限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第267回目)『「植物愛護法」の成立を!』

2022-12-25 22:26:39 | 日記
今年は、2月に始まったロシアのウクライナ侵攻による戦争の一年であった。テレビの報道で爆撃で破壊されたウクライナ各都市のありさまを眼にすると誰しも無惨な気持ちになることだろう。建物だけでなく、多くの人々が死んだり負傷した。日本では、自然災害による死者や負傷者は多いが、戦争によるものは、第二次世界大戦以降、経験がない。昭和30年代、私がまだ子供のころ、大阪の天王寺公園を通ると、戦争で手足をなくした兵隊が何人かじっと立っていた。元来備わっていたはずの手足がもぎとられた姿に、子供心に何ともいたましい気分になったものだ。

ところで、話は変わるが、現在では動物を飼うときには、動物を適正に扱い、虐待しないこと、つまり動物愛護が義務付けられている。動物の命にも尊厳を払うということだ。動物保護法は1911年にイギリスで制定されたのが最初である。その後、西欧各国や北米にも広まっていった。これを聞くと「流石にキリスト教徒は、人間だけではなく、動物にまで愛情を注いでいる」と感心される方もいるだろう。しかし、現実を見ると、キリスト教徒は日本人には想像ができないほど、おぞましい動物虐待をしていた。

かつてローマでは、コロッセウムでは剣闘士同士だけでなく、人間と野獣が死ぬまで戦わされていた。当時のローマはまだキリスト教国では無かったので、野蛮であった、と言い訳はできる。しかし、17世紀のロンドンでは国王主催で行われた「牛いじめ」にはそういう言い訳は通用しない。

ミッチェルの『ロンドン庶民生活史』(みすず書房)では近世のロンドンの庶民生活が活写されているが、その中の第6章・第3節に「牛いじめと熊いじめ」という一節がある。それは、動物同士の残虐な戦いで、大きな牛や大きな熊に猛犬を襲いかからせるのであった。本文を一部抜粋する。

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1604年8月18日の日曜日に、 ジェイムズ1世がカスティリャの長官歓迎用にホワイトホール宮で催した宴会ともてなしは、優美にしつらえられ、身分の高いジェントルマンたちがもてなし役を勤めた。そのあと、器楽演奏とダンスがあり、ヘンリー王子 (ジェイムズ1世の長男。1612病没)も「たいそう陽気に、また、しとやかに」 ガリャード踊りを踊った。 万事まことに優雅な趣好に包まれていた。ところが、舞踏会が終るが早いか、「全員が、中庭を見下す部屋の窓に陣取った。その中庭には壇が築かれ、王の飼っている熊がグレイハウンドと戦うのを見ようと大群衆が集まっていた。これは大きな楽しみを与えた。」 そのあとで猛犬によるいじめがあり、牛は長い縄で首をつないであった。

(中略)

(熊いじめ)一般に熊は同時に数匹の犬の攻撃を受け、そのうえ歯を研ぎ減らされるという不利な条件をつけられていたので、強力な前足だけを頼りにした。牛は普通1回に、高度の訓練を受けた1匹の犬と試合をした。ドイツ人トマス=プラッターは彼が見た牛いじめの様子を書いているが、その時は大きな白牛が次から次へと犬を空中に放り上げ、それを付添人が棒で受け止めて落下を防いだ。殺さないでおいて、手当ての末元気を回復させ、またその後の牛いじめに使うためである。

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とても血腥い凄惨な戦いであったことは容易に想像できる。牛や熊のような大型動物と大型の猟犬の戦いはヘビー級ボクシングのようだが、フライ級のような戦いもある。それは、街中を走り回っているドブネズミを犬に噛み殺させるスポーツ(?)で「ネズミいじめ」(Rat-Killing)と呼ばれている。ヘンリー・メイヒューの『ロンドン路地裏の生活誌: ヴィクトリア時代(下)』(原書房)に「ネズミいじめ競技場での一夜」として描かれている、実に凄惨な場面だ。参考まで、英語の原文サイトを紹介しよう。

"London labour and the London poor" by Henry Mayhew,
 A Night at Rat-Killing


キリスト教国のイギリスでは、長らくこのような非人情的な残忍な催し物が庶民の間だけでなく、王侯貴族によっても堂々と行われていたようだ。近代になって反省し、現代ではかつての悪癖を撲滅するだけでなく、まるっきり正反対に、声高らかに「動物愛護」を謳うようになった。



イギリス(だけでなく欧米)の手のひら返しのような処置を「他山の石」として、日本にも旧来の悪癖をひっくり返して欲しいことがある。それは、樹木の剪定だ。街中の公園や街路樹を見てみよう。どれもたいていは剪定されていて、自然の枝ぶりの美しさを完全に損なっている。美観だけの問題ではなく、樹木の生命力も削いでいる。よく見るとわかるが、切られた枝はかなりの確率で枯れる。中には、枝だけでなく樹木が丸ごと枯れ死に至るケースも少なくない。

日本では、行政が管理している樹木は、本来的には植えてから順調に生育さすべき義務があるはずだが、意図的に枯れ死に至らせていることになる。それに反し、ドイツのある都市ではコンピュータが天候に応じて自動的に公園の樹木や街路樹に、適切な時間に適切な量の水を散布することで、無駄な水やりを無くし、同時に樹木が枯れるのを防いでいる。このような事例から判断すると、日本人は自分たちは「自然を愛する」国民を考えているようだが、ドイツの樹木に対するこの思いやりを見ると、全くの虚構であることが分かる。

日本のこの残念な傾向は、何も公園や街路樹などに止まらず、樹木の自然の姿を学ばせるための施設であるはずの植物園ですら、不要な剪定をしているのを見かける。(全国的にはどうだか分からないが、少なくとも私の住む大阪市の長居植物園はそうだ。)それだけでなく「生きとし、生けるもの」に慈愛を注ぐことを理念としている仏教寺院ですら無惨な剪定の例外ではない。大阪の四天王寺は 593年に聖徳太子が建立した日本最古の官寺と誇っているが、境内の楠は本来なら高さ、幅とも10メートルにも及んでもおかしくない位の古木であるのに、毎年の剪定に継ぐ剪定で、醜い姿を呈している。聖徳太子がご覧になれば、きっと血の涙を流されることだろうと、構内を歩くつど私は胸につまされる思いがする。

ついでに個人的な感傷を述べると、母校の京都大学も残念ながらこの悪疫に罹った。私の学生時代(1973年から1980年) 、土木会館の前あたりの道路には樹木が一面鬱蒼と茂っていた。雨が降った翌日などその前を通ると、マイナスイオン一杯の森林浴に浸ることができた。それから数十年して、2008年に京都大学に奉職するようになってキャンパスを巡ると、ほとんどの樹木は惨めな姿をさらしていた。驚くのはそれだけでなく、そのような写真が恥ずかし気もなく堂々と京大のサイトに掲載されていることだ。著作権の関係でその写真をここに転載できないが、是非下記のURLをクリックして、いかに樹木が無惨な形にされたかを確認してほしい。

【写真】総合研究14号館(旧土木工学教室本館)
【写真】人文科学研究所本館
【写真】尊攘堂(夕暮れ)

ここ2、3年のコロナ禍による影響は無視すると、近年、日本を訪問する外国人は大幅に増加している。彼らは、無惨な剪定された樹木をみて、きっと「日本人は何て、品のない、無情なことをする人たちなんだろう!」といや~な、そして、気味悪い思いをしている、と私は確信している。それはあたかも、冒頭で述べたような、爆撃されたウクライナの街の様子を目のあたりにしているような気持ちに違いない。このような日本に「是非、観光に来てください」と頼めたものではない!一刻も早く、「植物愛護法」を国会で審議し、無惨な剪定を取り締まって頂きたく思う。

【参照ブログ】
惑鴻醸危:(第52回目)『あくどい整形外科医』
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智嚢聚銘:(第19回目)『中国四千年の策略大全(その 19)』

2022-12-18 21:53:24 | 日記
前回

包拯というのは、北宋の有名な名裁判官。最近では「開封府 北宋を包む青い天」という中国ドラマでも取り上げられた。公平清廉な人で、中国では現代に至るまで1000年にもわたり絶大な人気を誇るという。難問の事件を、胸のすくようなアイデアで解決したと伝わる。

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 馮夢龍『智嚢』【巻10 / 441 / 包拯】(私訳・原文)

包拯が天長県の知事であった時、自分の飼っていた牛の舌が切られたと訴える者がいた。包拯は、その者に、牛を解体して町で肉を売るように命じた。当時、耕牛を殺すことは禁止されていたので、牛の持ち主はためらったが包拯の言うとおりにした。暫くすると、耕牛を殺した者がいると訴える者が役所に来た。包拯は「お前はなぜ、人の牛の舌を切っただけでなく、人を訴えるのか?」と言った。泥棒は牛の舌を切った事を見透かされてひれ伏した。

包孝粛知天長県、有訴盗割牛舌者、公使帰屠其牛鬻之、既有告此人盗殺牛者、公曰:「何為割其家牛舌、而又告之?」盗者驚伏。
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この話は、状況は理解するのは全く困難ではないが、包拯がどうして、訴えてきた人を牛の舌を切った犯人だと分かったのかという点は分かり難いだろう。そもそも犯人が牛の舌を切ったというのは、牛の持ち主に対して何らかの憾みがあり、その報復の為だ。包拯はそうであれば、もし牛の持ち主が何らかの法律違反をすれば、ここぞとばかり告発するに違いないと睨んだ。案の定、耕牛を解体して肉を売るのは国家が定めた法律に違反している。

本件は、『宋史』(巻316)および『続資治通鑑』(卷46)に記載がある。また、未見だが《仁宗実録・包拯付伝》にも記載があるという。



次は、同じく難問を解決した王安礼の話

宋朝を代表する政治家として、誰もが思いつくのは新法を立案して政治改革を断行した王安石であろう。歴史の教科書にもよく登場するが、王安石の弟である王安礼(字は和甫、官翰林学士)については知られることがない。『宋史』巻327に王安石兄弟(王安石、王安礼、王安国)3人の伝記が載せられている。

王安礼は「偉風儀、論議明弁、常以経綸自任、而闊略細謹」(威風堂々としていて、名弁であり、常に国家の重責に担っていると自負し、細かいことにはこだわらなかった)と評されている。また、兄の王安石は蘇軾を憎んでいたが、王安礼は蘇軾が投獄されたときに、厳罰に処することに反対したため、蘇軾は重刑を免れたという。

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 馮夢龍『智嚢』【巻10 / 457 / 王安礼】(私訳・原文)

王安礼が都知事であった時、匿名の投書が次々と役所に届けられた。役人の不正行為が書かれていたのだが、関連する役人は100人以上にのぼった。帝が王安礼にこの件を処理するように命じた。王安礼は全ての投書に目を通したが、摘発する人は大体同じであった。最後の投書には、投函した人の名前が3人記されていた。その内の一人は薛と言った。それを見て、王安礼は喜んで「これで解決できたぞ」と呼んだ。早速、薛某を呼んで「貴卿は誰かと仲が悪いことはありませんか?」と尋ねると、薛は「ある商人が特別な筆を売りつけようとしたが、断った。出て行く時に非常に不満な顔をしていました。」と答えた。早速、その商人を捕まえて尋問すると匿名の投書の犯人だったことが判明したので、処刑して首を市門にさらした。それ以外、誰ひとりとして逮捕しなかった。都ではまるで神業だと誉めたたえた。

王安礼知開封府。邏者連得匿名書告人不軌、所渉百余人、帝付安礼令亟治之。安礼験所指略同、最後一書加三人、有姓薛者、安礼喜曰:「吾得之矣。」呼問薛曰:「若豈有素不快者耶?」曰:「有持筆求售者、拒之。鞅鞅去、其意似相銜。」即命捕訊、果其所為。梟其首於市、不逮一人、京師謂之神明。
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『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』(第3章)で、中国人の陰険な策略の数々の手段を分類して紹介したが、その 2番目に、「高位者を利用して報復する」というやり方がある。まさにこの話は、官憲の権力を利用して、王安礼に報復しようとしたものである。いってみれば中国社会は至る所に落とし穴のある道を歩くようなもので、用心に用心を重ねないといけないということがよく分かる話だ。

続く。。。
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沂風詠録:(第349回目)『以食為天 ― 巷に流布する語源の誤ち』

2022-12-11 13:17:21 | 日記
最近、北岡正三郎著の『物語 食の文化』(中公新書)を読み終えたが、蘊蓄ゆたかで、単に料理や食事だけでなく、文化背景にまで非常に詳しい非常な良書だと感心した。この新書本一冊で、私のような素人レベルが知りたい料理のことのほぼ全てが網羅されていると言ってよい。北岡氏の専門は農芸化学だというが、とてもとてもその範疇に収まる人ではない。メソポタミア、エジプトから始まり、ギリシャ・ローマはいうまでもなく、中世から近代にかけての西洋の貧しい食生活にも鋭く切り込んでいる。一方、中東からアジアにかけての豊富な食材を利用した料理の数々も丹念に調べられている。それも、文献上に留まらず、実際に食されているような臨場感あふれる記述が毎ページに連なり、「応接に暇なし」(応接不暇)の状態だ。

このように、この本は素晴らしい内容ではあるが、瑕瑾(ささいな欠点)ともいえる記述が一ヶ所だけ中国の食(P.309)に関して見つかった。本文は次のようになっている。

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【食をもって天となす】「孟子」に「食をもって天となす」の言葉があり、中国人は古くから食べることを大切にしてきた。
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この一節を読み、孟子の言葉は記憶にはなかったので、早速自前の漢文検索システムで『孟子』を検索(検索語は「食 以 天 為」)したがヒットしなかった。それで、Google検索すると、関連する情報が見つかった。

例えば: http://www.obpen.com/eight_hundred/20200912_01.htmlでは
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古来、中国にはこんな言葉がある。「王は民をもって天となし、民は食をもって天となす」 国を治めるとは民を掌握することであり、その民が最も大切だと考えているのが食である、くらいの意味だろう。『漢書』にある孟子の言葉と云われている。
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これ以外にも、北岡氏の本文にあるように出典が「孟子」としているサイトは幾つか見つかる。
https://www.tutitatu.com/「民は食をもって天となす」の使い方や意味、例/
https://ameblo.jp/qingfang/entry-11136102515.html
http://mingtian.seesaa.net/article/356355462.html



しかし、この言葉の出典は『孟子』ではなく『漢書』《巻43・酈食其伝》である。(原文:王者以民為天、而民以食為天)インターネットを検索すると正しい出典を示しているサイトもいくつか存在する。例えば:
 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14237254414
(このサイトでは、次の原文のサイトを示す https://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=以民為天

また、中国に長らく滞在している日本人や、中国人のサイトでは流石にこのような間違いはない。
https://kanjibunka.com/yomimono/rensai/yomimono-3043/
『人民中国』曹夢玥
http://www.peoplechina.com.cn/whgg/202208/t20220805_800302876.html

ところで、インターネットの検索をしていると「民以食為天」(民は食をもって天と為す)に類似の句「以食為民天」(食以(も)って、民の天となす)もあることが分かった。出典は、『文選』巻36、王融の「永明九年秀才文五首」にある「良以食為民天、農為政本」という句だ。思うに、これは明らかに王融の記憶違いであろう。昔の人は膨大な書籍を暗記していたが、やはり所々で、原文と食い違っている。工具書やインターネットが完備されている現在と異なり、検索手段が極めて限られていて、記憶に頼って書いているので、原文と微妙に異なるケースは、歴史書(史記、漢書、後漢書、晋書、資治通鑑など)を読んでいると、何度も出くわす。

北岡氏が現在のインターネット環境で、『物語 食の文化』を書いたなら、厳密に調査して間違いなく、出典は『孟子』ではなく『漢書』《巻43・酈食其伝》と書いていただろうと思う。これを思うと、インターネット検索だけではなく、自前の漢文検索システムを持っている私などは、間違った出典を示すようなことがあったなら、それこそ弁解の余地がないという、まさに「薄氷を履む」(戦戦兢兢、如臨深淵、如履薄氷)思いがする。
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智嚢聚銘:(第18回目)『中国四千年の策略大全(その 18)』

2022-12-04 19:47:56 | 日記
前回

どの国でもそうだが、泥棒に盗まれたら、どうにか取り返そうと努力するが、流石にに孫子の国、中国では力ずくではなく、策略を使い、労せずして取り戻す方法を編み出すものだ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻10 / 432 / 王浟】(私訳・原文)

北斉の王浟が定州の知事であった時、黒牛が盗まれたとの訴えがあった。その牛の背中には毛が生えているという。王浟はそこでつぎのような布告を出した「至急、牛の皮を購入したい。値段は市価の倍出す」。そうすると続々と牛の皮が集まった。それで、盗難に遭った人に皮をチェックさせて、盗んだ犯人を捕まえた。

北斉王浟為定州刺史。有人被盗黒牛、背上有毛。浟乃詐為上符、若甚急、市牛皮、倍酬価値。使牛主認之、因獲其盗。
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「市価の倍を出す」といううまみのあるセリフにつられて、盗まれた皮は間違いなく出てくる、と王浟は睨んだがその通りになった。

次も野菜泥棒を捕まえる策略だ。このような策略は知られてしまえば、二度と適用はできないだろうが、その時はまた別の方法を考えるのだろう。

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 馮夢龍『智嚢』【巻10 / 432 / 王浟】(私訳・原文)

定州に王という一人者の老母がいた。少しばかりの野菜を栽培していたが、たびたび盗まれる被害にあった。そこで、王浟は部下に命じてこっそり野菜の葉の裏に字を書かせた。翌日、市場で葉の裏に字のかかれた野菜を見つけて盗賊を捕まえた。その後、定州には盗みをするものがいなくなった。

定州有老母、姓王、孤独。種菜二畝、数被偸。浟乃令人密往書菜葉為字。明日市中看葉有字、獲賊。爾後境内無盗。
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犯罪者は、一度ある手段で成功すると何度も同じやり口をして足がつく。そのような心理を捜査に応用したのが、囮捜査といえよう。犯罪者を簡単単に見分けられるような仕掛けを事前に考えておく必要がある。

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 馮夢龍『智嚢』【巻10 / 439 / 王愷】(私訳・原文)

王愷が平原の長官となった。ある晩、麦商人が村の寺の前を通りかかると、強盗が現われ、脅されて麦の袋が奪われたとの訴えがあった。王愷はわざとこの事件を公にせず、下役のものに豆売り商人の服装をさせ、青豆の袋の中に熟して黄色になった豆を混ぜさせたものを持って夜に寺の前を通らせた。案の定、また強盗に脅されて豆の袋が奪われた。そこで、警官に商人の服装をさせて寺に豆を買いに行かせた。豆の袋の中に黄色の豆が混じっていたので、僧侶を捕まえたが、尋問をするまでもなく白状した。

王愷為平原令、有麦商夜経村寺被劫、陳牒於県。愷故匿其事、陰令販豆者、和少熟豆其中、夜過寺門、復劫去、令捕兵易服、就寺僧貨豆、中有熟者、遂収捕、不待訊而服、自是群盗屏跡。
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囮捜査といえば、1982年6月に起こった IBM産業スパイ事件を思い出してしまう。日立と三菱電機という大会社がIBMコンピュータの内部秘密を秘かに入手しようとしたことをFBIの囮捜査で挙げられてしまった。当時の日本では、囮捜査といういわば犯罪的行為を犯罪を取り締まる当局がすべきでない、という認識であったように思うが、アメリカでは犯罪者を捕まえることが最優先するという認識であった。この事件によって、何事も正攻法で望む日本は時として、無意識の内に、グローバルの常識とは相容れない思い込みをしてしまうものだ、と眼を覚まされた思いがしたものだ。

続く。。。
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