限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第365回目)『漢字は哲学するのに不向き?(後編)』

2024-10-27 09:30:21 | 日記
前編では、漢字が哲学をするのに不向きな理由として「多少意味不明や意味曖昧でも、巧みに組合せることによって内容豊富(コンテンツ・リッチ)な文章に仕上げることができてしまう」点を挙げた。この点に関して、今回は実例を使って説明しよう。

比較のために取り出す哲学はギリシャ哲学だ。哲学といえば、決まってソクラテス、プラトン、アリストテレスがの名前が挙がるが、正直な所、学生時代の私はなぜギリシャ哲学がなぜそれほど重要視されるか分かったいなかった。それどころか「哲学を学ぶ者たちが、自分の知識に箔をつけるために衒学的(きどって)古代の賢者の名前をもちだしているのだろう」とさえ思っていた。

しかし、ドイツ留学時に、プラトンの対話編をシュライヤーマハーのドイツ語訳で読んで、このような疑念は晴れたものの、あらたに一つの疑念が起こってきた。それは、ところどころに、非常に不自然ないい方をするドイツ文・ドイツ語節が登場するのである。その時は、「なぜわざわざ、このような分かりにくい表現をするのだろうか?」と感じた。この疑念が晴れたのは、それから20年程して、古典ギリシャ語を独習した時であった。

話を端折って、結論だけ述べると、ギリシャ哲学をまなんで私が納得できたのは、「深い思想を練るためには、それ相応の深い思想表現が可能な言語を修得しなければいけない」というものであった。言い方を変えれば、「粗雑な言語では深い思想には到達できない」ということだ。こういう事を言えば、反発する人もいるだろうが上の文でいう「思想」を「物理現象」という言葉で置き換えればすぐ納得できるだろう。つまり、複雑な物理現象を解明するには、高度な数学概念や数式を自由自在に操ることができなければいけないのは、今更言うまでもないことだ。

結局、ギリシャ哲学を支えている古典ギリシャ語が高度な思想を支えることができる言語であったということである。
以前のブログ
 沂風詠録:(第107回目)『私の語学学習(その41)』
でも説明したが、「落下物注意」の意味を考えてみると漢字の持つ欠陥がよく分かる。そもそも、漢字には時制がないので、落下物はいつ落ちたものかは分からない。通常は「未来に落下するだろう物」であって「既に落下しているもの」でも「現在落下しつつあるもの」でもない、と判断される。しかし同じ「落下物」でも「落下物をどける」という文における落下物とは「既に落下したもの」を指す。つまり、時制という概念を欠落した漢語では物事や概念を正確に表現する手段が全くないということだ。

一方、西洋語では、動詞の活用形の一種に分詞というのがある。動詞から派生した分詞を形容詞的につかうことができ、冠詞を付けると主語や目的語として使うことも可能だ。英語の分詞には、現在分詞過去分詞の2種類しかないが、古典ギリシャ語ではそれだけにとどまらず、現在、過去、完了と3時制揃っているだけでなく、能動態、中・受動態も揃っている。動詞にこのような多彩な機能をもたせている。さらにどの言語にも名詞には抽象名詞と具体名詞があるが、この2つの区別がギリシャ語では語尾でかなり明確に判別できる。つまり、文章の意味を分析的に理解するための機能が言語自体に備わっている。

一例として、『事物の「本質」』という単語を考えてみよう。「本質」を英語では essence という単語が思い浮かぶであろう。しかし、この漢語「本質」とは一体どういう意味なのだろうか?中国の『辞源』では「1.本来的形態、2.指人的本性」と説明し、諸橋の大漢和では「本来のたち、根本の性質」と説明する。この語に限らず、中国の辞書は、語句の内容を説明するのではなく、単なる単語の置き換え、いわば類似語の羅列に過ぎないことが多い。すなわち、熟語の場合、それぞれ単独の字の意味を知らないと意味が分からないということだ。



それに反して、西洋語の辞書では単語の内容を説明しようとする意図が強くでている。例えば、英語の場合、
Webster's New International Dictionary (second edition, 1934) の essence の説明(項目 2.):
The constituent quality or qualities which belong to any object, or class of objects, or on which they depend for being what they are (distinguished as real essence); the real being, divested of all logical accidents; that quality which constitutes or marks the true nature of anything; distinctive character; hence, virtue or quality of a thing, separated from its grosser parts.

これの原語(というより、essence 言葉の由来)はギリシャ語で τὸ τί ἦν εἶναι というがこれが、essence の意味を深く説明している。

下記のサイト参照(Wikipedia EN

The concept originates rigorously with Aristotle (although it can also be found in Plato), who used the Greek expression to ti ên einai (τὸ τί ἦν εἶναι, literally meaning "the what it was to be" and corresponding to the scholastic term quiddity) or sometimes the shorter phrase to ti esti (τὸ τί ἐστι, literally meaning "the what it is" and corresponding to the scholastic term haecceity) for the same idea. This phrase presented such difficulties for its Latin translators that they coined the word essentia (English "essence") to represent the whole expression. For Aristotle and his scholastic followers, the notion of essence is closely linked to that of definition (ὁρισμός).

ところで、現代フランスの哲学者、フランソワ・ジュリアンの『道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』(講談社現代新書)は基本路線としては、孟子の説く道徳を西洋哲学の本流であるカントやニーチェ、およびルソーなどから批判的に解釈した本である。この主題からすこし外れるが、著者(フランソワ・ジュリアン)はこの本では孟子だけが対象だとしているが中国哲学全般の欠陥と次のように指摘する。
●「孟子の分析には、アリストテレスが明らかにする手続きが全く働いていない。」(P.167)
●「孟子の定式は自己完結していて、全体的であり決定的であるために、最初から議論を降りている。それは金言のようにことばが磨かきぬかれていて、対話の余地がなく、テーゼとして役に立つのでもなく、論証として有効なわけではない。」(P.267-268)
●「中国に、本来的な意味での「形而上学」は認められない。」(P.268)
●「孟子の定式化は、中国の伝統において、道徳から超越への接近を基礎づけるものだが、カント的な証明と同じようには読めない。ここにあるのは、根本的な直観の解明であり、事分けた論証ではないからだ。」(P.268)


ひとことでいうと、フランソワ・ジュリアンは中国には哲学(形而上学)的思考は存在しないと断言している。この原因としては、社会システムや個人の自由の概念の欠如が挙げられているが、私はこれに加えて、漢文・中国文の言語的(シンタックス、および語彙)な欠陥を挙げて、この稿を終えたい。
(了)
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杜漢漫策:(第6回目)『デュエムの宇宙の体系・読書メモ(その6)』

2024-10-20 13:50:09 | 日記
前回

Duhemの本を今年の6月から読み始めて、4ヶ月半が経過した。内容が豊かな上に、本文に引用されている、アリストテレスやプラトンの原文を都度、チェックしながら読んでいることもあり遅々として進んでいない。それで、いま読んでいる個所はまだ古代ギリシャの天文学の話だが、その昔、ギリシャ人たちが、昼の太陽、夜の月、恒星、惑星、を見上げながらどういった世界観を思い描いていたのかがよくわかる。

ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシャ哲学者列伝』をにも読む都度、ギリシャ人の発想がいかに豊かでかつ個性的、と感心させられる。宇宙体系に関していえば、世間ではしばしば誤解されていることであるが、コペルニクスが地動説を唱えるまでは、古代から中世にかけてずっと天動説が支配していたと思われている。しかし、実証性を重ずるギリシャの科学者たちは必ずしも天動説だけを支持していた訳ではなかった。

たとえば、アリスタルコスは、日食や月食の現象から、太陽や月の大きさや、それぞれへの地球からの距離(の比)を求めた。その結果、太陽は地球よりずっと大きいということを確信し、地球より大きい太陽が地球の周りを巡るのは不都合であるとし、結果的に地球が太陽の周りを巡るという太陽中心説(いわゆる、地動説)の考えに至った。

一方、常識的な感覚からアリストテレスは地球は宇宙の中心に静止しているという天動説を緻密な論理で構築してみせた。アリストテレスの哲学の分野における絶対的権威から、彼の唱えた天動説はその後1800年もの間、信奉されるに至った。ただ、彼の唱えた理論と、惑星の位置、大きさや明かるさの観察結果と明かな矛盾があることは誰の目にもあきらかであった。また、プトレマイオスは天動説理論に基づき、惑星の軌道をかなり正確に記述できる幾何学モデルを構築した。ただ、プトレマイオスの幾何学モデルにも、アリストテレス同様、観察結果との明かな矛盾をがあった。これらの問題を最終的に解決したのが、ケプラーが唱えた地動説ベースの天体理論であった。


西洋の天文学の歴史をざっくりまとめるとこのようになるだろう。せいぜい20ページぐらいで話が完結する短さだ。ところが、Duhemの本は、150ページに至っても、まだアリストテレス理論の詳細な説明すら登場してこない、至って緩慢な進行が続く。というのは、アリストテレス以前の著名な古代ギリシャの科学者であるピタゴラスとピタゴラス派の考えた宇宙体系の説明が横たわっているからだ。

ピタゴラスとその一派は、基本的に地球は動くとの立場なので、地動説ともいえるが、太陽もまた動いていると考えていた。どういうことかと言えば、宇宙の中心には大きな火があり、地球や他の惑星もや全ての星だけでなく、太陽すらその周りを回転していると考えていたからだ。そして太陽は自ら燃えているのではなく、ガラスのように中心の火を通過させているのだという。これだけでも、かなりぶっ飛んだ発想だが、さらに驚くのは、その中心火の向こう側にはもう一つ地球があるというのだ。これがあるので、日食(あるいは月食?)が見られると考えていた。

このような話は、現在読んでいるDuhemの本に書かれているが、なにしろ彼の込み入った文章からは、イメージがなかなかつかみにくかった。しかし、幸運なことにこれらの点については、次の2冊に、かなり詳しく書かれている。
『世界の見方の転換』山本義隆(みすず書房)
『ピュタゴラスの音楽』キティ ファーガソン(白水社)


この2冊、いずれも私は良書と思う。というのは、内容が豊富な上に、固有名詞(人名、場所、書籍名)がふんだんに登場するので、百科事典を参照できるので、内容の理解が深まるからだ。事実、私はこれらの本を適宜参照しながら、マイペースでDuhemを読んでいる。

続く。。。
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【座右之銘・145】『不若貧賤之肆志』

2024-10-13 09:34:40 | 日記
『古詩源』という本がある。編者は、清の沈徳潜である。沈徳潜といえば、日本では『唐宋八家文』(正式名称:唐宋八家文読本)の編者として有名だ。もっとも、『唐宋八家文』は日本だけで有名なようで、中国本国では俗本として全く顧みられていない。事実、中国版のWikisourceには数多くの古典の名作の原文が所狭しと載せられているにも拘わらず、この『唐宋八家文』の原文は皆目見つからない!

それだけでなく、編者・沈徳潜に関する情報も見つけるのもなかなか困難である。中国の歴史に関することであればたいていの項目が載せられている大部の『アジア歴史事典』ですら載っていない。また、私が愛用する平凡社の旧版(1972年)『世界大百科辞典』にも見つからない。もっとも、コトバンクで確認できるが、改訂新版の『世界大百科事典』には載せられているし、現代の大百科辞典であるWikipedia には、内容の精粗は別にして、項目自体は見つかる。

一番信頼できる情報として、私の手元にある参考書(中国関係では「工具書」という)の中に、戦前(昭和13年)刊行され、戦後、復刻版が出された『東洋歴史大辞典』(3巻)では次のような説明が見える(中巻、P.553)。

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沈德潛 (シントクセン、1673 ―1769) 清朝
の學者。字は確士、 號は歸愚。 江蘇長洲の人。乾隆三
十四年卒。 年九十七。 乾隆四年の進士、年七十に近し。
高宗稱して老名士となし、召して歴代の詩の源流升降
を論じ、大に之を賞す。 部侍郎に擢でたるも、年力
へたるを以て、告歸を許す。德潛は 錢陳羣と竝に
香山九老會に與り、大老と稱す。 高宗の懐舊詩に徳潛
と陳羣とを以て並べ稱して「東南の二老」と爲す。 卒
するに及んで太子太師を贈る。諡は文愨。 其詩は格律
を嚴にするを主とし、王士禎の神韻説、袁枚の性靈説
と共に、當時の詩壇上に在つて各一勢力を占めた。著
竹嘯軒詩鈔・歸愚詩文鈔・五朝時別裁集・古詩源・
西湖志纂等あり、並に世に傳行さる。 (加藤大)

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ただ、ここの説明においても『唐宋八家文』は言及されていない。ことから、江戸時代あれほどの人気を誇った『唐宋八家文』は全く価値がなかったかのような扱いであることがわかる。もっとも、ここの説明から沈徳潜は詩作に優れていたことがわかる。



さて、冒頭で紹介した沈徳潜の『古詩源』には、朱虚侯章の「紫芝の歌」という詩が載せられている。作者の朱虚侯章とは、本名を劉章という、即ち、劉邦が建国した前漢の王族の一人である。『史記』に、劉章(朱虚侯)の伝が見える。

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史記(中華書局):巻52(P.2000)

朱虚侯年二十、有気力、忿劉氏不得職。嘗入待高后燕飲、高后令朱虚侯劉章為酒吏。章自請曰:「臣、将種也、請得以軍法行酒。」高后曰:「可。」

酒酣、章進飲歌舞。已而曰:「請為太后言耕田歌。」高后兒子畜之、笑曰:「顧而父知田耳。若生而為王子、安知田乎?」章曰:「臣知之。」太后曰:「試為我言田。」章曰:「深耕穊種、立苗欲疏、非其種者、鉏而去之。」呂后黙然。

頃之、諸呂有一人酔、亡酒、章追、抜剣斬之、而還報曰:「有亡酒一人、臣謹行法斬之。」太后左右皆大驚。業已許其軍法、無以罪也。因罷。自是之後、諸呂憚朱虚侯、雖大臣皆依朱虚侯、劉氏為益彊。

【大意】朱虚侯(劉章)は、気力横溢した若者であった。劉氏が王族であるにも拘わらず官職に就けなかったことを常々、不満に思っていた。あるとき、呂后の宴会の席で、酒を注ぐ係を命ぜられた。劉章は自分は軍属であるので、今日は軍のしきたりでやらせて欲しいといったところ、呂后が了承した。

宴もたけなわになったころ、劉章は耕田の歌を披露したいと申し出た。呂后は笑いながら「お前は生れながらの王子なので、田を耕したことなどないだろう」と言ったが、劉章は構わず歌い始めた。
 田にイネでない雑草がはえていたなら、引き抜いてしまおう
呂后はその歌詞の意味をさとり、ぎくりとして黙ってしまった。

暫くして、宴席の一人が酒を飲みすぎて、こっそりと抜け出した。劉章は目ざとく見つけると、追いかけて行って切り捨てた。そして「軍法通りの処置をしました」と呂后に報告をした。軍法通りにしてよい、との許可を出してあったので、呂后は何も言えなかった。
 ***************************

この事件があってから、呂后の一族は劉章を恐れ、大臣たちも劉章を頼りにしたという。当時、だれもが飛ぶ鳥を落とす勢いの呂后の権力に恐れをなしていたが、劉章だけは勇気を持って打倒呂氏の旗幟を鮮明にしていた。

冒頭に述べた『古詩源』に、このように気概あふれる劉章(朱虚侯章)の詩、「紫芝歌」が載せられている。古詩というだけあって、五言でも七言でもなく、四言詩で、最後だけが六言になっている。

莫莫高山、深谷逶迤。  莫莫たる高山、深谷、逶迤(いい)たり。
曄曄紫芝、可以療飢。  曄曄たる紫芝、以って飢を療(いや)すべし。
唐虞世遠、吾將何歸!  唐虞の世、遠し、吾、將た何くにか歸せn!
駟馬高蓋、其憂甚大。  駟馬、高蓋、その憂、甚だ大。
富貴之畏人兮、不若貧賤之肆志。

最後の行の「富貴之畏人兮、不若貧賤之肆志」は、
 富貴の人を畏れんは、貧賤の志を肆(ほしいまま)にするにしかず」
と読み、意味は:
「高官や金持ちになっても上役をおそれて暮らすような人生はまっぴらだ。役職がなくても、貧乏でも、自由気ままに過ごすほうがよい!」

晋の詩人・陶淵明は、「五斗米のために若僧に挨拶などばかばかしくてできるか!」(吾不能爲五斗米折腰)と啖呵を切って、官職を辞した。中国には荘子をはじめとして、こういった自由人の気質が古代から脈々と続いている。
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杜漢漫策:(第5回目)『デュエムの宇宙の体系・読書メモ(その5)』

2024-10-06 14:09:03 | 日記
前回

本稿では、フランスの科学史家・デュエムの『宇宙の体系』(Le système du monde)について、私の感想を述べているが、歴史学者でもあり、また科学史家としても素晴らしい著作を残している伊東俊太郎氏の『近代科学の源流』(中央公論社、P.22-24)からデュエムを読む価値についての文を転載しよう。尚、伊東俊太郎氏は惜しくも昨年(2023年)93歳にて逝去された。

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序章 西欧科学の源流としての中世

「(前略) 十三世紀のヨルダヌス・ネモラリウス Jordanus Nemorarius らのテ トをも分析して、この方面での中世科学の発展を初めて世に示した。これらの先駆的業績ののちに、中世科学そのものを対象とする本格的著作を公にしたのは、ボルド大学の教授で、物理学でも科学哲学でもすぐれた業績のあったピエール・デュエムである。彼のこの方面の最初の著作は『静力学の起源』 Les origines de la statique, 2 tomes, Paris 1905-06 と名づけられており、前二者と同じ領域に関するものであった。デュエムは、この著において、ヨルダヌス・ネモラリウスやサクソニアのアルベルト Albert von Sachsen の貢献を写本研究に基づいて詳細に叙述し、これら中世の静力学研究の伝統が、 レオナルドやタルタリア Niccolò Tartaglia からトリチェリに至る近代の力学研究とどのようにつながっているかを明らかにした。この第一巻の序文で彼は言っている。「近代が当然のこととして誇っている力学的および物理的科学は、じつは、ほとんど気づかれないような改良の、連続した一連の過程によって、中世学派の内部で公にされた教説から流れ出ている。いわゆる知的な革命 révolution とは、最もしばしば、ゆっくりと長い期間にわたって準備された進化évolution にほかならないのだ」さらにデュエムは、前著で静力学について論じたことをさらに動力学や運動学に及ぼし、十四世紀のオックスフォードやパリのスコラ学者、特にジャン・ビュリダンやニコール・オレムらの「ガリレオの先駆者たち」の業績を明るみに出し、彼らの「インペトゥス理論」をはじめとする諸概念のもつ近代力学形成に対する意義を強調した。 それが彼の画期的な書物『レオナルド・ダ・ヴィンチの研究』 Etudes sur Léonard da Vinci, 3 tomes, Paris 1906-13 である。



(中略)
彼はさらに畢生の大作『宇宙の体系』 Le système du monde, 10 tomes, Paris 1913-16, 1954-57の完成にとりかかり、プラトンからコペルニクスに至る宇宙論の歴史を詳細に追究して、中世の科学的伝統の全貌をわれわれに与えた。彼の死後、ユネスコの援助で出版されたこの浩瀚な著作は、中世科学研究にかけた彼の文字どおりのライフワークで、この方面の研究を志す者がゆっくりと味読すべき記念碑的業績である。また彼の小品『現象を救う』 Ne rà Pawópeva, Paris 1908 は、この大作の予備的ミニアチュールとも言うべき密度の高い良著である。その後の中世科学の研究は、このデュエムによって敷かれた路線の上にそのテーゼを拡張してゆく方向に向けられた。ヤンセン、デイクステルホイス、ボルヒェルトなどの研究がそれである。

(中略)
デュエムをはじめこれらの研究が主として十三世紀、 十四世紀の後期スコラの自然学理論を取り扱ったのに対し、十二世紀を中心とする中期のラテン科学の状況を、一次史料に基づく厳密な写本研究によって初めて明らかにした業績として、ハスキンズ Charles H. Haskins の書物『中世科学史研究』Studies in Medieval Science, 2nd ed. Cambridge, Mass. 1927 がある。さらにプリニウスから十七世紀までの科学を、魔術と実験科学の問題を中心に、やはり一次史料に即して克明に追究したソーンダイク Lynn A. Thorndike の浩瀚な著作『魔術と実験科学の歴史』 A History of Magic and Experimental 1923-58も中世科学の貴重なソースである。以上が、中世西欧科学史研究の、いわば第一期と称してよいであろう。(後略)
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続く。。。
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