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「小諸宿」は北国街道の要

2019-06-07 | 季節だより
「北国街道」は、江戸幕府によって整備された脇街道で、北国脇往還、善光寺街道などとも呼ばれる。
追分で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する。
中山道との分岐点がある「追分宿」・中山道との分岐点としてにぎわった。
宿場の雰囲気を色濃く残し、堀辰雄など多くの文人に愛された場所でもある。宿場の入口近くに「追分宿郷土館」があり、宿場の歴史と文化を見ることができる。しなの鉄道信濃追分駅から約1km。
富裕な城下町にして宿場町「小諸宿」は、小諸城を中心とする城下町。
宿場としての機能が加わることで商業もめざましく栄え、江戸中期には東信濃随一の経済圏を形成。
特に醸造業は信州の最先端にあった。街道沿いの商家に往時の面影が色濃く残る。JR小海線・しなの鉄道「小諸駅」から約0.2km。
北国街道は、広く云えば、新潟県佐渡の金山に渡る出雲崎宿までを北国街道と呼ぶ云う。
金山からの産物を幕府に運ぶ重要な道であったからか。 高田から西に向かえば北陸道であるが、この北陸道も北国街道といい、現在使われている地図にも、この北陸道の旧道を北国街道と書いてあるものがあると云う。
追分から高田宿までの北国街道も、北国往還と呼ばれたり、追分から光寺までを、善光寺街道と呼ぶことも。
中山道洗馬宿から、この北国街道の、矢代宿と丹波島宿の間にある篠ノ井追分までの街道を、善光寺街道と呼んだりもする。
北国西街道と呼ぶことも。区別がつけられない。
ルートが変わって、矢代宿から松代宿などを経て、牟礼宿に至る道、すなわち善光寺を通らないルートが正式だった時代があり、この道は、今、北国裏街道などと呼ばれていると云う。
山々が、壁として立ちはだかっている北国である。「小諸宿」は、北国街道の要であったようだ。

                   北国街道の商都とし栄えた市内へ 正面浅間山


「中山道」 江戸五街道・東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲府街道の街道を云い、板橋ー上州ー信州ー山間部を経てー近江滋賀県ー東海道へ合流する。中山道、東山道、木曽街道と呼ばれ東海道に並ぶ要道。群馬の碓井と木曽福島に関所を置いている。難所として碓氷峠、和田峠、塩尻峠
鳥居峠・・噴火山に浅間山で軽井沢、沓掛、追分等が大被害を受けた。
北国街道は、追分(軽井沢)で中山道と分かれー海野ー小諸ー上田ー善光寺ー新潟高田ー直江津・・」で、参勤交代に利用されている。
善光寺街道とも云う人も、又、北国脇往還と云う近道も近江、美濃の国道365号線に相当する。

                          宿場の家並み


                          酒屋・味噌屋が




                      本町付近、国道141号線へ


                            藩取次場跡


                          ほんまち町屋館


                            説明板




                        古い店舗が続いている


                            雑貨屋


                        街角に石仏、井戸跡が


「光岳寺・天機山傳通院光岳寺」
境内を構えている曹洞宗の寺院。
創建は、於大の方(徳川家康の生母)と再婚した松平佐渡守俊勝との子供である松平因幡守康元と共に開いたのが始まりと云う。
1602年、於大の方が死去すると位牌寺となり、於大の方の法名「傳通院殿蓉譽光岳智香大弾定尼」から光岳寺と号するようになる。
康元の領地である下総関宿(千葉県野田市関宿三軒家)にありましたが跡を継いだ松平忠良が、1615年、大垣藩(岐阜県大垣市)に移封になると大垣に、松平憲良が寛永元年の1624年、小諸藩に移封になると小諸に随行し、旧小諸藩主の菩提寺だった松翁山芳泉寺の境内を受け継ぎ、真譽上人により改めて開山。

1647年、憲良が死去すると嗣子がなかった為に改易となると庇護者を失いましたが、代わって入封した牧野家から庇護され、光岳寺(小諸市)明治に入り牧野家の菩提寺である泰安寺が廃寺になると泰安寺から歴代牧野家の位牌が移されている。
光岳寺山門は江戸時代中期の1716年、建立された楼門で三間三戸、入母屋、桟瓦葺き、二重垂木、八脚楼門、2層目には高欄が廻り、花頭窓付、内部には釈迦如来像や文殊菩薩像、十六羅漢像が安置されています。総門は小諸城から移築された足柄門(高麗門造り)で
案内板によると「 足柄門は、1596年、建造されましたが、1742年、の大水害により流失。
1765ねん、再建された。
明治5年の1872年、、光岳寺山門として移築され、平成12年(2000)に修理・修景事業が行われている。
山号:天機山。院号:傳通院。宗派:曹洞宗。本尊:阿弥陀如来。の寺。











能楽師 日向吉次郎碑」
喜多流能楽師であった日向吉次郎は、江戸幕府が倒れた後、 食い扶持がなくなり、旅役者の一座に混じって小諸に流浪し、小諸で丸萬製糸場のボイラー焚きとして雇われ働いていたという。


「鈴木善之助(善人)」生国信州小諸、と言われる鈴木善人翁
十四世本因坊秀和門下、囲碁五段、東京牛込の人、尾州徳川家囲碁指南役であった翁は文久3年の1863年、妻子を伴い来信、
後に小諸に居を定め「囲碁以外その心を動かすに足らざる」と清貧に安んじさらに棋道に励み、多くの門生も育成、その名は天下に。
翁の門生、有志者は明治27年、小諸町の名士でもあった翁の66歳を記念し、 鈴木翁之壽碑を光岳寺に建立したと云う。
しかし翁は、明治32年、71歳 の生涯を閉じている。
明治39年、信濃毎日新聞は鈴木翁を囲碁 の師として直接交誼があった木村熊二小諸義塾塾長の証言を得て、翁を信州の奇傑伝の一人に選んだ。
鈴木翁とその門生達によって展開された囲碁の舞台は、北は長野市から上田、小諸を中心に、南は佐久市、佐久穂町、小海町まで及んでいたとある。


                             碑


次も小諸です。

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