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syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

国済寺と深谷城

2012-01-21 | 気まま旅
今回は埼玉県深谷市からスタートする。

県北部、台地の下の深い低湿地で「深谷」になった。南部に荒川北部に利根川で町は台地と低地の境界付近から発達、中山道の宿場町を生糸の
市場町として栄えた。
明治に入り、レンガ工場、製糸工場、製粉工場の産業地帯となった。県下最大の農業地帯で特に「深谷ネギ」が知られている。
実業家渋沢栄一の生家は、渋沢国際学園で留学生の日本語教育の場となっている。

「国道17号」日本橋と新潟県新潟市を結ぶ、総延長約370kmの主要幹線道路。
大宮国道では、現道の戸田市戸田橋~児玉郡上里町間78.6kmと、バイパス60.9kmをいう。
県の中央部を南北に縦貫する重要な路線であり、産業、経済、文化の交流を促進し、地域の発展にも寄与している。

深谷に入り、国道右手に「国済寺」と「道祖神」を参拝する。

「道祖神」は、路傍の神。集落の境や村の中心、 村内と村 外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、
芭蕉の「奥 の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場する。
「国済寺」中山道の9番目宿場だった深谷の寺の国済寺は、1390年 深谷上杉氏の祖、上杉憲英が開祖。

開山は、峻翁令山禅師。 




「国済寺」
は地元でも有名な臨済宗南禅寺派の有名な寺院で、ここが城跡とのこと。関東管領(山内)上杉憲顕は、1389~1390年、新田氏を押さえるため、
庁鼻和の地に六男・憲英を遣わし館を築かせたとある。
憲英はのち奥州管領に任ぜられ、以後、憲英の子・憲光、憲英の孫・憲信と三代この地に居住した。

    

「日吉大社荒神社」は、国済寺の隣にある幡羅村社。
    

「武蔵深谷城」城の 歴史は、1456年に上杉房憲によって築かれたと云われるが定かではない。
深谷上杉氏は庁鼻和城を居城としていたが、憲国の時に深谷城に居城を移した。深谷上杉氏は関東に勢力をのばす小田原北条氏と敵対したが、
1573年 上杉憲盛の時、北条氏に降った。
1590年 豊臣秀吉の小田原征伐では城主上杉氏憲は小田原城に詰めていたため不在で、重臣秋元長朝・杉田因幡が守備していたが落城寸前となり開城した。
徳川家康が関東に入部すると(長沢)松平康直が一万石で入封する。康直が没すると家康の子松千代が長沢松平氏を継いだが夭折し、忠輝が継いだ。

1622年酒井忠勝が下総国から一万石に加増され入封、その後三万石、寛永3年(1626年)更に五万石に加増となり忍城へ移封となり廃城となった。

現在は深谷城址公園となっており、一角に城郭風の土塀を設けるなど、城跡をイメージしているが、残された遺構は僅かで、公園の東側にある
富士浅間神社脇にある溝が当時の堀跡とされ標柱が建っている。

城主 深谷上杉氏,長沢松平氏,酒井忠勝。深谷市本住町(深谷城址公園)

    

  

酒井忠勝ー1587年家康より、川越藩初代藩主、若狭小浜藩主。長男忠朝、次男忠経、、。
忠勝は、徳川二代将軍秀忠より世継ぎ家光付きとなり、1622年下総国、武蔵国深谷一万石加増されている。

土塁
    

「金胎寺」
慶長年間、法印日胤により開基され、かつては深谷城主上杉公の祈願寺。「延楽山神霊坊福寿院金胎寺」という。
元禄年間、中興の僧快伝法印により本堂庫裡を再建され、その後、多少の檀家が出来、それ以前は祈願寺のため檀家はなく、当時、上杉氏は、
奥州管領の一役を務め、山形県湯殿山を信仰すること篤く、その後、関東管領となり、当寺を祈願寺として、御本尊は、湯殿山大日坊の御分身大日如来を
安置したとされている。

当山は深谷成田山ともいい、不動尊については、明治22年、先師秋本一庵法師によって、千葉県の成田山より、特に御分身を勧請された、由緒深い不動尊。

現在の本堂は、元禄年間の建物と伝えられており、元、横瀬の華蔵寺毘沙門堂を、大正11年に移され、和歌山県の新義真言宗総本山根来寺の末寺に属す。