『6.05 中国の硬骨の臣、死を覚悟の上で諌める。(その10)』
隋の文帝の時代、権臣の楊素が絶頂期だったころ、朝廷のだれもが命惜しさに不正から目をそらしていた時、3人(柳、李綱、梁毗)だけが楊素に抗していたことは前回述べた。
柳と李綱については前回と前々回に述べたので、今回は、梁毗について述べたい。梁毗の伝は隋書・巻62と北史・巻77に載せられているが、ここでは北史を見ることにしよう。
梁毗は『性格は剛毅でずばずばと物をいう。学問は多岐にわたり深い』(性剛謇、頗有學渉)と評されている。文帝に仕えたが、ここでも持前の剛毅をいかんなく発揮し、直言したので皇帝から煙たがられ、僻地(西寧州)へと左遷された。(直道而行、無所回避、頗失権貴心。由是出為西寧州刺史。)しかし、持前の正義感から僻地の蛮族からは大いに尊敬された。
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資治通鑑(中華書局):巻179・隋紀3(P.5596)
以前に梁毗が西寧州の知事に赴任し、11年務めた。遊牧民の酋長たちは皆、金(Gold)を貯めることが富豪と考えて、お互いにかわりばんこに攻めては金を奪いあい、争いは止むことがなかった。梁毗はこの事態をどうにかしたいと思っていた。暫くして、酋長たちが揃ってやってきて梁毗に金を贈った。梁毗は金を側においてこれに向かって激しく泣いた。そして次のように言った。「この物は飢えていても食べることができないし、寒い時には着ることもできない。それなのにお前たちは争って数えきれないほどの殺し合いをしている。いま金を持ってきて、ワシを殺す積りだろう!」そして、金をひとかけらも受け取らなかった。酋長たちはようやく納得してそれからは互いに攻め合うことを止めた。文帝はこれを聞き、感心して都に呼び戻して大理卿(裁判長官)に任命した。梁毗は極めて公平な裁きをした。
始,毗爲西寧州刺史,凡十一年,蠻夷酋長皆以金多者爲豪雋,遞相攻奪,略無寧歳,毗患之。後因諸酋長相帥以金遺毗,毗置金坐側,對之慟哭,而謂之曰:「此物饑不可食,寒不可衣,汝等以此相滅,不可勝數,今將此來,欲殺我邪!」一無所納。於是蠻夷感悟,遂不相攻撃。上聞而善之,徴爲大理卿,處法平允。
始め毗、西寧州の刺史となること、およそ十一年。蛮夷の酋長は皆、金の多き者をもって豪雋となし、たがいに相い攻奪し、略し、寧歳なし。毗、これを患う。後に、諸酋長の相い帥いて金をもって毗におくる。毗、金を坐の側に置き、これに対して慟哭して謂いて曰く:「この物は、饑うるも食らうべからず。寒きも着るべからず。汝ら、これをもって相い滅ぼす、数うるにたうべからず。今、まさにこれの来たるは我をころさんとするか!」一も納むる所なし。ここにおいて、蛮夷は感悟しついに相い攻撃せず。上はこれを聞きて善しとし、徴して大理卿となす。法を処すること平允たり。
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中国では、地方長官となって赴任すると、どんな清廉な官吏でも3年ほどの間にひと財産を作ることができると言われている。それは、便宜を図ってもらおうと誰もが賄賂をもってくるからだ。梁毗にも酋長たちは金(Gold)をもってきたが、梁毗は金が原因で殺し合いをする愚をさとした。酋長たちは梁毗に服従した。
梁毗の賢明なやりかたを聞いて文帝は都に呼び寄せ、梁毗をご意見番とした。期待に違わず、梁毗は意見を述べたが文帝には耳の痛い話もあった。
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資治通鑑(中華書局):巻179・隋紀3(P.5596)
梁毗は楊素が権力をほしいままにしていると国が危うくなると思って次のように上書した。
「書経の洪範に『臣下は権力をもって他人に施しをしてはいけない。家に害あり、国には凶だ。』と書いてあります。以前から楊素の様子を見ていますと陛下が大事にされるので、ますます権力を持つようになってきました。貴族たちは楊素に監視されていて、逆らう者は冷遇されますが、おもねる者は甘い汁を吸えます。出世や富貴は楊素の胸先三寸に懸っています。彼のグループの人に誰ひとりとして忠臣な者はいません。彼の推挙する人は尽く親戚です。また兄弟・子供たちは各地の知事です。世の中が平和であればおとなしくしていますが、一旦世の中が乱れると必ずや国の災いとなりましょう。国を乱す姦臣というのは徐々に力を蓄えるものです。漢の王莽や晋の桓玄はそれぞれ年月をかけて勢力を得て、最後には漢や晋を滅ぼしました。陛下は楊素を信頼するにたる大臣だとお考えのようですが、私は彼は楊素は清廉な伊尹のような心をもった人物とは思いません。どうぞ、歴史上の事実を参考にして、楊素の処遇を再考してください。そうして国家を長く安泰にしてくだされば幸いです。」この上書を見た文帝は激怒して梁毗を収監し自ら尋問した。そこでも梁毗はひるむことなくこう言った。「楊素は陛下に可愛がられていることをかさにきてやりたい放題しています。部下の将軍たちが管轄している所では法を無視して勝手に人を殺めています。また、以前に太子の楊勇と蜀王の楊秀が罪にとわれて廃された時に官僚たちは恐ろしい事だと身震いをしましたが、楊素だけがあからさまに喜んでいました。国に波乱が起れば自分にとって有利だと彼は考えたのです。」文帝は、梁毗を押さえつけることができなかったので、釈放した。
毗見楊素專權,恐爲國患,乃上封事曰:「臣聞臣無有作威作福,其害於而家,凶於而國。竊見左僕射越國公素,幸遇愈重,權勢日隆,搢紳之徒,屬其視聽。忤旨者嚴霜夏零,阿旨者甘雨冬澍;榮枯由其脣吻,廢興候其指麾;所私皆非忠讜,所進或是親戚,子弟布列,兼州連縣。天下無事,容息異圖;四海有虞,必爲禍始。夫奸臣擅命,有漸而來,王莽資之於積年,桓玄基之於易世,而卒殄漢祀,終傾晉祚。陛下若以素爲阿衡,臣恐其心未必伊尹也。伏願揆鑒古今,量爲處置,俾洪基永固,率土幸甚!」書奏,上大怒,收毗繋獄,親詰之。毗極言「素擅寵弄權,將領之處,殺戮無道。又太子、蜀王罪廢之日,百僚無不震竦,唯素揚眉奮肘,喜見容色,利國家有事以爲身幸。」上無以屈,乃釋之。
毗は楊素の専権を見、国患となるを恐れ、即ち事を上封して曰く:「臣聞く『臣に威をなし福をなすあるなし、それ、汝の家を害し、国に凶』ひそかに見るに、左僕射・越国公・素の幸遇はいよいよ重く、権勢は日に隆し。搢紳の徒、その視聴に属す。旨にさからう者には厳霜、夏零、旨におもねる者には甘雨、冬澍。栄枯はその脣吻により、廃興はその指麾を候(うかが)う。私するところは皆、忠讜に非ず。進むところは或いは是れ、親戚。子弟は布列し、州を兼ね県を連ぬ。天下、無事ならば異図を容息するも、四海に虞あらば、必ず禍始とならん。それ、奸臣の命を擅しいままにするは漸にして来たるあり。王莽はこれを積年に資し、桓玄はこれを易世に基く。而して、卒(つい)には漢祀を殄し、終(つい)には晋祚を傾く。陛下、もし素をもって阿衡となすも、臣、その心は未だ必らずしも伊尹ならざるを恐るなり。伏して願わくば古今を揆鑑し、はかりて処置をなし、洪基を永く固め、率土を幸甚ならしめんことを!」書、奏す。上、大いに怒り、毗を収め獄に繋ぎ、親しくこれを詰す。毗、言を極む。「素、寵を擅ままにし、権を弄す。将領のところ、殺戮無道なり。また太子、蜀王の罪してこれを廃するの日、百僚は震竦せざるなきを、ただ素は眉を揚げ肘を奮いて、喜び容色にあらわる。国家に事あるを利にしてもって身の幸いとなす。」上、もって屈するなし。乃ちこれを釈す。
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楊素が文帝のお気に入りであるのを知りつつも国の為に弾劾した梁毗はまさに硬骨の臣と言える。その熱誠に心うたれた文帝は梁毗の言い分を理解し、放免した。そして次第に楊素を遠ざけるようになった。(其後、上亦寖疏忌素)
ところで、以前のブログ、
沂風詠録:(第201回目)『資治通鑑の文章に関しての質問への回答』
で述べたように、資治通鑑の文章は元の史書の文章を削除したり改変している。その例が上の梁毗を釈放した文章に見られるので紹介しておきたい。
資治通鑑では、
「。。。利國家有事以爲身幸。」上無以屈,乃釋之。
となっているが、隋書・北史ともにここは次のようになっている。(ただし隋書では、帝の代わりに高祖という)
「。。。利國家有事以爲身幸。」【毗發言謇謇,有誠亮之節】帝無以屈也,乃釋之。
資治通鑑で省略された語句【毗發言謇謇,有誠亮之節】は『梁毗の筋道だった言い方は、誠に忠誠心がよく表れている』の意味であるが、弁論の内容だけでなくその態度も立派であったと言うことだろう。私の個人的感想では、この句は省略は可能であるが、あった方が情景が活きる。
さて、梁毗は煬帝にも直言したが、受け入れられず憂えて死んだ。梁毗の息子は父の気性を引き継ぐことがなかった。その様子を隋書は次のように記す。
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隋書(中華書局):巻62(P.2622)
(文帝が死去し)煬帝が即位し、梁毗は司法長官(刑部尚書)に昇進し、御史大夫(官吏の不正を弾劾する役所の長官)も兼任した。宇文述が許可なく私兵を養っていると弾劾した。煬帝は宇文述を免罪にしたいと言ったが、梁毗が断固反対し、煬帝の思惑に逆らったので、とうとう更迭され張衡が御史大夫となった。梁毗は不安と腹立ちのためその後数か月で死去した。煬帝は自分の代理として法務大臣(吏部尚書)の牛弘を弔いにやり、絹布を五百匹贈った。
息子の敬真は煬帝の時に検事官(大理司直)になった。当時、煬帝は光禄大夫の魚倶羅に罪を着せたかった。そこで敬真に取り調べを命じたが、敬真は煬帝の思惑を察して魚倶羅に一番重い刑罰を課した。しばらくして、敬真が病気にかかったが、魚倶羅のために癩病にかかって数日で死んだ。
煬帝即位,遷刑部尚書,尭攝御史大夫事。奏劾宇文述私役部兵,帝議免述罪,毗固諍,因忤旨,遂令張衡代爲大夫。毗憂憤,數月而卒。帝令吏部尚書牛弘弔之,贈毗五百匹。
子敬眞,大業之世,爲大理司直。時帝欲成光祿大夫魚倶羅之罪,令敬眞治其獄,遂希旨陷之極刑。未幾,敬眞有疾,見倶羅爲之,數日而死。
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煬帝は梁毗を煙たくおもって退けたが、心のうちでは憚っていたので、梁毗が死ぬと手厚く弔った。息子の敬眞は煬帝におもねり、罪もない魚倶羅を陥れたために、癩病で死んだが、世間ではこれを魚倶羅の祟りだと噂した。(北史・『見倶羅爲祟而死』)父と息子というのは血はつながっていても、必ずしも同じ志操をもっているわけではないことが分かる。
(目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』)
隋の文帝の時代、権臣の楊素が絶頂期だったころ、朝廷のだれもが命惜しさに不正から目をそらしていた時、3人(柳、李綱、梁毗)だけが楊素に抗していたことは前回述べた。
柳と李綱については前回と前々回に述べたので、今回は、梁毗について述べたい。梁毗の伝は隋書・巻62と北史・巻77に載せられているが、ここでは北史を見ることにしよう。
梁毗は『性格は剛毅でずばずばと物をいう。学問は多岐にわたり深い』(性剛謇、頗有學渉)と評されている。文帝に仕えたが、ここでも持前の剛毅をいかんなく発揮し、直言したので皇帝から煙たがられ、僻地(西寧州)へと左遷された。(直道而行、無所回避、頗失権貴心。由是出為西寧州刺史。)しかし、持前の正義感から僻地の蛮族からは大いに尊敬された。
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資治通鑑(中華書局):巻179・隋紀3(P.5596)
以前に梁毗が西寧州の知事に赴任し、11年務めた。遊牧民の酋長たちは皆、金(Gold)を貯めることが富豪と考えて、お互いにかわりばんこに攻めては金を奪いあい、争いは止むことがなかった。梁毗はこの事態をどうにかしたいと思っていた。暫くして、酋長たちが揃ってやってきて梁毗に金を贈った。梁毗は金を側においてこれに向かって激しく泣いた。そして次のように言った。「この物は飢えていても食べることができないし、寒い時には着ることもできない。それなのにお前たちは争って数えきれないほどの殺し合いをしている。いま金を持ってきて、ワシを殺す積りだろう!」そして、金をひとかけらも受け取らなかった。酋長たちはようやく納得してそれからは互いに攻め合うことを止めた。文帝はこれを聞き、感心して都に呼び戻して大理卿(裁判長官)に任命した。梁毗は極めて公平な裁きをした。
始,毗爲西寧州刺史,凡十一年,蠻夷酋長皆以金多者爲豪雋,遞相攻奪,略無寧歳,毗患之。後因諸酋長相帥以金遺毗,毗置金坐側,對之慟哭,而謂之曰:「此物饑不可食,寒不可衣,汝等以此相滅,不可勝數,今將此來,欲殺我邪!」一無所納。於是蠻夷感悟,遂不相攻撃。上聞而善之,徴爲大理卿,處法平允。
始め毗、西寧州の刺史となること、およそ十一年。蛮夷の酋長は皆、金の多き者をもって豪雋となし、たがいに相い攻奪し、略し、寧歳なし。毗、これを患う。後に、諸酋長の相い帥いて金をもって毗におくる。毗、金を坐の側に置き、これに対して慟哭して謂いて曰く:「この物は、饑うるも食らうべからず。寒きも着るべからず。汝ら、これをもって相い滅ぼす、数うるにたうべからず。今、まさにこれの来たるは我をころさんとするか!」一も納むる所なし。ここにおいて、蛮夷は感悟しついに相い攻撃せず。上はこれを聞きて善しとし、徴して大理卿となす。法を処すること平允たり。
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中国では、地方長官となって赴任すると、どんな清廉な官吏でも3年ほどの間にひと財産を作ることができると言われている。それは、便宜を図ってもらおうと誰もが賄賂をもってくるからだ。梁毗にも酋長たちは金(Gold)をもってきたが、梁毗は金が原因で殺し合いをする愚をさとした。酋長たちは梁毗に服従した。
梁毗の賢明なやりかたを聞いて文帝は都に呼び寄せ、梁毗をご意見番とした。期待に違わず、梁毗は意見を述べたが文帝には耳の痛い話もあった。
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資治通鑑(中華書局):巻179・隋紀3(P.5596)
梁毗は楊素が権力をほしいままにしていると国が危うくなると思って次のように上書した。
「書経の洪範に『臣下は権力をもって他人に施しをしてはいけない。家に害あり、国には凶だ。』と書いてあります。以前から楊素の様子を見ていますと陛下が大事にされるので、ますます権力を持つようになってきました。貴族たちは楊素に監視されていて、逆らう者は冷遇されますが、おもねる者は甘い汁を吸えます。出世や富貴は楊素の胸先三寸に懸っています。彼のグループの人に誰ひとりとして忠臣な者はいません。彼の推挙する人は尽く親戚です。また兄弟・子供たちは各地の知事です。世の中が平和であればおとなしくしていますが、一旦世の中が乱れると必ずや国の災いとなりましょう。国を乱す姦臣というのは徐々に力を蓄えるものです。漢の王莽や晋の桓玄はそれぞれ年月をかけて勢力を得て、最後には漢や晋を滅ぼしました。陛下は楊素を信頼するにたる大臣だとお考えのようですが、私は彼は楊素は清廉な伊尹のような心をもった人物とは思いません。どうぞ、歴史上の事実を参考にして、楊素の処遇を再考してください。そうして国家を長く安泰にしてくだされば幸いです。」この上書を見た文帝は激怒して梁毗を収監し自ら尋問した。そこでも梁毗はひるむことなくこう言った。「楊素は陛下に可愛がられていることをかさにきてやりたい放題しています。部下の将軍たちが管轄している所では法を無視して勝手に人を殺めています。また、以前に太子の楊勇と蜀王の楊秀が罪にとわれて廃された時に官僚たちは恐ろしい事だと身震いをしましたが、楊素だけがあからさまに喜んでいました。国に波乱が起れば自分にとって有利だと彼は考えたのです。」文帝は、梁毗を押さえつけることができなかったので、釈放した。
毗見楊素專權,恐爲國患,乃上封事曰:「臣聞臣無有作威作福,其害於而家,凶於而國。竊見左僕射越國公素,幸遇愈重,權勢日隆,搢紳之徒,屬其視聽。忤旨者嚴霜夏零,阿旨者甘雨冬澍;榮枯由其脣吻,廢興候其指麾;所私皆非忠讜,所進或是親戚,子弟布列,兼州連縣。天下無事,容息異圖;四海有虞,必爲禍始。夫奸臣擅命,有漸而來,王莽資之於積年,桓玄基之於易世,而卒殄漢祀,終傾晉祚。陛下若以素爲阿衡,臣恐其心未必伊尹也。伏願揆鑒古今,量爲處置,俾洪基永固,率土幸甚!」書奏,上大怒,收毗繋獄,親詰之。毗極言「素擅寵弄權,將領之處,殺戮無道。又太子、蜀王罪廢之日,百僚無不震竦,唯素揚眉奮肘,喜見容色,利國家有事以爲身幸。」上無以屈,乃釋之。
毗は楊素の専権を見、国患となるを恐れ、即ち事を上封して曰く:「臣聞く『臣に威をなし福をなすあるなし、それ、汝の家を害し、国に凶』ひそかに見るに、左僕射・越国公・素の幸遇はいよいよ重く、権勢は日に隆し。搢紳の徒、その視聴に属す。旨にさからう者には厳霜、夏零、旨におもねる者には甘雨、冬澍。栄枯はその脣吻により、廃興はその指麾を候(うかが)う。私するところは皆、忠讜に非ず。進むところは或いは是れ、親戚。子弟は布列し、州を兼ね県を連ぬ。天下、無事ならば異図を容息するも、四海に虞あらば、必ず禍始とならん。それ、奸臣の命を擅しいままにするは漸にして来たるあり。王莽はこれを積年に資し、桓玄はこれを易世に基く。而して、卒(つい)には漢祀を殄し、終(つい)には晋祚を傾く。陛下、もし素をもって阿衡となすも、臣、その心は未だ必らずしも伊尹ならざるを恐るなり。伏して願わくば古今を揆鑑し、はかりて処置をなし、洪基を永く固め、率土を幸甚ならしめんことを!」書、奏す。上、大いに怒り、毗を収め獄に繋ぎ、親しくこれを詰す。毗、言を極む。「素、寵を擅ままにし、権を弄す。将領のところ、殺戮無道なり。また太子、蜀王の罪してこれを廃するの日、百僚は震竦せざるなきを、ただ素は眉を揚げ肘を奮いて、喜び容色にあらわる。国家に事あるを利にしてもって身の幸いとなす。」上、もって屈するなし。乃ちこれを釈す。
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楊素が文帝のお気に入りであるのを知りつつも国の為に弾劾した梁毗はまさに硬骨の臣と言える。その熱誠に心うたれた文帝は梁毗の言い分を理解し、放免した。そして次第に楊素を遠ざけるようになった。(其後、上亦寖疏忌素)
ところで、以前のブログ、
沂風詠録:(第201回目)『資治通鑑の文章に関しての質問への回答』
で述べたように、資治通鑑の文章は元の史書の文章を削除したり改変している。その例が上の梁毗を釈放した文章に見られるので紹介しておきたい。
資治通鑑では、
「。。。利國家有事以爲身幸。」上無以屈,乃釋之。
となっているが、隋書・北史ともにここは次のようになっている。(ただし隋書では、帝の代わりに高祖という)
「。。。利國家有事以爲身幸。」【毗發言謇謇,有誠亮之節】帝無以屈也,乃釋之。
資治通鑑で省略された語句【毗發言謇謇,有誠亮之節】は『梁毗の筋道だった言い方は、誠に忠誠心がよく表れている』の意味であるが、弁論の内容だけでなくその態度も立派であったと言うことだろう。私の個人的感想では、この句は省略は可能であるが、あった方が情景が活きる。
さて、梁毗は煬帝にも直言したが、受け入れられず憂えて死んだ。梁毗の息子は父の気性を引き継ぐことがなかった。その様子を隋書は次のように記す。
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隋書(中華書局):巻62(P.2622)
(文帝が死去し)煬帝が即位し、梁毗は司法長官(刑部尚書)に昇進し、御史大夫(官吏の不正を弾劾する役所の長官)も兼任した。宇文述が許可なく私兵を養っていると弾劾した。煬帝は宇文述を免罪にしたいと言ったが、梁毗が断固反対し、煬帝の思惑に逆らったので、とうとう更迭され張衡が御史大夫となった。梁毗は不安と腹立ちのためその後数か月で死去した。煬帝は自分の代理として法務大臣(吏部尚書)の牛弘を弔いにやり、絹布を五百匹贈った。
息子の敬真は煬帝の時に検事官(大理司直)になった。当時、煬帝は光禄大夫の魚倶羅に罪を着せたかった。そこで敬真に取り調べを命じたが、敬真は煬帝の思惑を察して魚倶羅に一番重い刑罰を課した。しばらくして、敬真が病気にかかったが、魚倶羅のために癩病にかかって数日で死んだ。
煬帝即位,遷刑部尚書,尭攝御史大夫事。奏劾宇文述私役部兵,帝議免述罪,毗固諍,因忤旨,遂令張衡代爲大夫。毗憂憤,數月而卒。帝令吏部尚書牛弘弔之,贈毗五百匹。
子敬眞,大業之世,爲大理司直。時帝欲成光祿大夫魚倶羅之罪,令敬眞治其獄,遂希旨陷之極刑。未幾,敬眞有疾,見倶羅爲之,數日而死。
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煬帝は梁毗を煙たくおもって退けたが、心のうちでは憚っていたので、梁毗が死ぬと手厚く弔った。息子の敬眞は煬帝におもねり、罪もない魚倶羅を陥れたために、癩病で死んだが、世間ではこれを魚倶羅の祟りだと噂した。(北史・『見倶羅爲祟而死』)父と息子というのは血はつながっていても、必ずしも同じ志操をもっているわけではないことが分かる。
(目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』)