私の処女作の『本当に残酷な中国史 ― 大著「資治通鑑」を読み解く』が出版されたのは10年前のことであった。初めての出版であったので、いろいろなことに驚かされた。一例として、タイトルが作者が付けるのではなく、出版社、それも営業サイドが決めるというがよくあることを知った。それまで私は、著作の内容や訴えたいことを一番よく知っているは著者自身であるので、当然のことながらタイトルは著者が決めるものだとばかり思っていた。しかし、角川のこのタイトルは角川の一存で決められてしまい、私の本来の趣旨とはかなり外れるものであった。詮無き繰り言をいってもしかたのないことだが、このタイトルによって、私は嫌中的傾向を持った人間であるかのような印象を世間に与えてしまった。
ところが、怪我の功名というべきか、このようなタイトルであったためであろうか、中国に対して批判的言動の多いジャーナリスト・櫻井よしこさんの目にとまり、産経新聞にコメントを頂いた。わずか十数行の文章であったが、驚くことに反響は甚大で、その後、数ヶ月にわたりアマゾンでは中国史や角川SSC新書部門では第1位であることもおおく、少なくともトップ5クラスのベストセラー挙げられていた。多くの人が読まれたため、批評もプラス、マイナス面いずれも多く寄せられた。自分の本に対して投げかけられた批評を読み、世の中の評価は必ずしも著者の言いたいことに対してのものではないことが分かった。言い換えれば、著者の言いたいことを正しく理解できる読者というのはほんの一握りであり、たいていは的外れの批評をしているということだった。
誰であるかは記憶が定かではないが、私の本に対して「素人が口出しするな」との批判をする人がいた。これは、中国歴史書の古典中の古典である資治通鑑について、中国史学の素人である私のような人間が、とやかくいうことは図々しいという意味と理解される。中国古典は難しいので専門家以外の人間は正しく理解できるはずがないのであるから、素人の書くことは間違っているはずだ、との考えのようだ。
私は、同書でも率直に認めているように、文献的に正確な解釈を述べようとしているわけではない。資治通鑑の文章をすなおに漢文読解して、そこから読み取れる中国人および中国社会の断面を示しているだけである。つまり、資治通鑑の本文に記述されていることがらに対して、史的に正しいかどうかの客観的検証する歴史学の立場ではなく、書かれていることから我々は何を学びとることができるか、という極めて主観的な立場からの記述を私は意図したのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/ad/d00364f20f4615ae1295dc7b808efa5f.jpg)
この2つの立場(客観的、主観的)を、例えば、新種の魚が釣った時にどう処理するかという例え話で考えてみよう。
まず、客観性を重視する専門の生物学者であれば、その魚が新種の魚であるかどうか、生態やDNAなどいろいろな面から調査するであろう。一方、釣った魚を料理人が入手したとすると、さっそく、捌いておいしい料理を作るであろう。そして、それを食べた人は「うーん、こんな美味しい魚は今まで食べたことがなかった!」を感嘆をあげるかもしれない。一方、学者に渡った珍しい魚は、細切れにされてDNA検査をされ、骨格の構造などは正確に写し取られるはしても、一向にどのような味かはわからないだろう。
これまで数多くの中国古典やギリシャ・ローマの書物を読んできた私だが、いつも人生を考える上で有意義な情報や智恵をそこから汲み取ってきた。この意味で、資治通鑑も主観的に読んできたし、そこで得たものを読者と共有したいと思っている。学者でなく、素人であることの特権はこのような自由な読み方が許されていることではないか、と私は考える。
ところが、怪我の功名というべきか、このようなタイトルであったためであろうか、中国に対して批判的言動の多いジャーナリスト・櫻井よしこさんの目にとまり、産経新聞にコメントを頂いた。わずか十数行の文章であったが、驚くことに反響は甚大で、その後、数ヶ月にわたりアマゾンでは中国史や角川SSC新書部門では第1位であることもおおく、少なくともトップ5クラスのベストセラー挙げられていた。多くの人が読まれたため、批評もプラス、マイナス面いずれも多く寄せられた。自分の本に対して投げかけられた批評を読み、世の中の評価は必ずしも著者の言いたいことに対してのものではないことが分かった。言い換えれば、著者の言いたいことを正しく理解できる読者というのはほんの一握りであり、たいていは的外れの批評をしているということだった。
誰であるかは記憶が定かではないが、私の本に対して「素人が口出しするな」との批判をする人がいた。これは、中国歴史書の古典中の古典である資治通鑑について、中国史学の素人である私のような人間が、とやかくいうことは図々しいという意味と理解される。中国古典は難しいので専門家以外の人間は正しく理解できるはずがないのであるから、素人の書くことは間違っているはずだ、との考えのようだ。
私は、同書でも率直に認めているように、文献的に正確な解釈を述べようとしているわけではない。資治通鑑の文章をすなおに漢文読解して、そこから読み取れる中国人および中国社会の断面を示しているだけである。つまり、資治通鑑の本文に記述されていることがらに対して、史的に正しいかどうかの客観的検証する歴史学の立場ではなく、書かれていることから我々は何を学びとることができるか、という極めて主観的な立場からの記述を私は意図したのである。
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この2つの立場(客観的、主観的)を、例えば、新種の魚が釣った時にどう処理するかという例え話で考えてみよう。
まず、客観性を重視する専門の生物学者であれば、その魚が新種の魚であるかどうか、生態やDNAなどいろいろな面から調査するであろう。一方、釣った魚を料理人が入手したとすると、さっそく、捌いておいしい料理を作るであろう。そして、それを食べた人は「うーん、こんな美味しい魚は今まで食べたことがなかった!」を感嘆をあげるかもしれない。一方、学者に渡った珍しい魚は、細切れにされてDNA検査をされ、骨格の構造などは正確に写し取られるはしても、一向にどのような味かはわからないだろう。
これまで数多くの中国古典やギリシャ・ローマの書物を読んできた私だが、いつも人生を考える上で有意義な情報や智恵をそこから汲み取ってきた。この意味で、資治通鑑も主観的に読んできたし、そこで得たものを読者と共有したいと思っている。学者でなく、素人であることの特権はこのような自由な読み方が許されていることではないか、と私は考える。