戦国時代の甲斐国では守護「武田信虎」と有力国人、他国勢力である駿河国の今川氏・相模国の後北条氏との抗争が行われており、都留郡では越中守信有が信虎や今川氏・後北条氏と抗争を繰り広げていた。
「勝山記」によれば、
永正15年の1518年、武田氏と小山田氏・今川氏の三者の間で和睦が成立する。越中守信有は信虎の妹を室に迎えて武田氏に対する従属を強め、
1521年、2月18日に武田信虎は船津(富士河口湖町船津)において小山田家臣・小林宮内丞の屋敷を訪問し、翌日には中津森館を訪れている。
信虎は、甲斐を統一した1519年、本拠を甲府(甲府市古府中町)に移転し、新たに城下町(武田城下町)を建設する。
信虎は、城下町に家臣団を集住させ、小山田氏も越中守信有夫人が甲府に居住している。
小山田氏は同時期に谷村への本拠移転を行って、1530年、には中津森館が焼失し、武田氏の支援を得て谷村に新たな居館が築造。
同年には越中守信有夫人が死去して、このことも居館築造の契機であるという。
1532年、谷村館が落成し、信虎をはじめ甲斐国人が参集したという。
以来、谷村館は越中守信有・弥三郎信有・信茂に至る小山田氏4代の居館として用いられている。
谷村城と桂川を挟んで対岸に位置する城山(都留市川棚)には勝山城が所在し、勝山城の築城期・築城主は不明で近世初頭の浅野氏時代には築城されているが、勝山城の前身は谷村城の詰城である城砦であったとする説がある。
近世の城下絵図では双方を繋ぐ二本の橋が描かれている。
「天正壬午の乱・徳川氏時代の谷村城」
天正10年の1582年、織田・徳川連合軍による武田領国侵攻により武田氏は滅亡し、小山田信茂は織田氏に出仕するが、処刑されたため小山田氏も滅亡する。郡内では小山田家臣や国衆の多くも撤退した。郡内を含む甲斐は織田家臣の河尻秀隆が領するが、同年6月の本能寺の変により発生した一揆のため秀隆は落命する。
本能寺の変により三河国の徳川家康、相模国の北条氏直、越後国の上杉景勝三者の間で武田遺領を争奪する天正壬午の乱が発生する。
天正壬午の乱では徳川家康が甲斐衆の多くを懐柔する一方で、後北条氏が郡内のほぼ全域と交通路を支配した。
後北条氏は北杜市須玉町若神子の若神子城に本陣を起き、八ヶ岳南麓・七里岩台上において徳川方と対峙するが、同年10月の徳川・北条同盟の成立により甲斐は徳川家康が領し、後北条氏は郡内からも撤兵した。
後北条氏は谷村城や勝山城の改修を行っている可能性が考えられているが、それを示す史料は発見されていない。
家康は都留郡支配のため家臣の鳥居元忠を配置しているが、元忠は当初支配拠点を岩殿城においている。
「豊臣大名・谷村藩時代の谷村館」
徳川氏は、豊臣政権下で1590年、関東へ移封されるが、「甲斐国志」によれば谷村城の改築はこの間に行われたという。
武田氏滅亡後も谷村は郡内地方の支配拠点として用いられ、豊臣系大名時代の加藤氏や浅野氏、徳川氏再領時代には鳥居氏が本拠とした。
江戸時代には秋元氏が入府し、谷村藩が成立すると谷村城を中心に城下町(谷村城下町)として発展する。
1704年、秋元喬知が川越藩に移封されると城は廃城となり、郡内領は代官支配となり谷村は町場へ移行する。
「谷村城下町」
小山田氏の滅亡後、浅野氏時代には文禄検地にが実施され、これにより城下が上谷村・下谷村に区分され、江戸時代には谷村藩主の秋元氏の治世下で家中川や谷村大堰などの用水堰が開削され、谷村城下町が完成。1704年、谷村城下町絵図によれば、谷村城南側には東西に上谷村・下谷村が町割されている。上谷村は上町・早馬町・新町、上町裏の裏町(天神町・袋町)、下谷村は中町・下町・横町で構成。
(城下には富士山を包囲軸とした南北往還が貫く。往還は城下両端で鈎状に折れ、富士道に接続された。)
富士急行「谷村町駅」-都留市ー
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駅前の不動尊堂
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1685年松尾芭蕉が、 行く駒の麦に慰むやどりかな 記念碑
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町を流れる「家中川」の総発電。
家中川小水力発電施設「元気くん」が発電した電気は、市役所の高圧受電設備に連系し、常時は都留市役所や都留市エコハウスの電力として使われ、
夜間や休日等の市役所が軽負荷のときは、固定価格買取制度により売電している。
平成24年度まではRPS法「電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法」により売電し、
「元気くん」は、まちの中を流れる家中川に設置されており、家中川の水は農業用水としても活用され、水量の変化が激しく、雨量の多い日には、一度水を止めることもあると云う。
いつも最大の電力が発電できる訳ではないが、頑張って発電を続けていると云う。
家中川
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1532年、中津森館の「小山田越中守信有」が居城を谷村に移しており、その所在地は明確ではないが、この谷村城の辺りと見られている。
1582年、小山田滅亡後、北条氏が郡内地方を制圧したが、徳川氏との争いの後、徳川家臣「鳥居元忠」が郡内領主と。
1590年、豊臣秀吉により小田原征伐で北条氏は滅亡し、徳川家康が関東に移封となると、鳥居元忠は下総国矢作に移った。
その後は、甲府城に入った豊臣秀吉の重臣の家臣が谷村に入り支配した。関ヶ原合戦後は再び鳥居氏が入部して谷村藩となったが、秋元氏の後に天領となり、谷村城は廃城となって谷村陣屋が設けられたと云う。
「谷村城跡」
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勝山城は裏手の山山頂に
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「長安寺」
浄土宗・智光院禅定山。
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武田家滅亡後、徳川家康の重臣であった「鳥居元忠」が谷村城城主となり開基し、その後歴代領主の庇護を受けた寺。
観音堂には武田信玄の守り本尊といわれている聖観世音菩薩があり、1年に1度・毎年5月20日に御開帳され参拝することが。
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観音堂に祀られている聖観世音菩薩は、武田信玄幼少期の子守役板垣信方が信玄の学問成就・健康祈願をした念持仏と言われている。
武田家の技術を重んじていた徳川家康が、郡内を巡視した際に寄進したといわれている常滑焼の茶壺が、寺宝に。
本堂ー県文化財
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県指定文化財ー本堂・附板札・経石など
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祭礼行事ーお茶壺道中行列(10月最終日曜日)
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「普門寺」
曹洞宗 山号 補陀山。 普門寺十一面千手観世音菩薩馬頭観世音菩薩
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都留七福神ー毘沙門天
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「都留七福神」
寿老尊ー本光寺・大黒天ー保寿院・布袋尊ー円通院・毘沙門天ー普門寺・福緑尊ー広教寺・恵比寿尊ー用津院・弁財尊天ー長生寺
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「金山神社」
都留市上谷鎮座ー氏子400戸 鳥居
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口伝によると千年以上の昔と伝へられ、古書に「往古建久年間右大将源頼朝公於富士之獵場有献千鍛百錬之矢根鋒者公利用而大有感賞即為希代名聞之験敷地得若干下給因基其由緒創立本社以傳事蹟永遠不朽焉然」とあり
「又往古源頼朝富士巻狩の當時本社金山大神之御厚徳之感シタルヤ氏子ノ内鍛冶工二命シテ矢ノ根ヲ作ラセタリ其ノ時鍛冶工二命シテ矢ノ根ヲ作ラセタリ其ノ時鍛冶工タル者ハ該社二参籠シ一心二奉祈則ノ根若干ヲ鍛へ揚テ完納セシヨリ應分之褒ヲ賜リ其書類ハ中古紛失亦矢之根ヲ打鍛ヘタル磐臺鉄鋪モ宮殿内陣二数十年間備ヘ置キタルモ明治之前紛失行衛相分ラズ」とある。
例祭 8月 参道
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社殿
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「西願寺」
真宗大谷派の寺 都留文大通りに面している。
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しだれサクラの巨木が。 堂宇
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富士のみち 139号線沿いにある古い純喫茶店 「旅苑」 (テレビなどで取り上げられた喫茶店)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/9e/16b965358b025081969657b15ad16481.jpg)
ウインナーコーヒーを注文(¥600)。
オーストリアの首都・ウィーンを由来とし、 「ウィーン風のコーヒー」という意味で使われると云う。
由来がウィーンであり、「ウィーン(Wien)」→「ウインナーコーヒー風の(Wiener)」という意味だが、日本でのみ通用する呼び名のため
ウィーンのカフェでウインナーコーヒーと注文しても通じない。
オーストリアでは地方によってコーヒーの呼び名が異なるが、全日本コーヒー協会によるとホイップクリームを入れて飲む「アインシュペンナー」が元になっている。
「アインシュペンナー」は「1頭立ての馬車をあやつる御者」という意味で、御者が主人を待つ間に飲まれていたことからこう呼ばれるようになった。
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