限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第49回目)『私にとっての読書』

2010-04-03 06:34:57 | 日記
先日、『古代ギリシャのヒッパルコスが求めた1年の長さ』という記事を掲載した。書いた後で、以前山本義隆氏の『磁力と重力の発見』という本を読んだことを思い出した。

この本は、数々の賞を受けている内容、論旨とも充実した本である。私がこの本を知ったのはある人この本を勧められた時に、『文体に衝撃を受けた』という読後感を知らされたからである。それで読んでみたのだが、残念ながら私には『文体に衝撃を受けた』という意味がいまいち理解できなかった。その点に関して考えたことを述べてみたい。

そもそも私の文章の味覚能力は、あまり高くないことは自覚している。端的に言って、私には詩というものは日本語をふくめ、言語問わず、ほとんど鑑賞できない。この欠如している能力の根源を突き詰めていくと、私には散文のように少なくともロジックのあるものは理解できるが、その時には原文を内部的には自分の言葉に置き換えて格納してしまうようになっているようである。

喩えていえば、間口の狭い家に大きな家具を入れようとすると一旦戸口で家具をばらさないといけない。そうして、小分(こわけ)された部品を家の中にいれたあとは、以前見たイメージを元にして自分で再度その家具を組み立てることになる。その時、必ずしも完全に元の形にはならない。私の脳では、数学や物理などのように、組み立て方に一定の法則があり、法則を理解した暁にはいかに自己流でばらばら部品を組み立てても完全に元の家具に復元できるような学科ではそれほど不便は感じないものの、詩や外国語の通訳などでは、その欠陥がもろばれになってしまうのである。私は、多少英語やドイツ語ができるので、今まで私的な会議などでは通訳を頼まれたことが何回かあったが、いつも上記のように、自分が組み立てた話をするため、細部では、話のずれることがしばしば起きた。

以上の理由から『山本氏の文体』に関しては私は、正直なところ、衝撃なるものを感じるに至らなかった。しかし、そうは言っても読んでいて、短文と粘着性のある文章を交互に入れ子にしていて、いわば、ワルツのように、緩-急-緩という快いリズム(文体)を感じることはできた。



ついでに、内容に関しての感想をさらり書くと、第1巻の古代篇は、私の興味と重なる部分が多くあった。エジプト・ギリシャ・ローマに関しての山本氏の記述の出所はたいてい見当がついた。ブルックハルトの『ギリシャ文化史』(ちくま学芸文庫)に載っている引用文献とプリニウスの『博物誌』ではなかろうか、と睨んでいる。

しかし、情報そのものの価値というより、これらの情報をどういった観点から、何を訴えるためにまとめ上げるか、に筆者の力量が現れている。山本氏の場合、科学的視点の歴史的発展に興味があるように感じた。

私の場合は、元来が理科系ということもあり、科学・技術史にも関心を持っているが、より根源的には『どのように生きた人に、人々は感動したのか?』を知りたかったのだ、ということを10年近く前から明確に自覚するようになった。この観点から、過去を振り返ってみると、なぜ高校や大学の人文系の勉強が私に感動を与えなかったか分かった。つまり、学校で習うことや、一般の人文系の本には 『政治体制や、経済的観点、戦争の背景説明などの事柄』に焦点が当てられているが、私が求めていたものは、人として、あるいは一つの文化集団としての『生きざま』を知ることなのだ。

結局、私にとっての読書というのは、普通に言われているように、筆者との対話であるとか、筆者の意見を拝聴するとか、と言うような筆者を中心軸として回っているのではなく、私自身の本当に求めているものは何かをあぶりだすための『写し鏡』であるのだ。その意味で、私にとって本とは『得意而忘言』ものに過ぎない。
コメント
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