限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【麻生川語録・13】『名のみ高くして読まれざる書を読む』

2010-04-10 13:10:27 | 日記
読書というのは小学校の時には、推薦図書があり、また高校などになると課題図書という名目で読むべき本が指定される。私は子供の時から、こういう様に読むべき本を指定されることには、内心大いに反発を感じてきた。今でもそうだが自分の好みの本が世間で評価されていようがいまいが関係なく、興味の赴くままに読むのが好きである。その結果、いわゆるベストセラーと言うものはほとんど読まない。ただ、最近 BookOff ではこれらのベストセラーが 1,2年するとわずか105円で買えるので、そういった類の本もたまには買うことがあるが、読んでよかった!と思える本があまりない。ましてやそういう本で人生観がひっくり返るようなことは『ラバが仔を生む』(ヘロドトス 3.153)より稀である。



自らの経験を振り返れば、私の人生観を変えたのはいずれも所謂『古典』といわれる本である。例えば、史記、荘子、資治通鑑、プラトン、セネカ、リヴィウス、カントである。これらの本は、世間でも名前だけというと、知っている人は多いが、その方面の専門家でなければまともに読まないとしたものだ。

私は、ある時(30歳前)からこれらの本を読まずに死ぬことは残念だと思うようになって、精力的に読むことにした。その結果は、思っていたより遥かに得るところが多かった。一口でいうと、人生観、世界観の芯ができた、ということだ。

世の中では『人生の生き方に迷ったら宗教』という短絡的発想が一般的であるが、宗教書は私が読んだ限りではそのような現世的な悩みには答えていない。言い方を変えると、宗教とはまず人生自体を否定した所(神の国、極楽浄土)が出発点であり、同時に終着点であるように感じる。それに反して、上に挙げた書はカントを除き、現世をいかに生きるかという生々しい問いかけが核心のテーマであると私には感じられた。

これら名のみ高くして読まれざる書を読むということと同時に私は、鯨を一匹まるごと食べる、というような読書をしている。つまり、著者の全集などを全部読むことだ。これに関しては私だけでなくかなり多くの著名な読書家が口を揃えて言っている。鯨を全体を食べるとしたら、ジューシーな赤みの肉の部分だけでなく、固い髯や巨大な尾っぽまでさまざまな部分を食べないといけない。そうすると初めて鯨(著者)にも食えない部分(つまらない部分)もあることが分かる。それに、抄本では見つからないような面白い部分を発見することがある。つまり、他人に選んでもらうのではなく、自分の鑑識眼で選ぶ訓練が必要である。ただ、やはり、こういった古典はとっつきにくいので、あくまでも離乳食の意味で抄本をさっと読むことは戦術としてはあり得る。それはあたかも長時間ドラマのビデオを早送りして眺めるようなもので、全体の概観を掴んで筋、登場人物を知ったあとで、気にいった所だけ読むことも、時には必要であろう。

こういう風に硬派の本をじっくり読む、それも若い時に読むと、その印象は、あたかも焼きごての痕のように一生ずっと残る。実社会に出てからは、たいていは残念ながら硬派の本をじっくりと読む時間に恵まれないため、手軽な本を読み流して『読書』したと思い込みがちであるが、それらの印象はたいていは『打撲傷』程度で、一生にわたって影響が残るということは少ないと感じる。

この意味で、若い人が思想の根幹部分を形成するためには、私は、あくまでも『名のみ高くして読まれざる書』を精読することを勧めたい。
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