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限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第146回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その81)』

2013-11-28 22:01:47 | 日記
 『6.05 中国の硬骨の臣、死を覚悟の上で諌める。(その10)』

隋の文帝の時代、権臣の楊素が絶頂期だったころ、朝廷のだれもが命惜しさに不正から目をそらしていた時、3人(柳、李綱、梁毗)だけが楊素に抗していたことは前回述べた。

柳と李綱については前回前々回に述べたので、今回は、梁毗について述べたい。梁毗の伝は隋書・巻62と北史・巻77に載せられているが、ここでは北史を見ることにしよう。

梁毗は『性格は剛毅でずばずばと物をいう。学問は多岐にわたり深い』(性剛謇、頗有學渉)と評されている。文帝に仕えたが、ここでも持前の剛毅をいかんなく発揮し、直言したので皇帝から煙たがられ、僻地(西寧州)へと左遷された。(直道而行、無所回避、頗失権貴心。由是出為西寧州刺史。)しかし、持前の正義感から僻地の蛮族からは大いに尊敬された。

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資治通鑑(中華書局):巻179・隋紀3(P.5596)

以前に梁毗が西寧州の知事に赴任し、11年務めた。遊牧民の酋長たちは皆、金(Gold)を貯めることが富豪と考えて、お互いにかわりばんこに攻めては金を奪いあい、争いは止むことがなかった。梁毗はこの事態をどうにかしたいと思っていた。暫くして、酋長たちが揃ってやってきて梁毗に金を贈った。梁毗は金を側においてこれに向かって激しく泣いた。そして次のように言った。「この物は飢えていても食べることができないし、寒い時には着ることもできない。それなのにお前たちは争って数えきれないほどの殺し合いをしている。いま金を持ってきて、ワシを殺す積りだろう!」そして、金をひとかけらも受け取らなかった。酋長たちはようやく納得してそれからは互いに攻め合うことを止めた。文帝はこれを聞き、感心して都に呼び戻して大理卿(裁判長官)に任命した。梁毗は極めて公平な裁きをした。

始,毗爲西寧州刺史,凡十一年,蠻夷酋長皆以金多者爲豪雋,遞相攻奪,略無寧歳,毗患之。後因諸酋長相帥以金遺毗,毗置金坐側,對之慟哭,而謂之曰:「此物饑不可食,寒不可衣,汝等以此相滅,不可勝數,今將此來,欲殺我邪!」一無所納。於是蠻夷感悟,遂不相攻撃。上聞而善之,徴爲大理卿,處法平允。

始め毗、西寧州の刺史となること、およそ十一年。蛮夷の酋長は皆、金の多き者をもって豪雋となし、たがいに相い攻奪し、略し、寧歳なし。毗、これを患う。後に、諸酋長の相い帥いて金をもって毗におくる。毗、金を坐の側に置き、これに対して慟哭して謂いて曰く:「この物は、饑うるも食らうべからず。寒きも着るべからず。汝ら、これをもって相い滅ぼす、数うるにたうべからず。今、まさにこれの来たるは我をころさんとするか!」一も納むる所なし。ここにおいて、蛮夷は感悟しついに相い攻撃せず。上はこれを聞きて善しとし、徴して大理卿となす。法を処すること平允たり。
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中国では、地方長官となって赴任すると、どんな清廉な官吏でも3年ほどの間にひと財産を作ることができると言われている。それは、便宜を図ってもらおうと誰もが賄賂をもってくるからだ。梁毗にも酋長たちは金(Gold)をもってきたが、梁毗は金が原因で殺し合いをする愚をさとした。酋長たちは梁毗に服従した。



梁毗の賢明なやりかたを聞いて文帝は都に呼び寄せ、梁毗をご意見番とした。期待に違わず、梁毗は意見を述べたが文帝には耳の痛い話もあった。

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資治通鑑(中華書局):巻179・隋紀3(P.5596)

梁毗は楊素が権力をほしいままにしていると国が危うくなると思って次のように上書した。
「書経の洪範に『臣下は権力をもって他人に施しをしてはいけない。家に害あり、国には凶だ。』と書いてあります。以前から楊素の様子を見ていますと陛下が大事にされるので、ますます権力を持つようになってきました。貴族たちは楊素に監視されていて、逆らう者は冷遇されますが、おもねる者は甘い汁を吸えます。出世や富貴は楊素の胸先三寸に懸っています。彼のグループの人に誰ひとりとして忠臣な者はいません。彼の推挙する人は尽く親戚です。また兄弟・子供たちは各地の知事です。世の中が平和であればおとなしくしていますが、一旦世の中が乱れると必ずや国の災いとなりましょう。国を乱す姦臣というのは徐々に力を蓄えるものです。漢の王莽や晋の桓玄はそれぞれ年月をかけて勢力を得て、最後には漢や晋を滅ぼしました。陛下は楊素を信頼するにたる大臣だとお考えのようですが、私は彼は楊素は清廉な伊尹のような心をもった人物とは思いません。どうぞ、歴史上の事実を参考にして、楊素の処遇を再考してください。そうして国家を長く安泰にしてくだされば幸いです。」この上書を見た文帝は激怒して梁毗を収監し自ら尋問した。そこでも梁毗はひるむことなくこう言った。「楊素は陛下に可愛がられていることをかさにきてやりたい放題しています。部下の将軍たちが管轄している所では法を無視して勝手に人を殺めています。また、以前に太子の楊勇と蜀王の楊秀が罪にとわれて廃された時に官僚たちは恐ろしい事だと身震いをしましたが、楊素だけがあからさまに喜んでいました。国に波乱が起れば自分にとって有利だと彼は考えたのです。」文帝は、梁毗を押さえつけることができなかったので、釈放した。

毗見楊素專權,恐爲國患,乃上封事曰:「臣聞臣無有作威作福,其害於而家,凶於而國。竊見左僕射越國公素,幸遇愈重,權勢日隆,搢紳之徒,屬其視聽。忤旨者嚴霜夏零,阿旨者甘雨冬澍;榮枯由其脣吻,廢興候其指麾;所私皆非忠讜,所進或是親戚,子弟布列,兼州連縣。天下無事,容息異圖;四海有虞,必爲禍始。夫奸臣擅命,有漸而來,王莽資之於積年,桓玄基之於易世,而卒殄漢祀,終傾晉祚。陛下若以素爲阿衡,臣恐其心未必伊尹也。伏願揆鑒古今,量爲處置,俾洪基永固,率土幸甚!」書奏,上大怒,收毗繋獄,親詰之。毗極言「素擅寵弄權,將領之處,殺戮無道。又太子、蜀王罪廢之日,百僚無不震竦,唯素揚眉奮肘,喜見容色,利國家有事以爲身幸。」上無以屈,乃釋之。

毗は楊素の専権を見、国患となるを恐れ、即ち事を上封して曰く:「臣聞く『臣に威をなし福をなすあるなし、それ、汝の家を害し、国に凶』ひそかに見るに、左僕射・越国公・素の幸遇はいよいよ重く、権勢は日に隆し。搢紳の徒、その視聴に属す。旨にさからう者には厳霜、夏零、旨におもねる者には甘雨、冬澍。栄枯はその脣吻により、廃興はその指麾を候(うかが)う。私するところは皆、忠讜に非ず。進むところは或いは是れ、親戚。子弟は布列し、州を兼ね県を連ぬ。天下、無事ならば異図を容息するも、四海に虞あらば、必ず禍始とならん。それ、奸臣の命を擅しいままにするは漸にして来たるあり。王莽はこれを積年に資し、桓玄はこれを易世に基く。而して、卒(つい)には漢祀を殄し、終(つい)には晋祚を傾く。陛下、もし素をもって阿衡となすも、臣、その心は未だ必らずしも伊尹ならざるを恐るなり。伏して願わくば古今を揆鑑し、はかりて処置をなし、洪基を永く固め、率土を幸甚ならしめんことを!」書、奏す。上、大いに怒り、毗を収め獄に繋ぎ、親しくこれを詰す。毗、言を極む。「素、寵を擅ままにし、権を弄す。将領のところ、殺戮無道なり。また太子、蜀王の罪してこれを廃するの日、百僚は震竦せざるなきを、ただ素は眉を揚げ肘を奮いて、喜び容色にあらわる。国家に事あるを利にしてもって身の幸いとなす。」上、もって屈するなし。乃ちこれを釈す。
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楊素が文帝のお気に入りであるのを知りつつも国の為に弾劾した梁毗はまさに硬骨の臣と言える。その熱誠に心うたれた文帝は梁毗の言い分を理解し、放免した。そして次第に楊素を遠ざけるようになった。(其後、上亦寖疏忌素)

ところで、以前のブログ、
 沂風詠録:(第201回目)『資治通鑑の文章に関しての質問への回答』
で述べたように、資治通鑑の文章は元の史書の文章を削除したり改変している。その例が上の梁毗を釈放した文章に見られるので紹介しておきたい。

資治通鑑では、
 「。。。利國家有事以爲身幸。」上無以屈,乃釋之。
となっているが、隋書・北史ともにここは次のようになっている。(ただし隋書では、帝の代わりに高祖という)
 「。。。利國家有事以爲身幸。」【毗發言謇謇,有誠亮之節】帝無以屈也,乃釋之。
資治通鑑で省略された語句【毗發言謇謇,有誠亮之節】は『梁毗の筋道だった言い方は、誠に忠誠心がよく表れている』の意味であるが、弁論の内容だけでなくその態度も立派であったと言うことだろう。私の個人的感想では、この句は省略は可能であるが、あった方が情景が活きる。

さて、梁毗は煬帝にも直言したが、受け入れられず憂えて死んだ。梁毗の息子は父の気性を引き継ぐことがなかった。その様子を隋書は次のように記す。

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隋書(中華書局):巻62(P.2622)

(文帝が死去し)煬帝が即位し、梁毗は司法長官(刑部尚書)に昇進し、御史大夫(官吏の不正を弾劾する役所の長官)も兼任した。宇文述が許可なく私兵を養っていると弾劾した。煬帝は宇文述を免罪にしたいと言ったが、梁毗が断固反対し、煬帝の思惑に逆らったので、とうとう更迭され張衡が御史大夫となった。梁毗は不安と腹立ちのためその後数か月で死去した。煬帝は自分の代理として法務大臣(吏部尚書)の牛弘を弔いにやり、絹布を五百匹贈った。

息子の敬真は煬帝の時に検事官(大理司直)になった。当時、煬帝は光禄大夫の魚倶羅に罪を着せたかった。そこで敬真に取り調べを命じたが、敬真は煬帝の思惑を察して魚倶羅に一番重い刑罰を課した。しばらくして、敬真が病気にかかったが、魚倶羅のために癩病にかかって数日で死んだ。

煬帝即位,遷刑部尚書,尭攝御史大夫事。奏劾宇文述私役部兵,帝議免述罪,毗固諍,因忤旨,遂令張衡代爲大夫。毗憂憤,數月而卒。帝令吏部尚書牛弘弔之,贈毗五百匹。

子敬眞,大業之世,爲大理司直。時帝欲成光祿大夫魚倶羅之罪,令敬眞治其獄,遂希旨陷之極刑。未幾,敬眞有疾,見倶羅爲之,數日而死。
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煬帝は梁毗を煙たくおもって退けたが、心のうちでは憚っていたので、梁毗が死ぬと手厚く弔った。息子の敬眞は煬帝におもねり、罪もない魚倶羅を陥れたために、癩病で死んだが、世間ではこれを魚倶羅の祟りだと噂した。(北史・『見倶羅爲祟而死』)父と息子というのは血はつながっていても、必ずしも同じ志操をもっているわけではないことが分かる。

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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沂風詠録:(第214回目)『真夏のリベラルアーツ3回連続講演(その2)』

2013-11-24 22:32:45 | 日記
前回

さて、『遊子ラボ』で行った私のリベラルアーツ3回連続講演の最初のテーマは:
 『暗記モノ歴史ではなく、人物伝を』
である。この連続講演では、タイトルはすべて『xxxではなく、xxxを』というスタイルで統一してみた。その訳は、身にこびりついている既存の概念から脱却してもらい、新たな視点から生き方を考えてもらいたいと考えたからだ。

【歴史が嫌いだった中学・高校生の時】

さて、私は子供の頃から暗記モノの科目を大の苦手としていた。その筆頭が歴史である。社会科の中間・期末テストでは毎回覚えることが多くいつもふうふう言っていた。年号、地名、人名、職名、何をとっても全くイメージが湧かず砂をかむような思いで丸暗記しようと努力した。数日かけてようやく幾つかは覚えていったがテストが終わるとすっかりと忘れてしまった。

その時の様子は喩えて言えば、見知らぬアフリカのどこかの国、例えばコートジボワール共和国の政治家の名前や歴史を覚えるようなものだ。日本人の大多数にとってコートジボワールは名前ぐらいは聞いたことはあるが、地理的にどこにあるか、どのような歴史をもっていたか、関心がないであろう。それで、何度聞いても情報が全く頭の中に残らないと思われる。私にとっての中学・高校の歴史の授業に出てくる名前はまさにこのコートジボワールのようなものだった。

これとは逆に、自分の故郷や旅行した所の地名や名跡などはすぐに覚えるだろう。私は学生の時のドイツ留学時に、ヨーロッパを数か月にわたり旅行したが滞在した所の名前や雰囲気はたとえ滞在が一日でもかなり鮮明に覚えている。後日、ギリシャやローマの歴史を読んでいる時に旅行した所の地名が出ると、当時の情景が目に浮かび、歴史的なことでも無理せずに易々と記憶することができた。

このことから、私は記憶に残るには、実体験が一番だと痛感した。その上、関心の有無も記憶に密接な関係があるということを悟った。これから考えると、中学や高校の歴史や地理の時間に本だけで習い、機械的に記憶しても何ら、ものにはならないと思うようになった。



【年号や人名中心の暗記モノ歴史から人物伝へ】

こういう経験があってから私は歴史の理解の仕方や歴史から何を得るかについて自分なりに考えるようになった。

世の中の歴史好きの人には数多くの地名、人名、年号を記憶していることだけに満足している人がいる。私は自分の記憶力の弱さを自己弁護するわけではないが、このような意図で歴史を読む姿勢には賛同できない。歴史というのは単なる『暗記モノ』に止まってはいけない。歴史を知るとは、人生にとって、もっとインパクトのあることだ、と知るべきだ。

それを実際に見せてくれるのが、私が数年前に立ち上げた『リベラルアーツ教育によるグローバルリーダー育成フォーラム』で『人類の5000年史』をご講演いただいているライフネット生命の出口会長兼CEOだ。今さら言うまでもなく、出口会長の歴史好きは有名で、その確かな記憶から繰り出される話はまるで現場からのレポルタージュを聞いているようだ。しかし、出口会長の真骨頂は何と言っても歴史的事件の意義(implication)の的確な把握力にある。各々の事件の関連とそれが後世に及ぼした影響などについて、歴史というものの見方について教えてくれる。

更に(統計的な客観性がないことを承知で言うと)歴史好きの人に共通している性癖が量もさることながら、『記憶の正確さ』を誇ることである。具体的には、年号は1年たりとも間違ってはいけない、日本や中国の人名、地名は正確な漢字でかけなければいけない、アルファベットの名前なら正確に発音できないといけない、と考えているだろう。

私は元来、アバウトな性格なので、こういう潔癖性には全くついていけない。年号などは昔のことであれば50年ほどの単位で合っていれば誤差の範囲だと考える。例えば紀元前480年のペルシャ戦争では、アテネがペルシャをサラミスの海戦で破ったが、これを紀元500年頃と覚えたとしよう。正確な年号とは20年の差があるが、絶対値でいうと、たかだか1パーセントの誤差だ。つまり99%は正しいともいえる。1%の不確かさと言えば、例えば昼食で2000円のメニューが翌日2020円になったからと言って値段が変わったと思わないのと同じである。(もっとも、 1980円になると安いと感じるが。。。)しかるに、学校教育における歴史では年号が一年でも間違えば×となるが、本当にそれほどまで正しい年号を知っている必然性があるか、私は疑問に思う。また、人名、地名も漢字でかけなくとも、また読みが多少不確かでも構わないと思っている。そもそも当時の発音がよく分かっていないのだから、今我々が呼んでいる人名や地名にしても、もし当時の人が聞いたら『ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い』のようなものではないだろうか。

このように学校では社会科目には関心がもてなかったが、たまに読んだ偉人伝は、内容がすうっと頭に入ることがあった。ナポレオン伝であったり、源為朝の話であったり、かなり子供向けに脚色されていたとは思うが面白いので何回も読んで歴史もその部分だけは確実に覚えることができた。

大学に入って暗記モノの歴史にいじめられることがなくなってせいせいした。その後、自分でいろいろな本を読んでいく内に私は自分が興味を持って読める歴史というのは、社会制度や政治システムについての記述ではなく、人物伝であることが朧げながら分かってきた。その後、何冊もの本を読むうちになぜ私には人物伝が気に入るのか、その理由が明確になってきた。それをまとめたのが次の表である。



自分の性癖が明示的に分かってから私は人物伝に傾斜していった。

続く。。。
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想溢筆翔:(第145回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その80)』

2013-11-21 22:08:12 | 日記
 『6.05 中国の硬骨の臣、死を覚悟の上で諌める。(その9)』

中国は古来から王、あるいは皇帝が権力を一手にした絶対君主制だと考えている人は多い。確かに政治体制はそうであるが、実質は随分と異なる。それを知るのに何も、過去に遡る必要はない。現在の中国共産党の地方役人の横暴ぶりを見れば私のいうことが理解できよう。現在、中国では毎日500件(年間20万件)近い暴動が発生しているというが、この暴動の大きな要因の一つが共産党幹部の不正である。

一例として最近(2013年9月)、無期懲役の判決を受けた薄熙来の事件を考えてみよう。

薄熙来は中国共産党中央政治局委員であったが、重慶市共産党委員会書記として長らく重点都市・重慶市の実権を握っていた。その間、江沢民の後押しがあったとは言え、当時の最高権力者である胡錦濤に従わず自分勝手な政策を実行していた。薄熙来は貧困層の味方であるかのふりをして人気を高める一方で、一説によると60億ドル(4800億円)にも昇る不正蓄財をした。そしてその大金を秘かに海外に送金していたが、その不正操作に関わっていたイギリス人が薄熙来の妻に殺害された。そのことに危機感を感じた薄熙来の右腕の王立軍はアメリカ総領事館に駆けこんだが、亡命は失敗し、中国政府に引き渡された。王立軍が一切を白状したため、薄熙来のそれまでの悪事の全貌が明らかになった。

このように、最高権力者の目の届かないところで高官が大がかりな不正を行っても、それが何年にもわたってばれないというのが中国の実態である。人民にははっきりと見えている不正が皇帝や最高権力者の目には見えないというのが中国の政治システムに巣食う宿痾と言えよう。



さて、以前のブログで楊素が隋の文帝の寵臣であることを利用して、私的な怨恨を晴らしていたと述べたが、その楊素一家の絶頂ぶりを資治通鑑は次のように記す。

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資治通鑑(中華書局):巻179・隋紀3(P.5596)

楊素の弟の楊約、叔父の楊文思、楊文紀、それに遠縁の叔父の楊忌は皆、そろって尚書(大臣)になり爵位をもらった。また子供たちも何らの功績もないのに高い官職を得た。莫大な資産を蓄え、都だけでなく地方都市に至るまで数えきれないほど多くの商店、製粉所、便利な場所に田畑や屋敷を所有した。家には使用人が千人を数え、妾や踊り子もまた千人を越え、みな綺麗な服を身につけていた。邸宅の中では、宮廷のしきたりをまねた。親戚や古くから付き合いのある役人たちは皆こぞって高い位に就いた。楊素は一太子(楊勇)と一王(楊秀)の2人を廃し、ますます威勢がよかった。少しでも逆らうと、悪くすると一家皆殺しの罰(誅夷)を受けることさえあった。追従者や親戚の者は才能がなくとも昇進させたので、朝廷では誰もが楊素になびいた。そういった雰囲気の中、敢えて楊素に屈しなかった者と言えば、柳と尚書右丞の李綱、それと大理卿の梁毗の3人だけであった。

楊素弟約及從父文思、文紀、族父忌並爲尚書、列卿,諸子無汗馬之勞,位至柱國、刺史;廣營資産,自京師及諸方都會處,邸店、碾磑、便利田宅,不可勝數;家僮數千,後庭妓妾曳綺羅者以千數;第宅華侈,制擬宮禁;親戚故吏布列清顯。既廢一太子及一王,威權愈盛。朝臣有違忤者,或至誅夷;有附會及親戚,雖無才用,必加進擢,朝廷靡然,莫不畏附。敢與素抗而不橈者,獨柳及尚書右丞李綱、大理卿梁毗而已。

楊素の弟・約、及び従父の文思、文紀、族父の忌は並び尚書となり卿に列せら、諸子は汗馬の労なくして位は柱国、刺史に至る。広く資産を営み、京師より諸方に及ぶ都会処,邸店、碾磑、便利な田宅は数うに勝(た)うべからず。家僮は数千、後庭の妓妾の綺羅を曳く者は千数をもってす。第宅は華侈にして、制は宮禁を擬す。親戚、故吏は清顕に布列す。既に一太子、及び一王を廃し、威権はいよいよ盛んなり。朝臣の違忤ある者は、或いは誅夷に至る。附会あるもの、及び親戚は才用なきと雖も必ず進擢を加う。朝廷は靡然として畏附せざるなし。敢えて素と抗して橈まざる者はひとり、柳、及び尚書右丞・李綱、大理卿・梁毗のみ。
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楊素の出世の恩恵は弟や叔父だけに止まらず、遠い親戚まで及んだ。豪華な家に住み、千人もの使用人が雇われた。ゴマすり(付会)はどしどし昇進させたが、刃向うものには容赦なく罪をなすりつけ一家皆殺しの刑を加えた。朝廷の大臣・役人は震えあがったが、柳、李綱、梁毗の3人だけは楊素に従わなかった。

この内、李綱については前回述べたので、今回は柳について述べよう。

柳(りゅういく)の伝記は隋書・巻62および北史・巻77に載せられている。柳は北周の武帝の時、志願して帝にテストしてもらって認められた。(詣闕求試、帝異之)その後、隋の天下となってから文帝に仕えて『柳は正直の士、国の亀宝なり』(柳正直之士,國之龜寳也)と絶賛された。常に恐れることなく正論を吐いたため役人仲間からは畏敬の念をもって見られた。(當朝正色、甚爲百僚敬憚)

ところが、柳は楊素からはちょっとしたことで怨まれ、濡れ衣の罪に陥されることになった。

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資治通鑑(中華書局):巻179・隋紀3(P.5594)

以前、楊素はちょっとした違反をしたため、皇帝の命で南台に送られ、治書侍御史の柳によって取り調べを受けた。楊素は自分の権力を誇り、柳の椅子に座って待っていた。柳が外出から戻ってきて、それを見て、階下のドアの外で笏を持ち直して改まった様子で楊素に言った。「皇帝の命で貴公の罪を正す。」それを聞いた楊素はあわてて椅子から降りた。柳は椅子に座り、楊素を庭に立たせたまま、楊素を詰問した。このことから楊素は柳を怨むようになった。

以前に、蜀王の楊秀がかつて柳に李文博の編纂した《治道集》を探して欲しいと言われ、柳はそれを楊秀に贈ったことがあった。そのお礼に楊秀は柳に10人を贈った。その後、楊秀が罪に問われると楊素はここぞとばかり、柳は大臣の地位を利用して諸侯と結託していると言いたてた。それで、柳は官位を奪われた上に庶民におとされて、遠方へと流された。

初,楊素嘗以少譴敕送南台,命治書侍御史柳治之。素恃貴,坐牀。從外來見之,於階下端笏整容謂素曰:「奉敕治公之罪!」素遽下。據案而坐,立素於庭,辨詰事状。素由是銜之。蜀王秀嘗從求李文博所撰《治道集》,與之;秀遺十口。及秀得罪,素奏以内臣交通諸侯,除名爲民,配戍懷遠鎭。

初め、楊素、かつて少譴をもって敕して南台へ送られ、治書侍御史・柳に命じてこれを治めしむ。素、貴を恃みて、の牀に坐す。、外より来りてこれを見て、階下の端において、笏して容を整え、素に謂いて曰く、「敕を奉じ、公の罪を治む!」素、遽かに下る。、案に拠りて坐し、素を庭に立たしめ、事状を弁詰す。素、これによりて銜む。蜀王・秀、かつてに従いて李文博の撰する所の《治道集》を求め、、これを与う。秀、に、十口を遺る。秀が罪を得るにおよびて、素、の内臣にして諸侯と交通するをもって除名し民となし、懐遠鎮に配戍せんことを奏す。
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柳には全く落ち度がなかったが、以前に蜀王の楊秀に詩文集を贈ったお礼にを十人もらったことが反逆者と秘かに結託していると咎められた。全くの捏造(ガセネタ)であるが、柳は官位を奪われた上、庶民に落とされ、遠く敦煌へ移住を命じられた。その後、楊素が死んでから柳の申し開きが認められて都に戻ることになったが、途中で没した。(坐徙敦煌。素卒、乃自申理、有詔徴還。卒於道。)

このことから分かるように、隋の文帝が絶対権力をもっていたように歴史には書かれてはいるが、実権は楊素の手にあった。皆は文帝の目の届かない範囲では、闇の帝王の楊素を恐れていたのだ。中国ではだれもが陰の実権者に豪華な贈り物や大金を貢ぐため、国家予算に匹敵するような蓄財をなす者さえ現れた。もっとも、こういった陰の実権者は薄熙来のように必ず政敵から陰事を暴かれ失脚するのがお定まりのパターンだ。しかし、それは陰の実権者が別の人にバトンタッチするだけで、無くなることを意味しない。

結局、表と裏の権力者のダブル構造が中国の歴史の本質であったし、今もそうなのだが、残念ながら一般の歴史書には書かれていない。資治通鑑の記事を丹念に読むとこの驚愕の事実が浮かびあがってくる。

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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沂風詠録:(第213回目)『真夏のリベラルアーツ3回連続講演(その1)』

2013-11-17 21:14:18 | 日記
今年(2013年)の夏に You See Lab(遊子ラボ)にて3回連続のリベラルアーツ講演会を行った。開催日は大抵の企業人が夏休み休暇を設定している 8/3日、8/10日、8/24日、いづれも土曜日であったが、毎回20名近い方々が参加された。
ちなみに、この『遊子ラボ』の第一回目は出口会長が「歴史を学ぶ ~日本史はない?~」というタイトルで講演された。

私のリベラルアーツ3回連続講演の共通テーマと基本概念(Key Concepts)は次の通り。

【共通テーマ】『既存概念からの脱却』
【基本概念】(Key Concepts)
 1.身にこびりついている既存概念をふるい落とす。
 2.リベラルアーツの奥の深さより、幅の広さを知る。
 3.講義を聞いた後で、自立的にリベラルアーツを深める方法論を知る。

【講演テーマ】
 A.『暗記モノ歴史ではなく、人物伝を』
 B.『流行の経営本ではなく、科学史・技術史を』
 C.『TOEIC英語ではなく、多言語の語学を』

講演の最後に、長めのQ&Aセッションを予定したが、毎回かなり活発な議論が展開できたのではないかと思っている。

  **************************

この講演の概要はすでに『遊子ラボ』のサイトに掲載されているが、講演者の立場からテーマの選定意図や講演の内容などについての私の考えを述べたい。

○共通テーマと基本概念について

3回の講演は、社会人を対象して企画された。業種や身分は問わないが、年代的には20代後半から40代前半までのビジネスパーソンである。私は自分の経験に照らして、このような若い年代の社会人が本格的にリベラルアーツを学ぶことは非常に重要だと従来から考えてきた。それで、今回の講演は私の念願に適っているので、講演する機会を与えて頂いて、大変ありがたく感謝している。また時間的にも、3時間 X 3回という、かなりまとまった講演時間を頂けたので、この機会を利用して、常々考えている『既存概念からの脱却』を共通テーマに掲げ、上で述べた3つの講演テーマを選んだ。

さて、『既存概念からの脱却』というのはいかにも抽象的で分りにくいが、具体的には、次の3つの【基本概念】(Key Concepts)として表現される。
 1.身にこびりついている既存概念をふるい落とす。
 2.リベラルアーツの奥の深さより、幅の広さを知る。
 3.講義を聞いた後で、自立的にリベラルアーツを深める方法論を知る。


我々は子供のころからの家庭や学校、あるいは社会から知らず知らずの内に感化されている。感化に止まらず、洗脳されていると言ってもいいほどの場合もある。そして、自分の持っている既存概念を正しい規準として行動している。しかし、日本人のつ既存概念を知らない外国人とぶつかって初めて自分の価値観が通用しない世界もあることを知る。そしてさらに、このような体験を何回か重ねると、ようやくいままで正しいものと信じていた既存概念の普遍性について疑念を持ち始める。

この点に関して、以前のブログ
 沂風詠録:(第118回目)『未来から届いた一冊の本』
で、ライフネット生命の出口社長(当時、現在は会長)の新刊書『常識破りの思考法』の読後感想として次のように述べたことが当てはまる。

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世界に出て初めて、日本の社会で考えられている常識が必ずしも普遍性を持っていないことが分かる。例えば、同書のP.123ページに触れられているが、日本の社会では遅くまで残業し、休暇も取らないことが、評価されるが、それは世界からみれば一種理不尽な『奇習』に過ぎない。『なぜ、残業し、休暇も取らないのか?』と問われて、理路整然と答えられない。また、同書のP.136に述べられているが、社会人で出世しようとすれば必須要件であるとされていたゴルフを拒否したことも日本社会の特殊性に対する出口さんの理性的反発が感じられる。

実は私自身もサラリーマンとして20年近く勤めていたが、ゴルフを勧められて、渋々やり始めたものの、暫くしてそのバカバカしさに完全に放棄をした。つまり、練習に取られる時間や、その後付き合いゴルフに取られる時間や出費など、全く理不尽のように感じられた。そして、その時に考えたのは、『もし、ゴルフが出来ないことで出世コースから外れるなら、それはそれで良い』という開き直りであった。更にはゴルフコースが日本では農薬の大量散布などにより、自然破壊の最たるものだということを知って一層ゴルフをする気がなくなった。そのようにして、私も出口さん同様、ゴルフが出来ない人種ではあるが、今振り返ってみて、ゴルフをしない方で正解であったと考えている。

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この連続講演で、私はまず既存概念をゼロリセットで考え直す必要性を強調した。それは、既存概念を一旦、離れた立場から見ないことには、その既存概念のもっている妥当性、すなわち長所や短所が分からないからである。



例えば、ユダヤ教徒の既存概念からすれば、食べてもよい動物は旧約聖書・レビ記・第11章に書かれている。(例:獣類では有蹄で反芻する動物、魚貝類ではひれと鱗のあるもの。。。)ユダヤ教の食事規定に従えば、豚やタコは食べてはいけない。それで、ある敬虔なユダヤがいて栄養価的に豚肉が必要であったとしても、既存概念(ユダヤ教)の制約によって豚肉を拒否してしまうであろう。このように、既存概念に染まってしまうと、物事の本質を見極めて理性的に判断することが出来なくなってしまう。

既成概念の打破、これが自由人、つまりリベラルな人間がリベラルアーツを学ぶ時の根本的な姿勢である。この考えに基づき3回の講演を行ったが、それぞれのテーマは次のような意図で選択した。

A.『暗記モノ歴史ではなく、人物伝を』
 既存概念:「歴史は出来事や人名を暗記するもの」「歴史は政治史が中心」  
 ==>歴史とは人としての生き方を知るためのドキュメンタリーだ。出来事や人名をいくら正確に暗記したところで自分の生き方を考える上で少しの足しにもならない。事項を棒暗記するのではなく、歴史上の人物の生きざま(すなわち人物伝)を読み、感動する人をみつけよう。

 B.『流行の経営本ではなく、科学史・技術史を』 
 既存概念:「ビジネスパーソンなら優良企業の経営者の経営本を熟読すべし」  
  ==>今後の世界および日本の産業界の方向性を見極めようと思うなら近視眼的な経営本などではなく、社会の基底を支えてきた科学・技術を発展を歴史的に俯瞰することが必要だ。現在の視点では見えなかったことが、2000年レンジのタイムスパンで実務的観点からみると、将来の産業のありかたがくっきりと見えてくる。

 C.『TOEIC英語ではなく、多言語の語学を』
 既存概念:「グローバル社会では英語が出来なければいけない」「英語以外の語学はビジネスの役に立ちそうもない」  
 ==>日本人で本当にビジネスで英語を必要とする人は1割にも満たない。その少数は英語をもっと伸ばす必要があるが、英語だけ勉強したのでは英語は伸びない。一方、ビジネスで英語を必要としない大多数の人にとって、語学を知的刺激として捉えるなら、英語以外に、もっとスリル万点の言語がある。いずれの場合も、英語以外の語学に興味をもつことを勧める。

さて、次回から、3回講演の内容について述べることにしよう。

【参照ブログ】
 沂風詠録:(第151回目)『国際人のグローバル・リテラシーのテーマについて(その3)』

続く。。。
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想溢筆翔:(第144回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その79)』

2013-11-14 22:43:36 | 日記
 『6.05 中国の硬骨の臣、死を覚悟の上で諌める。(その8)』

以前のブログで、秦と隋は類似しているとして、始皇帝と文帝に言及したが、この他にもまだ類似点がある。それは、二代目の皇帝が本来即位すべき太子を奸計によって引きずりおろし、殺したことだ。秦の二世皇帝は馬鹿(バカ)の故事で名高い胡亥であるが、本来ならば、始皇帝の長男である扶蘇が帝位に就くべきであった。始皇帝の死後、李斯と趙高のはかりごとによって扶蘇は自殺させられた。扶蘇は聡明であった上に、始皇帝に似ず、極めて温厚な性格であったと言われている。隋では長男の楊勇が廃嫡されて、次男の楊広が立って煬帝となった。楊勇の性格はよく言えば寛大、悪く言えば周りに流されてしまうところがあった。秦、隋、いずれの場合も温厚な太子が順調に即位していれば、王朝ももう少し長く続いていたように私には思える。

楊勇が父の文帝に嫌われた原因の一つが金使いの荒さであった。

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資治通鑑(中華書局):巻179・隋紀3(P.5573)

当初、文帝は太子の勇に軍国政事を任せた。失敗したりうまく処理したりであったが、文帝は全て受け入れた。勇は寛大・温厚であったが、深く考えもせず気の向くままに行動する単純な性格であった。さて、文帝は倹約家であった。勇が一度、蜀で作られた精巧な鎧に派手な飾り付けをしたことがあった。それをみて文帝は気分を害して、勇を戒めてこういった。「昔から、帝王が贅沢をして長続きした者がない。いづれお前は帝になるのだから率先して倹約の美を示して、ご先祖に恥じないようにしないといけない。ワシは昔に着た夏と冬の服を一着づつ残してある。時々これを取り出して、昔の事を思い出して贅沢しないように自らを戒めている。お前は今、皇太子となっているので恐らくは昔のことを忘れているのであろう。それで、お前にワシが昔からもっている刀、一振りと、併せて醤油を一合与える。これはかつてお前が上士だった頃、常に食事の際につかっていた醤油だ。昔のことを思い出せば、ワシの気持ちがわかるであろう。」

初,上使太子勇參決軍國政事,時有損益;上皆納之。勇性寛厚,率意任情,無矯飾之行。上性節儉,勇嘗文飾蜀鎧,上見而不悦,戒之曰:「自古帝王未有好奢侈而能久長者。汝爲儲后,當以儉約爲先,乃能奉承宗廟。吾昔日衣服,各留一物,時復觀之以自警戒。恐汝以今日皇太子之心忘昔時之事,故賜汝以我舊所帶刀一枚,并葅醤一合,汝昔作上士時常所食也。若存記前事,應知我心。」

初め、上、太子・勇を軍国政事に参決せしむ。時に損益あり。上、みな納む。勇の性、寛厚、率意にして情に任せ、矯飾の行いなし。上の性、節倹。勇、かつて蜀鎧を文飾す。上、見て悦ばず。戒めて曰く:「古より、帝王の奢侈を好んでよく久長たる者あらず。汝、儲后たり、まさに倹約をもって先となさば、すなわち能く宗廟を奉承すべし。吾、昔日の衣服、おのおの一物を留む。時にまた、これを観てもって、自ら警戒す。恐らくは、汝、今日の皇太子の心をもって昔時の事を忘れしならん。故に、汝に賜うに我が旧に帯びし所の刀一枚と、併せて葅醤一合をもってす。汝が、昔、上士なりし時に常に食するところなり。もし前事を存記せば、まさに我が心を知るべし。」
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文帝は倹約家であったが、楊勇は典型的な二代目のボンボンの性格で金使いが荒かった。それが父のカンに触ったようだ。また、多くの側妾を持ち、親が決めた配偶者の元妃を無視したために、母親の独孤后の怒りをかってしまった。それで、終には四六時中、監視を付けられ、一挙手一投足がことごとく文帝に報告されてしまい(以伺動靜,皆隨事奏聞)、楊勇は気分的にネガティブスパイラルに落ち入ってしまった。(勇愈不悦)。


【出典】清明上河図

皇太子の兄が両親から疎まれていると知った次男の楊広はチャンスとみて、楊勇の側近を買収して、どんな些細な過失をも報告させて、父の文帝に細大漏らさず告げ口した。こういったことが重なって、とうとう楊勇は太子の位を追われることとなった。

この処置に対して命を張って文帝を諌める臣下がいた。

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資治通鑑(中華書局):巻179・隋紀3(P.5582)

文林郎の楊孝政が上書して諌めて言った。:「皇太子はお付の不良に悪の道に誘われてしまいました。ここは訓戒するにとどめて、廃太子にすべきではありません。文帝は怒って、楊孝政の胸を杖で叩いた。

文林郎楊孝政上書諫曰:「皇太子爲小人所誤,宜加訓誨,不宜廢黜。」上怒,撻其胸。

文林郎の楊孝政、上書し、諌めて曰く:「皇太子、小人の誤まる所となる,宜しく訓誨を加えるべきにして、廃黜すべからず。」上、怒り、その胸を撻つ。
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楊孝政は文帝に向かって、堂々と楊勇を弁護した。さらに、もう一人、文帝に正面切って意見する者がいた。

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資治通鑑(中華書局):巻179・隋紀3(P.5582)

楊勇がかつて宮廷の大臣を呼んで宴会を催した。大臣の唐令則は自ら琵琶を演奏して、・媚娘を歌った。洗馬の李綱が立ち上がって勇に言った。「唐令則は大臣で皇太子を補佐する役職にありながら、自ら下賤の俳優の真似をしてみだらな歌を歌いました。もし父帝がこのことを耳にされたら唐令則はどんな処罰を受けるか分りませんし、累が太子に及ばないとも限りません。そうならない内にさっさと唐令則を処罰してください。」勇は「ワシが所望したのだから気にするな。」と取り合わなかったので、李綱は部屋を出て行ってしまった。勇が東宮(太子)を廃された時、文帝は東宮に所属する役人たちを呼んで、責任を追及した。皆、文帝を恐れて敢えて答える者がいなかったが、ひとり李綱だけが次のように反論した。「皇太子の廃立は国家の大事であり、大臣の誰もが太子・勇を廃したのは間違っていると思っているにも拘らず誰一人として発言しない。私は自分の命を惜しいからと言って、陛下の為に申し上げるべきことを黙っていることはできない。そもそも太子・勇は中人です。周りが良ければ良い事をするが、周りが悪ければ悪いことをする。もし、陛下が善い人を選んで皇太子につけてくれていたなら国家は盤石であったでしょう。しかし、現実は残念ながら唐令則が左庶子の職にあり、鄒文騰が家令の職にありながら、二人ともただ絃歌や狩りで太子のご機嫌をとることしか知りませんでしたので、このような結末になったのです。これは陛下の人選ミスであり、太子の罪ではありません。」李綱はこういって、床に伏して声をあげて泣いた。文帝も反省すること暫くしてこういった。「李綱はワシを責めたが筋が通っていない。一を知って、二を知らない。ワシはお前を選んで太子・勇に付けた。それなのに勇がお前を信用しなかった。たとえ、何人もの正しき人を付けたところで意味がないではないか?」李綱が反論していった。「私が太子に信用されなかったのはまさしく悪い連中が太子を取り巻いていたからです。陛下はずばっと唐令則や鄒文騰を斬って、新たに賢人を選んで太子に付けてくれていたならこういうことにはならなかったはずです。昔から長男の立太子、廃太子は国家の一大事です。どうぞ、陛下はこの点をご留意され、後悔のないようにしてください。」これを聞いて文帝は機嫌が悪くなって、朝会を切り上げた。周りで聞いていた役人たちは恐ろしくて膝が震えた。さて、役人が尚書右丞に欠員が出来たので文帝に人選を依頼したところ、文帝は、李綱を指さして「ここに立派な尚書右丞がいるではないか」と言って、即、採用となった。

勇嘗宴宮臣,唐令則自彈琵琶,歌娬媚娘。洗馬李綱起白勇曰:「令則身爲宮卿,職當調護,乃於廣坐自比倡優進淫聲,穢視聽。事若上聞,令則罪在不測,豈不爲殿下之累邪!臣請速治其罪!」勇曰:「我欲爲樂耳,君勿多事。」綱遂趨出。及勇廢,上召東宮官屬切責之,皆惶懼無敢對者。綱獨曰:「廢立大事,今文武大臣皆知其不可而莫肯發言,臣何敢畏死,不一爲陛下別白言之乎!太子性本中人,可與爲善,可與爲惡。曏使陛下擇正人輔之,足以嗣守鴻基。今乃以唐令則爲左庶子,鄒文騰爲家令,二人唯知以絃歌鷹犬娯悦太子,安得不至於是邪!此乃陛下之過,非太子之罪也。」因伏地流涕嗚咽。上慘然良久曰:「李綱責我,非爲無理,然徒知其一,未知其二;我擇汝爲宮臣,而勇不親任,雖更得正人,何益哉!」對曰:「臣所以不被親任者,良由姦人在側故也。陛下但斬令則、文騰,更選賢才以輔太子,安知臣之終見疏棄也。自古廢立冢嫡,鮮不傾危,願陛下深留聖思,無貽後悔。」上不悦,罷朝,左右皆爲之股栗。會尚書右丞缺,有司請人,上指綱曰:「此佳右丞也!」即用之。
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李綱は文帝に楊勇を責めるのは間違っていると述べた。と言うのは、楊勇は元来『中人』のレベルなので、周囲の人たちの善悪に簡単に染まってしまうタイプである。つまり、悪いのは本人でなく周囲の人間であると楊勇の為に弁明した。更に、その人選の責任は文帝にあるではないかと厳しく指摘した。あまりにもはっきりとした李綱の物いいに周りで聴いていた臣下たちは、顔がまっさおになって、膝ががくがくと震えた(左右皆為之股栗)。誰もが『かわいそうに、李綱は首を刎ねられるにちがいない』と思った。ところが、文帝は李綱を罰するどころか、却って洗馬から尚書右丞へと6段階を飛び越える大抜擢をしたのだった。

死をもおそれずに文帝に直言した李綱は確かに硬骨の臣と言えよう。しかし、大ばくちを打ったのかもしれないとも勘ぐることもできる。というのは、中国の歴史には、諌言して拷問や処刑されるケースも確かに多いが、その一方でこの李綱のように大幅に昇格したり、大賞与をもらったケースも少なくはないからである。我々日本人には想像しにくいが、中国人はうまくいけば大金と官位を得るが、下手をすると殺される、という2つに1つの、まさに生死をかけた大ばくちが武人・文人問わず、好きなようだ。

以前のブログ
 沂風詠録:(第200回目)『リベラルアーツとしての哲学(補遺)』
では、中国は伝統的に他人の命をないがしろにする考えがあると述べたが、ひょっとすると、他人だけでなく『自分の命をもないがしろにする』と付け加えるべきかもしれない。。。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第139回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その 74)』

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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