限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

杜漢漫策:(第2回目)『デュエムの宇宙の体系・読書メモ(その2)』

2024-08-25 14:16:35 | 日記
紹介が遅れたが、この読書メモで取り上げるピエール・デュエム(Pierre Duhem, 1861 - 1916)について説明しよう。

前回も述べたように、私がデュエムのことを知ったのは矢島祐利氏の『科学史とともに五十年』(中公文庫)である。この本のP.131~146にかけて『先駆者ピエル・デュエム』という一節があり、その中にデュエムの経歴がかなり詳しく書かれている。ざっといえば、フランスの科学者(専門は物理)であり、同時に科学史家でもある。年代的には夏目漱石(1867 - 1916)とほぼ同じであり、55歳で亡くなっている。

Pierre Duhemの経歴は、Wikipediaにも載っている。そのような場合でも私はたいてい、自分の持っている百科事典でチェックしている。今回、下記の百科事典で調べた。
1.日本語:平凡社・大百科事典(1972年版)
2.英語-1: Encyclopedia Britannica (1969年版)
3.英語-2: Encyclopedia Americana (1968年版)
4.ドイツ語:Brockhaus Enzyklopädie(1968年版)
5.フランス語:Grand Dictionnaire Encyclopédique Larousse(1983年)

年代が古い理由は、これらは古本で格安になったものを買ったからであるが、本質的には、私は辞書類や事典類はかならずしも最新のものがベストとは考えていないからである。これはかつての連載記事『良質の情報源を手にいれるには?』でも述べているように、かつての欧文の辞書・事典の方に私の求める情報が多く記載されているからである。というのは、かつての欧文の辞書・事典類は基本的には高等教育を受けた人間を対象にした知識を書くというのが暗黙の了解になっていたように思えるからだ。具体的には、かつての辞書の語源欄にはギリシャ語由来であれば、ギリシャ文字で語原が記載されていた。また、百科事典にはギリシャ語やラテン語の単語や句が、時には現代語への翻訳文なしに記載されていることも間々見られる。

今回、Pierre Duhemを調べると1~3は記載なしであった。Britannicaに記載なしとは、少し驚いたが最新版には載っているのかもしれない。

4.ドイツ語と5.フランス語には以下に示すような簡単な説明があった。それぞれの百科事典に記載されている原文と、Google翻訳の英文を掲げる。

4.ドイツ語:Brockhaus Enzyklopädie(1968年版)


Duhem [dy'ɛm], Pierre Maurice Marie, French physicist, philosopher, * Paris 10.6.1861, † Ca- brespine (Aude) 14.9.1916, Jesuit, professor of theoretical physics in Bordeaux, representative of classical thermodynamics, developed a scientific theory that became particularly influential in the Vienna Circle. According to this, the laws of physics are nothing but symbolic constructions that reflect reality neither completely nor true nor false. Philosophy serves to develop metaphysical hypotheses for a provisional understanding of the world. Through his well-founded research into the history of science, he paved the way for a new and better understanding of scholastic physics.

Works. La mixte et la combinaison chimique. Essai sur l'evolution d'une idee (1902); L'evolution de la mecanique (1903; German The Changes in Mechanics and the Mechanical Explanation of Nature, 1912); Les origines de la statique, 2 vols. (1905-07); La theorie physique, son objet et sa structure, 2 vols. (1905-06, 1914; German aim and structure of physical theories, 1908); Essai sur la notion de theorie physique de Plato and Galilee (1909); Etudes sur Leonard de Vinci, 3 vols. (1906-13, 21955); Le systeme du monde (5 vols. 1913-17, 10 vols. 1954-59). P. HUMBERT: P. D. (Paris 1937); Ph. FRANK: Modern science and its philosophy (Cambridge 1949).

5.フランス語:Grand Dictionnaire Encyclopédique Larousse(1983年)


DUHEM (Pierre), French physicist and philosopher (Paris 1861-Cabrespine, Aude, 1916). Lecturer at the Faculty of Sciences of Lille (1887), then at that of Rennes (1893), finally professor at the Faculty of Sciences of Bordeaux (1894), he was elected to the Academy of Sciences in 1913. He brought together theoretical works in his Treatise on Energy or General Thermodynamics. A historian of science, he began in 1913 the publication of the System of the World, History of Cosmological Doctrines from Plato to Copernicus, of which five volumes appeared before the Second World War; the last five having been published between 1954 and 1959. ( Bibliography)

この2つを比べて、ドイツ語のBrockhausの方がフランス語のLarousseより文章分量が多いことには意外な感じがした。
ドイツ語の百科事典は、たいていにおいて形容詞の語尾部分が省略されている。例えば3行目から4行目にかけての「der theoret. Physik」とは「der theoretischen Physik」(理論物理学の)と意味である。これはいやしくもドイツ語の百科事典を読もうとする人間であれば、この程度の省略は何も言わなくても正しく読めるはずという前提で書かれているといえる。それに比べて、フランス語の百科事典は語の省略はかなり少なく、よく出会うのは c.-à-d. (即ち)程度である。

それにしても、このGoogle翻訳の英文を見る限り、フランス語原文の意味が正確に読み取れる。2020年代以降の自動翻訳のレベルの高さはセミプロ的とさえいえる。とりわけ、数年前に彗星のように現れたドイツの DeepL との競争でGoogle 翻訳のレベルも一層高まったことは良いことだ。私のDuhem、全10巻読破挑戦もこのような最新のITテクノロジーの助けを借りながら進めていこうとしている。

続く。。。
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沂風詠録:(第364回目)『漢字は哲学するのに不向き?(前編)』

2024-08-18 11:21:14 | 日記
私は中学時代に英語を学んでから、ずっと外国語関心をもってきた。外国語といっても、別に外国語を専門にしていなかったので、1970年代に学生時代の私にとっては、外国語とは西洋語と同義語であった。中高校では、英語はかなりできた方だが、受験英語で求められるような、発音や細かい文法規則などは覚える気がしなかったので、学内の試験はともかく、一般の模擬テストはさほど良くなかったが、英文読解の力は時間をかければ独力でも伸ばすことができた。

大学に入ってすぐに、第二外国語のドイツ語は当初まったく手を抜いていたので、簡単な名詞の変化形が全く言えず『鬼の高木』にこっぴどく怒鳴られた。それから一念発起してドイツ語文法を完全にマスターしたので、学生時代、工学部に属しながらドイツ語の本ばかり読んでいた。3回生になり専門課程に進学してからも、道路をまたいで教養部に行き、フランス語の授業にも出席して単位を取った。ついでに、ひやかしに取っていたドイツ語会話のクラスが私の運命を大きく変えた。
詳細は:沂風詠録:(第72回目)『私の語学学習(その6)』

その後、幸いなことにドイツに留学でき、プラトンやセネカに強くひかれるようになりドイツ語の本をまとめて数多く購入した。プラトンやセネカをドイツ語で読んでいる時に、文章表現が極めて現代的であることに驚いた。2000年も前の文章でありながら、文章の組み立てや論旨の展開が現代の文章と比べてもまったく遜色ない立派な出来栄えであったからだ。この点は特に、ローマ最大の雄弁家・キケロの文章を読んでいる時に強く感じた。ドイツ留学直後だったので、ドイツ語の読解力は十分あったものの、ラテン語はほんの少ししか分からず、ギリシャ語に至っては「It's Greek to me」のありさまだったので、キケロ(やプラトン、セネカ)の文章表現が素晴らしいのは、もともとの文章がよいのか、それとも現代ドイツの訳者が、現代風に意訳しているためかの判断ができなかった。

ともかく、ドイツ語を通じて知った、西洋古典の名著、とりわけプラトン、セネカ、キケロの原書から著者たちの生の声を聴くと同時にこの疑問を解決したいと強く思うようになった。その思いが実現したのは、それから20年ほど経てからであった。数ヶ月、古典ギリシャ語とラテン語を独習して原書をある程度、読めるようになってからこの疑問が解決できた。それは、私が読んでいるのはたいてい古典ギリシャ語とドイツ語、あるいはラテン語とドイツ語の対訳本であるので、ドイツ語の部分の翻訳を理解してから、原文の対応部を見ると、元の文章がすでに立派な文章であることが納得できたからであった。つまり、西洋語は2000年前にすでに現在でも十分通用する込み入った内容の文章表現を可能としていたのである。



話は変わって中国古典。

私は、ドイツ留学後、工学研究科に進学していたが、ほぼ毎日ドイツ語の本を読んでいた。(とはいっても、誤解のないように言っておきたいが、学期末のテストやレポートを提出し、修士論文作成のために計測器の制作や理論式も導き出していた)ところが、ある時に司馬遷の史記の現代語訳をよみ、中国古典にもはまっていった。荘子は高校時代から好きではあったが、本格的に中国古典を読みだしたのは大学院に入ってからであった。それからドイツ語と漢文で、東西両方の古典を読むことに力を注いぎ、後になって漢文訓読を耳から学ぶことで、たいていの漢文は読めるようになった。
詳細は:沂風詠録:(第90回目)『私の語学学習(その24)』

このようにして、哲学に関しては万全とは言えないまでも、西洋と東洋(中国のこと)の両方のものをそれぞれ原語で読めるようになった。

そこで、哲学そのもの関してではなく、哲学表現に関して東西の古典籍をつらつら比べてみるに、正直なところ中国の思想書・哲学書で使われている哲学表現はかなり曖昧なように思われる。それは、漢文のSyntax(統辞法)が古典ギリシャ語に比べて粗いためである。端的にいえば、単語に時制がなく、複雑な文章を作るには必須の形容詞句がなく、関係代名詞も単純な構造でしかないことがいえる。確かに、漢字は概念を綺麗な語句・表現にまとめあげることはできるが、それは必ずしも概念の内容が明確になっている訳ではないということだ。つまり概念定義をあいまいなまなかっちりとした漢語表現を使うことができるのである。それに反し、ギリシャ語では、とりわけソクラテスでは意味不明の表現などは至って少なく、文法規則に従って語句の明確な意味を理解することができる。

これを思うと、どうしてギリシャで哲学が発達したのかが次のように推察できる。彼らが思想表現に駆使した古典ギリシャ語では指示内容の明確な文章表現が可能であるので、間違いない論理展開が可能となる。それに反し、漢語では多少意味不明や意味曖昧でも、巧みに組合せることによって内容豊富(コンテンツ・リッチ)な文章に仕上げることができてしまうのではなかろうか。

後編では、この推察の是非を実際の文章で確認して見よう。!』

続く。。。
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杜漢漫策:(第1回目)『デュエムの宇宙の体系・読書メモ(その1)』

2024-08-11 12:03:03 | 日記
私は現在、「リベラルアーツ研究家」と自称しているが、そもそもリベラルアーツを極めてみたいと思った根源は、ドイツに留学してヨーロッパ文明・文化が、それまで日本に居るときには感じられなかった大きな衝撃を受けたところにある。この衝撃は俗にいう「カルチャーショック」というような生易しい、表層的なものではなく、ヨーロッパ人の思考体系は我々日本人と根本的に全く異なる、という感覚であった。その差が一体何に起因するのか、その理由が知りたくて、自力でさがし探し出そうとしたことがリベラルアーツ道にはまり込むきっかけであった。

当初はヨーロッパ古代から近代にかけての哲学・宗教などの思想書に集中していたが、読んでいる内に徐々に不満が溜まってくるのを感じた。それは思想書は必ずしも、一般人の生活実感を表しているものではないということだ。例えば、私にとっては読破した中では最大の哲学書といえるカントの『純粋理性批判』を考えてみよう。カントは、大学の教授として安定した生活を送っていた。理性を自分の指導原理とした振舞いをしていたが、独身ではあったものの豊かな社交性を身につけ、知的にも社会的にも上流社会の一員であった。『教養を極める読書術』にも述べたように、このカントの哲学書から大いなる知的恩恵を受けた。しかし、一方では18・19世紀当時の庶民はカントのような高踏的思考など無縁の生活を送っていたことも知った。



カンドの時代より少し古いが、中世ドイツの生活実態はオットー・ボルストの『中世ヨーロッパ生活誌』やアルノ ボルストの『中世の巷にて―環境・共同体・生活形式』に書かれているが、同じドイツ人といってもまったく別世界に住む別人種のような生活を送っていたことが分かる。例えば、中世人にとって着物は貴重で、貴族せすら13世紀には下着をつけていなかった。家は木造がほとんどで、石は礎石のみ。また、庶民の家はわずか一部屋で、家族全員が暮らしていたという。カントより後の時代では、19世紀イギリスの庶民生活を描いたメイヒューの『ロンドン路地裏の生活誌』やリーダーの『英国生活物語』がある。それによると、19世紀初頭に産業革命で世界の覇者になったイギリスですら、庶民は普段は肉など食べることができず、日曜にようやく一切れの肉にありつけるというありさまだった。そういった栄養状態なので、平均年齢はわずか25歳だったという。

思想書を中心とした、20代に始まったリベラルアーツの探訪は早くも数十年が経ち、西洋だけでなく対象範囲が広がり、イスラム、インド、中国、朝鮮、東南アジアにも手をひろげ、数多くの本を読んだ。そうして45歳を過ぎるころに漸く自分なりに世界の各文化圏のコア概念がわかるようになった。しかし、これらはいずれもいわゆる人文・社会系からの知識がベースとなっている。

ところが、20年ほど前にふとしたきっかけで科学技術史への興味がわき、大冊の『ダンネマン大自然科学史』(安田徳太郎・訳)、Rene Taton(ルネ・タトン)の "Histoire générale des Sciences"、チャールズ・シンガーの『技術の歴史』(高木純一・他訳)などを次々と読了した。この間に、科学技術史に関する数多くの著作も読んだ。とりわけ、私の知見を大いに広げてくれた日本人の科学技術史家では(順不同で挙げると)三枝博音、中山茂、矢島祐利、薮内清、平田寛、吉田光邦、伊藤俊太郎、山本義隆の諸氏だ。これらの諸氏はいずれも、科学技術に関するだけでなく、広く基底文化を深く理解している。また、多文化圏との比較においても鋭い考察を放っている。このような明敏な先達をもったことに感謝したい気持ちで一杯だ。

さて、矢島祐利氏は現在では知る人は少ないだろう。私が氏を知ったのは、イスラム科学を調べていたときに出会った『アラビア科学の話』と『アラビア科学史序説』の本である。日本では、イスラム学者は数多くいるが、ほとんど全てが思想・宗教・政治・生活史がらみで、イスラム科学(アラビア科学)に関連する成書は至って少ない。矢島祐利氏はそういったなか、戦前にすでにイスラム科学史に関心を深め、戦後になって成果を発表した。アラビア科学の2冊の本を読み、矢島祐利氏の学究的関心がどこにあったのかを知りたくて、自叙伝である『科学史とともに五十年』を読んだ。

その内容はともかくとして、この本の一節『先駆者ピエル・デュエム』に、中世科学史の泰斗であるサートンが、「デュエムの本は気をつけて読まないといけない。気をつけてよめば宝庫である」との言葉が私の心に刺さった。ピエル・デュエム(皮耶・杜漢)は科学者としても優れていて、物理学の本も残しているが、注力したのがヨーロッパ中世の科学史であったという。科学というとガリレオやニュートン以降のいわゆる17世紀科学革命後の近代科学しか思いつかない人がほとんどだが、私は学生時代のドイツ滞在中にヨーロッパ各地を旅行して、現代ヨーロッパにおいても根幹の思想は中世ヨーロッパだと確信した。それゆえ、中世ヨーロッパの科学技術を知る必要性を強く感じている。それで、サートンの大著『古代中世科学文化史』を読んだ。確かに、古代中世の科学に関する事項に関してサートンの博学には敬服するものの、アリストテレス哲学を軸としたキリスト教との関連など、いわば科学史を逸脱した話は至ってすくなかった。

矢島祐利氏が推奨するデュエム(杜漢)のこの本には私の関心に応えてくれる、科学や技術を越えたもっと幅広い話があるものと期待して、全10巻(推定・5500ページ)もあるこのフランス語の
  Le Système du Monde(『世界体系』)
に最近とりかかったところである。本稿はこの本を読みつつ、ざっくばらんに感じたところをメモ書き程度に書き留めるものである。

続く。。。
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想溢筆翔:(第450回目)『古代から延々と続く中国人の巨大願望』

2024-08-04 08:50:40 | 日記
中国で何らかの事件が報道されると決まって、建国の父「毛沢東」の肖像画が掲げられている北京の天安門広場が映る。いつ見ても広場の広さには溜息がつく。この広場は何も、中国共産党が作ったものでなく、明の成祖・永楽帝が都を南京から移した時にすでに概要が備わっていたといわれる。

ところで、日本は2000年前から中国から哲学、宗教などの精神面だけでなく、多くの文物を取り入れている。その影響は計り知れないはずだが、しかし、『地大物博』を誇る中国とは全てのスケールが違う。とりわけ、建築や船などの大型建造物にたいする感覚がまるで異なっている。一番有名な例は隋の煬帝が開削させた大運河と完成の暁にそこを下って南方まで巡遊した時の大型船のスケールには度肝を抜かれる。(興味のある方は、『本当に残酷な中国史』P.157-159 を参照頂きたい。)



隋の煬帝の巡行は7世紀の話であるが、それより800年も前の前漢にもすでに、大規模な苑園があったと、『西京雑記』(せいけいざっき)が伝える。もっともこの記事の内容はどの程度信用できるか、疑問視する専門家もいるとのことだが、話半分でも聞いて頂きたい。

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 西京雑記 巻3-73 《袁広漢園林之侈》

茂陵に袁広漢という大富豪がいた。蔵には巨万の銭が蓄えられ、下僕が九百人ほども住み込んでいた。北邙山の麓に東西が2Km、南北が2.5Kmもの大庭園を築いた。園内には川から大量の流水を引き込み、石を積み重ねて高さ30メートル、長さは数キロにもおよぶ丘を築いた。白オウムや、紫色の鴛鴛、ヤク、青サイ、などの珍獣・猛獣を飼育していた。砂浜を積み上げて、池に岸を作り、風で波が打ち寄せた。池にはカモメや海鳥が棲みつき、雛が繁殖し、池一杯にあふれた。見たこともないような珍しい草木で満ちていた。建物の廊下は長く連らなり、ぶらぶらと歩き回ることができるが、とれも一日では巡りきれない。

しかし、袁広漢が有罪になって、財産が没収されたあと、これらの珍しい珍獣や草木はすべて漢の宮廷の上林苑に移し植えられた。

茂陵富人袁広漢、蔵鏹巨万、家僮八九百人。於北邙山下築園、東西四里、南北五里、激流水注其內。構石為山、高十余丈、連延数里。養白鸚鵡、紫鴛鴛、氂牛、青兕、奇獣怪禽、委積其間。積沙為洲嶼、激水為波潮、其中致江鷗海鶴、孕雛產鷇、延漫林池。奇樹異草、靡不具植。屋皆徘徊連属、重閣修廊、行之、移晷不能徧也。広漢後有罪誅、沒入官園、鳥獣草木、皆移植上林苑中。
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袁広漢が贅を尽くして作り上げたみごとな苑庭も没落後は、全ての珍獣嘉木が国家に召し上げられて王宮の庭園である上林苑に移されたという。中国での高官の地位の危うさ、儚さを象徴する一駒だ。

ところで、隋の煬帝が大運河を完成の暁に、そこを下って南方まで巡遊した時の大型船のスケールには度肝を抜かれる。そもそも、私が本格的に資治通鑑を読もうとしたのは、30歳のころ、煬帝の巡行を紹介する一文を新聞で読み、その出典が資治通鑑にあると知り、早速該当部分を見つけて、そのあまりの豪華さ、巨大さに度肝を抜かれたことが一因となっている。(興味のある方は、ぜひ『本当に残酷な中国史』P.157-159 をご参照を!)
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