「天神山・清閑亭」は、県・市の歴史的建造物。1906年に神奈川県足柄下郡小田原町に建てられた政治家・黒田長成の別邸である。
旧小田原城三の丸外郭土塁の南向き傾斜地に立地。現在、敷地が国の史跡、小田原城跡の一部、母屋が国の登録有形文化財となり保全・公開されているが、
閉館していた。
母屋は数寄屋造りの平家・二階家が雁行に連なる。平家部分は造営当初のものとされ関東大震災をくぐりぬけた貴重な建築である。
また板絵襖や網代組天井などの意匠も優れ、母屋は真鶴半島や大島を望む相模湾と箱根山の景勝に恵まれるほか、よく保存された旧小田原城
三の丸外郭土塁を確認することができる。現在土塁上に残される庭園は松を主体とする芝庭で、松林が連なる海と山を借景として巧みにとりこんだもの。
静閑亭を下ると二宮神社に、その上が小田原城本丸である。

「報徳二宮神社」は、県小田原市にある二宮尊徳を祀る神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社となっている。
二宮尊徳は報徳社を設立して農村の救済・教化運動を行っていたが、尊徳が1856年に亡くなった後も報徳社は存続、関東・東海地方を中心に活動を行い
1891年に尊徳に従四位が贈られ、報徳社員の間で尊徳を祀る神社創建の動きが起き、1894年4月、尊徳の生地である小田原の小田原城址内に鎮座された。

北条氏が栄華を築いた小田原城址に隣接する「報徳二宮神社」。4,300坪の広大な空間は一年中絶えず豊かな緑につつまれいる。
春のさくらや初夏の新緑、そして紅葉など、四季折々の風情が訪れる。参拝を済ませ城に。
本丸に通じている土塁

北条早雲 1432-1519 小田原北条初代、今川氏から興国寺城を、伊豆国に乱入し茶々丸を殺害し平定し、小田原の大森氏を奪い
三浦氏の新井城を
奪い相模国を併合する。農民租税を四公六民の善政を敷く、88歳の長生。
北条氏綱 1486-1541 二代目 扇谷上杉朝興を破り武蔵国を制圧、安房、下総、古河公方足利晴氏に娘を嫁がせ、鶴岡八幡宮を再建、
日本一の小田原城としていく。不老長寿「外郎」この時代、家訓「勝って兜の緒を締めよ」
北条氏康 1515-1571 三代目 関東南半支配、武田、上杉と抗争し領国拡張。税制改革、検地を推進。
河越の夜戦(日本三大夜戦の一つ)扇谷上杉・山内上杉・古河公方連合軍に河越城囲まれ、氏康は、敵が休んでいる所を夜戦で攻める。
武田との同盟を遺言する。
北条氏政 1538-90 四代目氏康の長男 秀吉の上洛要請に応ぜず、山積みの麦を見て「麦飯を作れと家臣に命じた」のを信玄が聞き
「麦はこき、こなし、ほし、つきて飯にするもの、すぐにはくえぬ・・」と世間知らずを笑ったという。氏政の首は、京の戻橋に晒された。
北条氏直 1562-91 北条100年王国の幕引き。信濃国、甲斐へ攻め家康と争うが講和、名胡桃城を攻撃したため秀吉の怒りを買う。
最後まで北条の復興を願った。秀吉に謁見し大阪に住む、30歳で他界
小田原駅 新幹線ビル西口前 北条早雲公像
小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も1923年の関東大震災によりことごとく崩れ落ちた。
復元された現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部とで、本丸を中心に「城址公園」として整備された。
昭和35年(1960)に天守閣が復興、次いで昭和46年には常盤木門、平成9年には銅門、平成21年には馬出門が復元された。
平成18年10月に、「日本の歴史公園100選」に選ばれた。

本門 銅版張り

「城山公園」小田原城から駅を横断し城山を登る
三の丸・幸田口門跡
幸田門跡の土塁は、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡。当時は、本丸、二の丸(現在の城址公園周辺の範囲)を包むように堀と土塁を巡らし、
三の丸としていた。
この土塁は、三の丸の土塁が残されている数少ない場所のひとつ、西側に幸田門という三の丸の入口があったが、その跡の一部が発掘調査で見つかっている。
戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時には、この幸田門から小田原城を攻めたと考えられている。
北条氏康・氏政父子は、籠城策を用いてこれを退け、小田原を守り抜いた。
本丸から2kmほど離れた城山にある土塁
現在は、陸上競技場、学校、庭球場などが整備され、公園に。

「井上康文」1897年~1973年
小学生の頃から俳句、短歌を雑誌や新聞に投稿していた。大正6年、東京薬学校(現東京薬科大学)卒業後、製薬会社に勤務しながら詩作に携わる。
代表作・詩集「愛する者へ」、「愛子詩集」、「梅」、「現代の詩史と詩講和」など。

次回は、平塚方面へ。
旧小田原城三の丸外郭土塁の南向き傾斜地に立地。現在、敷地が国の史跡、小田原城跡の一部、母屋が国の登録有形文化財となり保全・公開されているが、
閉館していた。
母屋は数寄屋造りの平家・二階家が雁行に連なる。平家部分は造営当初のものとされ関東大震災をくぐりぬけた貴重な建築である。
また板絵襖や網代組天井などの意匠も優れ、母屋は真鶴半島や大島を望む相模湾と箱根山の景勝に恵まれるほか、よく保存された旧小田原城
三の丸外郭土塁を確認することができる。現在土塁上に残される庭園は松を主体とする芝庭で、松林が連なる海と山を借景として巧みにとりこんだもの。
静閑亭を下ると二宮神社に、その上が小田原城本丸である。


「報徳二宮神社」は、県小田原市にある二宮尊徳を祀る神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社となっている。
二宮尊徳は報徳社を設立して農村の救済・教化運動を行っていたが、尊徳が1856年に亡くなった後も報徳社は存続、関東・東海地方を中心に活動を行い
1891年に尊徳に従四位が贈られ、報徳社員の間で尊徳を祀る神社創建の動きが起き、1894年4月、尊徳の生地である小田原の小田原城址内に鎮座された。



北条氏が栄華を築いた小田原城址に隣接する「報徳二宮神社」。4,300坪の広大な空間は一年中絶えず豊かな緑につつまれいる。
春のさくらや初夏の新緑、そして紅葉など、四季折々の風情が訪れる。参拝を済ませ城に。
本丸に通じている土塁


北条早雲 1432-1519 小田原北条初代、今川氏から興国寺城を、伊豆国に乱入し茶々丸を殺害し平定し、小田原の大森氏を奪い
三浦氏の新井城を
奪い相模国を併合する。農民租税を四公六民の善政を敷く、88歳の長生。
北条氏綱 1486-1541 二代目 扇谷上杉朝興を破り武蔵国を制圧、安房、下総、古河公方足利晴氏に娘を嫁がせ、鶴岡八幡宮を再建、
日本一の小田原城としていく。不老長寿「外郎」この時代、家訓「勝って兜の緒を締めよ」
北条氏康 1515-1571 三代目 関東南半支配、武田、上杉と抗争し領国拡張。税制改革、検地を推進。
河越の夜戦(日本三大夜戦の一つ)扇谷上杉・山内上杉・古河公方連合軍に河越城囲まれ、氏康は、敵が休んでいる所を夜戦で攻める。
武田との同盟を遺言する。
北条氏政 1538-90 四代目氏康の長男 秀吉の上洛要請に応ぜず、山積みの麦を見て「麦飯を作れと家臣に命じた」のを信玄が聞き
「麦はこき、こなし、ほし、つきて飯にするもの、すぐにはくえぬ・・」と世間知らずを笑ったという。氏政の首は、京の戻橋に晒された。
北条氏直 1562-91 北条100年王国の幕引き。信濃国、甲斐へ攻め家康と争うが講和、名胡桃城を攻撃したため秀吉の怒りを買う。
最後まで北条の復興を願った。秀吉に謁見し大阪に住む、30歳で他界
小田原駅 新幹線ビル西口前 北条早雲公像

小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も1923年の関東大震災によりことごとく崩れ落ちた。
復元された現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部とで、本丸を中心に「城址公園」として整備された。
昭和35年(1960)に天守閣が復興、次いで昭和46年には常盤木門、平成9年には銅門、平成21年には馬出門が復元された。
平成18年10月に、「日本の歴史公園100選」に選ばれた。



本門 銅版張り


「城山公園」小田原城から駅を横断し城山を登る
三の丸・幸田口門跡
幸田門跡の土塁は、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡。当時は、本丸、二の丸(現在の城址公園周辺の範囲)を包むように堀と土塁を巡らし、
三の丸としていた。
この土塁は、三の丸の土塁が残されている数少ない場所のひとつ、西側に幸田門という三の丸の入口があったが、その跡の一部が発掘調査で見つかっている。
戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時には、この幸田門から小田原城を攻めたと考えられている。
北条氏康・氏政父子は、籠城策を用いてこれを退け、小田原を守り抜いた。
本丸から2kmほど離れた城山にある土塁



現在は、陸上競技場、学校、庭球場などが整備され、公園に。


「井上康文」1897年~1973年
小学生の頃から俳句、短歌を雑誌や新聞に投稿していた。大正6年、東京薬学校(現東京薬科大学)卒業後、製薬会社に勤務しながら詩作に携わる。
代表作・詩集「愛する者へ」、「愛子詩集」、「梅」、「現代の詩史と詩講和」など。


次回は、平塚方面へ。