syuの日記・気まま旅

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寺町と奈良平安時代の秋田城跡

2013-12-12 | 気まま旅
 
佐竹義人菩提寺「天徳寺」を探したが、数多く探せなった。



寺町には40の寺が、 久保田の町の形がほぼできあがったとされるのが1624-43年。
1663年の「外町屋敷間数絵図」(県立図書館蔵)には、寺町に、40軒のお寺があったと云う。
三つの種類に分けられ、転封前の佐竹義宣が住んでいた地の、常陸の国から義宣を追うように移ってきたお寺。
鱗勝院、龍泉寺、一乗院、東清寺など。
国替えを命じられた当初、義宣は常陸の諸寺院に対し、常陸に残るよう勧めました。それでも、いくつかの寺院は佐竹氏に随従したと云う。
二つ目は、まちづくりのために土崎湊から呼ばれた町人と同様、土崎湊周辺(現在の土崎、寺内、飯島)から移ったお寺。「湊三か寺」と呼ばれていた大悲寺、妙覚寺、光明寺をはじめ、浄願寺、西善寺、東福(当福)寺、釈迦堂など十八のお寺が移転している。
そして三つ目が、久保田の町で開かれたお寺。弘願院、誓願寺、普伝寺などに分けられるという。

寺町と町づくりと城の位置は、日本各地にている。
    

どこの町も昔からお寺は、戦の時の防衛体制、戦略的な要素も含まれていた。
建物と広い敷地を備えた寺院は、敵を迎え撃つときの格好の待機場所、攻め入る敵の〃壁〃となって、一時的にその足を止めることに。
寺院をすき間なく並べて配置することで、その壁をより強固なものにし町づくりがなされた。
全国にはたくさんの城下町がありますが、城を囲むように寺町が存在している。
義宣も江戸や京で、城下町を目にしていたでしょう。

真宗・浄土宗の寺が多いようだ。
    

「天徳寺」は、秋田市泉三嶽根。久保田藩(秋田藩)主佐竹氏の菩提寺
秋田県指定史跡、1462年、佐竹義人(義憲)が、常陸国太田(茨城県常陸太田市)に創建の寺。

「てん信寺」は、前に掲載しています。秋田市手形字蛇野、佐竹義重の墓所がある。

何処も広い敷地、
    

「人見蕉雨斎」1761-1804 江戸時代後期の国学者。
宝暦11年生まれ。出羽久保田藩(秋田県)藩士。
ふるい記録の散逸をうれえ,その収集につとめた。「黒甜瑣語(こくてんさご)」「蕉雨斎吟稿」などをあらわした。
文化元年死去。44歳。

    

「秋田城」
続日本紀には、780年、秋田城へ派遣された鎮狄将軍、安倍家麻呂の具申に対して朝廷から
「秋田城は、前将軍や宰相が建てたものであり、長い年月を経てきた」と回答したことが見え、760年頃に秋田城へ機構改変したことを裏付けている。このときの安倍将軍と朝廷の応答において、秋田城は蝦夷による攻撃にさらされるため放棄すら検討されたが、専任国司1人と軍兵を派遣することが決定され、かえって防御が強固となったと云う。
これにより、次官国司である出羽介が秋田城介として城に常置され、出羽北部の統治に当たることとなった。
8世紀後期には秋田城に国府が置かれていたことが、発掘調査などにより推測できる。
804年、蝦夷の反乱が激しくなり、秋田城は停廃されて秋田郡となり、これは、秋田城に置かれていた国府が別の場所へ移転したことを意味すると見られている。
秋田城は、蝦夷対策のため完全に停止されることなく、出羽北部の軍事・行政拠点として存続した。
830年、秋田城が出羽大地震により倒壊したことが、記録に見える(日本逸史)。
878年に勃発した俘囚の大規模反乱(元慶の乱)の際は、俘囚側が秋田城を占拠する事態に至り、鎮守将軍として派遣された小野春風の条件提示により反乱側との妥結が成り、秋田城が回復。
939年にも俘囚が蜂起し、秋田城が攻撃を受けている(天慶の乱)。
秋田城は被害を受けることが多かったようだ。
発掘調査によれば、11世紀の遺構が確認されており、この頃までは存続したようである。しかし、1050年前後の「前九年の役」の影響で秋田城介が城に常在しなくなったため、それ以降、秋田城は衰退したと考えられている。

最北古代城柵官衛遺構の史跡「秋田城跡」


奈良時代、沿海州付近にあった渤海国(中国東北部)からの使節がたびたび出羽へ来着している。
外国使節の歓待は、秋田城において行われたとする見方が有力となっている。
秋田城趾からは、迎賓館ではないかと推測される遺構(鵜ノ木地区)も見つかっている。804年に秋田城が国府の機能を停廃したのち、渤海使の出羽来航は途絶えている。

                    外郭東門


1939年に国の史跡となり、以後、学術調査や緊急調査が行われ、一辺約550メートルの不整方形の瓦葺き土塀跡、東西94メートル・南北77メートルにわたる官庁跡などが確認されている。

政庁は、正殿・東脇殿跡など役所の中心になる。


「トイレ建物 - 掘立柱建物とトイレ遺構が一体」庇側の入口から入ると、待合室的な空間があり、その先に3部屋の個室をもったトイレ建物と考えられ、個室の床下の便槽に溜まった汚物は木樋を通して沼に排水する水洗式だったと考えられる。
沼の汚染を少なくするため沈殿槽を設け、汚れの少ない上澄みだけを流すように工夫したもの、個室内に用意された桶の水を使用後に流す構造であったか、あるいは床下に木樋の暗渠があり。上方に位置する井戸などの生活排水によって随時流す高野山的なシステムであったと考えられる。
西日本的な食生活がうかがわれ、現地の人ではなく、都から来た役人が使用したものと考えられた。
豚を常食する人々(外国人)を迎え饗応した施設ではないかという見方もある。

出羽国の政治を                  使節を迎えている
  

「秋田城介」の起源は、奈良時代末の780年に出され、秋田城に専当の国司を置くという決定にあると云う。
この担当者は、鎮秋田城国司などと呼ばれ、出羽介がその役にあてられることが多かった。
後、平安時代中期までに出羽城介という令外官が出羽介の兼任職としてあると観念されるようになり、出羽城介は秋田城に赴任して出羽国北部を統治する要職であったが、「前九年の役」のとき廃止。
鎌倉時代に秋田城介と名を変えて復活し、有力御家人の安達氏が任命している。
安達氏は秋田城に赴任しなかったが、周辺を支配し、室町時代以降は名誉職になっている。

井戸とその排水は、苦労したようである。             儀式も多い
  

830年の秋田大地震で城は大破・1083年後三年の役が始まる・1087年源義家、金沢棚を攻略「清原氏滅亡」・1189年源頼朝奥州征伐
藤原氏滅ぶ、後、橘氏萩田郡「地頭職」に、、、、。

「源義家」1039-1106 天下第一武勇之士、武蔵国守歴任、白河上皇は、院の昇殿を許している。大江匡房から兵法を学ぶ。
         「吹く風をなこその関と思へども 道もせにちる山桜かな」今も「水戸なこその関」に歌碑が立っている。

奈良時代・平安時代、出羽国は、政治・軍事など、重要であったのが判る
  

「元慶の乱」は、朝廷側の蝦夷に対する懐柔政策が功を奏して、蝦夷は降伏したとするが、田牧久穂氏は、「元慶の乱・私記」でこれに異を唱えている。
広範囲の蝦夷をまとめて、自分たちの要求を朝廷側に文書にして提出するなど、反乱を指導した人物がいるはずであるが、この人物が朝廷側の多数の犠牲者(焼山での戦いだけで500人以上が死亡あるいは捕虜になったという)にもかかわらず彼らの名前が明確に記録されていないこと、(一応首謀者とされる2人の「首」は蝦夷側から提出されている。しかし、これは朝廷側が独自に処分できなかったことを意味している。これだけの被害なら、アテルイのように必ず文書に残っているはずという主張もある)、
また、915年北東北に2000年来最大の自然災害である十和田湖火山の大噴火が起きるが、この噴火あるいはそれに続く広範囲の自然災害が全く文書で記述されていないこと。などから、この元慶の乱は事実上蝦夷側の要求が通り、雄物川以北は蝦夷側の支配する地区となり、朝廷が手を出せなくなってしまったというのである。
同時期に仙北郡で極めて大規模な城柵として使わたのにも関わらず、記録が全く残っていない払田柵跡にあった施設で中央から監視しに来た人を接待したのではないかとする説もある。
いずれにせよ、全く記録に残っていない払田柵の存在は当時のこの地区の人が中央の管理とは別に比較的自由に行動できたことを示すと云う。

国・県教育委員会が発掘調査継続していると云う。(1200年の時が)
  
  
水洗厠舎跡が(沈殿槽・濾過槽)大陸からの来訪者の寄生虫が見つかっている。
  

和銅開珎銀銭・木簡・人面墨土器・壺・人形など遺物が
  

                    隣接して、「秋田県護国神社」
拝殿


明治2年、秋田藩主「佐竹義堯」が戊辰戦争に殉じた官軍戦没者425柱を高清水丘に祀ったのが起源。
1893年に焼失、明治32年 1899年、千秋公園(久保田城址)に再建され、秋田県出身の軍人・軍属を合祀して秋田招魂社と称した。
昭和14年、内務大臣指定護国神社として秋田県護国神社に改称し、翌年、旧秋田城址である現在地に遷座した。
鎮座地名に因んで高清水宮と称し、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合祀し、主祭神。

戦後は県に関係した軍人、軍属の霊を合祀し、合祀が完了し、祭神の数は38,000余柱と云う。
社殿は平成4年に再建。

さざれ石                                    境内
    

例祭は春4月29日、秋と10月24日の年二回行なわれている。 平成2年に、 即位の礼に反対する過激派に放火され全焼、 平成4年再建。

手水舎                       伊勢神宮模した、神門
    

次回は、男鹿半島へ。

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