限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第436回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その279)』

2020-10-25 14:55:52 | 日記
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【378.献策 】P.4788、AD530年

『献策』とは文字通り「策を献ずる」という意味。「献」は辞海( 1978年版)によると「進也、下奉上也」とある。つまり「ランクの下の者が上位者に何かを差し上げる」という意味である。諸橋の大漢和では「良いはかりごとをすすめる」と「献」の字は分かり切ったことだとして、「策」に重きを置いた説明となっている。「献策」に類似の単語としては「献計、献謀、献言」などがあるし、一般的によく使われる「進言」もある。これらをまとめて二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。「進言」が一番よく使われているが、献言や献謀が近代になると使われていないように、時代変遷を見るのも興味深い。



さて、資治通鑑で献策が使われている場面を見てみよう。南北朝の末期ともなると、北魏の内部にはさまざまな派閥が競い合い、ついに東魏と西魏に分裂するがそれに至る途中の話だ。

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敬宗は城陽王の元徽に大司馬の職も兼任させて宮廷の記録を管理させ、朝廷と軍の両方を統括させた。元徽は爾朱栄が誅殺されたので、その郎党や部下たちも自然と勢力を失うに違いないと考えた。ところが案に反して、爾朱世隆をはじめとして至るところから反乱がおき、日を追うごとにその規模が大きくなった。元徽は怯え切ってどうすればよいか見当がつかなった。そのうえ、元徽は元来嫉妬ぶかく、自分が孝荘帝と話をするときに人が居ると機嫌が悪かった。帝とは他人を交えず常に一対一で謀議し、群臣から何らかの献策があれば、元徽はいつもその案をしないようにと帝に釘をさして、「チンピラどもの反乱はすぐにでも鎮圧してくれよう!」といきがっていた。また、元徽はケチで、功労のあった部下たちに褒賞を少ししか出さなかった。始めに多く与えると言ったのに、途中で気が変わって減額したこともあった。あるいは、与えても、後から召し上げることもあった。それで、いたずらに無駄な出費がかさんだが、人に恩恵を与えることはなかった。

敬宗以城陽王徽兼大司馬、録尚書事、総統内外。徽意謂栄既死、枝葉自応散落、及爾朱世隆等兵四起、党衆日盛、徽憂怖、不知所出。性多嫉忌、不欲人居己前、毎独与帝謀議、羣臣有献策者、徽輒勧帝不納、且曰:「小賊何慮不平!」又靳惜財貨、賞賜率皆薄少、或多而中減、或与而復追、故徒有糜費而恩不感物。
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爾朱栄が暗殺されて、混乱を迎えるなか、リーダーの器量が問われる場面だ。

リーダーのありかたを考えるに、古代の名だたる英雄には物惜しみしない人が多い。一番有名なのはアレクサンドロス大王であろう。ペルシャ帝国の財宝を運搬中、あまりの重さに騾馬(ラバ)がへたったので、兵士の一人が黄金の袋を担ぐ破目となった。あまりに重いので下ろそうとすると常に疲れているのを見て、その話を聴き、荷を下ろそうとした時に「へこたれるな!そのままテントまで担いでいったら、お前の物にしていいぞ」と励ました。何十キログラムもある金の塊を気前よくその兵士にあげたのだ。中国では漢の劉邦、日本では豊臣秀吉が、物惜しみしなかったリーダーであるが、流石にアレクサンドロス大王には敵[かな]いそうもない。

それから考えると、ここに登場する元徽は全く逆な性格だった。猜疑心が強く、ケチというのは、リーダーとしては取るところがない。さらに、敵に迫られて、逃げる際中に孝荘帝に出合った時、帝が何度も声をかけたにも拘わらず、素知らぬ風をして帝を置き去りにして逃げ去った。(帝屡呼之、不顧而去。)

元徽はかくまってもらおうとして、知人を頼って行ったが、元徽が所持する財宝と良馬に目がくらんだ知人は、安全な所に移動させると騙して、移動途中に部下に殺させた。胡三省はこの部分に「悪行はなんと速やかに罰せられることか!人は欺けても、天は欺けないとはこのことだ」(悪殃之報何速哉!蒼蒼之不可欺也如此)との感想を載せる。

続く。。。
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【麻生川語録・49】『Target-minded programming の勧め』

2020-10-18 22:45:19 | 日記
いまさら、言うまでもないことだがコロンブスがアメリカ大陸を発見したのが、1492年。その後、あれよあれよという間に中南米に殺到した強欲なスペイン人によって金銀が搾取され人々は呻吟した。この間、わずか30年たらずのできごとである。中南米には人々が一万年以上も住んでいたのだが、1500年までは強欲なスペイン人もおとなしくしていた。これはなにもスペイン人が1500年になって突如、強欲で狂暴になったのではなく、中南米という略奪可能な場所が存在していることを知らなかったためだ。つまり、彼らの強欲を目覚めさせたのは、成果がくっきりと頭のなかに想像できたからに他ならない。

話は変わるが、私は以前からことあるごとに「プログラミングは現代人には必須の技術」と言い続けている。必須である理由を説明したのが次のブログである。
 百論簇出:(第13回目)『自分でプログラムが組めるメリット』

このように言っても「それでは、私も遅まきながらこれからプログラミングを習い始めてみよう!」という人が一向に現れてこない。「説明のしかたが悪かったのではないか?具体例もいれて分かりやすく説明しなおそう」と考えて書いたのが次の11回の連載ブログ記事である。
 百論簇出:(第153回目)『IT時代の知的生産の方法(その1)』


【出典】A Guide To Programming For Non-Programmers


それでもまだ、プログラミングを始めようという人は現れてこない。「どこがおかしいのだろうか?」つらつらと考えている時、ある友人からの一通のメールでその疑問が解決した。その話をしよう。

その友人は中国古典が好きで、最近、諸橋の大漢和辞典を購入したそうだ。索引を使って検字(画数で調べて文字をさがす)をしているとの由。私も昔は同じような方法でこの大辞典の該当ページを探していたが、ある時ふと「ひょっとして、ウェブ上に大漢和辞典のデータがアップされているかも?」と思った。検索してみると「漢字データベース」というサイトに目的のデータがアップされていた。全漢字データは、ファイル名[dkw2ucs.txt]に格納されていてる。このファイルの中は、次のような英数字が 5万行もずらずらと並んでいるだけだ。(それぞれのカラムの内容は、「dkw2ucs.txtの書式」という説明文に書かれているとおりだ。)

D00001.0 DR001 DS00 DP00001 U+04E00
D00002.0 DR001 DS01 DP00072 U+04E01
D00003.0 DR001 DS01 DP00081 U+04E02 U+0310E
D00004.0 DR001 DS01 DP00081 U+20000 U+0311B
D00005.0 DR001 DS01 DP00081 U+0311C
D00006.0 DR001 DS01 DP00081 U+04E03
D00007.0 DR001 DS01 DP00104 U+04E04
D00008.0 DR001 DS01 DP00104 U+04E05 U+03112
D00009.0 DR001 DS01 DP00104 U+20001 U+03118
D00010.0 DR001 DS02 DP00104 U+04E07
D00011.0 DR001 DS02 DP00105 U+04E08
D00012.0 DR001 DS02 DP00107 U+04E09
D00013.0 DR001 DS02 DP00195 U+04E0A


このファイルだけでは、意味不明なので、ちょっとしたプログラムを書いて、次のようなエクセル表に変換した。



このエクセル表を検索することで、目的の漢字がどの巻の何ページに載っているかが瞬時に分かる。友人にこのエクセル表を送ったところ、非常によろこび「めちゃめちゃに活用させて頂いています! 知り合いの高齢の先生にお話したところ、自分も使わせてもらいたい、とご要望されました。」とのメールを頂いた。当然、「どうぞ、どうぞ」とお勧めした。

このエクセル表でそれほど喜んでもらえるとは、私の予想を遥かに超えていた。というのは、このエクセル表は、機能不足だからだ。具体的には、次の5点が足りない。

1.旧漢字の検索が困難
漢文を読んでいると、必ず旧漢字で引く必要が発生する。「沢」や「応」の旧漢字「澤」「應」はよく見かけるので、思い出すことも不可能ではないだろう。しかし、「仮」「医」などの旧漢字はめったに見ることもないので、思い出すのが困難だろう。思い出せなくとも、何らかのアプリで新漢字から旧漢字(正字体)に変換してエクセル表を検索すればよいが、一度ならなんともないが、何度と重なると、手間を省きたい欲求が高まる。

2.部首が分からない
このエクセル表は元のデータのレイアウトを変更していないので、部首が即座には分からない。ただ、検索した後に、該当巻とページ数が分かるので、辞典本体の該当個所を見ると部首が分かる。従って、部首が分からないのは、致命傷ではないがそれでも部首が分かる方が何かと便利だ。

3.合計の画数が分からない
この表の画数は該当部首内の画数なので、合計画数は分からない。この点は、2.とも関連している。つまり、部首が分かって初めて合計画数が分かるので、部首の画数を調べて、足し算してようやく合計画数が分かることになる。

4.複数の漢字を一度に調べることができない
漢字を調べる時に一字だけ調べるというより、熟語のように複数の字を一度に調べる方が多いだろう。そのような時には、それぞれの字を都度検索しないといけない。何とか一発ですべてを検索したいものだ。

5.四角号碼の番号が分からない
日本の漢和辞典ではあまり使われていないが、中国大陸では画数の代わりに四角号碼で引くことのできる辞書がある。大漢和辞典では必要ないが、中国の有名な辞書である辞源( 1987年版)を引くときにはこの四角号碼の番号から引く方が早い。いちいち自分で四角号碼を割り出すのは手間がかかりすぎる。

このように、このエクセル表は、大漢和の索引巻で検字するよりはるかに便利であることは否定できないものの、もう一歩足りない。これらの欠点をプログラムで解決することは、プログラマー歴40年の私にとっては、元データさえあれば全く簡単なことだ。早速、四角号碼のデータをダウンロードし、元データと合わせて加工しWindows10 上で動く検索システム、daikanwa を作った。動作の一例を下記に示す。(「経済」という文字を入力した。)

============================
>daikanwa 経済

【部首】糸  【部首画数】6  【四角号碼】27914
27392.0 : 画数 5 (合計 11 画): 巻 8 -1032 : 経

【部首】糸  【部首画数】6  【四角号碼】21911
27508.0 : 画数 7 (合計 13 画): 巻 8 -1071 : 經 , 經 ,𦀇

【部首】氵 / 𣱱 / 水  【部首画数】3 / 4 / 4  【四角号碼】30124
17749.0 : 画数 8 (合計 11/12/12 画): 巻 7 -89 : 済

【部首】氵 / 𣱱 / 水  【部首画数】3 / 4 / 4  【四角号碼】30123
18498.0 : 画数 14 (合計 17/18/18 画): 巻 7 -314 : 濟 , 濟

============================

さて、長々と大漢和辞典で漢字を見つけるシステムについて話をしたが、実はこの話は、冒頭に述べた「強欲なスペイン人」の話と深く関連している。

私が何度も「自分でプログラムが組めることは現代人には必須ですよ」と言っても、聞く人の心に響かないのはちょうど、コロンブスのアメリカ大陸発見以前のヨーロッパ人のように、欲望が心のなかに生まれていないからだ。しかし、ここの例で示したように「ちょとプログラムを組むだけで、こんなに便利になりますよ」という結果を目に見せることで、丁度、コルテスやピサロがアメリカ大陸から大量の金銀財宝をヨーロッパにもたらしてヨーロッパ人の強欲に火をつけたのと同じように、プログラミングに対する興味に火をつけることだろう。

その意味で、今後はプログラミングを学ぶ必要性について一般的・理念的に説明するのではなく、ちょっとしたプログラムで便利になる実例を示す方が手っ取り早いのではないかと考える。つまり、「目的ありきのプログラミング、(Target-minded programming)」ということだ。「便利な結果」というニンジンを目先にぶら下げてプログラミングに上達しようという気力に拍車をかけようという戦略だ。

あなたの心にプログラミング習得の意欲に火がついたであろうか?
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想溢筆翔:(第435回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その278)』

2020-10-11 15:02:54 | 日記
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【377.善処 】P.4784、AD530年

『善処』とは「物事をじょうずに処置すること」。もっとも、本来の字句通りに「良い処(ところ)」の意味も漢文(例:史記、巻56)にはある。辞海(1978年版)によると、「処」には「位置(location)」という意味の他に、「断決、処置」という意味があるという説明がある。この場合もそうだが、「処」を説明するのに「処置」という語句を使うあたり、言語学的な観点から言えば、中国語の辞書は漢字の意味を調べるには不適だと言えよう。

「善処」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。この中で、史記と漢書の「善処」は「良いところ」の意味であるが、他の例はおおむね一般的にいう「善処」の意味で使われている。全時代を通して「善処」はあまり使われていない単語であることから、「じょうずに処置する」という意味での「善処」は別の単語を使って表現されていたものと推測される。



さて、資治通鑑で「善処」が使われている場面を見てみよう。北魏が中国の北半分を統一してから百年が経過しようとしていたが、皇帝より権臣たちの力が強くなってきた。その一人、爾朱栄は自分の娘を皇帝の嬪として送り込み実力を握ることに成功した。ゆくゆくは、皇帝の位をも、と簒奪もひそかに考えていたに違いない。しかし、その驕りが油断を生んだのだろう、逆に皇帝みずからの手で暗殺されることになった。急激な政変はたちまち宮殿内外に広まった。

 +++++++++++++++++++++++++++
衞将軍の賀抜勝は爾朱栄が殺されたと知るや、爾朱栄の一党である田怡たちと爾朱栄の邸宅に駆け込んだ。当時はまだ宮殿の門はまだ警備が整っていなかった。それで、田怡たちは「即刻、宮門を攻めよう」と協議していたが、賀抜勝は制止していうには「皇帝が暗殺を計画したのであるからきっと宮殿の備えも万全のはずだ。我らの人数が少ないのに、どうして攻めて勝てようか?今は、宮殿を無事に抜け出すことに集中し、そのあとで考えるべきであろう」。田怡たちも納得した。爾朱世隆たちが逃走した時にも賀抜勝は行動を共にしなかったので、孝荘帝は非常に感謝した。朱瑞は元はといえば爾朱栄が任命した者であるが、朝廷の間を上手に世渡り(善処)したので孝荘帝も厚く遇した。それを聞いた朱瑞も一時は爾朱世隆に従って逃走したものの途中でこっそりと逃げ帰ってきた。

衞将軍賀抜勝与栄党田怡等聞栄死、奔赴栄第。時宮殿門猶未加厳防、怡等議即攻門、勝止之曰:「天子既行大事、必当有備、吾等衆少、何可軽爾!但得出城、更為他計。」怡乃止。及世隆等走、勝遂不従、帝甚嘉之。朱瑞雖為栄所委、而善処朝廷之間、帝亦善遇之、故瑞従世隆走而中道逃還。
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平和より戦乱の時代の方が長かった中国は、平和が長く続いた日本と真逆である。それ故であろうか、中国人の行動倫理に儒教が称揚する「忠」が感じられるケースはかなり少ない。(逆に言えば、「忠」が稀であるからこそ、関羽の忠義が目立つのである。)今回紹介するケースもそうで、朱瑞は一時は、孝荘帝に背いて爾朱世隆に従って行動したものの、途中で、爾朱世隆に愛想をつかして悪びれることなく孝荘帝の元に戻ってきた。

このような、ころころと志操を変える人でも中国人は見所があれば、むやみと冷淡には扱わないものだ。そういった判断はどのような精神構造からでてくるのか、日本人から見ると理解に苦しむ。推測するに、基本線さえ堅持していればその他の細かい部分を問わない、のが中国人の流儀なのだろう。その意味では、アメリカ風とも言っていいかもしれない。

続く。。。
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百論簇出:(第259回目)『クインティリアヌスの「弁論家の教育」(その5・最終回)』

2020-10-04 10:47:54 | 日記
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帝政期ローマの文人・タキトゥスは大歴史家として有名で、『年代記』『同時代史』などラテン文学白銀期を代表する作品がある。当時は、ローマの栄光を築いた元老院の力は見る影もなく、教養溢れ、気高さを誇った元老院の議員ですら皇帝にへつらい、卑屈な態度を示していた。タキトゥスはそのような事態を嘆き、かつて弁論が華やかなりしころを回想し、『雄弁家についての対話』(Dialogus de oratoribus)を書き上げた。

クインティリアヌスはタキトゥスより20年ほど年配になるが、当時弁論による社会的な力はすでに衰えていた。それでもなお弁論術は国家を背負ってたつ政治家の必須の教養と考えられたようだ。キケロが弁論術を "scientiae civilis"(Staatswissenschaft、市民の知識)と呼んでいたという言葉が引用されている。(巻2-15-33)クインティリアヌス自身の言葉では「弁論家は紳士であるので(orator est vir bonus)、人徳(virtus)がないとは考えられない」と表現されている。

人徳を強調はしているが、クインティリアヌスはこの本で弁論に関する技術的なヒントも数多く載せている。そのいくつかを紹介しよう。

〇弁論の文において、序文は全体が仕上がったあと、つまり一番最後に書くのがよい。(巻3-9-8)

○法廷弁論では、話しはじめる最初で、裁判官の注意を引き付けるようにせよ。初めに関心をもってもらえると、あとはスムーズにいく。(巻4-1-79)

○相手に強く印象づけるには、話を締めくくるときには最初に話したことを再度繰り返すのがよい。(巻9-3-43)

○(法廷弁論で)相手からこちらの弱点を突かれて窮したら、とにかく何でもいいから相手の弁論の欠点を見つけろ。欠点が見つからない場合は、相手の容姿でも何でもいいから、とにかくケチをつけろ。(巻5-13-39)

このように、弁護士としての名誉とキャリア―が懸かっている真剣勝負の法廷弁論では、とにかく勝たねば話にならない。それで、日本では卑怯といわれるようなこのような手法や、泣き落としなどの手練手管も図々しく次々と繰り出せとけしかける。さらに、本の後半の巻9では、比喩の使い方などについても例題をふんだんに使って詳しく説明している。



クインティリアヌスは弁論術に上達するヒントをいくつも述べているが、要は弁論術とは、理論をマスターすることではなく実践で鍛えることだ、というのが眼目である。その意味で最良の上達法はクインティリアヌスが崇拝するキケロも再三述べているが、とにかく「文章を多く書くこと」だとして、キケロの言葉を次のように引用する。(巻10-3-1)

optimum effectorem ac magistrum dicendi.

もっとも、クインティリアヌスのこの引用は、キケロの本文とは意味は同じものの表現は多少異なっている。次にキケロの言葉をそのまま引用してみよう。(Cicero、 "De Oratore"、巻1-150))

stilus optimus et praestantissimus dicendi effector ac magister.

これから分かるように、クインティリアヌスが引用している文章はたいてい暗記していて、自分の記憶から呼びおこして書いていることがわかる。この意味で、弁論術の隅から隅まで知り尽くしたクインティリアヌスのこの本『弁論家の教育』はヨーロッパの歴史の中でも完成度が最も高かった時代の弁論術の神髄を知るには最適の本だと言っても間違いないだろう。

(了)


***************


ところで、第一回目で、この本(Quintilianus, "Ausbildung des Redners")は柳沼先生が所有していた本だと紹介した。ただ、このドイツ語訳は正直なところ、実に分かりにくかったので、 Loebの英文を参照したが、Loebは非常に分かりやすく助かった。私は、以前から柳沼先生に私淑していたので、先生に遺贈されたと思っていたので、頑張って最後まで読み通すことができた。



さて、読み終えて暫くしてから、本棚を整理していると同じ本が見つかった!手にしてようやく、「そういえば、昔アマゾンに注文したなあ」と思い出した。チェックすると 5年前(2015年)に1万円以上もしたものだった。柳沼先生の2冊本がそのままで、一冊になっているので、総計で1600ページもあり、厚さ 7cm もある分厚い本で、かなり読みにくそうな本だ。無駄な出費をした訳だが、翻って考えるにこの一冊本では到底最後まで読みとおさなかっただろうな、と思った。本も、人間と一緒で、相性というのがあり、内容はともかく、何かしら読みとおさずにはいられないような運命を感じる本と、そうでない本がある。いづれにせよ、柳沼先生のおかげでようやくクインティリアヌスを読みとおすことが出来たのは、ありがたいことだと感謝している。

クインティリアヌスのこの本を読み、弁論術だけでなくローマ時代の教育全般について興味がわいてきたので、探すと H.I. Marrouの"A History of Education in Antiquity", Translated by George Lamb という本が見つかった。元はフランス語であるが、Lamb の英訳は非常にこなれていて、あたかも元から英語で書かれた本のようだ。内容も詳しいが、その上詳しい注もついている。本文のページ数は350ページばかりしかないが、コンテンツリッチな良書である。現在、約半分を読み終えたところであるが、いづれ読み終えたら感想を述べてみたい。
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