限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第351回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その194)』

2018-03-29 22:28:23 | 日記
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【293.成績 】P.4103、AD466年

『成績』とは「仕事や試験のできばえ」という意味であるが、漢文の読み方(書き下し)では「績を成(な)す」という動作を表すのが元来の意味であったように私には思われる。

辞海(1978年版)には「成績」がすでに《書経》に使われていることを引用し、意味は「今謂、凡作事習業之効果、曰成績」(今、およそ作事、習業の効果を成績という)と説明する。この語釈の冒頭に「今」という文字があるので、現在我々が用いている意味は「現代」の意味であり、必ずしも《書経》当時の意味ではないことが分かる。

「績」単独の意味は同じく辞海(1978年版)では簡単に「業也、功也」と説明する。また、「績、業皇大也」(績は、業の皇大をいう)という説明も見える。つまり、「績」は理論的には「業」あるいは「功」と置き換え可能ということになる。それで「成績」とその類似語である「業績」「功績」「成業」「成功」の5つの語句を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。この中で、「業績」だけは見つからなかった。考えてみれば、「業績」とは「馬から落ちて落馬する」と同じような tautology である。しかし、同じような tautology である「功績」は二十四史では見つかるが、「業績」は見つからない。つまり、「業績」は日本語だが、「功績」は漢語であるということだ。



さて、「成績」は資治通鑑では1回しか使われていない。その場面を見てみよう。

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殿中御史の呉喜は世祖(宋・孝武帝)に主書として仕えた。その後、しばらくして河東太守に栄転した。すると「精兵を300人ばかりお貸し頂ければ、東方の反乱軍をやっつけて参りましょう」と願いでた。明帝はその願いを聞き入れて、呉喜を臨時の建武将軍に任命し、皇帝直属の部隊(羽林)から勇士を選抜して貸し与えた。

朝廷内にこの決定に反発する者がいて「呉喜は元は単なる官僚に過ぎず、将軍の経験がないので戦場に送るべきではありません」という声があがった。中書舎人の巣尚之がこれに対して「呉喜は昔、沈慶之将軍に従ってたびたび戦場に出ました。決断力もあり、戦闘にも習熟しております。彼に戦闘任務を与えたら、必ずや成績を挙げることでしょう。反対意見を出す者は、彼の才能をよく理解していないだけです。」

明帝は決定通り、呉喜を戦場に送った。呉喜はこれより先に、帝の命をうけてしばしば東呉に使者として赴いたことがあった。温厚で思いやりのある性格で、至る所で人々から慕われた。庶民は呉喜が来ると聞くや、皆、風になびくがごとく降参した。それで、呉喜は行く先々の戦いで負け知らずであった。

殿中御史呉喜以主書事世祖、稍遷河東太守。至是、請得精兵三百、致死於東。上仮喜建武将軍、簡羽林勇士配之。

議者以「喜刀筆主者、未嘗為将、不可遣。」中書舎人巣尚之曰:「喜昔随沈慶之、屡経軍旅、性既勇決、又習戦陳;若能任之、必有成績。諸人紛紜、皆是不別才耳。」

乃遣之。喜先時数奉使東呉、性寛厚、所至人並懐之。百姓聞呉河東来、皆望風降散、故喜所至克捷。
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呉喜は期待通り、東方の戦乱を収めた。性格的に温厚で庶民から慕われた。軍功もあり人徳もあるなら、幸福な人生を送った、と考えるかもしれないが、最後は、明帝から自殺を命じられた。この間の事情は、南史・巻40の呉喜の列伝に書かれているが、それによると、戦場での独断専行が明帝の癪に障ったようだ。さらに、中国人の宿痾であるが、戦場で、勝利後に敵民の財産を強奪し、自分の懐に入れた(及平荊州、恣意剽虜、贓私万計)。

呉喜はこの程度なら、勝利の将軍としては当然の役得だと思っていたはずだが、明帝の信頼を大いに削ぐことになり、ついには非業の最後を遂げることになった。1500年後の現代の中国共産党幹部にもよくみられるパターンだ!

続く。。。
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沂風詠録:(第300回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その5)』

2018-03-25 16:53:33 | 日記
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【承前】

A-1.ギリシャ語辞書

A-1-4 LSJ, A Greek-English Lexicon

いよいよギリシャ語の辞書の真打登場だ。現在、数あるギリシャ語の辞書の中でも今回紹介するこの辞書が一番大きい。筆者は Liddell と Scott なので LSJと称す。最後のJは日本語で「辞書」を表すと思われるかもしれないが、そうではなく改訂者である Jones の頭文字だ。

この辞書は、前回紹介した、Papeの競争相手として名前が挙げられていた Franz Passow の辞書をベースに1843年に初版が出版された。つまり、現事典で最高峰のギリシャ語の辞書はいづれも(Papeと LSJ)ドイツ人の業績であるのだ。このLSJは第一版の出版後、何度か改定された。一回の改定では分からなくとも、何度もの改定(現在のバージョンは1940年の第9版)の積み重ねにより、他の同僚辞書たちを大きく引き離して、どっしり王者の位置を占めるようになった。現在のバージョンは、縦横が30cm x 25 で分厚さも10cm近くあり、重さも4Kgもある。想像するに、これで頭を殴られたら、脳震盪程度では済まないだろうと思われる程、ある意味、凶器とも成りうる代物(しろもの)である。

さて、このLSJには、3つのバージョンがある。月並みに言えば、大型、中型、小型だ。私が1999年にギリシャ語の独習を始めた当初は、7000円程度の中型(Intermediate Greek-English Lexicon)で充分間に合っていた。大型版は 2万円以上もしたので、高くて買えないし、当分は必要ないだろうと高をくくっていた。しかしその後、ギリシャ語の本を読んでいくうちに、中型には載っていない単語に何度か出くわすことがあった。(はっきりとは記憶していないが、プルタークの作品に多かったように思う。)それで、やはり大型を買わないといけないなあ、と思っていたところ、たまたま神田の三省堂でバーゲンセールとして大型が1万円で売っていたので、神の恵みと、(十字を切って)喜んで買って帰った。もっとも、帰り道、結構重かったので手が疲れたが。。。

ところが、この大型を実際に使ってみると、中型とは違い、なかなか使いづらい辞書だと感じた。たしかに語彙は豊富ではあるのだが、小さい字がぎしぎしと詰まったレイアウトや見出し語の配列などに難があり、探している単語をみつけるのに、いささか苦労する。さらに重さもネックだった。そういったことや語源に関する説明が全くないこともあり、結局、この辞書を引く機会は激減した。その後は、語源の説明が詳しい Menge を専ら使うようになった。

ところが、ふとしたきっかけで、再度この LSJ のシリーズを使う機会が増えた。それは、数年前、アメリカへ出張した時のことだ。バークレー大学の近くに宿泊したが、近くに大きな本屋があったので入ってみていると、古本コーナーがあり、背表紙が革のすこし汚らしい辞書が何冊か並んでいた。その一つを手にとってみると、何と、1845年に出版された、LSJの第2版であった。150年近くも前の本なので、扉がすこし外れかかっていたが、紙と印刷は数ページを除いて、全くしっかりしていた。値段は、と見ると、何と、わずか15ドル(1500円)程度であった。「これは奇蹟か?」と思った。

サイズは、今の LSJ より小さく、中型の大きさであるが、幅は倍近くはある。意図的なのか、うっかりなのか知らないが、ページ数が打っていない。それ以外は、収録語数も現在の LSJ には当然のことながら及ばないが、現在中型よりは多く、またレイアウトも中型と同じで見やすい。ページや扉の外れかかった部分はボンドで補修し、薄いベールのブックカバーを作ってかけて使っている。重さも、許容範囲なのだが、頻出語の見出しが大文字であるのは、たまには見難く感じることもある、といったところだ。同辞書の syrigma, syrinx, syrizo の部分を下に示す。



これらの辞書を見ていると、先ず感じるのは、ギリシャ語に関する辞書は、すでに150年前にほぼ完璧にできあがっていて、もはやすべきことは残っていないように思われることだ。実際、LSJ にしろ1940年の第9版の出版以降、70年以上経過しているし、Papeに至っては、140年も経過している。ただ、近代になってギリシャ・ローマの遺跡発掘などで石碑文が数多く発見された。それによって語例が増加したのは事実ではあるが、辞書の大枠を変える所にまでは至っていない。

次に感じるのは、ドイツ人の徹底主義のすごさだ。今から 150年ほどまえのレベルで、ギリシャ語の例文を徹底的に収集分類して、意味づけをしていることだ。当時、これらの作業をすべてコンピュータの助けを借りずに手作業で成し遂げたことに対して頭が下がる。その一方で、それほどまでに情熱をギリシャ語に傾けることが出来たということから、彼らのギリシャ愛の深さを思い知らされる。

いずれにせよ、そういった先人の努力の結晶が、いまやコンピュータと印刷術の発展で、事実上、無料(に近い値段)で手に入れることができるこの時代に感謝したい気持ちでいっぱいだ。

続く。。。
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想溢筆翔:(第350回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その193)』

2018-03-22 22:06:00 | 日記
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【292.開闢 】P.3269、AD375年

『開闢』とは「天地・世界ができたとき」という意味。辞源(1987年版)では「闢」とは「開」と説明し、「開闢」とは「指天地之初開」(天地が初めて開いた時を指す)と説明する。「開闢」とは歴史的に地球ができた時という意味よりも、「今まで聞いたことがない」という意味に使われるようだ。

「開闢」と「開闢以来」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のように、「開闢以来」の連語として用いられている割合は2割(19/94)に達する。さらに詳しく調べると「開闢以来」という連語ではないが、それと同等の意味をもつような表現、具体的には「開闢未有」「開闢未聞」「開闢已来」「開闢以降」などが数多く見られる。結局「開闢」とは「beginning」のような意味ではなく、強調の否定辞と見なすべきものだと考えられる。



さて、資治通鑑で「開闢」が用いられている場面を見てみよう。五胡十六国時代、前秦の名宰相である王猛の病があつくなった。秦王・苻堅は何としても王猛を恢復させようと八方手を尽くして平癒祈願した。それを聞いた王猛は苻堅の好意に感謝しつつも、王として果たすべきはそのような些末なことではないと戒めた。

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秦の清河武侯である王猛の病があつくなった。秦王の苻堅は王猛のために自ら南郊、北郊の社と宗廟、社稷とあまねく平癒を祈願した。さらに侍臣を派遣して、河神や嶽神など、至る所で神々に祈らせた。王猛の病状が少し持ち直した。そこで、極悪人以外の罪人に恩赦を出した。王猛が最後の忠告として次のような書を苻堅に送った。「思ってもみませんでした、陛下が私の命のために天地の徳を失うようなことをしようとは!天地始まって以来(開闢已来)、このようなことはあったためしがありません。私は、徳に報いるには切実な言葉が一番よいと聞いております。今まさに尽きようとする私の命を懸けて陛下に最後の忠告を申し上げます。

思うに陛下は、その名声は天下に轟き、恩沢も世の隅々まで行き渡っています。天下には百郡ありますが、その7割を得、燕も蜀もどちらも軽々と平定しました。しかし、初めがうまくいっても終わりがよいとは限らないものです。それ故、古来の帝王たちも功業はそう簡単には達成できないものと戒め、あたかも深い谷を望む崖に立っているように戦々恐々としていたものです。陛下、どうか古代の聖君たちを見習っていただければ、これに優る喜びはありません。」苻堅は王猛の書を読んで慟哭した。

秦清河武侯王猛寝疾、秦王堅親為之祈南、北郊及宗廟、社稷、分遣侍臣徧禱河、嶽諸神。猛疾少瘳、為之赦殊死以下。猛上疏曰:「不図陛下以臣之命而虧天地之徳、開闢已来、未之有也。臣聞報徳莫如尽言、謹以垂沒之命、窃献遺款。

伏惟陛下、威烈振乎八荒、声教光乎六合、九州百郡、十居其七、平燕定蜀、有如拾芥。夫善作者不必善成、善始者不必善終、是以古先哲王、知功業之不易、戦戦兢兢、如臨深谷。伏惟陛下、追蹤前聖、天下幸甚。」堅覧之悲慟。
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苻堅は王猛の命を救おうと、必死になって、方々の社に平癒祈願させた。その甲斐あって(と、苻堅には思われたのだが)王猛の病状が少し持ち直したので、神々に感謝の気持ちを込めて大赦までおこなった。ところが、王猛は苻堅の行動は治世の役にたつものではない、王たるものは国家安寧の根本的な部分をしっかりとなすべきだと非難したのだ。

王猛の最後の忠告を苻堅は正しく理解できず、遂には王猛亡き後、数多くの部下の反対を押し切って、東晋討伐軍を起こしたが、逆に淝水の戦いで大敗北を喫した。この敗北をきっかけに、苻堅の運命は坂道を転げるように暗転し、遂には姚萇によって絞殺された。図らずも王猛の不安が的中した。

続く。。。
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百論簇出:(第219回目)『知的関心、Up or Perish』

2018-03-18 19:53:40 | 日記
外資系企業では、「Up or Out」という言葉がある。日本語に訳すと「昇進か退社か」という意味となる。つまり、「会社の中で出世できないなら、辞めてどこかへ転ってしまえ」という半ば、脅し文句である。首の前に人参はぶら下がってはいるので、頑張るのではあるが、期間内に業績が挙げられないないなら、人参は召し上げられてしまう。そうだから、他人なんかに構っておれず、ひたすら目標に向かって誰もが必死に働かざるを得ないという仕組みだ。

私は外資系で働いた経験がないので、想像でしか話ができないので、このような表現はひょっとして間違っているかもしれない。しかしこのような論理をもう少し一般化すると、仕事だけでなく「人間の関心事項というのも、必ず Up or Perish のいづれかしかない」ということが言える。一般論では何のことか理解しにくいと思うので、私の個人的な経験をお話しよう。

私が所謂「リベラルアーツ」に目覚めたのは以前のブログ『徹夜マージャンの果てに』で述べたように、20歳のころであった。その後ドイツへの留学試験に合格したため、ヨーロッパで生活することができ、ヨーロッパ人の物の考え方を、本や人づてではなく、実体験を通して知ることができた。ドイツ国内はいうに及ばず、ヨーロッパ全土にわたり約8ヶ月も旅行した間、びっくりすることや感心することだけでなく、嫌なことや幻滅するようなことも数多く体験した。これらのことを通して日本人の価値観を再検討する必要を非常に強く感じた。「日本人の間で通用している価値観が果たして本当に唯一で、正当と言えるのか?」という疑念が常に頭によぎった。ソクラテスは、当時のギリシャ人のもつ価値観をどこまでも徹底的に再検討したため、皆から嫌われ「アブ」とあだ名されたが、結局、その後の哲学の歴史が示すように、ソクラテスの持っていた健全な批判精神が真の社会の発展には必要だということが分かった。

ヨーロッパ滞在で気づかされてから、その後ずーっと日本人の価値観の再検討をしていく中で、私の取った方法論が「ブツを通して文化のコアを探る」と「比較を通して文化のコアを探る」というものであった。「ブツ」というのは tangible(手に触れることのできるもの)と言う意味で、観念論的な議論をするのではなく具体的なものについて議論することである。さらにこの時、目に見えるもの(ブツ)を互いの文化圏で「比較」することが非常に有意義だと分かった(この点については、科学史や技術史を学ぶ必要性はブログでたびたび説明した通りである)。

さて、このように文化を多面的な観点から探っていこうとすると、当然のことながら対象とする項目が増えてくる。それも、単純に増えていくのではなく、「幾何級数的に、つまり、爆発的に」増えてくる。その様子をグラフで示すと次のようになる。


このグラフの一番上の線のように、幾何級数的に増える(Up)というのは、臨界点を超えた原子核分裂のように、止まる所を知らない。このような状態になると ― 喩えが悪くて恐縮だが ― 「知の色情魔」のような感覚になる。つまり、本屋や図書館に行き、並んでいる本を眺めていると、中味を見ずに、タイトルだけでも読みたくなる本が幾つも目に飛び込んでくる。それで、次から次へと買う破目になり、読書時間を作るのに苦労する。普通に考えると、本を読むと知識が増えるのであるから、そのうちに知るべきことが減少するように思うかもしれないが、実際に「知の色情魔」になってみると分かるが、全く逆である。本のタイトルを見るだけでも「これも知らない、あれも知らない」ということだらけである。ただ、全く知らない時と比べると、違っている点は、単に「これを知っています」という表面的な知識を求めているのではなく、それぞれの事柄の裏に潜む考え方の根本を理解するように意識が働く。

さて、知的欲求にはこのように「幾何級数的」に増加する(Up)ものもあれば、逆に減少するものもある。学生時代には、衒って教養的なことをかじっていたが、社会人になってからは仕事の忙しさにかまけて、リベラルアーツなどというややこしいものを遠ざける人は多い。しかし、日常的な事だけしか関心が無いようになると、そこには恐ろしい事態が待ち受けている。それは、上図の一番下の線で示されているように知らず知らずの内に知的欲求が下降していき、ついには全く消滅してしまう(Perish)ことになるケースは私の周りの友人・知人などにもみられる。確かに、このような生き方は、それはそれで一つの人生であり、他人がとやかくいうことではないだろう。しかし、個人レベルではなく国レベルで考えてみると、このような知的関心の下降線を辿る人間が増えれば増えるほど、最終的に国家の活力が衰えるのではないだろうか。

歴史を振り返ってみるに、ペリクレスの時に全盛を迎えたギリシャのポリスの人口を見ると、びっくりするほど少ない。何万人(あるいは、せいぜい十数万人)というレベルの人間の思想がその後の2000年の世界の思想の指針ともなっているのだ。もっと卑近な例で言えば、幕末・明治を動かした志士たちは推定するに、せいぜい数千人規模ではなかっただろうか。即ち、国の勢いを左右するのは、単に人口という人間の頭数ではなく、とてつもなく強い知的好奇心・知的関心を抱いている人数に拠るのではないだろうか。国会の場で、質問時間が余ったからと言って、悪びれもせず般若心経を唱える国会議員が出てくる昨今の風潮では日本の国力が消滅の方向に向かっているとしか思えない。これは、単に一国会議員の問題ではなく、そういった議員を選んだ何万人もの選挙民の問題でもあるからだ。
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想溢筆翔:(第349回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その192)』

2018-03-15 19:28:02 | 日記
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【291.危懼 】P.4098、AD466年

『危懼』(きぐ)とは「悪いことがおこらないか、びくびくと恐れること」という意味。現在、「危懼」ではなく「危惧」と書くが「惧」は「懼」の異体字(俗字)であるので、漢文をこの字(危惧)で検索しても見つからない。「懼」とは辞海(1978年版)には「恐也」と説明するので、理論的には「危恐」という字もあることになる。ところが、二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)を検索すると、「危懼」は150件以上も見つかるが、「危恐」はわずか4件しか見つからない。(しかもこの内、宋史の1件は、「憂危恐懼」なので、除外する必要がある。以前からもそうだが、私のこの統計表は、機械的な検索にひっかかった件数を示すので、大雑把な目安にしかならない。)



さて、資治通鑑で「危懼」が使われている場面を見てみよう。ローマのカリグラの向うを張る暴君振りを通した南朝・宋の劉子業もとうとう弑逆されてしまって、「豬王」(豚野郎)とあだ名された湘東王・劉彧が即位して明帝となった。

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この年、全国からの貢租(租税)は尋陽に集められて、朝廷に入ったのはわずか丹楊や淮南など、わずか数郡だけであった。他の地方は劉子勛に貢租を送ったりした。東からの軍隊はすでに永世県に到着したので、宮廷では危懼した。劉彧(明帝)は群臣を集めて、対策を協議した。蔡興宗がいうには「今、天下の人々はこぞって反乱しています。これを鎮めるには、じっと待つことです。人を信じ、至誠をもって待ちましょう。反乱している者の親族が宮廷にいますが、これらを捕えて投獄すれば、天下が大混乱し必ずや王朝が転覆してしまうでしょう。反乱者の親族の罪は問わない、と明言すれば皆安心するでしょう。安心すれば、反乱者を攻撃しようという気も湧いてくることでしょう。政府には精鋭部隊がいますし、鋭い兵器ありますので、反乱軍の雑兵どもを蹴散らすなど訳もないことです。陛下、どうかご安心なさってください。」 劉彧はこの言葉を聞いてほっとした。

是歳、四方貢計皆帰尋陽、朝廷所保、唯丹楊、淮南等数郡、其間諸県或応子勛、東兵已至永世、宮省危懼。上集群臣以謀成敗。蔡興宗曰:「今普天同叛、宜鎮之以静、至信待人。叛者親戚布在宮省、若縄之以法、則土崩立至、宜明罪不相及之義。物情既定、人有戦心、六軍精勇、器甲犀利、以待不習之兵、其勢相万耳。願陛下勿憂。」上善之。
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劉子業のでたらめぶりに世の中が混乱して、至るところで反乱が起こったが、流石に中国の政治家は戦乱慣れしている。蔡興宗の進言は、老子のいう「治大国如烹小鮮」(大国を治めるは小鮮を煮るがごとし)の極意そのものだ。

資治通鑑を通して言えるのは、難治の大国・中国を治めるにはどういうやり方がよいかというヒントが、そこかしこにちりばめられている。日本人は得てして正々堂々たる正攻法を好むが、そのようなやり方では中国はうまく治まらないことがよく分かる。この意味で、私は何度も述べているが
 「『資治通鑑』を読まずして中国は語れない、そして中国人を理解することも不可能である」
と強く感じている。

続く。。。
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