中国の歴史を読んでいて、感じるのは、人の命が極めて粗末にされている、人の命の値段が安い、と言うことである。
日本で人気のある三国志の次の時代の史書、晋書(巻98)には次の話が載せられている。
当時、王愷と石崇とは、どちらが贅沢かを競っていた。王愷が宴席を設け、王敦と王導が招かれた。宴席で妓女が笛を吹いたが途中で音程をはずしてしまった。王愷は即座に彼女を殴り殺した。その席にいた一同はびっくりしたが王敦は何事も無かったかのように酒を続けた。別の日、また王愷のところで宴席があった。客がお酌をする女性の勧める酒を飲まないと、その給仕の女性が殺されるということだった。お酌をする女性がそれぞれ王敦と王導の所に来て酒をするめるのだが、王敦は今日は飲めないと断った。その女性は顔面蒼白になったが、王敦は知らん振りだった。王導はもともと酒が飲めなかったのだが、給仕の女性がころされるのを可哀想に思い、勧められた酒を無理やり飲み干したのだった。
(時王愷、石崇以豪侈相尚,愷嘗置酒,敦与導倶在坐,有女伎吹笛小失声韻,愷便殴殺之,一坐改容,敦神色自若。他日,又造,使美人行酒,以客飲不尽,輒殺之。酒至敦、導所,敦故不肯持,美人悲懼失色,而敦傲然不視。導素不能飲,恐行酒者得罪,遂勉強尽觴。)
この話は相当、当時でも有名だったらしく『世説新語』汰侈篇にも載っているが、細部が多少異なる。
王導は無理して勧められるまま飲んだので、ぐでんぐでんに酔ってしまった。一方王敦は、勧められても勧められても一向に飲まなかったものだから、とうとう三人もの女性が斬られてしまった。それでも尚、平気だった。
石崇毎要客燕集,常令美人行酒。客飲酒不盡者,使黄門交斬美人。王丞相與大將軍嘗共詣崇。丞相素不能飲,輒自勉彊,至於沈醉。毎至大將軍,固不飲,以觀其變。已斬三人,顏色如故,尚不肯飲。丞相讓之,大將軍曰:「自殺伊家人,何預卿事!」
彼女達は身分的には貴族の家のたちであり、基本的には家畜同様の扱いだった。つまり、文字通り生殺与奪の権がその家の主人に握られていて、法の権利が全く及ばなかった。
しかし、私が中国では『人の命の値段が安い』と言う意味は、なにもたちのような身分の低い人達に留まらず、社会の上層の人たちも、いとも簡単に殺されてしまうことが頻発していたことを指す。端的に言うと、中国では『権力失墜、即、生命喪失』(権力を失うということは、命を失うということ)と等価である。このことは歴史的に見て事実だし、現在の中国の政治家達も一様に心の奥底では不安に感じている点ではないかと私は想像している。
通鑑からその実例を見てみよう。
後漢の安帝は、幼い頃聡明だったので、鄧太后が帝位につけた。しかし成長するにつれて、次第に横暴となり鄧太后と意見が合わなくなってきた。それを見た安帝の乳母(王聖)は安帝に鄧太后の悪口をあること、ないことを告げた。
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資治通鑑(中華書局):巻50・漢紀42(P.1612)
鄧太后が崩御した。すると、そこまで鄧太后の取り巻き連中にいじめられていた人たちが一斉に鄧太后の兄弟の悪事を密告してきた。安帝の前の殤帝の暗殺の経緯や代わりに平原王を帝位に就けようと、鄧太后の兄弟の鄧悝、鄧弘、鄧問たちが画策していたというのだ。それを聞いた安帝はかんかんに怒り、鄧太后の兄弟の一家全員の貴族の称号を剥奪して庶人(平民)に落として、都から追放し、故郷(本貫)に帰るよう指示した。そして、故郷につくと、官吏を派遣して、皆に自殺を強要した。
及太后崩、宮人先有受罰者懐怨恚、因誣告太后兄弟悝、弘、閶先従尚書鄧訪取廃帝故事、謀立平原王。帝聞、追怒、今有司奏悝等大逆無道、遂廃西平侯広宗、葉侯広徳、西華侯忠、陽安侯珍、都郷侯甫徳皆為庶人、鄧騭以不与謀、但免特進、遣就国;宗族免官帰故郡、沒入騭等貲財田宅。徙鄧訪及家属於遠郡、郡県迫逼、広宗及忠皆自殺。
太后の崩ずるにおよび,宮人、先に罰を受け怨恚を抱くもの,因りて太后兄弟、悝、弘、問、先に尚書鄧訪に従いて、廃帝の故事を取り,平原王を立つを謀らんとせしことを誣告す。帝、聞き,追怒す。有司に命じ、里らの大逆無道を奏ぜしむ。遂に西平侯・広宗、葉侯・広徳、西華侯・忠、陽安侯・珍、都郷侯・甫徳、皆、庶人となす。鄧隲の謀にあずかざるをもって、ただに特進をまぬがるも、遣りて国につかしむ。宗族、官を免ぜられ、故郡に帰る。隲らの貲財田宅を没入す。鄧訪および家属を遠郡にうつす。郡県、逼迫す。広宗、及び忠、皆、自殺す。
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この文の後に続いて、鄧太后の弟で、権勢をほしいままにした鄧隲も子供の鄧鳳とともに自殺を遂げたことが記されている。そうすることで、他の一族の命を助けたいと思ったのだった。ここでは触れられていないが、他の類似の事件から判断すると、今回の鄧太后グループから安帝グループへの権力の大移動で老人、子供も含め数百人規模の、いわば無実の人達が犠牲となったと考えるのが自然である。
日本では、『政治家、選挙におちればただの人』という言葉があるが中国では、そういう生易しい事態ではなかった。政治家が一旦権力を失っうと、単に自分の命だけでなく一族郎党、何十人、いや最悪の場合は何千人もの命までなくなる、という非常に悲惨な現実が待っていたのだ。これがため、中国(そしてその影響を色濃く受けた李朝朝鮮)の権力闘争は日本人の想像を絶するほど、熾烈でかつ陰惨なものであったと私は考えている。
日本で人気のある三国志の次の時代の史書、晋書(巻98)には次の話が載せられている。
当時、王愷と石崇とは、どちらが贅沢かを競っていた。王愷が宴席を設け、王敦と王導が招かれた。宴席で妓女が笛を吹いたが途中で音程をはずしてしまった。王愷は即座に彼女を殴り殺した。その席にいた一同はびっくりしたが王敦は何事も無かったかのように酒を続けた。別の日、また王愷のところで宴席があった。客がお酌をする女性の勧める酒を飲まないと、その給仕の女性が殺されるということだった。お酌をする女性がそれぞれ王敦と王導の所に来て酒をするめるのだが、王敦は今日は飲めないと断った。その女性は顔面蒼白になったが、王敦は知らん振りだった。王導はもともと酒が飲めなかったのだが、給仕の女性がころされるのを可哀想に思い、勧められた酒を無理やり飲み干したのだった。
(時王愷、石崇以豪侈相尚,愷嘗置酒,敦与導倶在坐,有女伎吹笛小失声韻,愷便殴殺之,一坐改容,敦神色自若。他日,又造,使美人行酒,以客飲不尽,輒殺之。酒至敦、導所,敦故不肯持,美人悲懼失色,而敦傲然不視。導素不能飲,恐行酒者得罪,遂勉強尽觴。)
この話は相当、当時でも有名だったらしく『世説新語』汰侈篇にも載っているが、細部が多少異なる。
王導は無理して勧められるまま飲んだので、ぐでんぐでんに酔ってしまった。一方王敦は、勧められても勧められても一向に飲まなかったものだから、とうとう三人もの女性が斬られてしまった。それでも尚、平気だった。
石崇毎要客燕集,常令美人行酒。客飲酒不盡者,使黄門交斬美人。王丞相與大將軍嘗共詣崇。丞相素不能飲,輒自勉彊,至於沈醉。毎至大將軍,固不飲,以觀其變。已斬三人,顏色如故,尚不肯飲。丞相讓之,大將軍曰:「自殺伊家人,何預卿事!」
彼女達は身分的には貴族の家のたちであり、基本的には家畜同様の扱いだった。つまり、文字通り生殺与奪の権がその家の主人に握られていて、法の権利が全く及ばなかった。
しかし、私が中国では『人の命の値段が安い』と言う意味は、なにもたちのような身分の低い人達に留まらず、社会の上層の人たちも、いとも簡単に殺されてしまうことが頻発していたことを指す。端的に言うと、中国では『権力失墜、即、生命喪失』(権力を失うということは、命を失うということ)と等価である。このことは歴史的に見て事実だし、現在の中国の政治家達も一様に心の奥底では不安に感じている点ではないかと私は想像している。
通鑑からその実例を見てみよう。
後漢の安帝は、幼い頃聡明だったので、鄧太后が帝位につけた。しかし成長するにつれて、次第に横暴となり鄧太后と意見が合わなくなってきた。それを見た安帝の乳母(王聖)は安帝に鄧太后の悪口をあること、ないことを告げた。
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資治通鑑(中華書局):巻50・漢紀42(P.1612)
鄧太后が崩御した。すると、そこまで鄧太后の取り巻き連中にいじめられていた人たちが一斉に鄧太后の兄弟の悪事を密告してきた。安帝の前の殤帝の暗殺の経緯や代わりに平原王を帝位に就けようと、鄧太后の兄弟の鄧悝、鄧弘、鄧問たちが画策していたというのだ。それを聞いた安帝はかんかんに怒り、鄧太后の兄弟の一家全員の貴族の称号を剥奪して庶人(平民)に落として、都から追放し、故郷(本貫)に帰るよう指示した。そして、故郷につくと、官吏を派遣して、皆に自殺を強要した。
及太后崩、宮人先有受罰者懐怨恚、因誣告太后兄弟悝、弘、閶先従尚書鄧訪取廃帝故事、謀立平原王。帝聞、追怒、今有司奏悝等大逆無道、遂廃西平侯広宗、葉侯広徳、西華侯忠、陽安侯珍、都郷侯甫徳皆為庶人、鄧騭以不与謀、但免特進、遣就国;宗族免官帰故郡、沒入騭等貲財田宅。徙鄧訪及家属於遠郡、郡県迫逼、広宗及忠皆自殺。
太后の崩ずるにおよび,宮人、先に罰を受け怨恚を抱くもの,因りて太后兄弟、悝、弘、問、先に尚書鄧訪に従いて、廃帝の故事を取り,平原王を立つを謀らんとせしことを誣告す。帝、聞き,追怒す。有司に命じ、里らの大逆無道を奏ぜしむ。遂に西平侯・広宗、葉侯・広徳、西華侯・忠、陽安侯・珍、都郷侯・甫徳、皆、庶人となす。鄧隲の謀にあずかざるをもって、ただに特進をまぬがるも、遣りて国につかしむ。宗族、官を免ぜられ、故郡に帰る。隲らの貲財田宅を没入す。鄧訪および家属を遠郡にうつす。郡県、逼迫す。広宗、及び忠、皆、自殺す。
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この文の後に続いて、鄧太后の弟で、権勢をほしいままにした鄧隲も子供の鄧鳳とともに自殺を遂げたことが記されている。そうすることで、他の一族の命を助けたいと思ったのだった。ここでは触れられていないが、他の類似の事件から判断すると、今回の鄧太后グループから安帝グループへの権力の大移動で老人、子供も含め数百人規模の、いわば無実の人達が犠牲となったと考えるのが自然である。
日本では、『政治家、選挙におちればただの人』という言葉があるが中国では、そういう生易しい事態ではなかった。政治家が一旦権力を失っうと、単に自分の命だけでなく一族郎党、何十人、いや最悪の場合は何千人もの命までなくなる、という非常に悲惨な現実が待っていたのだ。これがため、中国(そしてその影響を色濃く受けた李朝朝鮮)の権力闘争は日本人の想像を絶するほど、熾烈でかつ陰惨なものであったと私は考えている。