限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

惑鴻醸危:(第63回目)『騎虎から下りられない習近平』

2022-10-30 20:54:05 | 日記
最近(2022年10月)開催された中国の第20回共産党大会で、習近平の第3期目の政権が誕生した。世間の見方は、「習1強体制」「習近平に権力が集中した」というが、私には逆のように思える。つまり、「習近平が強いのではなく、仲間がつくれないので、仕方なく身内だけで固めた」という風に見える。こういうと、当然のことながら「内部の情報通でもないのにいい加減なことを言うな」とお叱りを受けること必然だ。確かに、私は中国共産党内部の事情を直接得ている訳ではない。しかし、世間で流されている情報にしろ、現時点では「噂、思惑」の域を出ていない観測的見解が多いように思える。

習近平の弱み:
1.習近平は過去10年の腐敗撲滅運動で、多くの敵を作った。
2.江沢民が存命、その上、江沢民派の薄熙来や周永康がまだ牢獄の中で生きている。
3.共産党のエリート集団「共産主義青年団 (共青団)」出身の有能な官僚から協力を拒否されたので、指導部内および国家運営に人材不足。

習近平のこの10年の政権で、腐敗撲滅で数多くの敵を作った。とりわけに江沢民派の薄熙来や周永康のような大物まで投獄したことで、江沢民派だけでなく、いままで数々の利権を食い物としていた腐敗グループ全体から目の敵にされた。

習近平はこのような状況で、最も頼りにしていたのは、共青団であっただろう。かれらはここ数十年間、共産党全体のいわばエリート集団であったので、習近平のように仲間が少ない弱小グループにとっては羨ましい限りであったであろう。さらに、10年前に胡錦濤からトップを譲られたこともあって、共青団にたいする恩義も感じていたはずだ。しかし、いくら努力しても彼らを自派に取り込むことは出来なかった。それで、今回の発表で胡春華が中央政治局委員から外されたことは、習近平が降格させた、ととらえられているが、私は逆に「共青団が習近平への協力要請を断り、自発的に閣外に出た」というようにとらえている。どういう論点で共青団が習近平に不賛成であるかは推測するしかないが、経済政策と外交の2つのキーイシューであるのは間違いないだろう。現在、中国はどのような政策をとるにもグローバルな観点を外すことはできない。国際性豊たかな共青団にしてみれば、習近平の中国中心主義は危なっかしくて見ていられないのであったろう。しかし、いくら論理的に説明しても、中国至上主義の習近平はグローバル観点に立った見方が出来ないのであろう。

習近平には現状あまりにも敵を多く作ったにも拘わらず、自分を支える自派の部下が余りにも貧弱なので、もし今、権力を手離してしまうと、恨みつらみのつのった敵からの攻撃をはねかえすことができないと確信しているからだ。つまり、1強とは、名ばかりで、実態はまったく「四面楚歌」の状況だ。とりわけ、軍(人民解放軍)の横暴を厳しく咎めたため、軍からは恨まれている。主席を退けば、当然、丸腰で軍に立ち向かわないといけない。



この現象を現在視点で見ると、非常に分かりにくいが、歴史を振り返ると、全く相似形の現象がある。それは、北宋時代の王安石の新法派と司馬光の旧法派の対立だ。
北宋時代に新法派と旧法派が争ったとき、新法派には王安石以外めぼしい人材はいなかった。それに引き換え、旧法派には『宋名臣言行録』に見られるように、多士済々、才能あふれる官僚(例:欧陽脩・富弼・文彦博・韓琦、司馬光・程顥・蘇軾・蘇轍など)がきらぼしの如くいた。結局、王安石は才覚とぼしい貧弱な官僚たちを率いて新法を浸透させようとしたが、成功しなかった。それだけでなく、引退すると旧法派の巻き返しで、新法派は迫害された。

数千年来、尚古主義、歴史主義にどっぷりつかっている中国人にしてみれば、北宋のような1000年前の出来事は、近年におこった出来事と同じぐらいの親近感をもつのだろう。そして、その時に起こったことは、明日にでも起こると考え、行動する。
「中国の政治は分かりにくい」というのは、単に時間軸だけの問題だ。毛沢東が起こした文化大革命や、四人組と鄧小平の関係なども、当時は全く状況が判断できず、今から見ると「当時の人は、一体何を見ていたのか?」と不思議に思うぐらい、とんちんかんな意見が溢れかえっていた。ところが、記録魔の中国人であるから、政治家の言動はあたかも秘密警察が身辺にぴたっと張り付いて記録したのではなかろうかと思うぐらい詳細な記録が、当人たちの死後にわぁーっと一斉に出てくる。『毛沢東の私生活』『周恩来秘録』『鄧小平秘録』などを読むとはじめて彼らの言動の真意が理解できる。

習近平の現状は、何も好き好んでトップの座に居座っているのではなく、故事でいう「騎虎の勢い下るべからず」という状況なのだ。(「騎虎の勢い下るべからず」とは「一旦、虎に乗ったら降りることはできない」(注:べからず、は「~すべきでない」という意味ではなく「~できない」という意味。出典:隋書の「騎獣之勢、必不得下」)つまり、習近平の今回の一連の言動(最高指導部のメンバーの68歳引退の撤廃、国家主席の2期10年の任期の撤廃、胡春華の降格など)はトップの座を降りるにも降りることのできない、状況下のやむをえない行動なのだと私は推測するのだが、その真意が明らかになるのは、今から30年ほど後の話になるであろう。私はそれを確かめることはできない。もし、将来、『習近平秘録』が出版されるようなことがあれば、是非、この点をチェックして欲しいと念願する。
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智嚢聚銘:(第16回目)『中国四千年の策略大全(その 16)』

2022-10-23 22:42:39 | 日記
前回

日本では「ウソ」をつくことは非常に悪いという価値観がある。しかし、世界にはそういう価値観をもっていない地域もある。レバノン生まれのサニア・ハマディは『アラブ人の気質と性格』(サイマル出版会)でアラブ人の気質の良い面も悪い面もすべて書いているが、その中で
 「ウソを言うことが唯一の道というような場合、ウソは合法的ともいえる。」
とアラブではウソをつくことが是認されるケースがあるという。この時、ミソなのは「ウソを言うことが唯一の道」かどうかの状況判断は個人個人に委ねられているということだ。つまり、自分の都合でウソをついてよい、ということになる。

アラブだけでなく、隣国の韓国についても「ウソ」に関しては日本人の価値観と異なっていて、少しでも自分にとってメリットがあるならウソでもいいから、とにかく何でもでっちあげるのがよい、と考えているように思える。実際、韓国の裁判所における偽証や誣告(虚偽告訴)の割合は日本と比較すると、人口比で実に数百倍も多いという。(出典:「朝鮮日報」2010年2月2日記事:「2010年、韓国で偽証罪で起訴された人は、人口比では日本の 427倍もある」)

この2つの地域だけでなく、どうやら中国人も伝統的にはこれらの地域と同じような感覚を持っていたことが分かるのが今回紹介する 2本の記事だ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻 9 / 403 / 孫宝】(私訳・原文)

孫宝が都知事(京兆尹)であった時、街中で煎餅を売る商人がいた。ある街で、商人が村人とぶつかって煎餅が落ちてこなごなに壊れた。村人は50枚分を弁証しようと言ったが商人は「いや、もともと 300枚あった」と主張し、訴訟となったが証拠はない。そこで、孫宝は煎餅を一枚買ってこさせて、こなごなに砕かれた煎餅のかけらを量って、枚数をはじき出したので、商人も納得した。

孫宝為京兆尹、有売饊者、今之餅也、於都市与一村民相逢、撃落皆砕、村民認賠五十枚、売者堅称三百枚、無以証明、公令別買一枚称之、乃都秤砕者、細拆分両、売者乃服。
 ***************************

このような詐欺まがいの話は、日常茶飯事に起こっていて、まったく取るに足りないように思えるが、馮夢龍がこの話をわざわざ取り上げているのは、私の想像では、理詰めの解決手法を示したかったためだろうと思う。このようなケースではたいていの場合、加害者と被害者が口論になり、往々にして騒乱に発展したと想像される。しかし、割れた煎餅の枚数を集めて秤で計り、一枚当たりの重さで割れば枚数が算出できる。理詰めで調べれば口論するには及ばないと孫宝は示したのだ。


次もおなじくウソをつく話だが、先ほどの話よりは多少、手が込んでいる。

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 馮夢龍『智嚢』【巻10 / 418 / 総轄】(私訳・原文)

韓王府の倉庫に突然、賊が忍び込んで銀の器が数件盗まれた。器を管理していた下女が大声を挙げたので賊から切り付けられ腕を怪我した。趙従善が都の警察長官であった。手下に命じて都中を捜索させて、暫くすると一人の中年男を捕まえて尋問し、役所に戻って趙従善に次のように報告した。「下女の傷は左手にあります。もし、賊に斬りつけられたなら右手で防ごうとするはずです。調べてみるとこの男と下女がグルになって器が盗まれたとの芝居をうって、下女が自分の右手で左腕を傷つけたのです。この男の様子がどうも怪しいと思って調べてこのことが分かりました。」

比韓王府中忽失銀器数件、掌器婢叫呼、為賊傷手、趙従善尹京、命総轄往府中、測試良久、執一親僕訊之、立服。帰白趙云:「適視婢瘡口在左手、〔辺批:拒刃者必以右手。〕蓋与僕有私、窃器与之、以刃自傷、謬称有賊;而此僕意思有異於衆、是以得之。」
 ***************************

これは現在、日本で頻発している「振り込め詐欺」の手法と同じで、ある一般的性のある法則の応用だといえる。たとえば、囲碁では状況が不利な場合は、なるべくいろいろな個所に争いを起こして相手を攪乱することで判断ミスを誘うという高等手段がある。人間はだれしも、考えるべき個所が増えると、頭の中が混乱してくるものだ。このケースでも「振り込め詐欺」でも、複数の登場人物をからませ、問題をややこしくすることで、問題のポイントを考えにくくさせている。

これを思うと、中国の古典の人物鑑定では、才能・知識より、物に動じない性格が重視された理由がよくわかる。明末の儒者・呂新吾の『呻吟語』は、知性の切れよりも、どっしりとした性格を高く評価した。
 深沈厚重、是第一等資質
 磊落豪雄、是第二等資質
 聡明才弁、是第三等資質


この句を味わうと、つくづく、せわしない生活に追われている現代の日本人は「深沈厚重」の重要性を皆目理解していないのではなかろうかと思える。

続く。。。
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軟財就計:(第16回目)『私のソフトウェア道具箱(その16)』

2022-10-16 09:53:10 | 日記
前回

先日、ふとした興味から野口悠紀雄氏の『「超」AI整理法 無限にためて瞬時に引き出す』を図書館から借りてきてざっと読んだ。

Amazonの書評には好意的/批判的の両方のコメントが載せられている。
 ===============
【好意的】
〇著者の年齢を思えば、よくここまで最新ITについていけていること自体が素晴らしい
〇80歳にして,なお旺盛な好奇心に頭が下がります。
〇こういう新しいITツールにもどんどん慣れたほうがいいに決まっています。まずはとっつきやすそうな「音声文章術」に挑戦しようと思います。効率的・合理的な仕事術に興味がある人には、そのヒントがぱんぱんに詰まっている本です。

【批判的】
〇整理の基本は検索の効率化とキーワードの作成と簡易なデータベース化。言っていることはこれに尽きます。
〇超整理法時代から、ずっとカバーしてきたが、どうも、 Windowsだけで、がんばっているようだ。 Macだったら、このような膨大な手間はかからず、検索できる。
 ===============

それぞれの意見もっともで、何も付け足すことはない。本稿を書こうと思ったのは、野口氏の本の批評をするためではなく、現在の日本の遅れているIT化、DX化と日本の未来について私の意見を述べるためだ。

いまさら言うまでもないが、現在のスマートフォンの機能はとてつもなく進化していて、今までのITの使い方を全く変えてしまった。それもPCではなく、スマートフォンが主流となった。ざっくりとした数値でいうと、一日にスマートフォンを使ってのは3時間にも及ぶ。

主たる目的は LINE でのコミュニケーション、YouTube やTikTok などの動画の閲覧、オンラインでの買い物、などだ。古い話になるが、1960年代に日本ではモータリゼーションの普及によって、生活様式が一変した。それまで電車やバスなどの公共交通機関しか移動手段がなかった時には実現できなかった自由な行楽が可能となった。それと同様、現在、スマートフォンによって各人が自由に情報を入手できるようになったことで情報入手、情報処理に関して考え方が一変した。

さて、ここで私が問題に挙げるのは、
 「スマートフォンのアプリの普及によって人の思考パターンが受け身的になった」
ことだ。このテーマを車を例にして考えてみよう。

言うまでもないことだが、車というのは誰かが設計し、製造することによって始めて使う(乗る)ことができる。つまり、車を造る「メーカー」と車を使う「ユーザー」があるということだ。ところが、先ほど述べたように、スマートフォンのアプリの普及によってほとんどの人が「ユーザーオンリー」となってしまった。便利な機能を持つアプリが指先一本で自由に入手できることは社会にとって確かにポジティブではあるが、同時にこれが引き起こすネガティブ面について考えて欲しい。(確かに、YouTubeにしろ、Tiktokにしろ動画を投稿するのは「メーカー」といえるが、ここでは技術面だけに絞って話を進める。)


【出典】Dennis Ritchie famous quotes 3

前回のブログで「画像データの色調を変換する(色白にする)」という機能を紹介した。このテーマに限らず、IT関連の問題をインターネットで検索すると、日本語で検索した場合と英語で検索した場合、情報がはっきりと異なる。具体的にいえば、日本語で検索すると「ユーザー」の事例紹介がほとんどだ。つまり、何らかのGUIアプリをマウスで操作する方法の紹介の記事ばかりなのだ。英語で検索すると、前回示したようにライブラリーの関数をプログラムから呼ぶスタイルの記事、つまり「メーカー」サイドの記事がかなり見つかる。

この差は何か? また、社会にどういう差をもたらすか?

統計データを持っている訳ではないので確証はないが、私の推測では、Linux と C言語の普及の差ではないかと思う。ひとことでいえば、個人という単位でなく、社会が「UNIX文化の洗礼」を受けたか/受けていないか、ということに起因する。車に置き換えていえば、車社会のありかたについて、「ユーザー」としての立場からしか論じることができないか、「メーカー」と「ユーザー」双方の立場から論じることができるのか、の差だ。この差は何も、処理効率の差として表われてくるだけでなく、社会全体のデジタル化のあり方、つまりDX、の普及にも大きくかかわる。 GUIアプリをマウスで操作する方法しか知らない「ユーザー」人間が大部分を占める日本は、残念ながらDXの本質について議論できる土俵に上がれない、というのが私の見立てである。 DXを社会全体で推進しようとすると「UNIX文化の洗礼」を受けた「メーカー」の立場からの意見も重要だが、残念ながら、日本の硬直した官公庁にはそういった人はほとんど存在していない。(唯一の例外は河野大臣といえるかもしれない。)

以前のブログ
 百論簇出:(第107回目)『窮乏が innovative な人間を作る』
で、オランダの Twente大学の Dr.Mader教授の次の言葉を紹介した。
 Scarcity makes people innovative. (窮乏が創造力のある人間を作る)
この言葉の趣旨は:「創造性を培うためにわざと学生に必要な部品を供給しない。欠乏状況に放り込まれた学生はアイデアだす、これが創造性を培う我々のやり方だ。」

以上の点から考えると、80歳を過ぎた野口氏ならいざ知らず、20代 30代の若者なら、既存のスマートフォンのアプリで実現できないことを諦めたり、我慢するのではなく、アイデアを出して、自分でプログラムを組み、いろいろな情報処理に挑戦する「メーカー」意識を高くもって欲しい。スマートフォンの「ユーザー」レベルの受け身的なことしか出来ない若者だらけになるのなら、日本の未来は明るくない!

続く。。。
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百論簇出:(第266回目)『「屋外でのマスク不要」に徹底抗戦する日本人』

2022-10-09 16:27:23 | 日記
コロナ禍が始まってすでに2年になる。この間、感染の流行が何度もあった。日本では、すでに1年半以上も前から「マスクは感染予防に役立つ(のでは?)」との考えから、ほぼ全員がマスクを着けていた。それにも拘わらず、この夏(2022年夏)、感染者は爆発的に増加した。

素人的に考えても、マスクを着けても、ワクチン接種を受けても感染を防止できないのであるから、これらの対策は感染予防としては不十分ではなかろうか、と疑いたくなる。つまり、感染流行を防ぐにこれらはどの程度有効な手段であるのか、まずは検証する必要があろう。もっとも、世の中にはプラセーボ効果というのがある。本当の薬品ではない薬を飲ませても、ある一定数の人には薬品同様の効果をもたらすということだ。つまり、薬品の力ではなく、本人が持っている免疫力で病気を退治できるのである。昔、病気退治のために寺や神社からお札をもらってきて、家の戸口にはったり、身につけたりしたが、現代の我々は「そのようなもので病気が治るわけがない。何て迷信深い人たちだろう!」とせせら笑うが、プラセーボ効果という観点から考えると、まんざら悪くない予防方法ではないだろうか。

話を戻すと、コロナは重篤化すると命を落とす危険性があるので、実験するといっても難しいが、実際にするかどうかは別として、次のような案もありだ。例えば、感染しても後遺症もなく確実に完全に治る薬品を準備しておいて、ワクチンも打たずマスクもせずに、何割の人が感染するか、またその内、何割が重症化するか、という実験をかなり大規模に行する。その結果をからマスク、ワクチンの効果を検証することができるだろう。

そういう検証を全く行わずに、国家レベルで「どこでもマスク」していてもコロナは防げないと判断した日本政府は、一転して、「屋外ではマスク不要だ」と言い出した。毎度のことではあるが、何を根拠とした方針転換かのエビデンスが不明であが、推測するに「集団免疫を獲得してコロナ禍を乗り切る」方向に切り換えたように思える。この集団免疫の方針は、2年前、感染が始まった直後にスウェーデン政府が早々(はやばや)と決めていた。それを思うと日本はスウェーデンより、2年分遅れていたということになる。


【出典】ダイヤモンド

さて、長々とコロナ対策について述べてきたが、本論はこういった医学上の免疫対策の話ではなく、日本社会の硬直性の問題について指摘するのが目的だ。

今回の件から分かるが、日本では「屋外でもマスク着用することが感染予防に役立つ」という根拠の薄い情報でも一旦広まってしまうと、いくら政府が「屋外ではマスクは不要ですよ!」と盛んに広報しても、一向にその呼びかけに応じない日本人が大多数であるということだ。つまり、一旦、しきたりとして定着したことに対しては論理的・理性的に是非を判断しようとしないのが、日本人の本質であるということが、今回、痛いほどよ~く分かった。

コロナ禍だけでなく、数年前から「エスカレーターの歩行は止めましょう」と呼びかけられているが、いつまでたっても片側空けが続いている。これも一旦、片側空けが「良いマナー」として定着してしまうと、たとえエスカレーター歩行が危険行為であると分かっていても、片側空けし、結果的に、片側に長い列ができるので、仕方なく空いている片側に乗る人は、無言の空気に脅されて歩いてしまう。つまり、片側を空けることの効率や、エスカレーターを歩くことの危険性の是非を論理的に考えようとしないのが日本人の欠点である。

この心理は単に、マナーの話に止まるのではなく、ベンチャー不振と同根だ。現在、日本政府や産業界はベンチャーこそが日本産業再生の切り札と考えて、盛んにベンチャー支援策を打ち出しているものの、効果は少ないと私は考える。そもそも、ベンチャー支援以前に、日本で「ベンチャー」呼ばれる会社の中にはベンチャーと呼ぶに値しないような会社が多すぎる。ベンチャーとは革新性、新規性のあるビジネスを指すのだが、日本のベンチャーの多くは単なる「商売を始めたばかりの零細企業」と呼んだ方が適切な会社がほとんどだ。

結局、コロナ禍、エスカレーターの片側空け、にみるように日本全体が「新規性を嫌う、慣習を破るのを嫌がる」体質が充満している。ベンチャーが育つ風土というのは、別に政府が「屋外でのマスク不要」など一言も言い出さない先から、いろいろな情報から、個人的に「屋外では感染防止にマスクは効果なし」と判断し、ノーマスクで外出する人が多くでる国・地域のことだ。「屋外でのマスク不要」と政府が繰り返し広報しても、いまだにノーマスクに徹底抗戦している日本にはそういったベンチャーのような革新性溢れる企業の出現は「木に縁りて魚を求む」の故事のごとく期待する方が無理というものであろう。
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軟財就計:(第15回目)『私のソフトウェア道具箱(その15)』

2022-10-02 09:44:55 | 日記
前回

先日、書いたように百田さんの『禁断の中国史』で私の本が紹介されているお陰で『本当に残酷な中国史』もよく売れている。 それで Amazonの中国史の売れ筋ランキングをチェックすることがあるが、しばしば『[復刻版]裏から見た支那人』(笠井孝)が『禁断の中国史』より上位(つまり、ランキング1位)になっていることがある。

『裏から見た支那人』は「支那人」という単語がタイトルに入ってことから、かなり昔の本だと分かる。そこで、とりあえず「国立国会図書館デジタルコレクション」でチェックすると PDF形式でダウンロード可能となっている。現代の若者にとっては、旧字体で難しい漢字が多い、このような本は敬遠されのは間違いないが、逆に私にとっては当時の言葉遣いや、当て字も含め現代では見られないような漢字が使われるのをチェックできるのは楽しみである。(逆に、当用漢字の適用や、現代用語への書き換えは全く興ざめがして読む気が萎えてしまう。)
さて、国会図書館からダウンロードしたPDFファイルは下図に示すように、全体が暗く、その上、スキャンした際に本の外側が真っ黒になっている。これをそのままプリントすると、文字が読みにくいだけでなく、トナーの無駄遣いでりメモが書き込めない、と不満だらけとなる。誰しも、もう少し綺麗な形で読みたい、と思うだろう。



もし、手作業で一ページずつPDFから画像ファイルに変換し、色調調整し、余分な黒い部分をカット処理すると80ページ程度ある本なので結構時間がかかる。こういう時こそプログラムで処理するのが便利だ。サンプル的に1ページを取り出し、色調整や不要部分のカットなどを確認して、一挙に全ページするプログラムを組むのであるが、その手順は次の通り。

1.プリントしたい部分のページだけをとりだす。

ダウンロードしたファイルには、初めの方に表ページやブランクページがあり、また最後の方には宣伝ページが入っている。これらは余計なので、pdftk.exe で必要な部分だけとりだす。
その後、PDFファイルをjpeg ファイルに変換する。

pdftk.exe original.pdf cat 3 5-83 output select.pdf

pdftoppm.exe -jpeg select.pdf yy

2. 画質を色白にする

これにはImagemagickの convert という関数を使う。実際の awk プログラミングは下記のようになる。

BEGIN {
  printf("del output*.jpg\n");
  for(ii = ii_start; ii <= ii_end; ii++) {
    printf("del tmp.jpg\n");
    printf("convert yy-%03d.jpg -contrast  -contrast -contrast tmp.jpg\n",ii);
    printf("convert tmp.jpg -modulate 150 xx%03d.jpg\n", ii);
  }
  printf("jpeg2pdf -o  white.pdf output*.jpg\n");
}

私が awk を使う流儀は、このようなコードを tmp.bat に吐き出し、tmp.bat を実行する。つまり、awk はバッチファイルを作成するために使っている場合が多い。

convert の contrast の色調整は数値で指定することができず、上のように -contrast を数度繰り返すようなダサいやり方だがしかない。それでも、ともかく色調整はこれで完了だ。さて、このようにすると white.pdf ができるが、縁がまだ黒いままなので、これをカットしないといけない。

3、pdftk でwhite.pdf をバーストする

上で、一度 jpg ファイルを pdf ファイルにまとめたが、またそれを一枚ずつの pdf file に分解する。(これは、次に示すように、 pdftoppm を使いたいためにこのような二度手間の作業をしている。何千ページの処理ともなれば、jpg のままする方法を考えるが、今はとりあえず、調査時間の節約のため、慣れている方法でおこなう。)

pdftk white.pdf burst

これを実行すると各ページが pg_0001.pdf から始まりpg_xxxx.pdf まで作成される(xxxxは最終ページ)

4.周りの黒い部分をカットする

カットするのは、 pdftoppm.exe を使う。4つのパラメータ(x, y, W, H)を指定しないといけないが、何回か試行錯誤すれば、決めることができる。最終的に、次の awk ファイルをバッチファイルに吐き出して実行すると、 final.pdf を得ることができる。

BEGIN {
  printf("del yy*.jpg\n");
  printf("del xx*.jpg\n");
  for(ii = start_ii; ii <= end_ii; ii++) {
    printf("pdftoppm -jpeg -x 300 -y 130 -W 1150 -H 980 pg_%04d.pdf yy\n", ii);
    printf("ren yy-1.jpg xx%04d.jpg\n", ii);
  }
  printf("jpeg2pdf -o final.pdf xx*.jpg\n");
}



今回の例でもお分かりのように、awk という簡単なプログラミング言語を知っていると、ウェブ上に多く存在しているユーティリティの実行ファイルを上手に活用することで、瞬く間に望みの結果が得られる。オンラインツールは、ページまるごとの変換や翻訳には適しているが、ここで述べたように、少しパラメータを追加しようとすると大変難しいことになる(あるいは、不可能?)。

世の中には、子供にプログラミング言語を習わせても大人になるころにはその言語が使われていないから無駄になる、と主張する人もいるが、それは、プログラミングを全くしたことがなく、特定のプログラミング言語習得と「プログラミング的思考法」の涵養を取り違えているところから来る迷言である。「プログラミング的思考法」とは、プログラミングで何ができるかという見極めができ、またどのようにすればそれが実現できるかというシナリオを頭の中に描けることをいう。私は今まで、10ヶぐらいのプログラミング言語を使ったことがある。(C, AWK, Pascal, Basic, Fortran, Lisp, Assembler, PL/M, C++, Smalltalk, ...)「プログラミング的思考法」はカーネギーメロン大学でC言語を使った時にしっかり養われた。それで Java, Python, Perl などもコードは書けないが、コードを見て、十分理解はできる。つまり、「プログラミング的思考法」が身につくと、新しい言語でもたいだい1週間程度でまともなプログラムが書けるようになる。(もっとも、プロとして使いこなすには本格的なプロジェクトに入って数ヶ月程度の訓練は必要だろう。)この意味で、時期やどの程度集中させるかは別として、小中学校の時代に「プログラミング的思考法」を植え付けるのは、 21世紀の識字教育であるとも思っている。

続く。。。
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