syuの日記・気まま旅

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関宿ー2・江戸川を下る6

2016-05-19 | 気まま旅
利根川は、渡良瀬川や鬼怒川等多くの川が合流し、かんとうの大動脈として江戸へ物資や人を運ぶ大川で暴れ川である。
利根川の水運主役は「高瀬舟」と呼ぶ大型川船(長さ30m)・米俵約1300俵を運べたと云う。

「関宿水閘門」
利根川から分派する江戸川の流頭部は、明治44年、からの江戸川改修工事により、江戸川放水路開削・河道拡幅・江戸川流頭部の付け替えといった工事とあわせて建設されてきた。
江戸時代、江戸川流頭部で活躍してきた棒出しに代わり、利根川から江戸川に流れる水量を調節することと、船を安全に通すことを目的に、大正7年、に着工し、昭和2年、に完成。
当時は、大型建造物がレンガ造りからコンクリート造りへと移り変わりつつある時代で、コンクリート造りの関宿水閘門は当時の建築技術を知る上でも
貴重な建造物と云う。
基礎となる堰柱、翼壁ともにコンクリートが採用され、隅石などには花崗岩の石張りが施してあり、見た目はレンガ造りの水門様式を残している。
水流を制御するための水門には、8つのゲートがあり、水門は、スートーニー式鋼製ゲートで、当時は蒸気エンジン、現在はディーゼルエンジンで駆動し、上流から見て右側には、船が行き来するための閘門も造られ、水門を境に利根川と江戸川の水位が違うためにそのままでは船が通過できない。
水位を調節して船が通行できる閘門の幅は10m・長さ100mほどの水路の両側にゲートが設置されている。
閘門は、合掌式鋼製ゲートで、2門を手動で開閉。

                    関宿の棒出し


「船橋随庵」1795-1872 関宿藩家臣・家老、水害や米の不作に苦しむ農民の為に水路を開いたり新田を開発するなど努力された。
「鈴木貫太郎」1867-1948 関宿藩家臣「鈴木由哲」の長男・藩の飛領地の和泉国伏尾(大阪)で生まれている。大戦終結に努力した。
「関根金次郎」1868-1946 将棋・13世名人ー坂田三吉と宿命のライバルで数多い名勝負を。

                 関宿の町から見た城


河川交通は、多くの人を運んでいた。
文人・芸術家等、訪れている。小林一茶・松尾芭蕉など・近代には、長塚 節・伊藤左千代・・・。

      利根川と江戸川が分かれる関宿の河岸・日光東往還の宿場町で栄えた


利根川は、群馬県と新潟県県境の「大水上山」から「関東平野」を流れ「千葉県銚子河口」で「太平洋」へ。
全長約322km・流域面積は日本最大の河川。
江戸川は、関宿から野田(旧関宿)で利根川から分かれ、約60kmの東京湾へと向かう利根川・江戸川と共に近世以降「江戸と地方」を結ぶ
水上交通の役割をしている。
しかし反面水害を幾多と引き起こしている。現在でも治水工事が。



「江戸時代」
上流では川底が石・岩・で流れが早く、中・下流域緩やかであるが水量が多く、ちいきで工事方法が違います。
上流ー大聖牛・棚牛・菱牛、合掌枠・沈枠。
中・下流ー出・土俵・羽口
沼の千拓ー水害防止・新田開発・水運等の目的で江戸時代は開拓工事が継続的の試みられている。徳川幕府の大きな遺産。

                 関宿の渡しの風景


「水運」
江戸時代から「高瀬舟」が、利根川・江戸川を上り下りし、人・荷物を運んでいたが、明治に入り、「蒸気船・通運丸」が登場した。
銚子ー利根川運河ー東京間運行。



中世の関東平野の河川は、現在とは全く別であった。利根川水系は大きく整備された。その為様々な河川技術が考えら出されている。
今日の護岸工事の基礎となっている。
利根川の開削工事は、本流を途中で締めきって新たに川をつくったりしながら東へ・東へ変えている。
1654年、利根川は銚子河口で太平洋に流し完了させている。(その前は、隅田川筋で東京湾へ)

         現在は、鉄道や道路の発達で水運の利用が無くなった。


大正15年、関宿水閘門が新設された。権現堂川は、この年に江戸川を堰止めで廃川とした。現在の姿に。

「関宿棒出し」
両岸から突き出した一対の堤防を築き、水害は緩和した。
利根川・逆川・江戸川の水量を一定に保つよう昭和2年の1927年「関宿水閘門」が設置された。
江戸時代の棒出しは、その時に撤去された。

          利根川と江戸川の間には手賀沼と印旛沼が


利根川河口手前に「霞ケ浦・北浦」が           明治時代の蒸気船ー通運丸ー


鉄道の発達で水運は                  「高瀬舟」          堤防に


1633年ー関東地方洪水・1704年ー破堤(行徳本所)・1723年ー破堤・1728年ー両国橋破堤・1738年ー手賀沼決壊・1742年ー関宿城大破
1757年ー権現堂川決壊・1766年ー下利根川洪水・1772年ー権現堂川破堤・1780年ー利根川・江戸川・渡良瀬川洪水
1786年ー利根川全川水害、権現堂破堤、江戸市中浸水(新大橋・永代橋・両国橋大破)浅間山噴火で川床上昇洪水。
1791年ー上利根川大被害・1802年ー利根川洪水中条堤越水、権現堂川破堤、水江戸市中、荒川破堤

1822年ー江戸川流頭に棒出し設置・・・・・。最近では、鬼怒川破堤洪水があった。

洪水ー何度も起こる洪水、近・現在でも1910年の明治43年とカスリーン台風の昭和22年による洪水で大被害


治水ー洪水に供え各村では、共同で水害予防組合の組織し備えた。(屋敷前に土を盛ったり・・・)


利根川工事絵馬
河川改修工事は、流域の人々にとって意味の大きな事業。
工事の安全を願い、完成時絵馬が奉納された。当時の工事の様子が描かれている。



        関宿城・博物館から江戸川河川敷の橋を渡ると「中之島公園」


「浚渫船」は、河川や港湾などの浚渫作業を行う作業船。
河川や港のように土砂が流入する場所は次第に水深が浅くなるため、定期的に海底をさらう必要がある。
浚渫船はこうした水路の安全確保や、水中土木工事の基礎固めに使用され、必ずしも船の形はしておらず、四角いプラットフォームに近いものも多い。
艀のように自走能力がなく、タグボートに牽引されるものもある。
浚渫する場所の土質・水深・地形などで用途別の船が使い分けられ、泥土や砂など柔らかい底質の場合グラブ、バケット、サクション式など。
強固な底質の場合には大型のバケット式や、発破をかけ岩を崩した上でディッパー式など削岩できる浚渫船が。

                                        「水路浚渫機」


浚渫機が(模型)                      昭和23年の江戸川橋


堰き止めされている。                    関宿から東京湾へ


「中の島公園」
昭和初期の江戸川改修に伴い関宿水閘門脇に造られた公園。
江戸川の治水工事に関連した歴史遺産(関宿棒出しの石、大型バケット、トロッコのレール、鉄橋など)とともに、
関東屈指のこぶしの古木がある。



江戸川・旧江戸川の河口までの橋

江戸川
(利根川・江戸川分派点) - 関宿水門 - 関宿橋 - 宝珠花橋 - 金野井大橋 - 江戸川橋梁 - 野田橋 - 玉葉橋 - 江戸川橋 - (仮称)新流山橋 - 流山橋 - 江戸川橋梁 - ガス導管専用橋 - 江戸川橋梁 - 上葛飾橋 - 葛飾橋 - 葛飾大橋 - 江戸川橋梁 - 新葛飾橋 - 矢切の渡し - 江戸川橋梁 - 江戸川橋梁 - 市川橋 - 江戸川橋梁 - 江戸川大橋 - (江戸川・旧江戸川分派点) - 行徳可動堰・行徳橋 - 新行徳橋 - 水管橋 - 第二江戸川橋梁 - 江戸川放水路水管橋 - 市川大橋 - 江戸川放水路橋梁 - (河口)

旧江戸川
(江戸川・旧江戸川分派点)「 江戸川水閘門」 - 今井橋 - 浦安橋 - 第一江戸川橋梁 - 舞浜大橋 - 江戸川橋梁 - (河口)





次回から「江戸川散歩へ」・野田方面から。

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