秋田駅東口(4番バス乗り場)定期観光バス「男鹿半島・なまはげ伝説 なぎさコース、12時45分発」に乗り込む。¥3800.11月10日まで
コースは、寒風山回天展望台ー真山神社・男鹿真山伝承館ーなまはげ館ー男鹿温泉交流館五風前ーホテル帝水前ーホテルきららか前ー
西海岸ー秋田市ー駅東口18時解散。秋田中央交通予約センターは、TEL 018-862-9600
秋田駅から男鹿半島へ 観光バスは市内から秋田港 ドーム式市民体育館
男鹿市は、県中西部、日本海に突出した半島の大部分を占めている。
7世紀、この地を支配していた「蝦夷の恩荷]が転じたものという。南北朝時代に、「津軽」から安東氏が入り脇本城を築き、後「秋田城介」
と称した。1602年から「佐竹」氏の所領となり明治まで続いた。
「秋田港」は、市の西部に位置
港湾管理者は県であり、重要港湾の指定を受けている。
コンテナターミナルも整備され、秋田火力発電所も隣接地に立地している。
旧雄物川(秋田運河)の河口、北前船の寄港地ともなった土崎に立地し、古くから交通の要所として栄えた。
1941年(昭和16年)までは土崎港と称し、八橋油田で採掘された石油の製油所が建ち並んでいたため、戦争中土崎空襲の標的ともなった。
環日本海地区の港湾としては最大規模で、近年とくに開発が進んでいる。
ウラジオストクや中国の各都市と定期便が就航している。
秋田空襲で石油基地の為、戦災に、 現在でも石油タンクが
バスは181号線を右に八郎潟左に日本海、355mの寒風山を目指していた。男鹿線の船越駅付近で、大きな、なまはげ立像が迎えてくれた。
寒風山パノラマラインに入る手前脇本駅付近の(若美町、寒風山の里山)で、バスガイドが、野球の中日ドラゴンス落合元監督の話をし、
「1959年7人兄弟の末っ子で中学時代、県立秋田工業高校建築科野球部に在籍退部復帰して4番打者、1972年東洋大学進学、、、、、。
東芝府中社会人野球からロッテオリオンズ、、、選手引退後中日監督、昨年退任したまでを詳しくガイドしていた。
「寒風山回転展望台」男鹿半島360度のパノラマである。
2万年前成層火山頂上に展望台「寒風山」
「寒風山」は、成層火山。標高355m。山頂部は滑落で2つに分かれ、安山岩の採石が行われている。
3万年以降に活動開始した。大部分の溶岩は2万年以降に噴出したようである。寒風山の活動の中心には、かつて淡水の湖があり、そこに噴出した寒風山の初期の溶岩流は湖水に流入し、湖成層と複雑に互層している。
溶岩は安山岩が主体で、少量の玄武岩を伴い、鉱物斑晶が見られる。
2,700年前には火砕流が発生したが、地震活動や噴気活動などマグマの動きや噴火の兆候がまったくないため、気象庁の指定する活火山には含まれていないと云う。
寒風山は1810年に噴火した、という江戸幕府に提出された文書が残っている。
しかし、この文書には被害や噴火の詳細がまったく書かれておらず、噴火の堆積物も見つからないため、農作物の被害を水増し申告するための布石として、江戸の久保田藩邸において創作し、江戸幕府に提出したものと考えられている。
観光地寒風山、芝生に覆われた山肌と、近隣に障害物がないことから、パラグライダーが盛んに行われている。
自動車道55号・入道崎寒風山線が通るなど、市を代表する観光地に。
展望台からのパノラマ
南方面には、秋田火力発電所・港・鳥海山などが。
北、能代方面。白神山地・八森・岩舘など。
火山口が、
東、太平山・南部千拓地・八郎潟・中央千拓地・森吉山など。
西、大噴火口・入道崎・北浦港など。
1回転13分、山頂から見下ろす夜景は素晴らしいと云う。近くには、鬼の隠れ里・地震塚・滝の頭湧水・姫ヶ岳(339m)・風穴等のウオーキングコースがあり火口が身近にみられる。
八郎潟千拓地が ライン道が
館内には、男鹿半島特有の動植物の標本を始め、地質・地形を学ぶ展示をはじめ、干拓前の八郎潟で、実際に漁業に使われていた「丸木舟」を展示し、 江戸時代後期の旅行家「菅江真澄」が遺した男鹿半島各地の当時のスケッチ写真を、パネルにして掲示してあった。
「菅江真澄」1754―1829 江戸中期の国学者、紀行家、民俗学者。愛知県付近の人で、「菅江真澄」を称したのは、晩年秋田に定住してから。賀茂真淵の門人植田義方に国学を学ぶ。
各地を旅行、庶民生活と習俗を日記と図絵に記録した「真澄遊覧記」。
真澄は、30歳で旅立ち、信濃、越後、出羽を経て津軽に入り、松前に。下北、津軽、弘前藩の採薬掛となり、山野に入って薬草採集を行った。秋田藩の地誌の編集にも従事、また、紀行文によって、当時の各地の年中行事、伝承習俗や庶民生活の実際を詳しく知ることができる。
秋田仙北郡角館で没している。
スカイパーク寒風山回転展望台、一回転13分
「県道55号入道崎寒風山線」は、総距離25.7km・1961年開通
男鹿半島の北西の突端に位置する入道崎から北側の海岸線を通り、おおむね南東の方向へ。
国道101号と合流し、男鹿市男鹿中滝川坂ノ下で分岐し、寒風山頂上付近へ向かって登りつつ、寒風山の火口の中を進む。頂上直下の
妻恋峠火口で下りに転じ、秋田県道54号男鹿琴丘線に接続した先に終点がある。
生々しい第二火口
なまはげの村「真山神社」は、祭神ー 瓊瓊杵命・ 武甕槌命の古神社。社伝によると。
古事記・日本書紀に記される12代天皇、景行天皇の御世のこと。武内宿禰が北陸地方視察のあと男鹿島に立ち寄った際、男鹿半島の秀峰、湧出山に登り、武内宿禰が使命達成、国土安泰、武運長久を祈願するために、この地に瓊瓊杵命、武甕槌命の二柱を祀ったことが始まりだとある。
平安時代を過ぎると、修験道の霊場で、仏教が日本全国に広まりはじめ男鹿半島にもその波が及んだ 859年~877年には、円仁慈覚大師によって湧出山は二分され、北を真山、南を本山と称するようになったと伝えられている。
それ以降修験の信仰が高まり、天台宗僧徒によって比叡山延暦寺守護神の赤山明神と習合され、南北朝時代、真山の別当が置かれた
光飯寺は、天台宗から真言宗に転じ、東北地方における時の支配者も阿部氏→清原氏→藤原氏と移り変わる中、その庇護の下で修験の霊場として一山繁栄を誇ったと云う。
真山神社門楼 石段 末社
江戸時代は、佐竹藩ゆかりの祈願所、国内十二社に指定され、佐竹藩ゆかりの祈願所として数々の寄進崇敬を受けている。
幾多の堂塔伽藍が営まれと云う。
明治維新以後は、神仏分離令が発せられたことで元の神域に復し、名称も「赤神神社から真山神社」と改められ、同時に、秋田県の県社に列格に。本殿は、現在に至るまで真山山頂に鎮座しており、国家安泰、五穀豊穣、海上安全の守護神として崇敬されている。
拝殿 奥の殿 神木
真山神社・男鹿真山伝承館・なまはげ館と隣接、次は、伝承館へ。
男鹿ナマハゲ真山伝承館に入る
次回は、伝承館からナマハゲ館へ。
ちょっと怖い。
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