石鳥居
隅田川の東岸・墨東地区最初の夏祭りで、3年に一度、1848年に作られた 神社神輿が巡行する。
戦前は周辺三神社に計13基の神輿があり、最も大きい白鬚神社の神輿が「十三番」の番札をつけたことから、「十三番神輿渡御」とも呼ばれ、
見ごたえあり。
神輿は約80人で担ぎ、交替要員を含めると250~300人の人手が、神輿の指揮をする年番頭、拍子木を叩いて「進め」「停まれ」などを指示し、神輿を担ぐときの掛け声は「セイヤ セイヤ」と小刻みで軽快で、お囃子も軽快なリズムで渡御を盛り立てる。
隅田川七福神 方災厄除けの神 東向島
「台東区三ノ輪(荒川区隣接)江戸時代蓑里と呼ばれていた。大名の下屋敷が多い、今は明治通りが二分させ、昭和通りと交差で万年渋滞地域
都電荒川線の終点地で荒川区南千住に位置している。
岡本綺堂の小説「箕輪の心中」の舞台でもある。
「岡本綺堂」1872-1939 半七捕物帳で知られている小説家。新歌舞伎作家でもある。
「目黄不動の永久寺」
目黄不動は、江戸五色不動の1つとして知られている。
江戸五色不動とは、目白・目赤・目黒・目青・目黄の各不動尊のことで、1624-43年の中頃、 徳川三代将軍家光が寛永寺創建で知られる天海大僧正の具申により、江戸府内の名ある不動尊を指定したと伝える。
不動明王は、密教ではその中心仏とされる大日如来が、悪を断じ、衆生を教化するため、外には忿怒の形相、内には大慈悲心を有する民衆救済の具現者として現れたとされている。 また、宇宙のすべての現象は、地・水・火・風・空の五つからなるとする宇宙観があり、これらを色彩で表現したものが五色といわれる。
不動尊信仰は、密教がさかんになった平安時代初期の頃から広まり、不動尊を身体ないしは目の色で描きわけることは、平安時代すでに存在したという。
永久寺 拝殿 石塔
「音無川と日本堤」
音無川は、王子で石神井川からわかれている。その清流は田端・日暮里・金杉を流れ、三ノ輪橋をくぐり、浄閑寺の西側にそって、ここから山谷堀をへて隅田川にそそいでいる。
明治のおわりまで灌漑用水として使われていた。
音無川にそって、三ノ輪から聖天町(現浅草7丁目)まで続く土手を「日本堤(吉原土手)」といった。
安藤広重の「名所江戸百景」に描かれ、新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。
浄閑寺前の三叉路の最も南寄りの道路がその名残であると云う。
昔は音無川が 浅草日本堤へ
「浄閑寺」は、山号ー栄法山、浄土宗の寺、本尊ー阿弥陀如来、創建年ー1655年、開山ー源空、正式名ー栄法山清光院浄閑寺(投げ込み寺)
吉原遊廓の誕生(1657年)よりも2年早い。
寺が投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによる。
病気などで死んだ遊女は吉原遊廓の場合、浄閑寺に「~売女」という戒名で文字通り投込まれた」という説もあるが、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが最近の研究で明らかになった。
史跡は、新吉原総霊塔 - 関東大震災や東京大空襲で死んだ遊女も祀られている。 永井荷風文学碑・筆塚等がある。
浄閑寺 本堂
次回は、芭蕉と千住、素盞雄神社方面へ。
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