限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第117回目)『国際人に必要なグローバル視点』

2011-10-30 20:48:55 | 日記
私は、2009年から京大の一般教養科目として『国際人のグローバル・リテラシー』という科目を教えている。この授業では、将来の日本人に必要な国際人としてのグローバル視点を持つために世界の各地域の文化の差を議論を通して理解してもらうことを主眼としている。

先ごろ、私のこの授業に関心をもった学生のグループが私の研究室に訪問してきた。彼らは、京大だけでなく京都にある大学生とともに、海外インターンシップを受け入れる活動をしている。その代表が言うには:
『今年度は「真の国際人の育成」ということをテーマに活動し、海外からインターン生を受け入れている。これら海外からの学生を実際に世話しているうちに、世界が国際化していく中で、日本は今後どのような役割を担い、日本人はどういった意識・能力を持てばよいかという点を真剣に考えるようになった。この点について教えて欲しい。』

私は、彼らのこの心意気には感心した。私の授業には数十人の学生が受講しているが、残念ながら必ずしも国際人としてどのように行動すればよいか、について真剣に考えていない学生もいる。しかし、このグループのように実際の活動を通して外国の学生と接しているうちに、観念的にしか捉えていなかった国際人としてのあり方を腰を落として考えるようになるのはいいことだ、と私は評価した。

しかし、彼らが『真の国際人の育成を目指す』という時の国際人という定義にであって、まだまだ観念的だと感じた。かれらの国際人の定義とは:
外国人が持つ文化・民族から生じる差異を大きな違いとして考えるのでなく、考え方、容姿などと言った個人の違いの要素の一つとして考え、一人の人間として個性を尊重し共生できる人。また同時に、自国や世界の歴史・文化について幅広く教養を持った上でグローバルな出来事に関心をもち、総合的・長期的に思考・判断し、自分の考えを発信・行動できる人。』

私は自らの留学経験や帰国後の外国人との付き合いからこの最初の一文に示されている考えには賛同できない。私の基本的な考えは、『世界各国の文化差は、時として超えがたいものがある、それは無意識のうちに我々の言動を規定している』。我々は主体的に考え、行動している、と思っていても、我々の生まれ育った環境、文化に知らず知らずの内に感化されている。従って、日本以外の人々と付き合う時には、彼らの文化背景を十分理解した上で、その人の人間性を見極めないといけない、と考える。

『世界各地の文化差を知ることが大切だ』と言うと決まって、日本では家に上がる時には玄関で靴を脱ぐということを教えようとしたり、千羽鶴を折ったり、ゆかた着で盆踊りに誘ったりと、表面的な文化交流をすることだと短絡思考する人がいる。私のいう『文化差』というのはもっと思考の根深いところにあるものである。

例えば、最近の福島原発事故の際、自らの生命の危険も顧みず現場で作業した人たちはアメリカのメディアからヒーローと賞賛された。しかし、このように言われた当の現場の日本人達は、そのような英雄扱いするのはやめてくれ、と言ったといわれている。アメリカ人であれば、当人達も誇りに思うし、そのような献身的努力をマスコミが賞賛しないのであれば、逆にマスコミ人としても姿勢が問われる。しかし、日本人にとっては英雄視されることが非常にきづまりに思うのだ。このように無意識の内に自分達の価値観で他の文化圏の人たちの言動を評価してしまうことが必ずしも正しくない。これが『文化差』を意識しないといけない理由である。


【国際人のグローバル視点】

さて、世界各地の文化差を考える時に、次の2つの軸をベースに考えてみると分かり易いであろう。一つの軸は『個人 vs. 団体』。もう一つの軸は『私的 vs. 公的』である。

この図から分かるように、我々が付き合う人というのは、それぞれが担っている役割が異なる。冒頭で述べた学生グループが付き合っている外国人というのは、友達づきあい、つまり右下の象限の『個人・私的』の範疇の人たちである。この範囲の付き合いでは、なるだけ友情を壊すまいと、理解や納得できないことでも、受け入れてしまいがちである。つまり、文化差を感じることがあっても許容の範囲に留まるような行動をとるようになる。上で述べた学生達が感覚的に文化差がない、と感じるのはこのような極限された付き合いしか経験したことがないためである。

ところが、私的でも『団体』になると挙動が異なる。例えば、最近のギリシャの財政危機に対するデモ隊の要求や行動は我々の常識では行き過ぎのように思えるが、彼らにとっては自然な範囲のようだ。

また『公的・団体』や『公的・私人』の事例では、イギリス議会に於いて与党と野党の党首同士が狭いテーブルを挟んで打々発止と熱弁をやりとりする姿は、とても日本の生ぬるい党首討論と比べると、大人と幼稚園児との差を感じる。またそれを熱心にしかも余裕を持って聴いているイギリスの議員達の如才のない姿には議会制民主主義の歴史を体現している風格を感じる。

私はこれからの若者が国際人として行動する為に必要なグローバル視点を得るには、まず世界各国・各地域の文化・歴史を正しく理解することだと考える。そして、我々日本人としての価値判断で全てを判断するのではなく彼ら行動の奥にある文化の影響を理解することで初めて、彼らの言動の真意を評価できるのだ。そのような姿勢を常に持つことで初めて自分なりのグローバルな視点を得ることができると考える。
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【2011年度・英語授業】『日本の工芸技術と社会(1)』

2011-10-27 00:17:12 | 日記
【日本の工芸技術と社会 1.Inkbrush, Inkstone, Paper and Calligraphy】

今年も、京都大学で交換留学生(および日本人学生)向けの一般教養科目で "Craftsmanship in Japanese Society" (日本の工芸技術と社会)を教えている。テ-マは昨年のものに若干の変更を加えたが、基本的には変わらない。ただ、説明資料(パワ -ポイント)の内容を充実させた。

前学期の『日本の情報文化と社会』では福島原発事故のせいで留学生が約10名程度しか参加していなかったが、今学期は倍の20名になった。ようやく、関西は安全だということが認知されたようだ。

この講義は、純粋に講義主体の授業であるが、数人の学生がグル-プとなりそれぞれのテ-マについて調査した結果を発表する、グル-ププロジェクトが課されている。それも、日本人と留学生が必ず交じる混成チームで日本と諸外国の工芸技術に関して調べてもらうことになる。

『日本の工芸技術と社会』講義のテ-マは次の通り
   1. Inkbrush, Inkstone, Paper and Calligraphy
   2. Sculpture, Furniture, Folk Craft, Go & Shogi, Netsuke and Za (Artisan Guilds)
   3. Porcelain, Lacquerware, Makie and Korean Craftsmanship
   4. Mining, Metallurgy, Sword, Armor and Samurai
   5. Painting, Ukiyo-e, and Modern Visual Arts (Manga and Animation)
   6. Engineering (Architecture, Shipbuilding, Robot) and Modern Industries
   7. Cooking, Liquor, Textile and Festival
   8. Performing Arts, Narrative Arts and Lifestyle
   9 . Positive and Negative Features of Japanese Craftsmanship
   10. People 1 (Before Meiji)
   11. People 2 (After Meiji)


この講義の目的としては、日本の工業が現在、世界で非常に高く評価されているが、それは過去からの洗練された高い工芸技術の伝統の上成り立っていることを、学生達に理解してもらうことである。工芸技術は産業として人々の暮らしを物質的に支えただけでなく、芸術度の高い工芸製品が安価に提供されたので、庶民生活の隅々に至るまで潤いがもたらされた。

しかし、工芸技術を発展させてきた社会は一方では、日本人特有の細部にこだわり過ぎ、大局的見地を見失いがちになる、というネガティブな面も日本人にもたらした。さらには、小さなものへ愛着を示すが、規模の大きいものや自然そのものに対しては無頓着になる傾向も否めない。それら日本人全体の国民的な性癖は、過去数十年間ものあいだ公共事業と称する、あまりにも不必要な構造物を次々と建設し、この美しい国土を無残にも破壊する結果となってしまった。

第一回目の【1.Inkbrush, Inkstone, Paper and Calligraphy 】の講義メモを以下に示す。

 ************************

○文房四宝とその他の文具

・書道は、中国に始まり、日本は中国から書道のみならず書道道具の製造技術に至るまで多大な恩恵をうけている。

・書道には文房四宝がある。それらは墨、硯、筆、紙である。

・墨は、奈良と京都が過去からの伝統的な産業が今でも残っていて、有名な生産地である。墨汁は田口精爾が明治20年ごろに発明した。

・硯は、中国の端渓が有名であるが、残念ながら現在では原石が掘り尽くされてよいものは、出ない。また歙州も良質の硯を産する。日本の硯の質は中国のものには及ばない。

・筆は、紀元前十世紀の殷の時代から存在したといわれている。正倉院に保管されている古筆としては天平筆が有名である。筆の毛には、様々な動物の毛が使われる。

・現在、東広島の熊野で生産される化粧筆が世界の最高品質を誇り、全世界のトップの映画女優が数多く愛用している。

・紙は、後漢の蔡倫が発明したといわれているが、実際には前漢の時代に既に存在していた。中近東には8世紀に伝わり、ヨーロッパに伝わるにはまたそれから数百年かかった。

・紙は日本には7世紀に伝わった。日本で製法を改良し、和紙が作られた。

・和紙の原料としては、「楮」「三椏」「雁皮」「麻」などが使われている。

・紙の伝統的な製造プロセスとしては、「煮熟」「ちり取り」「打解」「紙漉き」「圧搾」「乾燥」の順番で行われる。また、紙を漉く方法には「溜め漉き」と「流し漉き」がある。後者の「流し漉き」は日本で開発された方法である。

・印章とは、著者を表したり、所有者を表すのに使われる。江戸時代に発見された『漢委奴国王印』の金印は有名だ。

・書体の種類、殷の時代の「甲骨文」から始まり、「篆書」「隷書」「楷書」「草書」「行書」がある。

・篆刻とは、木や石に印を彫ることである。篆書は、現在でも日本銀行券(お札)やパスポートなどの文字に使われる字体である。

・国璽は、国家の象徴として押す璽で、御璽は天皇個人の璽。



○中国の能筆

・晋の時代の王義之は中国でもっとも有名な書道家である。息子の王獻之も能筆で合わせて『二王』と称されている。

・唐代の書道家の巨匠として、欧陽詢と虞世南、褚遂良、顔真卿が挙げられる。

・宋と元の時代では、蘇軾、米芾、黄庭堅、趙孟頫がいる。

○日本の能筆

・日本には、8世紀に仏教に随伴して書道が入ってきた。

・能筆としては、王義之の楽穀論そっくりの筆使いの光明皇后や平安初期に三筆と言われる嵯峨天皇、空海、橘逸勢がいる。平安中期では、小野道風、藤原佐理、藤原行成が三蹟と称された。

・平安末期になって、藤原行成のスタイルを踏襲した和様が完成された。世尊寺流や尊円流などがある。

・仮名の書道作品では、古今和歌集の高野切などが有名だが、残念ながらこれら仮名の作品は作者は不明の場合がほとんどである。

・墨跡は、禅僧の作品をいい、夢窓疎石、隠元、即非如一などが有名である。

・江戸時代の有名な書道家には、良寛、貫名菘翁、本阿弥光悦がいる。

・花押は、署名の代わりに使われる記号で、まず5世紀の中国で使われ始めた。日本では10世紀頃から公家によって使われだしたが、戦国時代になって多くの武将が使うようになった。

・勘亭流は、江戸時代、歌舞伎や落語看板などに使われ普及した。

・前衛書道は、戦後に生まれ、革新的な書道芸術をめざしている。

○アラビアとヨーロッパの書道

アラビアやヨーロッパの書道(Calligraphy)とは、芸術作品というより、技術工芸的な要素がつよく、東洋で重視する作者の精神性より、むしろ均整のとれた美を重んずる。
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【2011年度授業】『ベンチャー魂の系譜 2.世界中、至らざる所なしの探検家(アムンゼン、クック)』

2011-10-24 22:40:22 | 日記
今回取り上げる人物の中では、南極探検で、極地一番乗りに成功し、故国に錦を飾ったアムンゼンとタッチの差で一番のりを逃し無念の涙を飲んだのみならず、帰路の途中で餓えと疲労で凍死した悲劇のスコットの対比は非常に考えさせられるものが多い。彼らの対照的な運命に対する心情は別として、理性的に考えてみると、やはり成功者にはそれなりの用意周到さがあり、失敗者には残念ながら、失敗すべき要因があったと言わざるを得ない。具体的には、アムンゼンは極地一番のりの名誉より、如何にして前人未踏の極地探検を成功させるにはどうしたらよいかを真剣に考えていた。それに反し、スコットには大英帝国の栄光と名誉が重くのしかかっていたので、実際的観点と言うより見栄が先行していた、と私には思える。

 **************************************
本稿は今回の講義のまとめである。一部、語句を修正したところがある。またところどころ私見として本稿をまとめた学生の意見が入っている。

モデレーター:セネカ3世(SA)
パネリスト:on

 講義冒頭、セネカ3世から、「□□できることは○○するな」という文の「□□」と「○○」に、「今日」と「明日」のどちらに入れるか、という質問があった。受講者の多くは、「□□」に「今日」を、「○○」に「明日」を入れる選択をした。これは、日本人に多く見られる傾向と言える。だがトルコ人に同じ質問をすると、これとは逆、つまり、「明日できることは今日するな」と選択することが多いということだ。彼らは、我々とは異なる時間感覚を持って生きている(私見:それが、彼らの人生の楽しみ方である、と理解できる。)このように、異文化間で考え方が異なるのは当然であり、自分の考えを押し通すのでなく、考えの違う人をどう受け入れるかが重要であるということである。

アメリカのカトゥーン「トムとジェリー」においては、猫のトムが、ねずみのジェリーを捕まえようとして失敗するものの、一度であきらめることなく、何度も追いかける。色々な手段を講じて問題を解決しようとするのは、アメリカ人が好む考え方である。このアメリカ気質が、アメリカでベンチャーが盛んな根源である。逆に日本でベンチャー(起業)が低調なのは、上の質問の答えの選択にも見られるように、保守的でこつこつ仕事をする傾向の日本人性質と関係があるのかもしれない。
(私見:比較できるほどアメリカ人を知らないので、断言はできないが、文脈に沿って考えれば、「日本人はあきらめるのが早すぎる」と思う。)

今回の議論のテーマは、大別すると、「人類初の南極点到達への競争」と、「大航海時代に世界中を旅した人々」の二つ。どちらのテーマにおいても、「グループの先頭に立って指揮をとる人物のリーダーシップが、結果として冒険の成功・失敗に繋がっている、つまりは「成功すべくして成功する」リーダシップ、という点が核心である。

・人類初の南極点到達をめぐる競争

1911年12月14日、ノルウェーのロアルド・アムンゼンは人類史上初めて南極点へ到達した。アムンゼンは、これで歴史に名を残し、名誉を得た。一方、アムンゼンと同時期に南極点を目指した、イギリスのロバート・スコットは、南極点に到達するも悲惨な結末を迎えた。考えなければいけないのは、何故このような結果が生まれたのか、ということである。
(私見:セネカ3世によれば、「成功と失敗は紙一重」などというが、「失敗者」と「成功者」は必然であるという。)

成功したアムンゼンと失敗したスコットを比較して、ベンチャーに必要な真のリーダーシップについて議論した。

・失敗者スコット

ロバート・ファルコン・スコット(1868年 - 1912年)は イギリス海軍の軍人。軍隊で指揮官としての資質を認められ、イギリス王立地学協会会長のマーカムに南極探検隊の隊長として選ばれた。1902年から1904年にかけての探検で、南緯82度17分という人類最南点到達記録を記録し、科学調査でも大きな成果をあげたので、スコットは国民的英雄となっていた。目的はあくまで学術調査を行うことにあったが、その資金集めのためにも南極点到達は是が非とも成し遂げないといけない目標であった。スコットは英国人としてのプライドから、センセーショナルな結果を残して国威を発揚したかったと思われる。そのため、雪上車や寒さに強い優秀な馬など、装備には最新のものを取りそろえ南極点到達を目指した。しかし、日が経つにつれ、南極を何度か体験していたはずのスコットの準備不足が露見した。
(私見:彼らは考え得る限り、万全な準備をしたはずだったが、南極の過酷な環境は、彼らの想定をはるかに超えていた。)

最新鋭の雪上車は故障し、馬も極寒に耐え切れず次々と衰弱死し、出発しておよそ40日後には全ての馬が死んでしまった。その結果、スコット隊は、人力でそりを牽くしかなく、想定外の体力消費をしてしまう。さらに、防寒着として牛革を何重か重ねたものの牛革が汗を吸い込み気化熱を失い、その汗が凍結し、一層体力を失う結果となった。これらだけでも、十分失敗の原因と言えるが、ここでさらに重要な失敗の要因として考えられるのが、直前になって本隊へ加わることを希望した人の参加を許したことである。事前の計画では、本隊は4人構成で、テントや食料など全ての資材が4人分しか用意はされていなかった。そのため、テントでは十分な休憩はできず、食料も不足した。当初の目的であった学術調査と想定外のハプニングで、進行のペースもだいぶ遅れてしまったスコット隊は、1912年1月14日に既にノルウェーの旗が立てられた南極点に到達した。失望の帰路で悪天候に見舞われ遭難し、3月29日までにスコットを含め全員が死亡した。

・成功者アムンゼン

ロアルド・アムンゼン(1872年 - 1928年)は船乗りの息子として生まれ、幼いころから北極の探検家になることを志していた。1903年から1905年にかけて、ヨーロッパが300年以上挑み続けた、大西洋からカナダの北を通り、ベーリング海峡を通過する「北西航路」の航海に成功した。その際、アムンゼンはイヌイットから犬ぞりの使い方・獣皮の着用など、極寒の地で生きる知恵を教わった。初めは北極点到達を目指して準備を進めていたが、出発寸前(1909年)、ロバート・ピアリが北極点に到達したという知らせを聞き、急遽、目的地を南極点に変更した。
(私見:この航路変更という柔軟な対応から考えれば、アムンゼンは当初から、北極点と南極点、両方の「人類初到達」を達成しようと考えていたのではないかと思われる。)

こうして、スコットがイギリスを出発してから2か月遅れで、アムンゼンはノルウェーを出発した。アムンゼンは南極点到達に向けて、綿密な準備を怠らなかった。まず、荷物を牽くための犬ぞりだが、イヌの数は途中で随時殺してイヌのエサや隊員の食料にして、帰路の最後までに、ちょうど犬が最低限の数になるように計画した。

次に、北極に最も近い場所で暮らす人々であるイヌイットの知恵を大いに活用し、防寒着には軽くて耐寒性に優れた毛皮を用いた。長い航海でもそうだが、ビタミンCが欠乏すると、免疫が低下したり古傷が開いたりして死にもつながる「壊血病」になる。イヌイットはビタミンCの不足はアザラシを内蔵を食べることで、補っていたことをアムンゼンは聞いていた。

温度計は気候の変化を知るための重要な器具である。しかし、寒暖計は壊れやすい器具である。寒暖計が全て壊れた場合を想定してアムンゼンは隊員の体感温度によってある程度正確な温度がわかるように事前に訓練をした。

結局アムンゼンは犬ぞりとスキーを駆使し、1911年12月14日人類初の南極点到達を果たした。そして翌年1月25日、無事南極基地に帰還した。

・人としての「善さ」・リーダーとしての「良さ」

人としての「善さ」と、リーダーとしての資質は必ずしも一致しない。そのことは上記の二人を比較することで明らかだ。スコットは人としては「善い」かもしれない。 (私見:予定外の5人目を隊に加えたのは、人類史上初の南極点達成という名誉を、一人でも多くの仲間に味あわせてやりたかったのだろう。)

スコットはこの寛容さ故、部下や仲間からの信頼も厚く、チームワークを最大限に引き出す能力を持っていたと言えよう。しかし、その優しさは「戦場」ではアダとなってしまう。スコットは現実に対して甘すぎたのだ。リーダーとしては、当初の計画を崩してしまう5人目を決して許してはいけなかった。更には最新鋭の準備、つまり、イギリスの最新の科学技術を、過信していたのかもしれない。この結果、スコットは極限の環境で合理的な判断を下さないといけないリーダーとしての資質に疑問符がつけられる。

一方、アムンゼンは完璧といえる危機管理能力で、リーダーシップ性を遺憾なく発揮した。アムンゼンは、起こりうるトラブル全てに対して、合理的な解決法をあまねく用意していた。アムンゼンは南極点から生還したあと、「すべて計画通りに事を進めた」と自慢したらしいが、まさにその通りだった。しかし、その合理的な解決は時として私たちの道徳観を揺さぶる。彼は、犬ぞりのイヌを、殺す前提で必要な犬の数を冷酷に計算した。荷物となるエサや食糧を極限まで減らすことですばやい移動を達成できると考えた。訓練や、つらい旅程を長期間共にしてきた相棒の犬を無惨にも殺し、肉へと処理する作業。考えただけでも切ない思いがする。しかし、アムンゼンは非情を押し通した。

アムンゼンのこの処置は道徳的に見れば納得できないかもしれないが、南極点到達というミッションを背負い、それをやり遂げたリーダーとしては、満点であっただろう。
(私見:ちなみに、アムンゼンを、道徳的に欠けた人物と断定する訳ではない。スコットに、自分も南極点に向かうという電報をわざわざ送っているし、断られたがスコットに犬ぞりを貸すと申し出たりもしている。だから、「リーダーシップがある人=道徳心に欠ける人」とも言えないと思う。)

リーダーとしての行動すべきときには須らく現実にシビアになればよいのだ。

・大航海時代の成功者に見る、「非常識」に対する接し方

自分にとって、それまでの「常識」の範疇に収まらないことに遭遇した時にどう理解するかは重要である。多くの人は、そういう意味での「非常識」な状況に対処できず排斥してしまうだおう。しかし、現に科学の発見がそれまでの「常識」を何度も覆してきたことからわかるように、「非常識」に真理が隠されていることも、間々あるのだ。

大航海時代に活躍した探検家は、たいてい相手の風習を評価できる人であった。私たちは、彼らが自分の考えを押し通しながら、異文化の中を突き進んでいったかのように思いがちである。しかし成功した探検家とは、異文化の風習を自分たちのそれと比較した必ずしも見下すことはしない。例えば、西インド諸島に到着し、現地で快活に暮らす人々を目のあたりにしたコロンブスは、彼らの生活が天国に見え、これ以上幸福な人々はいないと思ったと伝えられている。(彼らが羨まれたのは決して、物質的に恵まれていたからではない。彼らは服も着ず、原始的な生活を営んでいた。)

現地人の風習を評価できるということは、現地の文化、そして現地人を受け入れることにつながる。それは、ひいては現地での災害や病気を防ぐためにも重要であり、より安全な探検に役立てられたであろう。ヨーロッパ中心主義を振りかざして、現地の人々を虐殺した人もいるが、彼らは真の冒険者とは言えない。新しい何かを目指すとき、無限に開かれる可能性を模索するためにも「非常識」と向き合わなければいけない。(私見:自分のそれまでの常識が通用しない無限の可能性に対処する為にも、ともいえる)



最後に、セネカ3世から、「アフリカで、子供が川で遊んでいるところにワニが来て、子供が食べられてしまったが、このあと、子供たちはどうしただろうか」という質問があった。

多くの受講者は、ワニを退治したり、ワニから逃げる術を獲得したりしたのではないかと答えた。しかし子供達は、「相変わらず川で遊んだ」というのだ。川で遊ぶとワニに食べられて死んでしまうかもしれないが、現実の楽しみは換えられないと彼らは考えるのだ。子供にとっては、デメリットよりメリットのほうが大きいため、川で遊ぶ。

この話を聞いて学生一同は驚いたようであった。しかし、状況や設定を、私たちのすぐ身近なものに置き換えれば、この子供達の行動も理解できる。例えば、「アフリカ」を「私たちの暮らす社会」に、そして「ワニ」を「自動車」に置き換えて考えてみればどうであろうか?現在我々の回りには、一定の確率で交通事故が起こり、死者や負傷者がでる。しかし、自動車の利便性には勝てない。つまり自動車も、デメリットよりもメリットの方が多いため、使われているのだ。視点を変えれば、ワニの棲む川で泳ぐのと何ら変わりばえしない危険な社会に我々は逸楽を偸んでいるに過ぎない。
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通鑑聚銘:(第76回目)『数キロの石を数百メートルも飛ばす大砲』

2011-10-23 23:51:35 | 日記
19世紀に入り、日本近海に欧米の船舶がしきりに出没し、江戸幕府が対応に苦慮し始めていた 1811年、ロシア船・ディアナ号の船長ワシーリー・ゴローニンがが国後島で幕府の役人に捕縛された。一時、脱走に成功したものの、捕らわれ、それから約2年間、ゴローニンは函館の牢獄に閉じ込められてしまった。しかし、1813年に開放され、祖国にかえり、1816年に『日本幽囚記』という本を出版した。この本を読むとびっくりするのは、2年間日本にいたといっても、ほとんど牢獄で過ごした割には、ゴローニンの指摘には鋭いものを感じる。

この中に日本の軍事技術レベルについて次のような記述がある。

In engineering, the Japanese are as inexperienced, as in other branches of the military art. The fortresses and batteries, which we saw, were constructed in a manner which shows that they understand nothing of the rules of fortification. ... In the art of war they are still children, and wholly unacquainted with navigation, except of their own coasts.
【大意】日本人は軍事を知らない。要塞や砲台の作り方をみれば、防備の何たるかを全く理解していないことが分かる。 ... 日本人の戦争は児戯に等しい。航海術に於いても無知だし、海岸線沿いにしか航行できない。

つまり、太平の江戸時代の武士達の戦争術が全くお粗末だといっているのだ。これを聞くと、愛国心の強い人は、『いやいや、日本でも戦国時代の武将達は、知略、戦術とも優れていたし、立派な武器・武具を備えていた』と反発もしたくなるであろう。しかし、ヨーロッパや中国では、日本最大の合戦であった関が原の戦いや、大阪夏の陣、冬の陣規模の戦いがすでに1000年以上も前に何度も起こっていることを知れば、驚くであろう。



以前のブログ『その時歴史が、ズッコケた』でも述べたように古代ローマでは紀元前3世紀にすでにアルキメデスが戦艦をも吊り上げる巨大クレーンを使って、ローマ軍に恐怖を与えていた。あるいは、紀元後1世紀に、ローマ軍がエルサレムを攻めたときに、使った攻城機は、別名『雄羊』という、とヨセフスの『ユダヤ戦記』は伝える。それは移動式の巨大な槌で、数回打ち付けるとどのような分厚い城壁も崩れてしまうほどの威力を持っている。

このようにヨーロッパや中近東は紀元前から大規模な戦争を通じて軍事技術や戦器が非常に発達した。その伝統はロシア帝国にも十分受け継がれていることを考えると、上のゴローニンの発言も理解できよう。

ヨーロッパはさておき、中国はどうであったであろうか?

中国も紀元前数世紀には東周の勢力が弱まった結果、諸侯がそれぞれ武力で覇権を争うような戦国時代に突入した。中国の広大な地域と人口を戦争に巻き込みつつ、軍事技術や戦器が発達したのは、ヨーロッパと軌を一にしている。その具体例を見てみよう。

 ***************************
資治通鑑(中華書局):巻63・漢紀55(P.2032)

曹操は出兵し袁紹と戦ったが、勝てなかったので、引き返し、陣地を固めた。袁紹は高い物見やぐらを作ったり、土盛をしてその上から曹操の陣地をめがけて矢を射った。曹操の兵隊は皆、盾をもって陣地内を移動した。曹操は、霹靂車を作って反撃をした。これは大きな石を飛ばす投石器で袁紹の陣地の建物を全部破壊した。袁紹はまた、地下道を掘って曹操の陣地に攻め入ろうとしたが、曹操も地下壕を作って対抗した。しかし、曹操の兵隊達はは少なく、食料も尽き、疲労もひどくなった。

曹操出兵與袁紹戰,不勝,復還,堅壁。紹爲高櫓,起土山,射營中,營中皆蒙楯而行。操乃爲霹靂車,發石以撃紹樓,皆破;紹復爲地道攻操,操輒於内爲長塹以拒之。操衆少糧盡,士卒疲乏。

曹操、兵を出だし袁紹と戦うも,勝たず。復た還り,壁を堅くす。紹、高櫓をなし,土山を起こし,営中を射る。営中、皆、楯を蒙むり行く。操、乃ち霹靂車を為す。石を発し、以って紹の楼を撃ち,皆な破る;紹、また地道をなし、操を攻む。操、すなわち内に長塹をなし以ってこれを拒む。操の衆、少なく糧、尽き,士卒、疲乏す。
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つまり、曹操が袁紹と戦った紀元200年には、大石を投げることのできる投石器、その名を霹靂車(ひれきしゃ)という戦器があったという。これは相手の陣地の建物をも破壊できるの威力があった。

この霹靂車とはどういうものであったか?この部分に付けられている、胡三省の注には次のような説明がある。(以下の文で、賢曰くとあるのは、唐の章懷太子・李賢のこと。)

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資治通鑑(中華書局):巻63・漢紀55(P.2032)

賢曰く:霹靂車というのは石を発射するときに雷の落ちたときのような、ものすごい音がするので、こう呼ぶ。現在(唐代)の砲車に該当する。

張晏、曰く:范蠡の兵法には、霹靂車とは重さ十二斤を発射でき、三百歩を飛ばすことができる。曹操はこれを用いたに過ぎない。

賢曰:以其發石聲烈震,呼之爲霹靂,即今之砲車也。

張晏曰:范蠡兵法,飛石重十二斤,爲機發,行三百歩。操蓋祖其遺法耳。
 ***************************

これによると霹靂車とは、投石器のことで、その能力は重さ十二斤(6Kg)を発射でき、三百歩(500メータ)も飛ばせると代物らしい。

日本では、1453年に火縄銃が伝来してから十数年の間に戦術が大幅に変化したといわれているが、鉄砲で攻撃できるのはせいぜい人や馬である。つまり、攻城戦は依然として旧来からの戦法、即ち肉弾戦の突撃から変わるところがなかった。元和偃武以降、戦争がなく太平の世が続いたため、戦術が全く変化しなかったため、日本の稚拙な戦争術にゴローニンがあきれたのであった。ヨーロッパや中国のように紀元前から大規模な破壊兵器を続々と開発し、戦争に明け暮れた人達からみれば、日本はなんと呑気な国であろうか。

日本人というのは本来このように、戦争に対して嫌悪感を持っているというより、むしろ無関心な人種であると思う。それ故、明治維新以降、第二次大戦までの軍備拡張は本来の日本人の性格を無理やり捻じ曲げて、非常な無理をしていたのだと感じる。この観点から言えば、現在の沖縄の基地問題は沖縄の人間からすれば、本土の関心が低いと不満を感じているようが、それは何も沖縄という遠隔地だからというのでなく、本来的に日本人は軍事に無関心であるからだと私は考える。国防や軍備を考える場合、このような日本人特有の歴史背景やメンタリティも考慮することが必要だということを私は言いたい。
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沂風詠録:(第163回目)『リベラルアーツとしての語学(その4)』

2011-10-20 23:04:51 | 日記
前回から続く。。。

【4.現代に生きるギリシャ語・ラテン語について】

以前のブログ記事『私の語学学習(その46)』では、現代に生きるギリシャ語やラテン語について次のように述べた。
『。。。ギリシャ語やラテン語を勉強すると、目がレントゲンになる。つまり、難しい英単語の骨格が透視できてしまうのである。この意味で、今後ますます増加するこれらのバイオ、医学関係の単語を理解しようとすれば、これら二つの古典語は必須となる。』

つまり、西洋古典語と言われているギリシャ語やラテン語は死語などではなく、現在も尚、脈々と新たな語彙を生み出している言語の豊穣な土壌であるのだ。この意味で、我々は医学・バイオに限らず先端の科学技術を学ぶ上で、これらの言語の骨格を理解しておく必要がある。

しかし、そうはいっても、科学技術を仕事としていない一般人がこれらの言語を学ぶ理由とはなっていない、という反発が想定される。ここで、なぜ現代日本人である我々が、死語である西洋古典語(ギリシャ語、ラテン語)を学ばないといけないのか、その理由や必要性をもう少し考えてみよう。

まず、西洋古典を学ぶ人たちとして一番最初に考えらるのは、西洋古典語そのものを研究する学者達であろう。次いで、西洋史、西洋哲学など西洋の文化を深く知る必要上、古代の文献にまで遡って研究する学者たちであろう。あるいは、医学、薬学、バイオなど基本的な術語(technical term)が西洋古典語から由来している学問分野であろう。しかしこの後者の人たちは必ずしも古典語を完全にマスターする必要はないはずだ。

というのは、現代の日本人が漢文が読めないため、たいていの東洋古典の本には必ず漢文の読み下し文と現代語訳がついているように、現在販売されているたいていの西洋古典には現代西洋語訳(英語、ドイツ語、フランス語)がついている。したがって、現代西洋語が理解できれば、西洋古典は読めることになる。このような現実的な観点から、次のような疑問が湧いてくるであろう。『西洋の文物の研究者ですら、西洋古典語をまじめに学ばないのであれば、なおさらのこと西洋のことを研究テーマにしていない一般人は難しいこれらの西洋古典語など、袖に触れる必要すらないではないか?』

この質問に直接答える代わりに次のように私は答えたい。

我々日本人にとっては、漢字は外国のものではなく、全く日本のものとして感覚的に理解できるものとなっている。これは、生まれた時から身の周りにずっと漢字がある環境で育ち、小学校や中学校では漢字の書き取りなどを通じて強制的に漢字ボキャブラリーを増やしてきた。このように我々の身についた漢字は単に思想の表現や伝達などという観念的なものではなく、心のひだまで食い入っている、非常に情緒的なものである。それで、見知らぬ漢字を見てもその字面(じづら)から立ち昇る雰囲気を感じるものだ。(例:『臠殺』-- 一寸刻みで肉を切り刻みながら殺すこと。)



さて、西洋語の単語に関しても同じような感覚を得ることができるであろうか?例えば、dioecious という単語がある。よほど植物学に詳しい人でない限り、一目では分からないであろう。次のように分解すればどうであろうか? di-oeci-ous 。字面から何か立ち昇ってきたであろうか?多分、最後の -ous は『。。。のような』という性質を表す接尾辞だと指摘できる人は少なくないであろうが、はじめの2つの部分は難しいであろう。元来がギリシャ語であるこの単語のそれぞれの部分を英語に置き換えてみると、次のようになる。di-oeci-ous = two-house-like、つまり『2つの家のような』という意味。つまりイチョウのように、植物の木で、雄の木と雌の木が別々の木であるということで、『雌雄異株、雌雄異体の』という訳が当てられている。このように分解できた後では、次回からは見れば意味をすぐに思い出すことが可能となる。また別の例を挙げれば、 corona radiata という単語は、英語の単語にそのまま置き換えれば、"crown spoke" となる。つまり、『冠(crown)状にひろがった輻(spoke)』となり、『放射冠』と訳されている。脳の断面図を見るとこの意味が納得できよう。

ところで、英語に習熟しある程度を越えると、 big words を覚えないと語彙も増えないし、文章にも張りが感じられない。これら big words というのが実はギリシャ語やラテン語起源の単語であるのだ。この意味で、現在の我々にとっては実践的な観点からは、英語の単語力増強のためには、ギリシャ語やラテン語の学習を避けて通る訳にはいかない、というのが私の主張する点である。そしたら、どのようにしてギリシャ語やラテン語(西洋古典語)を学習すればよいのであろうか?

私は、従来の日本および欧米の学習方法で西洋古典語を学ぶのはよくないと考える。従来の方法とは、文法を完全にマスターし、複雑な変化形を完璧に暗記することを強いる。これは漢字の習得にたとえてみると、あたかも普段全く使わないような複雑な漢字をも完全に覚えることに匹敵する。確かに複雑な変化形を完璧に覚えていれば、読解に有利であることは私も同意する。しかし、以前のブログ(『私の語学学習(その38)』『私の語学学習(その39)』『私の語学学習(その43)』)で述べたようにパソコンソフトを使えば、基本的な文法さえ覚えていれば、複雑な変化形などはそのつどパソコンで助けてもらって、つまり『カンニング読書』で読み進むことができる。振り返ってみれば、我々の漢字学習もこのように分からない字は飛ばして読んでいたはずだ。そのうちに文法や難しい漢字は知らず知らずのうちに習得していくとしたものだ。

つまり、我々のような西洋古典語を専門にしない現代の日本人にとって必要なギリシャ語やラテン語は次のような学習方法が適していると考える。まず、これは丸暗記しか方法がないが、それぞれの基本単語を2000語を『耳から』覚える。ギリシャ語、ラテン語の基本単語、計4000単語を覚えた段階では、英語を含むヨーロッパ言語について、かなり語感が鍛えられる。しかし、基本の文法をさっと仕上げた上で、古典語で書かれた多くの原文をパソコンの助けを借りてよむことで、初めて我々が漢字に対してもっている語感を、西洋語に対しても肌で感じることができる。

『高く建てたいのなら、裾野を広げよ』という言葉は、何も建築に限ったわけでなく、学問分野全てに適用できる言葉である。つまり、英語の上達を目指すなら、急がば回れで、ギリシャ語、ラテン語をある程度習得すべきであると、私は考える。もうすでに絶版で、中古本でしか入手できないが、手始めに、英学者、市河三喜氏の書いた『ラテン・ギリシヤ語初歩 -- 英学生の為め』という本を手にとって熟読されることをお勧めしたい。

ところで、現在のバイオ関係の新語は西洋古典語からの造語が多いが、よく見るとギリシャ語系統の単語がラテン語系統よりはるかに多い。それはなぜであろうか?一つには、ヒポクラテス以降ヨーロッパにおいては、医学・薬学用語(つまり述語)がギリシャ語であったために、現在においても新たな単語を作る場合旧来の単語との親和性を考慮するためだと言えよう。

しかし、私の考える一番の理由は新語を続々と作れるギリシャ語の機能性にある。ギリシャ語は、前置詞が豊富であるので、細かなニュアンスを動詞に付加して新しい概念を作ることが容易、かつ組織的にできる。さらに、もともとそのように言語設計がなされたのかもしれないが、いくらでも単語が連結できるような規則が内包されている。それは喩えていえば、レゴ(Lego)の部品は、大きさや形がことなっていても連結部は一定の形状をしているため、どの部品も他の部品と繋がることができる。ギリシャ語の単語は、言語のレゴともいえる。それ故、このようなレゴ機能を持たないラテン語や英語を大きく引き離して新造語の基本言語となっているのだ。概念が複数の単語の組み合わせで表されるのと、一つの単語で表されるのとでは語のもつインパクトが大幅に異なる。(例:『主権を民衆をもつ政治』と『民主主義』)この意味で、今後とも古典ギリシャ語は死語ではなく、現代西洋語の新たな語彙の源として生き続けていくことは間違いない。またラテン語はそのギリシャ語の補完語としての役割を果たし続けることであろう。

参照ブログ
 沂風詠録:(第17回目)『ギリシャ語の造語力の魅力(その3)』
 沂風詠録:(第112回目)『私の語学学習(その46)』

                (了)
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