限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

通鑑聚銘:(第34回目)『外寇による大混乱で死者数えきれず』

2010-04-01 05:42:25 | 日記
中国の歴史を読んでいて、一番痛ましいのは、外敵の侵入(寇)による甚大な被害だ。外敵とは主に北方と西方からやってくる騎馬部族だ。漢になって中国の領土が拡大され、漢民族が北へ西へと移住した(あるいはさせられた)。ところが、駐屯兵の数が少なかったので、幾度となく機動力の優る騎馬部族に蹂躙される悲劇に見舞われた。時として騎馬部族は中国の中心部まで食い込んできた。



そしてその都度、地獄絵が繰り広げられた。

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資治通鑑(中華書局):巻49・漢紀41(P.1587)

先零羌という遊牧の部族が河東を越えて、河内まで侵略してきた。住民は驚ろき慌てて、黄河を渡って南に避難した。
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先零羌は勢いがあった。辺境の地の役人達は、どいつもこいつも皆、中国本土(内郡)生まれの人間で、全く戦う意志がなく、われ先に本土に避難してしまった。
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残された住民達は、役人達とは違って土着の人間なので、土地を去る訳にいかず、留まった。秋の穀物の刈り取りをしたが、家が壊され壁だけの家なので、蔵に入れることなく野放しの状態であった。そこにイナゴが大量発生し、飢饉が襲ってきた。先零羌に人や物が強奪され、家族は散り散りになり、逃げる途中で死んだ人も多い。老人や、か弱い者は見捨てられた、生き延びた人も、自立できず富家の下僕となった。結局、大半の人が死んでしまった。

先零羌寇河東,至河内,百姓相驚,多南奔渡河,
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羌既轉盛,而縁邊二千石、令、長多内郡人,並無守戰意,皆爭上徙郡縣以避寇難。
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百姓戀土,不樂去舊,遂乃刈其禾稼,發徹室屋,夷營壁,破積聚。時連旱蝗饑荒,而驅蹙劫掠,流離分散,隨道死亡,或棄捐老弱,或爲人僕妾,喪其太半。

先零羌、河東を寇し、河内に至る。百姓、あい驚き,多く、南奔し、河を渡る。
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羌、既に転盛す。而して縁辺の二千石、令、長、多くは内郡の人。並びに守戦の意なし。皆、争いて郡県に上徒し、もって寇難を避く。
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百姓、土を恋い、旧を去るを楽まず。遂にすなわち、その禾稼を刈る。室屋を発徹し、営壁をたいらかにし、積聚をやぶる。時に、旱蝗つらなり、饑荒す。而して駆蹙し劫掠さる。流離、分散し、道にしたがいて死亡す。或は、老弱を棄捐し、或いは人の僕妾となり、その大半を喪う。
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騎馬部族の侵攻は、残酷を極め、毎回、このような惨状となる。それは、かれら騎馬部族は、奪い取れるだけの財宝をとれば、さっさと引き上げるので、後はどうなろうと知ったことではなかったからである。これに比べると日本は島国で外敵の侵攻から守られていて、ここに記述されているような惨劇は歴史上ほとんど皆無と言っていいだろう。このような酷な経験を数千年以上も(あるいは何万年も)続けることを強いられた中国人が、猜疑心深く、かつ自分の身内だけしか信頼しなくなったのも、むべなるかな、と考えてしまう。
コメント
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