前編では、漢字が哲学をするのに不向きな理由として「多少意味不明や意味曖昧でも、巧みに組合せることによって内容豊富(コンテンツ・リッチ)な文章に仕上げることができてしまう」点を挙げた。この点に関して、今回は実例を使って説明しよう。
比較のために取り出す哲学はギリシャ哲学だ。哲学といえば、決まってソクラテス、プラトン、アリストテレスがの名前が挙がるが、正直な所、学生時代の私はなぜギリシャ哲学がなぜそれほど重要視されるか分かったいなかった。それどころか「哲学を学ぶ者たちが、自分の知識に箔をつけるために衒学的(きどって)古代の賢者の名前をもちだしているのだろう」とさえ思っていた。
しかし、ドイツ留学時に、プラトンの対話編をシュライヤーマハーのドイツ語訳で読んで、このような疑念は晴れたものの、あらたに一つの疑念が起こってきた。それは、ところどころに、非常に不自然ないい方をするドイツ文・ドイツ語節が登場するのである。その時は、「なぜわざわざ、このような分かりにくい表現をするのだろうか?」と感じた。この疑念が晴れたのは、それから20年程して、古典ギリシャ語を独習した時であった。
話を端折って、結論だけ述べると、ギリシャ哲学をまなんで私が納得できたのは、「深い思想を練るためには、それ相応の深い思想表現が可能な言語を修得しなければいけない」というものであった。言い方を変えれば、「粗雑な言語では深い思想には到達できない」ということだ。こういう事を言えば、反発する人もいるだろうが上の文でいう「思想」を「物理現象」という言葉で置き換えればすぐ納得できるだろう。つまり、複雑な物理現象を解明するには、高度な数学概念や数式を自由自在に操ることができなければいけないのは、今更言うまでもないことだ。
結局、ギリシャ哲学を支えている古典ギリシャ語が高度な思想を支えることができる言語であったということである。
以前のブログ
沂風詠録:(第107回目)『私の語学学習(その41)』
でも説明したが、「落下物注意」の意味を考えてみると漢字の持つ欠陥がよく分かる。そもそも、漢字には時制がないので、落下物はいつ落ちたものかは分からない。通常は「未来に落下するだろう物」であって「既に落下しているもの」でも「現在落下しつつあるもの」でもない、と判断される。しかし同じ「落下物」でも「落下物をどける」という文における落下物とは「既に落下したもの」を指す。つまり、時制という概念を欠落した漢語では物事や概念を正確に表現する手段が全くないということだ。
一方、西洋語では、動詞の活用形の一種に分詞というのがある。動詞から派生した分詞を形容詞的につかうことができ、冠詞を付けると主語や目的語として使うことも可能だ。英語の分詞には、現在分詞過去分詞の2種類しかないが、古典ギリシャ語ではそれだけにとどまらず、現在、過去、完了と3時制揃っているだけでなく、能動態、中・受動態も揃っている。動詞にこのような多彩な機能をもたせている。さらにどの言語にも名詞には抽象名詞と具体名詞があるが、この2つの区別がギリシャ語では語尾でかなり明確に判別できる。つまり、文章の意味を分析的に理解するための機能が言語自体に備わっている。
一例として、『事物の「本質」』という単語を考えてみよう。「本質」を英語では essence という単語が思い浮かぶであろう。しかし、この漢語「本質」とは一体どういう意味なのだろうか?中国の『辞源』では「1.本来的形態、2.指人的本性」と説明し、諸橋の大漢和では「本来のたち、根本の性質」と説明する。この語に限らず、中国の辞書は、語句の内容を説明するのではなく、単なる単語の置き換え、いわば類似語の羅列に過ぎないことが多い。すなわち、熟語の場合、それぞれ単独の字の意味を知らないと意味が分からないということだ。
それに反して、西洋語の辞書では単語の内容を説明しようとする意図が強くでている。例えば、英語の場合、
Webster's New International Dictionary (second edition, 1934) の essence の説明(項目 2.):
The constituent quality or qualities which belong to any object, or class of objects, or on which they depend for being what they are (distinguished as real essence); the real being, divested of all logical accidents; that quality which constitutes or marks the true nature of anything; distinctive character; hence, virtue or quality of a thing, separated from its grosser parts.
これの原語(というより、essence 言葉の由来)はギリシャ語で τὸ τί ἦν εἶναι というがこれが、essence の意味を深く説明している。
下記のサイト参照(Wikipedia EN)
The concept originates rigorously with Aristotle (although it can also be found in Plato), who used the Greek expression to ti ên einai (τὸ τί ἦν εἶναι, literally meaning "the what it was to be" and corresponding to the scholastic term quiddity) or sometimes the shorter phrase to ti esti (τὸ τί ἐστι, literally meaning "the what it is" and corresponding to the scholastic term haecceity) for the same idea. This phrase presented such difficulties for its Latin translators that they coined the word essentia (English "essence") to represent the whole expression. For Aristotle and his scholastic followers, the notion of essence is closely linked to that of definition (ὁρισμός).
ところで、現代フランスの哲学者、フランソワ・ジュリアンの『道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』(講談社現代新書)は基本路線としては、孟子の説く道徳を西洋哲学の本流であるカントやニーチェ、およびルソーなどから批判的に解釈した本である。この主題からすこし外れるが、著者(フランソワ・ジュリアン)はこの本では孟子だけが対象だとしているが中国哲学全般の欠陥と次のように指摘する。
●「孟子の分析には、アリストテレスが明らかにする手続きが全く働いていない。」(P.167)
●「孟子の定式は自己完結していて、全体的であり決定的であるために、最初から議論を降りている。それは金言のようにことばが磨かきぬかれていて、対話の余地がなく、テーゼとして役に立つのでもなく、論証として有効なわけではない。」(P.267-268)
●「中国に、本来的な意味での「形而上学」は認められない。」(P.268)
●「孟子の定式化は、中国の伝統において、道徳から超越への接近を基礎づけるものだが、カント的な証明と同じようには読めない。ここにあるのは、根本的な直観の解明であり、事分けた論証ではないからだ。」(P.268)
ひとことでいうと、フランソワ・ジュリアンは中国には哲学(形而上学)的思考は存在しないと断言している。この原因としては、社会システムや個人の自由の概念の欠如が挙げられているが、私はこれに加えて、漢文・中国文の言語的(シンタックス、および語彙)な欠陥を挙げて、この稿を終えたい。
比較のために取り出す哲学はギリシャ哲学だ。哲学といえば、決まってソクラテス、プラトン、アリストテレスがの名前が挙がるが、正直な所、学生時代の私はなぜギリシャ哲学がなぜそれほど重要視されるか分かったいなかった。それどころか「哲学を学ぶ者たちが、自分の知識に箔をつけるために衒学的(きどって)古代の賢者の名前をもちだしているのだろう」とさえ思っていた。
しかし、ドイツ留学時に、プラトンの対話編をシュライヤーマハーのドイツ語訳で読んで、このような疑念は晴れたものの、あらたに一つの疑念が起こってきた。それは、ところどころに、非常に不自然ないい方をするドイツ文・ドイツ語節が登場するのである。その時は、「なぜわざわざ、このような分かりにくい表現をするのだろうか?」と感じた。この疑念が晴れたのは、それから20年程して、古典ギリシャ語を独習した時であった。
話を端折って、結論だけ述べると、ギリシャ哲学をまなんで私が納得できたのは、「深い思想を練るためには、それ相応の深い思想表現が可能な言語を修得しなければいけない」というものであった。言い方を変えれば、「粗雑な言語では深い思想には到達できない」ということだ。こういう事を言えば、反発する人もいるだろうが上の文でいう「思想」を「物理現象」という言葉で置き換えればすぐ納得できるだろう。つまり、複雑な物理現象を解明するには、高度な数学概念や数式を自由自在に操ることができなければいけないのは、今更言うまでもないことだ。
結局、ギリシャ哲学を支えている古典ギリシャ語が高度な思想を支えることができる言語であったということである。
以前のブログ
沂風詠録:(第107回目)『私の語学学習(その41)』
でも説明したが、「落下物注意」の意味を考えてみると漢字の持つ欠陥がよく分かる。そもそも、漢字には時制がないので、落下物はいつ落ちたものかは分からない。通常は「未来に落下するだろう物」であって「既に落下しているもの」でも「現在落下しつつあるもの」でもない、と判断される。しかし同じ「落下物」でも「落下物をどける」という文における落下物とは「既に落下したもの」を指す。つまり、時制という概念を欠落した漢語では物事や概念を正確に表現する手段が全くないということだ。
一方、西洋語では、動詞の活用形の一種に分詞というのがある。動詞から派生した分詞を形容詞的につかうことができ、冠詞を付けると主語や目的語として使うことも可能だ。英語の分詞には、現在分詞過去分詞の2種類しかないが、古典ギリシャ語ではそれだけにとどまらず、現在、過去、完了と3時制揃っているだけでなく、能動態、中・受動態も揃っている。動詞にこのような多彩な機能をもたせている。さらにどの言語にも名詞には抽象名詞と具体名詞があるが、この2つの区別がギリシャ語では語尾でかなり明確に判別できる。つまり、文章の意味を分析的に理解するための機能が言語自体に備わっている。
一例として、『事物の「本質」』という単語を考えてみよう。「本質」を英語では essence という単語が思い浮かぶであろう。しかし、この漢語「本質」とは一体どういう意味なのだろうか?中国の『辞源』では「1.本来的形態、2.指人的本性」と説明し、諸橋の大漢和では「本来のたち、根本の性質」と説明する。この語に限らず、中国の辞書は、語句の内容を説明するのではなく、単なる単語の置き換え、いわば類似語の羅列に過ぎないことが多い。すなわち、熟語の場合、それぞれ単独の字の意味を知らないと意味が分からないということだ。
それに反して、西洋語の辞書では単語の内容を説明しようとする意図が強くでている。例えば、英語の場合、
Webster's New International Dictionary (second edition, 1934) の essence の説明(項目 2.):
The constituent quality or qualities which belong to any object, or class of objects, or on which they depend for being what they are (distinguished as real essence); the real being, divested of all logical accidents; that quality which constitutes or marks the true nature of anything; distinctive character; hence, virtue or quality of a thing, separated from its grosser parts.
これの原語(というより、essence 言葉の由来)はギリシャ語で τὸ τί ἦν εἶναι というがこれが、essence の意味を深く説明している。
下記のサイト参照(Wikipedia EN)
The concept originates rigorously with Aristotle (although it can also be found in Plato), who used the Greek expression to ti ên einai (τὸ τί ἦν εἶναι, literally meaning "the what it was to be" and corresponding to the scholastic term quiddity) or sometimes the shorter phrase to ti esti (τὸ τί ἐστι, literally meaning "the what it is" and corresponding to the scholastic term haecceity) for the same idea. This phrase presented such difficulties for its Latin translators that they coined the word essentia (English "essence") to represent the whole expression. For Aristotle and his scholastic followers, the notion of essence is closely linked to that of definition (ὁρισμός).
ところで、現代フランスの哲学者、フランソワ・ジュリアンの『道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』(講談社現代新書)は基本路線としては、孟子の説く道徳を西洋哲学の本流であるカントやニーチェ、およびルソーなどから批判的に解釈した本である。この主題からすこし外れるが、著者(フランソワ・ジュリアン)はこの本では孟子だけが対象だとしているが中国哲学全般の欠陥と次のように指摘する。
●「孟子の分析には、アリストテレスが明らかにする手続きが全く働いていない。」(P.167)
●「孟子の定式は自己完結していて、全体的であり決定的であるために、最初から議論を降りている。それは金言のようにことばが磨かきぬかれていて、対話の余地がなく、テーゼとして役に立つのでもなく、論証として有効なわけではない。」(P.267-268)
●「中国に、本来的な意味での「形而上学」は認められない。」(P.268)
●「孟子の定式化は、中国の伝統において、道徳から超越への接近を基礎づけるものだが、カント的な証明と同じようには読めない。ここにあるのは、根本的な直観の解明であり、事分けた論証ではないからだ。」(P.268)
ひとことでいうと、フランソワ・ジュリアンは中国には哲学(形而上学)的思考は存在しないと断言している。この原因としては、社会システムや個人の自由の概念の欠如が挙げられているが、私はこれに加えて、漢文・中国文の言語的(シンタックス、および語彙)な欠陥を挙げて、この稿を終えたい。
(了)