限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第46回目)『中国四千年の策略大全(その 46)』

2023-12-31 09:15:04 | 日記
前回

中国は、1989年6月4日の天安門事件以降、国民の不満をそらすために、江沢民が反日教育を主導した。それ以降、何かにつけ本心からではなく、政策的観点から日本を敵視することで、国内の不満を共産党に有利になるように、上手に操作してきた。こう書くと、あたかも近代の共産党だけが情報操作が巧みであるような印象を与えるだろうが、実はこのような策略は春秋戦国時代からの長き伝統であることは、『春秋左氏伝』《桓公・6年》(BC 705)にも載せられている次の話からもよく分かる。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 825 / 鬥伯比季梁】(私訳・原文)

楚の武王が随を征服しようと考え、まず使者を派遣して交渉を行わせた。軍隊を国境近くに待機させ無言の圧力をかけた。随は大臣の董成を派遣してきた。楚の鬥伯比がいうには「我が国が漢東の諸国を征服できないのは我々の対外方針が間違っているからだ。我々には、強い軍隊があるぞ、といって武力で諸国を制圧しようとしているので、諸国は我が国の威力を恐れて共同で防衛しようとしている。それで、なかなか勝てないのだ。もし、漢東の諸国の中で随だけが俄然大きくなると、小さな国々は随を恐れて離れていってしまうだろう。これは我が方にとっては思うつぼだ。随の使者は随王の寵愛している者だ、こいつに我々の軍が弱いという所を見せてやれば、きっと帰ってから楚を討つべし、と随王に進言することであろう。」果たして、随の使者は帰ってから随王に楚など簡単に攻め取ることができますと進言したので、随王も楚を攻めようとした。しかし、季梁が「楚はわざと弱兵を見せて、こちらの攻めを誘っています。わなにかかってはなりません!」と強く諌めたので随王は楚を攻撃するのを止めた。

楚武王侵随、使求成焉、而軍瑕以待之。随人使少師董成。鬥伯比曰:「我之不得志於漢東也、我則使然:我張吾三軍、以武臨之、彼則懼而協以謀我、故難図也。漢東之国、随為大、随張、必棄小国、小国離、楚之利也。少師寵、請羸師以張之。」少師帰、請追楚師。季梁諫曰:「楚之羸、其誘我也!」乃止。
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この話について、馮夢龍は次のように評している。「当時、季梁がいなかったらな、危うく楚の計略にひっかかるところであった。楚子反の言葉に「敵の城を攻略しようとする者は、馬に柑をはませ、餌を与え、恰幅の良い人間に接客させる。これら全て敵を威圧するためである。よって、わざと弱いところを見せるのは計略にはめようと誘っているのだ。」(当時微季梁、幾堕楚計。楚子反有言:「囲者、柑馬而秣之、使肥者応客。」故凡示弱者皆誘也。)

結局、季梁が随主を諫めたので、楚の計略にひっかからずに済んだという。当時も、そして現在も、中国の計略は一筋縄ではいかない。。



馮夢龍はこの評に続けて、次のような類似の話を紹介している。時は、7世紀末の武則天(日本では則天武后という)の時代。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 825 / 鬥伯比季梁】(私訳・原文)

武則天の時、契丹の李尽忠と孫万栄が反乱を起こして、営州の営府を占領した。地下牢に捕虜数百人を閉じ込めた。麻仁節たちの官軍が進撃してくると聞くや、賊兵たちは牢の門番にわざと「われらは寒さと飢えで死にそうだ。唐の軍が来たら、即刻、投降しようと思っている」と嘆いてみせた。数日して囚人たちを牢から引き出して粥を与えていうには「食糧不足でお前たちに配給できる食べ物がない。お前たちを殺すのも気の毒なので、釈放してやるが、どうする?」と聞くと、囚人たちは伏し拝んで命乞いしたので、釈放した。囚人たちは幽州に辿りつくや、賊兵から釈放された理由をしゃべりまくったので、唐の兵士たちは、賊兵など恐るるに足らずと、先を競って進軍して黄鑾峪(黄麞谷ともいう)に到着した。賊兵は、老人たちに官軍が来たら投降せよと命じて、やせて年老いた牛馬を与えておいた。官軍の麻仁節たちは、賊兵をあなどって、進軍速度の遅い歩兵隊は置き去りにして騎兵の武将たちだけで進んで行ったところ、賊の待ち伏せに遭って武将たちは軒並み斬り殺され、大将の麻仁節は捕虜となり、全滅した。

天后中、契丹李尽忠、孫万栄之破営府也、以地牢囚漢俘数百人、聞麻仁節等諸軍将至、乃令守者紿之曰:「家口飢寒、不能存活、待国家兵到即降耳。」一日引出諸囚、与之粥、慰曰:「吾等乏食養汝、又不忍殺汝、縦放帰、若何?」衆皆拝伏乞命、乃縦去。至幽州、具言其故。兵士聞之、争欲先入、至黄鑾峪、賊又令老者投官軍、送遺老牛痩馬於道側。仁節等棄歩卒、将馬先入。賊設伏、橫截将軍、生擒仁節等。全軍皆沒。
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契丹の軍隊は食糧難の上、戦闘意欲もないとの話を信じ込んだために、麻仁節に率られた唐の軍隊は全滅した。自分たちは弱いと見せかかて、敵を油断させておいて一挙に敵を全滅に追い込む、契丹の作戦勝だ。中国と交渉する政治家や、中国人相手にビジネスをする日本人は注意の上にも何倍も注意をするにこしたことはないということだ。

続く。。。
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沂風詠録:(第358回目)『立花隆の読書について(前編)』

2023-12-24 10:12:00 | 日記
多方面に活躍したジャーナリストの立花隆が逝去して早や2年になる。私は特別にファンという訳ではなく、何冊かは読んだ程度なので、まだまだ立花隆の知の全貌を理解したとはいえないが、感想を述べてみたい。

『知の旅は終わらない』(文春新書)は、彼の自伝ともいうべき内容が盛り込まれている。私が共鳴を受けたのは、彼が東大生の時に、学生青年核軍縮会議の出席を口実として、ヨーロッパに行くためにいろいろと画策し、貴重な体験をしたことだ。旅行費捻出のために、策略を駆使し、バイタリティあふれる実行力に感心すると同時に、非常に運のよい人だと思った。彼の成功の数々はキケロのいう「幸運は前髪はあるが後ろ髪はない」という諺を思い出させる。

ヨーロッパを観光旅行するのではなく、ヨーロッパ本場の知識人との交流を通して、ヨーロッパの知的伝統に触れることができたおかげで、彼の知的ホライズンが一挙に世界レベル(グローバル)に拡大した。そのため、それ以降の彼の言動の全てにおいて日本のちまちました、蛸壺的な雰囲気から抜けきっている。彼の述懐では「わずか半年間の経験でしたが、この旅行から帰ってきたあと、物事がまったく以前と違って見えたことを、いまでもはっきりと覚えています」と表現されている。

若い頃の海外生活によって強烈な印象を受けることに関しては、私も22歳の学生時代にドイツに留学して同様な経験をした。その結果、帰国後、日本社会に蔓延する偏狭な島国根性、および徹底的な議論をせずに高圧的に物事が決められていくことに嫌気がさすことが多い。先年(2010年)アムステルダムでカレル・ヴァン・ウォルフレン氏を訪問したとのブログ記事を書いたが、まさにウォルフレン氏との知的バトルは、まざまざとヨーロッパの知識人の強靭な粘り腰を再認識させられた。この意味で、私は「日本の若者は20歳代に海外、特に欧米圏に留学すべき」だと考えている。それも、物見遊山気分で滞在するのではなく、同年代や年配の知識人と深い議論を積み重ねることが必要だ。日本の近年数十年の凋落はまさにそのような深い知的バトルの経験のない(あるいは、経験してもうすっぺらい経験の)人たちが、高級官僚や政治家、あるいは企業経営者となって、この国を動かしているからだと考える。



『立花隆の書棚』(中央公論新社)は通称、「ネコビル」と呼ばれた彼の蔵書館の内部の書棚の全貌を写真に撮り、主要な図書を自ら解説したものだ。『知の旅は終わらない』にも図書の紹介は多いが、『立花隆の書棚』は網羅的という意味では、群を抜いている。今までのキャリアと並行して書き上げた書物や読んだ書物が何百と並ぶ。私はこの本を読んで、初めて彼がギリシャ語やラテン語、さらにはヘブライ語まで触手を伸ばしていたことを知った。私もドイツ留学時代、プラトンのドイツ語訳を読んで以来、ヨーロッパ古典語であるギリシャ語とラテン語は、マスターしなければ、あるいはも少しぐらいは理解出来なければいけない、と感じてきた。しかし、残念だが学生時代にこれら古典語を学ぶチャンスに恵まれなかったしかし、社会人になり、44歳の時にようやく少しばかりの時間的余裕ができたので、集中してラテン語とギリシャ語を独学した。数ヶ月してようやく、ある程度これらの言語を理解できるようになった。そして、つくづく思うに、「文化理解に基礎は言語であり、ヨーロッパ文化(欧米)の本質を理解しようとすれば、やはりこの2つの古典語はある程度読めないといけない」と確信した。

それと同じ意味で、日本人である我々は漢文も、ある程度読めないといけない。ところが、立花隆の書棚の写真を見るに、漢文の本がほとんど見当たらない。彼は哲学科に編入しなおした時に、漢文の専門授業を受講したという。それは赤松忠教授の中国哲学の授業で『荘子集解内編補正』(古籍出版社)を先生が一字一字、詳細に説明し解釈してくれたという。彼を貶すわけではないが、この類の本は、神保町の中国書籍店(例:東方書店や内山書店)にいけば容易に入手できる。私は荘子が好きなので、この類の書籍は所持し、時たま読むことはあるので膨大な注釈にも全く驚かない。つまり、問題は漢文の難しい語句を精緻に解釈できることではなく、学者ではない我々一般人にとっての漢文が読めるメリットというのは、日本語に翻訳されていない多くの文書、とりわけ24史や資治通鑑のような歴史書を自力で読みこなせる所にある。この意味で、中国の古典籍が立花隆の視界に入っていなかったということは、残念ながら、彼は日本も含め中国文化の精髄に触れていなかったのではないだろうか?

続く。。。
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智嚢聚銘:(第45回目)『中国四千年の策略大全(その 45)』

2023-12-17 09:41:15 | 日記
前回

囲碁のことわざに「石の音がした反対の所に打て」というのがある。つまり、石が置かれた場所からかけ離れたところの方が本命の場所であるということだ。これに類した戦法は『老子』の第36章に見える「微明」というやり方だ。「将に、これを奪わんと欲すれば、必ず固くこれに与う」(将欲奪之、必固与之)。「奪う」という最終目的を隠したまた、逆の「与える」という行為をすることで、自分の意図をカモフラージュし、相手を油断させておき、足をすくうことができるという。光武帝の名将の耿弇はまさにこの策略を地でいき、成功した。

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 馮夢龍『智嚢』【巻22 / 801 / 朱雋】(私訳・原文)

後漢の始めころ、張歩の弟の張藍は精兵2万人で西安を守備していた。また、20数キロメートル離れている臨淄には1万人の兵が守備していた。光武帝の将軍である耿弇がこの二城の中間の地点に進軍してきた。そして西安城は小さいといえども守りは堅固であるが、一方の臨淄城は大きいが攻略しやすいことを見て取るや、「五日後に西安を攻めるぞ」と公言した。西安を守備していた張藍はそれを聞いて日夜、警備を怠らなかった。約束の日の前夜に、耿弇は武将たちに、兵士たちに夜食を取らせるよう命じた。朝があけると、臨淄に向かって攻め、半日で落城させた。落城の知らせを聞いた、張藍は恐くなって西安城を脱出して逃走した。戦争が終わってから、武将たちは耿弇に質問した「先日、将軍は西安を攻めると公言しておきながら、当日になって急に臨淄を攻めに行きましたね。そうして、取って返して西安も陥落させましたが、どうしてそのようになさったのですか?」耿弇は次のように説明した「西安は攻められると聞いて必ずや守備を固めたに違いない。しかし、臨淄はこちらにはこないと安心して必ず守備がおろそかになっていた。そこを攻めたので、あっという間に陥落したのだよ。臨淄が陥落すると、西安は孤立したので、守りようが無くなったという訳だ。これが、一撃で2つ倒すことができた理由だ。もし、先に西安を攻めたなら、戦闘意欲満々の兵と固い城の守りに阻まれて、我が方の死者も相当数に登ったことだろう。そうするとたとえ西安を陥落させたところで、敵の領地の奥深いところで、援軍も来ないとしたら、一ヶ月も経たないうちに参ってしまったことであろう。」 武将たちはこの言葉に感服した。

張歩弟藍、将精兵二万守西安、而諸郡合万人守臨淄、相距四十里。耿弇進軍二城之間、視西安城小而堅、臨淄雖大実易取、乃下令、後五日攻西安。藍聞、日夜警備。至期、夜半、弇敕諸将皆蓐食、及旦、径趨臨淄。半日抜其城、藍懼、棄城走。諸将曰:「敕攻西安而乃先臨淄、竟並下之、何也?」弇曰:「西安聞吾攻、必厳守具;臨淄出不意而至、必自警擾、攻之必立抜;抜臨淄則西安孤、此撃一而得二也!若先攻西安、頓兵堅城、死傷必多、即抜之、吾深入其地、後乏転輸、旬月間不自困乎?」諸将皆服。
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孫子に「上兵は謀を伐つ、その次は交を伐つ」という句があるが、耿弇の成功要因はそれを実践し、西安と臨淄を切り離したことにある。日本人は、孫子の文句を暗記して、呪文のように唱えているだけだが、中国人には、このような策略を実践できる人が多い、と感じる。



同じく孫子の「これを死地に陷れて、しかる後に生く」(陷之死地然後生)を実践したのが、漢の劉邦の名将である韓信である。よく耳にする「背水の陣」はこの孫子の概念を実践した。結局、兵士の心理を読んだ韓信の策略勝ちだが、同じような策略を考えついたのが、次に紹介する夫概王だ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 824 / 夫概王】(私訳・原文)

呉の闔閭が楚の軍を柏挙で破った。清発まで追いかけていって、まさに総攻撃をかけようとした時、闔閭の弟である夫概王が止めてこういった「獣ですら追いつめられると向かってくるものです。ましてや人間ならなおさらではありませんか。もし、死を免れる道がないと分かったら、それこそ必死で刃向ってくるでしょう。そうなると我が軍の方が逆に敗けるでしょう。それよりも、すんなり敵兵に川を渡らせる方がいいでしょう。川を渡って逃げることができると分かれば、皆、争って逃げるでしょう。そうすると、もう誰も戦おうという気持ちが失せてしまいます。敵兵の半分が川を渡ったところで、撃ちかかるのがよいでしょう。」闔閭はもっともな考えだと思い、その通りにして、楚の軍を大いに破った。5回連勝して遂に、呉の都・郢に攻め入った。

呉敗楚師於柏挙、追及清発、将撃之。闔閭之弟夫概王曰:「困獣猶鬥、況人乎?若知不免而致死、必敗我。若使先済者知免、後者慕之、蔑有鬥心矣、半済而後可撃也。」従之、大敗楚人、五戦及郢。
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史記には、呉が楚を破ってから話が載っている。楚の名士であった伍子胥は、無実の罪で父と兄を殺され、呉に亡命していたが、この時に楚に戻り、憎き敵である昭王の屍を取り出して、鞭打った。その後、伍子胥は呉王に疎まれ自殺を命じられた。「人を呪わば穴二つ」という結末。

続く。。。
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【座右之銘・140】『ギリシャ・ローマの崇高な精神に触れよ』

2023-12-10 10:06:47 | 日記
偉大なる師匠に心酔した弟子(弟子たち)の書いた語録には、人生の機微を穿つ警句が多い。

そのような語録は、東洋の『論語』だけでなく、西洋にも古くから数多く存在する。たとえば、古代ローマのストア派の賢人・エピクテトスの弟子のアッリアノスは『人生談義』を残したし、ソクラテスの語録に至ってはプラトンは言うまでもなく、クセノフォンも多く書き残している。

近代のそのような語録の双璧としてはスコットランド人のジェイムズ・ボズウェルが書き残した『サミュエル・ジョンソン伝』があり、ドイツではゲーテの晩年の弟子であるヨハン・ペーター・エッカーマンの『ゲーテとの対話』がある。



本日紹介するのは、岩波文庫の『ゲーテとの対話』(下)にある含蓄深い言葉。

ゲーテは常々、ギリシャやローマの哲学・歴史・文学に学ばなければならないと説いていたが、ある時、エッカーマンは「そうはいっても、古代ギリシャやローマのものを多く読んだ人にも、取るに足らない、つまらない人物も多い」と反論したところ、ゲーテは次のように返した。(1827年4月1日の記事)

「それに対しては、何もいうことはない。けれども、古代の文献の研究が、どんなばあいにも、個性の形成に役立たないというわけではぜったいにないよ。駄目なやつは、もちろんいつまでたっても駄目だ。小才しかないない人間は、古代の偉大な精神に毎日接したところで、少しも大きくならないだろう。だが、将来偉大な人物となり、崇高な精神の持主となるべき力をその魂の中に宿しているような気高い人物ならば、古代ギリシャやローマの崇高な天才たちと親しく交わり、付き合ううちに、この上なく見事な進歩をとげ、日々に目に見えて成長し、ついにはそれと比肩するほどの偉大さに到達するだろう。」(山下肇・訳)

 Johann Peter Eckerman: Gespräche mit Goethe in den letzten Jahren seines Lebens

»Dagegen ist nichts zu erinnern,« erwiderte Goethe; »aber damit ist durchaus nicht gesagt, daß das Studium der Schriften des Altertums für die Bildung eines Charakters überhaupt ohne Wirkung wäre. Ein Lump bleibt freilich ein Lump, und eine kleinliche Natur wird durch einen selbst täglichen Verkehr mit der Großheit antiker Gesinnung um keinen Zoll größer werden. Allein ein edler Mensch, in dessen Seele Gott die Fähigkeit künftiger Charaktergröße und Geisteshoheit gelegt, wird durch die Bekanntschaft und den vertraulichen Umgang mit den erhabenen Naturen griechischer und römischer Vorzeit sich auf das herrlichste entwickeln und mit jedem Tage zusehends zu ähnlicher Größe heranwachsen.«

この文章に初めて出会ったのは、40数年まえのドイツ留学時であった。それから私は、けっこうな時間を割いてギリシャ・ローマものを読んでは来たが、まだまだゲーテの最後の一文にあるような境地に達してはいない。《日暮途遠》(日暮れて、途遠し)の感がする。
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智嚢聚銘:(第44回目)『中国四千年の策略大全(その 44)』

2023-12-03 09:02:37 | 日記
前回

兵法というと日本では『孫子』という名が挙がり、ビジネス界では経営の手引書のように喧伝されているが、私は以前からずっと、このような風潮には不賛成だ。というのは、孫子を読めばわかるが、どうにでも解釈できる抽象論が多く、実際にどのように適用していいのか、という指針にならない。

昔、ギリシャのデルフィの神殿は地中海世界から神託を求めて、人々がお参りに来た。巫女を介して漏れ聞こえる神の言葉は極めて曖昧で、幾通りにも解釈できる。たとえば、アテネの国家の命運をかけたペルシャ戦争では「木の城壁」を造れとの神託を得て、アテネ人は幾通りにも考えた末に、急遽、戦艦を造った。アテネ市を防御するという陸戦を放棄して、海戦に一点集中したことで、ようやくの事、強敵ペルシャに勝利することができた。

あいまいな文句はいわば後智恵のようなもので、うまく行った暁には、その解釈でよかったといえるが、予め、はたしてその解釈で正しいかどうか、は不明というのが難点だ。

以前のブログ
【座右之銘・20】『盡信書、則不如無書』
で、韓非子にある「挙燭」という故事を紹介した。これは、あいまいな語句を間違って解釈をしたが、それが功を奏したにで、結果的にオーライになったということであった。私が言いたいのは、ビジネスのような実務に役立つ言葉というのは、孫子に書かれているようなあいまいな語句ではなく、だれが解釈しても同じ意味になるような、的確な表現でなければいけないということだ。その意味で、『智嚢』に盛り込まれている話は抽象論ではなく、きわめて具体的な事例で、ビジネス面での戦略を考える上で有用な書だと思う。



今回の話は、唐の名将・李靖が敵の動きを分析し、的確な策略で勝利した話だ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻22 / 800 / 李靖】(私訳・原文)

蕭銑が江陵を占拠した。李靖の水軍が戦艦、2000隻で攻めて行くと、蕭銑は大慌てで軍備を整え、迎え撃つ体制を整えた。河間王の李孝恭が蕭銑の陣を攻めようとすると、李靖がそれを制止して「彼は敗戦した軍を救いに来ただけで、何も戦略を持っていません。今の勢いは長続きしないでしょう。それで、もし我が軍が、川のこちら側に腰を据えて陣取って、急に攻めないと分かると、彼は必ずや兵を分けて、前線の陣地を防衛する部隊と本営を防衛する部隊に分けるでしょう。兵が分かれれば、当然、戦力が弱くなります。その時をねらって攻めれば、勝つこと間違いないでしょう。逆に、時を移さず、今攻めていくと必ずや敵は死力を尽くして戦ってくるでしょう。敵兵の強さには我が兵はとても敵わないでしょう」。李孝恭は李靖の止めるのも聞かず、李靖に守備を任せて、自ら軍を率いて攻めていったが、李靖が警告した通り、敗れて川の南岸に逃げた。敵兵は、置き去りにされた我が戦艦に乗り込み、荷物で身動きが取れないほど略奪しまくった。その混乱した様子を見た李靖は早速、兵を出して敵兵を皆殺しにした。さらに、勝に乗じて敵の本営である江陵にまで攻め込み、城郭の外部にまで入り込んで、敵の戦艦を多数捕獲した。

李靖は李孝恭に捕獲した船をすべて川(長江)に捨てておくように進言した。それを聞いた将軍たちは皆一斉に「戦いに勝って敵の戦艦を手に入れたのに、なぜみすみす捨ててしまうのか?」と訝った。李靖はその理由を説明した「蕭銑が占領している地域は南は嶺表から東は洞庭まであります。我が軍は敵の領内に相当深く侵入しています。ここでもし敵城を攻め取ることができなければ、敵の援軍は四方から集まってくるでしょう。そうなれば、我が軍は両面から挟み撃ちされれば、にっちもさっちも行きません。大量の船があってもどうしようもありません。それで、今、敵船を大量に廃棄すれば船は川(長江)を流れ下って行き、それを見た敵の援軍は、江陵は陥落したものだと考えて、進軍を止め、様子を見ることでしょう。そのように一ヶ月近くもぐずぐずしている所を叩けば、必ずや勝つこと間違いありません。」李靖の言ったとおり、敵の援軍は、大量の戦艦が流れてきたので、進軍を止めた。

蕭銑拠江陵、詔李靖同河間王孝恭安輯、閲兵夔州。時秋潦、濤瀨漲悪。銑以靖未能下、不設備。諸将亦請江平乃進、靖曰:「兵事以速為神。今士始集、銑不及知、若乗水傅塁、是震雷不及塞耳、倉卒召兵、無以御我、此必擒也。」孝恭従之、帥戦艦二千余艘東下、抜其荊門、宜都二鎮、進至夷陵。

蕭銑之罷兵営農也、才留宿衛数千人。聞唐兵至、大懼、倉卒徴兵、皆在江嶺之外、道途阻遠、不能遽集。乃悉見兵出拒戦、孝恭将撃之、李靖止之曰:「彼救敗之師、策非素立、勢不能久、不若且駐南岸、緩之一日、彼必分其兵、或留拒我、或帰自守、兵分勢弱、我乗其懈而撃之、蔑不勝矣!今若急之、彼則並力死戦、楚兵剽鋭、未易当也。」孝恭不従、留靖守営、自帥鋭師出戦、果敗走、趣南岸。銑衆委舟、収掠軍資、人皆負重。靖見其衆乱、縦兵奮撃、大破之。乗勝直抵江陵、入其外郭、大獲舟艦。李靖使孝恭尽散之江中、諸将皆曰:「破敵所獲、当借其用、奈何棄以資敵?」靖曰:「蕭銑之地、南出嶺表、東距洞庭、吾懸軍深入、若攻城未抜、援兵四集、吾表裡受敵、進退不獲、雖有舟楫、将安用之?今棄舟艦、使塞江而下、援兵見之、必謂江陵已破、未敢軽進、往来窺伺、動淹旬月、吾取之必矣。」銑援兵見舟艦、果疑不進。
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このような中国人の巧妙な策略を読むたびに、つくづく「策略の真髄は心理作戦だ」と感じる。柔道や相撲の本質が力に任せて技をかけることではなく、相手の重心の位置を崩すことで相手を倒すのと同じだ。この点に上達するには、相手の心理を何通りにも想定し、それぞれに対応する作戦を考えることができなければならない。囲碁や将棋で「手を読む」のと同じ知的活動が求められる。正統な手だけでなく、狡い手や汚い手も想像できなければ対策はたてられない。

かつて文化人類学者の梅棹忠夫は「日本人はおぼこい(naive)」と評した。日本人にも汚い手を使う輩はいるが、そのようなレベルではなく「えげつなく狡い手、汚い手」を少なくとも想像できなければグローバルでは太刀打ちできない。まさにこの点が日本人がグローバル基準からみて、全くの策略ベタである根本の理由だと私には思える。

続く。。。
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