限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第137回目)【予告編】『ドイツの産業発展と老舗企業の関連(その1)』

2013-06-30 19:27:15 | 日記
先日、yu さんから『ドイツ産業力拡大のきっかけ』と題して次のような質問を頂いた。

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【前略】。。。日本の産業力のベースは安土桃山時代から江戸時代にかけての戦乱の終息と長期的平和の到来と理解しているが、ドイツの場合はどう理解すれば良いか?何か良い書籍がございましたらお教え頂ければ幸いです。

下記のURLを見て頂きたいのですが、この表は老舗企業を創業時期別に企業数を集計したものです。私はこれがドイツ全体の産業力拡大と同期しているとみているのですが、15世紀から18世紀にかけては、ほぼ倍のペースで伸びております。(日本は安土桃山から江戸期の商品経済の発達と同期)これは、三十年戦争などの戦争の影響によるものが大きいのでしょうか?何か良い書籍や情報がございましたらお教え下さい。よろしくお願い致します。


http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5408.html
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yu さんの質問の主眼は、ドイツの産業発展の経緯についてであるが、私には、それ以外にも非常に根源的な問いかけをしているように感じる。総合的に次の観点から回答してみたい。
 1.戦争と産業発展の関係
 2.日本の産業発展
 3.ドイツの産業発展
 4.老舗と産業の関連


これらは、それぞれ一つづつを取ってみても非常に大きな設問である。正直なところ、私にはこれらについてまだ確固たる見解を持っているわけではない。なぜなら、読むべき主要図書をまだ読んでいないからだ。従って、以下では、現時点で分かっていること、考えていることの範囲で【予告編】として質問に応えたい。

1.戦争と産業発展の関係

(ここで言う戦争とは、日本の戦国時代の戦争、ドイツの30年戦争を考えることとする。)

私は大学の初年度までは暗記モノの歴史が嫌いであったので、自分から進んで歴史の本を探して読むことはなかった。私にとって、歴史というのは、教科書と参考書、つまり『歴史解説書』で記述されている索漠とした暗記事項の羅列のことであった。

しかし、以前のブログ『徹夜マージャンの果てに』で述べたように、20歳の時から自発的にいろいろと読書するなかで、『歴史解説書』ではなく、古今東西の本物の歴史書を読むようになった。それらを読んで一番強く感じたのは、同じ戦争という単語を使っていても、日本とそれ以外の国々(具体的には:中国、西洋、イスラム)ではその現象面は全く異なるということであった。私の得た結論は、
 『日本の戦争とは土地の徴税権を巡る武士集団同士の内輪もめ』
でしかないということであった。



一方、日本以外の国々では戦争というのは財宝がうなっている都市を攻め、市民を殺し、その財産を略奪するのが目的であった。そのため、 1618年に始まった、ドイツ30年戦争で戦場となったドイツにはドイツ兵のみならず、スウェーデン兵、デンマーク兵、オーストリア兵などさまざまな軍隊が入り乱れた。そしてドイツの都市は略奪の被害を受け、多数の市民が殺され、人口が大幅に減少した。説はいろいろあり、人口の1/3が失われたとも、あるいは半分、あるいはもっと酷く 2/3 が失われたとも言われている。

ドイツ30年戦争の後遺症はその後100年続き、そのため、ドイツは近代化や産業革命の進行でイギリスやフランスに遅れをとることになった。

ドイツ30年戦争は1648年(17世紀中)に終結し、平和が訪れた。そして、ドイツ各地の諸侯やハンザ都市などが独立国となった。そのため、産業振興策がとられたようで、その結果として yu さんが指摘するように新興企業が続々と登場したことであろう。ただ、荒廃したドイツ社会の産業は全体として非常に低調であったのではないかと私は想像する。

【参照ブログ】
 百論簇出:(第132回目)『不必要な愛国心、必要なのは。。。(その2)』

2.日本の産業発展

上記1.項で指摘したように、日本の戦国時代というのは、戦争は庶民生活の発展にはほとんど無関係であったと私は考えている。その証拠の一つは人口変化である。ドイツの30年戦争では、(最低の見積もりでも)人口の3割が減少したと言われているが、100年以上続いた日本の戦国時代はそういった人口減少が全くなかった。いや、それどころか順調に増加しているのである。


【出典】
 『近代以前の日本の人口統計』(社会工学研究所・1974年)

 社会工学研究所が1974年に『近代以前の日本の人口統計』を発表した。(上図参照)それによると戦国時代、つまり応仁の乱(1467年)から秀吉の天下統一(1590年)の間、日本の人口は全く減少していない。また戦国時代や天下統一、ましてや豊臣と徳川の武士集団の大決戦と言われた関ヶ原(1600年)、大阪冬の陣(1614年)、夏の陣(1615年)など、いずれの戦争も日本の人口の増減とは全く無関係である。日本の戦争は、グローバル視点から見れば、(言い過ぎを覚悟の上で言えば)『ヤクザのショバ争いに近いレベル』ということだ。かつての神戸の山口組と一和会の抗争では、何人かの市民が巻き添えを食ったが、その為に神戸の人口が激減したとか、神戸経済が疲弊した、ということがなかったのと同じである。

逆に、戦国大名同士の抗争は地域産業を活性化させる触媒であったと私は思っている。さらに江戸時代の大名は、事実上は単なる徴税マシーンに過ぎず、短期的に領民を搾り取るより、長期にわたって恒常的に生産性を高めようとした。

主要産業の農業においては室町の戦国大名以降、領主は、河川の改修など、いろいろな施策を実施したが、一方では、領民自身の努力で二毛作の普及、水車による揚水などにより生産性が向上した。更に工芸技術においても、刀鍛冶や陶器などが各地に広まった。

つまり、安土桃山時代から江戸時代にかけての日本の産業の発展に対して、yu さんのいう『戦乱の終息と長期的平和の到来』の要因はあまり大きくはなかったように私は思う。平和になっただけで即、産業が発展したと考えるのは無理があるということだ。産業が発展するための本質的な理由は他に求める必要があると私は考える。

続く。。。
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想溢筆翔:(第126回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その61)』

2013-06-27 21:41:37 | 日記
 『5.13 異民族との交渉には、胆力をもって事に当たれ。』

現代とは異なり、過去において歴史家は、単に史実を客観的に叙述するのではなく、場面、場面で、人はどういうことを話し、行動したかについて述べるのを重要な任務と考えていたように私には思える。その意味で、資治通鑑は資料としても一級であるが同時に人間性やリーダーシップについて考える材料をふんだんに提供してくれる。

西洋においても歴史家は同じような意図で、人物を描いた。プルタークの『プルターク英雄伝』、リヴィウスの『ローマの歴史』、ネポスの『英雄伝』(国文社・叢書アレクサンドリア図書館)がこういった系統に属す書である。

とりわけ『プルターク英雄伝』はモンテーニュやシェークスピアに愛読され、近代ヨーロッパ人に理想の人物像を植えるのに多大な影響力をもった。

この『プルターク英雄伝』の中から、共和制ローマが最盛期を迎えつつあった紀元前1世紀に独断的な軍人として恐れられたスラ(Lucius Cornelius Sulla Felix)の伝記を見てみよう。

スラは裏切りや死も恐れず行動したためローマの敵のみならず味方の心胆をも寒からしめた。例えば、まだ若きころ、主計官(Quaestor)となったスラは、ユグルタとの戦争のためにアフリカへ渡った。そして、ヌミディア王のボックスを利用して無血で、ユグルタを捕えようとしたが、それは非常に危険な賭けでもあった。その様子をプルターク(スラ・3-2)は次のように伝える。

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Sulla ... and taking with him a few soldiers, underwent the greatest peril; he put faith in a Barbarian, and one who was faithless towards his own relations, and to secure his surrender of another, placed himself in his hands.

スラは [中略] 少数の兵士を率いて最大の危険を冒した、というのは、近親の人々に対しても信義を守らない蛮族を信頼して、もう一人(ユグルタ)を捕縛するために自分の身をその手に委ねたからである。
 (岩波文庫・河野与一訳)
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いつ敵に寝返るかもしれないヌミディア王のボックスの元へスラはわずかの手勢と共に乗り込んだ。一歩読みを間違えば自分の方が捕らわれ殺されるかも知れない賭に勝って、強敵・ユグルタ王を捕えた。まさに、『不入虎穴、不得虎子』(虎穴に入らずんば虎児を得ず)で有名な後漢の班超もどきの行動だった。

【参照ブログ】
 通鑑聚銘:(第22回目)『虎穴に入らずんば虎子を得ず』



さて、唐の武則天の御代に、裴懐古という剛毅な役人がいた。旧唐書(巻135下)には武則天の権威にひるむことなく、堂々と正論を述べたようすが次のように記されている。

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旧唐書(中華書局):巻135下(P.4807)

その時、恒州・鹿泉寺の僧・浄満が弟子にはめられる事件が起こった。弟子がこっそりと画家に高楼に佇んでいる女の絵を描かせて、しきりに浄満に頼みこんで、とうとう弓でこの絵を射させた。そしてそれを竹の箱に入れて都に上り、『僧が皇帝(武則天)を呪った。大逆で道に背いている』と訴えた。武則天は裴懐古に命じて浄満を取り調べ、処刑するように命じた。裴懐古は浄満を取り調べて事情を知り、浄満を無罪だとして釈放した。武則天はたいへん立腹した。そこで、裴懐古は次のように上奏した。『陛下の法というのは、身内か他人かと区別せず万人に一律に適応するものです。無実の人を処刑して、陛下の意に適うようにせよとでも言うではないでしょうね?もし、本当に浄満に臣にあるまじき振る舞いがあれば、私だって許しません。今、陛下の法を守って罰されるなら、死んでも悔いはありません。』武則天はようやく裴懐古の言うことを理解し(て浄満を赦し)た。

時恆州鹿泉寺僧淨滿爲弟子所謀,密畫女人居高樓,仍作淨滿引弓而射之,藏於經笥・已而詣闕上言僧咒詛,大逆不道・則天命懷古按問誅之・懷古究其辭状,釋淨滿以聞,則天大怒,懷古奏曰:「陛下法無親疏,當與天下畫一・豈使臣誅無辜之人,以希聖旨・向使淨滿有不臣之状,臣復何顏能寛之乎?臣今愼守平典,雖死無恨也・」則天意乃解

時に恒州・鹿泉寺の僧・浄満、弟子の謀らる所となる。ひそかに女人の高楼に居るを画き,仍(しきり)に、浄満をして弓を引かしめ、射しめ、経笥に蔵す。すでにして、闕に詣で、僧の咒詛し、大逆・不道なるを上言す。則天、懐古に命じて按問し、これを誅せんとす。懐古、その辞状を究し、浄満を釈し、もって聞ゆ。則天、大いに怒る。懐古、奏して曰く:「陛下の法は、親疏なし、まさに天下と一を画すべし。豈に、臣をして、無辜の人を誅せしめ、以って聖旨に希わんとせんか?さきに浄満をして不臣の状あらしめば、臣、復た何の顔ありてか、よくこれを寛せんや?臣、いま平典を慎守するは、死すと雖も恨むなからん」則天の意、すなわち解く。
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武則天の意に逆らったため、それまでに何人もの重臣が流刑・死刑の憂き目にあっているのを裴懐古は見てきたはずだが、それにも拘らず、浄満の冤罪を確信し、信念を通した。その態度はまさに循吏(じゅんり)の鑑と言えるであろう。史書を筆頭として、ほとんど中国の史書には『循吏列伝』があり、裴懐古のような義を官吏が描かれている。(ちなみに、旧唐書では『循吏列伝』ではなく『良吏列伝』という。)

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第124回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その59)』

裴懐古は、その胆力をみこまれて辺地の蛮族との交渉を任されたが、胆力をもって見事処理した。そのようすは、資治通鑑は次のように記す。

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資治通鑑(中華書局):巻207・唐紀23(P.6568)

始安の獠族の親分の欧陽倩は数万人もの手下をもっていた。近隣の州や県を襲っていた。困った朝廷では、鎮圧してくれる適任者はいないものかと探していた。朱敬則が司封郎中の裴懐古は文武ともに優れていると推薦した。裴懐古を桂州の総督に任命し、招慰討撃使の役目を言いつけた。裴懐古は辺地に着くやいなや、周辺の蛮族に投降するよう諭す伝令を飛ばした。欧陽倩が伝令にいうには、『悪代官が余りにも酷いことをするので、自衛のため立ち上がったまでだ。』裴懐古は少人数で、欧陽倩の陣地に赴こうとした。周りのものは、『やつらは信用ならないやつらだ。』と言ったが、欧陽倩は『わしは、忠信という頼みの杖がある。神にも通じるのであるから、人にも通じない訳がなかろう。』と言って、そのまま出掛けた。蛮族は皆よろこんで略奪した財宝を全て返還した。二心を抱いてなりゆきを見ていた蛮族の酋長たちは皆、裴懐古のところに来て従うことを誓った。これでようやく辺地(嶺外)が治まった。

始安獠歐陽倩擁衆數萬,攻陷州縣,朝廷思得良吏以鎭之。朱敬則稱司封郎中裴懷古有文武才;制以懷古爲桂州都督,仍充招慰討撃使。懷古纔及嶺上,飛書示以禍福,倩等迎降,且言「爲吏所侵逼,故舉兵自救耳。」懷古輕騎赴之。左右曰:「夷獠無信,不可忽也。」懷古曰:「吾仗忠信,可通神明,而況人乎!」遂詣其營,賊衆大喜,歸所掠貨財;諸洞酋長素持兩端者,皆來款附,嶺外悉定。

始安の獠・欧陽倩、衆数万を擁し、州県を攻め陥す。朝廷、良吏を得て、もってこれを鎮めんと思う。朱敬則、司封郎中・裴懐古に文武の才ありと称す。懐古をもって桂州都督に制し、よりて招慰討撃使に充つ。懐古、纔に嶺上に及ぶや、書を飛して、示すに禍福をもってす。倩ら迎え降り、且つ言う。「吏の侵逼する所となる。故に挙兵し、自ら救うのみ。」懐古、軽騎にてこれに赴かんとす。左右、曰く:「夷獠に信なし。忽にすべからず。」懐古、曰く:「吾は忠信を杖とす。神明にも通ず、ましていわんや人においておや!」遂にその営に詣ず。賊衆、大いに喜び、掠するところの貨財をかえす。諸洞の酋長、もともと両端を持す者、皆、来りて款附す。嶺外、ことごとく定まる。
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裴懐古は辺境の蛮族といえども、誠意を尽くせば必ず分り合えるとの信念を持っていたので、僅かの手下と共に相手の本拠地の乗り込んだ。まさに、ローマのスラと好一対である。

前漢の宣帝は、歴代の帝王の中でも熱心に善政に励み、常に、自分の苦労を分かちあえるのはただ『良二千石』だけである、と漏らしていた。(漢書・巻89)裴懐古のような清廉で剛毅な胆力の持ち主こそが、まさしく宣帝が望んでいた循吏であると言っていいであろう。

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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沂風詠録:(第203回目)『リベラルアーツとしての科学史(その2)』

2013-06-23 19:06:27 | 日記
前回

 2. 科学史を学ぶ意味

日本におけるリベラルアーツや教養科目に、科学あるいは技術に関することがらが全く入っていない理由に関して、以前のブログ、沂風詠録:(第58回目)『国際人のグローバル・リテラシーの図書リスト(2)』で、私の推測を次のように述べた。

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 日本の文化と言ったときに通常は、文学、宗教、歴史、思想などのいわゆる高校の教科書に出てくる内容の話に集中しがちである。しかし、現実的に人が社会生活を営む上においては生産活動が必要だし、それを支えているのが、農業、工業、などに使われている科学技術である。

従って科学技術の活用あるいは進展なしに社会を語れないはずである。それにも拘らず、科学技術の進展は歴史の授業、とりわけ日本史の授業では皆目見当たらない。この理由は簡単で、日本史のような文系科目の研究者、教師は理系に属する科学技術が苦手であるからだ。そして科学技術というと、分野が幅広く、現在の理科系全ての学部にまたがる。つまり、理・工・医・薬・農、トータルの分野をさす。さらに言うと、日本はこの方面では中国の科学技術発展の恩恵と同時に、江戸時代にオランダ経由で入ってきた西洋の科学技術の発展の多大なる恩恵を受けている。それらに加え、日本独自の発展もあった。つまり、日本の科学技術の発展(科学技術史)というものを概観しようと思った途端に、広大無辺の知識・情報の大海に落ちてしまうのである。

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私の考えでは、日本で科学史や技術史が教えられていない理由は次の2点に絞られる。
 ○教える側に知識がないので、教えられない。
 ○カバー範囲が広大すぎて、全体像がつかめない。


文系出身の教師、知識人はもともと科学あるいは技術に関することがらを知らないことが多いので、科学史や技術史をまともに読んだこともないし、興味を持たないのであろう。一方、理系出身の教師、知識人といえども、カバー範囲が広すぎて自分の専門としている分野以外の科学技術は分らない。結局、科学史、あるいは技術史というのは、誰にとっても鬼門に当たるので避けているのだ。

このような背景を理解しつつも、ここで科学史を学ぶ必要性を強調するのは、次のようなことを知る必要性からである。
 1.人間の知性がいかに誤り易いかを知る。
 2.科学も民族性や文化に大きく影響されている。


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1.人間の知性がいかに誤り易いかを知る。

世の中の宗教では、神が人の姿をしていると考えている宗派は多い。それと同時に、人間は神の御心が理解できるので、神の気に入るような行動をとることが必要だと考える。そういった論理が間違っていることは以前のブログ、想溢筆翔:(第17回目)『らせん状の思考階段』で述べた。そこにも書いたように、セネカの Naturales Quaestiones『自然研究』という本を読むと当時(紀元前後)のローマの一級の知識人といえども科学的知識においてはいかに誤謬に満ちていたかが分かる。

2000年もの間の数知れない人たちの科学的真理探究のおかげで、現在の我々はセネカの自然科学に関する知識が明らかに間違っていたと断言できる。科学というのは頭の中で理論を組み立てる、つまり思弁だけでは、正解に到達できないことが示されたのだ。思弁に加えて、実際に実験したり観測した結果に考察を加えて、再度の論理構築が必要であるのだ。この科学的思考サイクル(思弁==>実験・観測==>論理構築)はあたかもPDCA(Plan==>Do==>Check==>Act)サイクルのように循環することによって初めて科学に進歩をもたらすのだ。

科学史を読むと人間の知性が現実世界を正しく認識するにはかなりの手助け(実験・観測)を必要としたことが分かる。これから逆算すると、神学のように、実験・観測を経ないで頭のなかだけで作り上げた(あるいは捏ね回したという方がニュアンス的には正しいが)神学論や神の実在論・実体論には、数えきれない程の過ちが内在しているはずだと推定できる。当時においては最先端の科学的知識だったはずのセネカの『自然研究』は、今や誰も科学のテキストとして使わないだろう。それと同様に、現在まで営々と積み上げられてきた神学論集はボリュームこそ多いものの、内容としては誤謬だらけの本に過ぎないと私は確信している。(ただ、どこが間違っているのかを指摘する知識を私は残念ながら持ち合わせていないが。。。)

科学史を学ぶということは、人間の知性の限界を知ると同時に、思弁的な誤謬を正す唯一の方法が科学的思考サイクル(思弁==>実験・観測==>論理構築)であることを知ることでもある。



2.科学の発展は民族性や文化に大きく影響されている。

科学や技術は文学や芸術と異なり、科学的な真理探究において民族性や文化とは関係がない、と考えている人は多い。しかし、科学史を読むと気が付くが、科学(および技術)の発展には民族性や文化が実に色濃く反映されている。
 (この点に関しては、後日詳細に論じる予定なので、この稿では、幾つかの例を示すにとどめたい。)

古代の数学の発展の様子を見てみよう。ギリシャでは、エジプト数学の系統を引き継いで、代数学より幾何学が発達した。その代表が、プラトンの学園の入り口に掲げられた言葉、

  『幾何学を知らざる者、入るべからず』(Let no one ignorant of geometry enter)
であろう。

ユークリッドやペルガのアポロニウスの幾何学は、現代に至るまで幾何学のみならず科学全般に多大な恩恵をもたらした。ただ、紀元後2世紀、アレキサンドリアを中心としたヘレニズム時代になると、ディオファンテスのような代数学者が登場している。
一方、同じ数学でもメソポタミアやインドでは、代数学が大いに発達した。これらの地域では、後の時代になっても代数学の方が隆盛を誇っていた。正確な情報を持たず私の勝手な推測であるが、この地域の過去の代数学重視の伝統の影響は、現代のコンピュータ時代にも及んでいるように思う。

【参考図書】
 『非ヨーロッパ起源の数学』ジョーゼフ、講談社

また、科学の発達だけでなく、他国からの科学の受容においても民族性や文化が大きく影響している。

日本は江戸時代、オランダを介して近代ヨーロッパ科学の成果を何でも受け取れることができたはずだが、蘭学者たちが興味を示したのは、科学・技術の分野は、医学・薬学・博物学・天文学・測量術など、極めてかぎられた分野であった。(幕末になってようやく、兵学など国防関係に興味が高まった。)

一方、中国では、明の末期からかなり多くのイエズス会の宣教師が中国に入ったが、彼らは神学だけでなく、科学に関しても最先端の知識を持っていた。それで、中国人はその気になれば、日本以上に、ヨーロッパ科学の精華を吸収できる立場にいたにも拘らず、中国人が興味を示したのは主として数学と天文学(暦学)であった。これを見ても中国人と日本人の興味とは随分と異なることが分かるし、それがそれぞれの国のもつ伝統的な価値観とも大いに関係していることも分かる。

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さて、科学史を理解するためには、当然のことながら科学の各分野の細部(ディテール)を理解しなければならないが、同時に細部に囚われてはならない。これは一見矛盾するようであるが、本質的に重要なことだ。

ドイツの科学史の大家であるダンネマン(Friedrich Dannemann)はその著書 『大自然科学史』(Die Naturwissenschaften in Ihrer Entwicklung Und in Ihrem Zusammenhange)の中で、ジグムント・ギュンター(Sigmund Gunter)が科学史を学ぶ上での注意点として次のように述べていたことを記している。
 Nicht um Detailwissen, nicht um Beschaftigung mit Einzelproblemen handelt es sich hier, sondern darum, ein Bild von den grossen Ideen sowohl als von den Errungenschaften, die man ihnen verdankt,zu zeichnen.
 (ここで大切なのは、こまかい知識でもないし、一つ一つの問題を研究することでもない。そうではなくて、大きな理念(イデー)やこのような理念のおかげで受けている成果について、一つのざっとした像を描くことが、大切である。)
 (ダンネマン『大自然科学史』巻9、P. 7、 安田徳太郎・訳)

現在まで日本で、科学史がどうして教えられなかったかという理由を上で2つ挙げたが、想像するに、日本人は性格的に細部(ディテール)にこだわる傾向にあるため、いつまで経っても、教える側も教えられる側も大きな理念をつかめないで終わってしまうからであろう。もっとも、細部にこだわる日本人の性格は、別の方面では成果をもたらすのであるが。

続く。。。
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想溢筆翔:(第125回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その60)』

2013-06-20 21:15:25 | 日記
 『5.12 業績評価に一喜一憂せず、泰然と構えよ。』

論語は儒教の聖典とみなされているが、中には老荘ともいえるような一節も見られる。巻9の『微子』には何人かの逸民が登場するが、必ずしも否定的なニュアンスを伴わない。例えば、柳下恵については、次のように好意的な評が見える。
 降志辱身矣。言中倫、行中慮、其斯而已矣。
 (志を降し、身を辱しむるも、言は倫にあたり、行いは慮にあたる。それ、これのみ。)

柳下恵は世間から隔絶して隠棲していた訳でなく、官吏として俗世間に生きていた。言葉正しく、行いも思慮深かった、というのだ。亜聖である孟子は、柳下恵を『聖之和者也』(聖の和する者なり)、ともう一段高く評価している。

柳下恵の人柄は『坐懐不乱』という故事でも知ることができる。

或る寒い晩のこと、柳下恵が市門の下で休んでいると若い娘がやって来た。寒さで凍え死にそうだというので、抱いてやったが、朝まで不埒な行為には及ばなかった。
 柳下惠夜宿郭門、有女子來同宿、恐其凍死。坐之於懷、至曉不爲亂。
 出典:輟耕録(てっこうろく)・巻4

だれもが柳下恵のマネができる訳ではない。『孔子家語』(第十・好生)には、或る強風の晩に家が壊れてしまった寡婦が隣の独身男の家に入れてくれと頼んだが断られた話が載っている。男が弁解するには、『私は、柳下恵の行いを志してはいるが、まだその境地には達していない。』

柳下恵は志操堅固であったが、同時に地位や権力に対しては淡泊であった。士師(裁判官)に三度任命され、また三度も罷免されたが、全く意に介さなかった。(『柳下惠爲士師、三黜』、論語・『微子』)

楚の闘穀於菟(字は子文)も同じく、令尹(総理大臣)に三度任命され、三度も罷免されたが、全く意に介さなかった。(『令尹子文三仕爲令尹、無喜色。三已之、無慍色』、論語・『公冶長』)



中国の民衆は、春秋の昔から権力など全く意にかけずに我が道を行く人に対して共感を抱き、ひそかに拍手を送っていたように私には思える。歴代の史書にはそういった人々の話が数多く載せられている。例えば、史記・巻124や漢書・巻92の『游侠列伝』、後漢書・巻81の『独行列伝』、晋書・巻94の『隠逸列伝』、など。

そういった感情を垣間見る好例が資治通鑑に見える。

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資治通鑑(中華書局):巻201・唐紀17(P.6358)

雍州長史の盧承慶を人事院長官(司刑・太常伯)に任命した。盧承慶はいつも中央官庁と地方官庁の役人の人事評価をしていたが、一人の役人が、米を輸送途中に風雨に遭って紛失してしまった。それで、盧承慶は『監督不行き届きとして、考課は、中の下』と評価し、言い渡した。しかし、その役人はまるで平気な顔をして退出した。盧承慶はその悠揚迫らぬ態度に感心して、『本人の責任でなかったので、考課は、中の中』に上げた。しかし、その役人は一向にうれしそうにもせず、また恥じ入る表情も見せなかった。盧承慶は、また考え直し『評価の上下に無頓着なので、考課は、中の上』とした。

以雍州長史盧承慶爲司刑太常伯。承慶嘗考内外官,有一官督運,遭風失米,承慶考之曰:「監運損糧,考中下。」其人容色自若,無言而退。承慶重其雅量,改註曰:「非力所及,考中中。」既無喜容,亦無愧詞。又改曰:「寵辱不驚,考中上。」

雍州長史、盧承慶を司刑・太常伯となす。承慶嘗、内外の官を考す。一官あり、運を督するに、風に遭い、米を失う。承慶、これを考して曰く:「運を監して、糧を損う。中下と考す。」その人、容色、自若たり。無言にて退く。承慶、その雅量を重んじ、改めて註して曰く:「力の及ぶところにあらず。中中と考す。」既にして喜こぶ容なく、また愧詞なし。また改めて曰く:「寵辱に驚かず。中上と考す。」
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盧承慶が評価した一人の役人は運搬中に風雨のため米俵を失ってしまったので、考課は低かった。しかし、その役人はまったく弁明もしなかったので、盧承慶は可哀想になり、評価を上げたが全く喜ぶ様子もみせなかった。更に、評価がもう一段階上がっても全く動じなかった。その様子に盧承慶はますます感心した。

この話では、評価された役人の泰然とした態度もさることながら、その態度を評価して、考課を上げた盧承慶も立派であった、というニュアンスが資治通鑑の文からは感じられないだろうか?

ところで、この盧承慶は盧思道の孫であるが、盧思道は危ない所をその文才のお蔭で命拾いしたのだった。

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北史(中華書局):巻30(P.1076)

北周の武帝が北斉を滅ぼしたあと、盧思道は儀同三司に任命されたので、長安に上った。同僚の陽休之たちと数人で『聴蝉鳴篇』の賦を合作した。盧思道の作った部分の文章が素晴らしかったので、人々から高く評価された。新野の**信が同時に作られた賦を全部チェックして特に盧思道の素晴らしさを誉めた。暫くして、盧思道の母が亡くなったので、故郷の帰ったがその途中で、同郷人の祖英伯と従兄の盧昌期が挙兵して反乱を起こし、盧思道も巻き込まれてしまった。総理大臣の宇文神挙が乱を平定した。盧思道も乱に加担した罪で死刑になるところであったが、宇文神挙は前から盧思道の噂を聞いていたので、引き出して白布と筆を渡して、戦捷文を書かせたところ、たちどころに書きあげたが、一つの書き直しもなかった。宇文神挙はその出来栄えに喜び、釈放した。

周武帝平齊、授儀同三司、追赴長安。與同輩陽休之等數人作聽蝉鳴篇。思道所爲、詞意清切、爲時人所重。新野庾信、覽諸同作者、而深歎美之。未幾、母疾、還郷。遇同郡祖英伯及從兄昌期等舉兵作亂、思道預焉。柱國宇文神舉討平之。思道罪當斬、已在死中。神舉素聞其名、引出、令作露布。援筆立成、文不加點。神舉嘉而宥之。

周の武帝の斉を平らぐや、儀同三司を授けらる。追いて長安に赴く。同輩の陽休之ら数人と聴蝉鳴篇を作す。思道のなす所の詞意、清切なり。時人の重ずるところとなる。新野の庾信、この同じく作す者をみて、深くこれを歎美す。いくばくもなく、母、疾す。郷に還る。たまたま同郡の祖英伯、及び従兄・昌期らが挙兵し乱をなすに遇う。思道、これに預る。柱国・宇文神挙、これを討平す。思道の罪、まさに斬にあたり、已に死中にあり。神挙、もともとその名を聞き、引き出して、露布をなさしむ。筆を援け、立ちどころに成る。文は点を加えず。神挙、嘉し、宥す。
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盧思道はその文才の為に命拾いをした。まさに『芸は身を助く』を地でいく話であるが、子供のころは詩文などには全く目もくれないやんちゃ坊主であった。ところが、16歳の時、ある人の作った碑銘が全く読めないことに発奮し、先生について勉強した。人から多くの本を借りて読みまくり、数年にして世間から認められる学識を身につけたと史書は伝える。(『北史』巻30)

この祖父(盧思道)にしてこの孫(盧承慶)あり、という思いがする。

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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沂風詠録:(第202回目)『リベラルアーツとしての科学史(その1)』

2013-06-16 20:01:26 | 日記
先日(2013年3月2日)『第8回リベラルアーツ教育によるグローバルリーダー育成フォーラム』を開催し、そこで私が
 『リベラルアーツとしての科学史』
と題して下記の趣旨の話をした。

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 リベラルアーツの一つの観点に『自然界のしくみと自然の利用』がある。これは、個別の学問や技術のディテールを理解するという視点ではなく、もっと大きな視点、すなわち『科学史・技術史』という歴史的および、これらの学問・技術の相互の関連性からそれぞれの文化の自然に対する考え方を理解すると言う観点が必要だと考える。

残念ながら、科学史・技術史は、日本では理系の学部といえどもそれぞれの専門科目に関連してごくトピック的にしか取り上げられない。とりわけ、物理学・化学や工学のように近代のヨーロッパで大発展を遂げた学問領域に関しては、中国や日本などの東洋の貢献は絶無といっていいほど触れられることはない。しかし、日本がペリーによる開国(1854年)から半世紀もたたない内に先進工業国の仲間入りができた事実を考えれば、当然のことながら、ペリー来航までに日本の工業技術レベルがすでに相当高かったことに思い至るだろう。

しかしそれにしても非ヨーロッパ諸国の中でなぜ日本だけが近代化・工業化が可能であったのだろうか?なぜ歴史的に日本よりずっと先進的であった中国で先に近代化がなされなかったのだろうか?

このような疑問は何も日本と中国だけに絞った話ではない。それぞれの文化圏の発展そのものに科学・技術が深く関連しているのだ。それゆえ、私はリベラルアーツとして『科学史・技術史』と学ぶことは非常に重要であると考えている。 この観点から、今回はグローバル視点からリベラルアーツとしての科学史の話をしたいと思う。

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本稿はその内容を掲載する。

【目次】
 1. リベラルアーツの科目・リベラルアーツの四大分野
 2. 科学史を学ぶ意味
 3. 科学史の疑問
 4. 科学の発展 (ヨーロッパ+イスラム、BC 30 c. - AD 20 c.)
 5 ニーダムの疑問
 6. 科学と似非科学
 7. 科学の発展に見る民族性
 参考文献

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1. リベラルアーツの科目・リベラルアーツの四大分野

世の中では、リベラルアーツというと決まって歴史、宗教、哲学、文学、文明論、芸術文化、という文系の科目が挙がるが、科学や技術という理科系の科目に関して一言も触れられない。まるで科学や技術について議論するとリベラルアーツを語る人の品位が下がるとでも言うかのように避けられている。私は、こういった世間の風潮は、はっきりと『間違っている』と考えている。

言うまでもなく、現在の世界の政治・経済・思想や生活自体をを科学・技術抜きで語ることが不可能である。これは過去の世界においても全く同じだ。例えば、十字軍とは、イスラム教徒が支配したエルサレムを、ヨーロッパのキリスト教徒が奪回するための軍事行動と一般的に理解されている。そして決まって『第X回の十字軍は、XX王が主体となって。。。』というように誰が軍隊を派遣したのか、そしてどこを攻めた、などが記述の対象となる。このように政治的、軍事的側面だけから十字軍を見ていると、 12世紀になって突如として科学・技術革新がヨーロッパに起こったことの原因が理解できない。十字軍の兵士たちは戦争をしに行っただけでなく、長期間にわたって中東・イスラムに滞在して、かの地の先進的な科学技術の実物をヨーロッパに大量に持ち帰ったのである。これによって科学・技術でかなりビハインドにあったヨーロッパがようやくイスラムのレベルの追いつくことができた。

あるいは、江戸時代、オランダは日本から大量の銅のインゴット(銅棹)をヨーロッパに持ち帰ったため日本から銅が払底してしまった。その理由は日本の銅には僅かであるが、それでもかなりのパーセントの金が含まれていたからである。錬金術のお蔭でヨーロッパでは冶金術が発達し、僅かの金でも取り出す技術が日本より格段に優れていたため、金を多く含む日本の銅は彼らにとってはいわば宝の山であった訳だ。

このように、科学史・技術史を理解せずに過去の社会は理解できないのである。この意味で、『リベラルアーツ教育によるグローバルリーダー育成フォーラム』では、
 『議論のテーマは、古今東西の歴史、宗教、哲学、科学技術史、などの文理統合した幅広い分野』
であるべきだと考えている。つまり、私が考えるリベラルアーツが対象とすべき科目と分野は次の図で示すように、幅広いものだ。

 
 


尚、この『リベラルアーツの科目』と『リベラルアーツの四大分野』に関する説明は、以前のブログ、沂風詠録:(第172回目)『グローバルリテラシー・リベラルアーツ・教養(その3)』で述べたのでそちらを参照して頂きたい。

続く。。。
コメント (6)
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