(前回)
【378.献策 】P.4788、AD530年
『献策』とは文字通り「策を献ずる」という意味。「献」は辞海( 1978年版)によると「進也、下奉上也」とある。つまり「ランクの下の者が上位者に何かを差し上げる」という意味である。諸橋の大漢和では「良いはかりごとをすすめる」と「献」の字は分かり切ったことだとして、「策」に重きを置いた説明となっている。「献策」に類似の単語としては「献計、献謀、献言」などがあるし、一般的によく使われる「進言」もある。これらをまとめて二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。「進言」が一番よく使われているが、献言や献謀が近代になると使われていないように、時代変遷を見るのも興味深い。
さて、資治通鑑で献策が使われている場面を見てみよう。南北朝の末期ともなると、北魏の内部にはさまざまな派閥が競い合い、ついに東魏と西魏に分裂するがそれに至る途中の話だ。
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敬宗は城陽王の元徽に大司馬の職も兼任させて宮廷の記録を管理させ、朝廷と軍の両方を統括させた。元徽は爾朱栄が誅殺されたので、その郎党や部下たちも自然と勢力を失うに違いないと考えた。ところが案に反して、爾朱世隆をはじめとして至るところから反乱がおき、日を追うごとにその規模が大きくなった。元徽は怯え切ってどうすればよいか見当がつかなった。そのうえ、元徽は元来嫉妬ぶかく、自分が孝荘帝と話をするときに人が居ると機嫌が悪かった。帝とは他人を交えず常に一対一で謀議し、群臣から何らかの献策があれば、元徽はいつもその案をしないようにと帝に釘をさして、「チンピラどもの反乱はすぐにでも鎮圧してくれよう!」といきがっていた。また、元徽はケチで、功労のあった部下たちに褒賞を少ししか出さなかった。始めに多く与えると言ったのに、途中で気が変わって減額したこともあった。あるいは、与えても、後から召し上げることもあった。それで、いたずらに無駄な出費がかさんだが、人に恩恵を与えることはなかった。
敬宗以城陽王徽兼大司馬、録尚書事、総統内外。徽意謂栄既死、枝葉自応散落、及爾朱世隆等兵四起、党衆日盛、徽憂怖、不知所出。性多嫉忌、不欲人居己前、毎独与帝謀議、羣臣有献策者、徽輒勧帝不納、且曰:「小賊何慮不平!」又靳惜財貨、賞賜率皆薄少、或多而中減、或与而復追、故徒有糜費而恩不感物。
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爾朱栄が暗殺されて、混乱を迎えるなか、リーダーの器量が問われる場面だ。
リーダーのありかたを考えるに、古代の名だたる英雄には物惜しみしない人が多い。一番有名なのはアレクサンドロス大王であろう。ペルシャ帝国の財宝を運搬中、あまりの重さに騾馬(ラバ)がへたったので、兵士の一人が黄金の袋を担ぐ破目となった。あまりに重いので下ろそうとすると常に疲れているのを見て、その話を聴き、荷を下ろそうとした時に「へこたれるな!そのままテントまで担いでいったら、お前の物にしていいぞ」と励ました。何十キログラムもある金の塊を気前よくその兵士にあげたのだ。中国では漢の劉邦、日本では豊臣秀吉が、物惜しみしなかったリーダーであるが、流石にアレクサンドロス大王には敵[かな]いそうもない。
それから考えると、ここに登場する元徽は全く逆な性格だった。猜疑心が強く、ケチというのは、リーダーとしては取るところがない。さらに、敵に迫られて、逃げる際中に孝荘帝に出合った時、帝が何度も声をかけたにも拘わらず、素知らぬ風をして帝を置き去りにして逃げ去った。(帝屡呼之、不顧而去。)
元徽はかくまってもらおうとして、知人を頼って行ったが、元徽が所持する財宝と良馬に目がくらんだ知人は、安全な所に移動させると騙して、移動途中に部下に殺させた。胡三省はこの部分に「悪行はなんと速やかに罰せられることか!人は欺けても、天は欺けないとはこのことだ」(悪殃之報何速哉!蒼蒼之不可欺也如此)との感想を載せる。
(続く。。。)
【378.献策 】P.4788、AD530年
『献策』とは文字通り「策を献ずる」という意味。「献」は辞海( 1978年版)によると「進也、下奉上也」とある。つまり「ランクの下の者が上位者に何かを差し上げる」という意味である。諸橋の大漢和では「良いはかりごとをすすめる」と「献」の字は分かり切ったことだとして、「策」に重きを置いた説明となっている。「献策」に類似の単語としては「献計、献謀、献言」などがあるし、一般的によく使われる「進言」もある。これらをまとめて二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。「進言」が一番よく使われているが、献言や献謀が近代になると使われていないように、時代変遷を見るのも興味深い。
さて、資治通鑑で献策が使われている場面を見てみよう。南北朝の末期ともなると、北魏の内部にはさまざまな派閥が競い合い、ついに東魏と西魏に分裂するがそれに至る途中の話だ。
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敬宗は城陽王の元徽に大司馬の職も兼任させて宮廷の記録を管理させ、朝廷と軍の両方を統括させた。元徽は爾朱栄が誅殺されたので、その郎党や部下たちも自然と勢力を失うに違いないと考えた。ところが案に反して、爾朱世隆をはじめとして至るところから反乱がおき、日を追うごとにその規模が大きくなった。元徽は怯え切ってどうすればよいか見当がつかなった。そのうえ、元徽は元来嫉妬ぶかく、自分が孝荘帝と話をするときに人が居ると機嫌が悪かった。帝とは他人を交えず常に一対一で謀議し、群臣から何らかの献策があれば、元徽はいつもその案をしないようにと帝に釘をさして、「チンピラどもの反乱はすぐにでも鎮圧してくれよう!」といきがっていた。また、元徽はケチで、功労のあった部下たちに褒賞を少ししか出さなかった。始めに多く与えると言ったのに、途中で気が変わって減額したこともあった。あるいは、与えても、後から召し上げることもあった。それで、いたずらに無駄な出費がかさんだが、人に恩恵を与えることはなかった。
敬宗以城陽王徽兼大司馬、録尚書事、総統内外。徽意謂栄既死、枝葉自応散落、及爾朱世隆等兵四起、党衆日盛、徽憂怖、不知所出。性多嫉忌、不欲人居己前、毎独与帝謀議、羣臣有献策者、徽輒勧帝不納、且曰:「小賊何慮不平!」又靳惜財貨、賞賜率皆薄少、或多而中減、或与而復追、故徒有糜費而恩不感物。
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爾朱栄が暗殺されて、混乱を迎えるなか、リーダーの器量が問われる場面だ。
リーダーのありかたを考えるに、古代の名だたる英雄には物惜しみしない人が多い。一番有名なのはアレクサンドロス大王であろう。ペルシャ帝国の財宝を運搬中、あまりの重さに騾馬(ラバ)がへたったので、兵士の一人が黄金の袋を担ぐ破目となった。あまりに重いので下ろそうとすると常に疲れているのを見て、その話を聴き、荷を下ろそうとした時に「へこたれるな!そのままテントまで担いでいったら、お前の物にしていいぞ」と励ました。何十キログラムもある金の塊を気前よくその兵士にあげたのだ。中国では漢の劉邦、日本では豊臣秀吉が、物惜しみしなかったリーダーであるが、流石にアレクサンドロス大王には敵[かな]いそうもない。
それから考えると、ここに登場する元徽は全く逆な性格だった。猜疑心が強く、ケチというのは、リーダーとしては取るところがない。さらに、敵に迫られて、逃げる際中に孝荘帝に出合った時、帝が何度も声をかけたにも拘わらず、素知らぬ風をして帝を置き去りにして逃げ去った。(帝屡呼之、不顧而去。)
元徽はかくまってもらおうとして、知人を頼って行ったが、元徽が所持する財宝と良馬に目がくらんだ知人は、安全な所に移動させると騙して、移動途中に部下に殺させた。胡三省はこの部分に「悪行はなんと速やかに罰せられることか!人は欺けても、天は欺けないとはこのことだ」(悪殃之報何速哉!蒼蒼之不可欺也如此)との感想を載せる。
(続く。。。)