限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【授業】『国際人のグローバル・リテラシー(1)』

2010-04-26 14:49:25 | 日記
【国際人のグローバル・リテラシー 1.欧米 中世ヨーロッパの生活】

この稿は、授業中に取られたメモをベースに多少字句は変えたが、授業中の議論の雰囲気を再現するために、編集自体は最小限にしている。
従って、議論のなかには、認識や事実との食い違いがあるかもしれないが、とりあえずクラスで議論していた様子をほぼそのまま再現して提示している。

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モデレーター:セネカ3世(SA)

パネリスト: Clementia(寛大)、法・1

以後「P」と紹介。
なお、発言者が多かったので発言者の区別はしていない。

凡例
P:…パネリストの発言を要約
A:…オーディエンスの発言
「」…モデレーターの発言
『』…著書名
()…筆者注釈

読書紹介:

『メロヴィング王朝史話』

「メロヴィング王朝って何?」
カトリックを導入し、ローマ教会と調和した。
(フランク族の初の王国。始祖クローヴィスがアタナシウス派キリスト教(現在のカトリック)に改宗し、ローマ教会の賛同を得たことで勢力を拡大)

「歴史を知るということは、社会の知識を試すのではない。
歴史書を読むことで、社会の仕組みの理解への足がかりをつける。
 手触りのある歴史を学んでほしい。
 高校までの歴史は知識の詰め込みに過ぎない。
高校までの社会の授業で学んだ知識(こま切れ)を、追体験によってライブ感をもたせる。つまり、これからは、自身の実体験によって歴史を知識ではなく、感覚として感じる必要あり。」

『中世の秋』(ヨハン・ホイジンガ著。名作)(最後の議論参照)

『コンスタンチノープル征服記』(ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥワン著)
「第4回十字軍はなぜコンスタンティノープルを征服したか?」
(受講生諸賢が違和感を覚えないように、以下「コンスタンティノープル」と記す)

P:3つある。
1:ビザンツ皇帝の威厳の回復。
(これは聞き間違いかも知れない。但しもしこれが聞き間違いでなかったとしたら、これには疑問を呈さざるを得ない。
 理由は攻撃によってビザンツ皇帝の威厳の低下に拍車をかけ、1453年のビザンツ帝国滅亡へとつながっていったと考えられるからである。
 代わりの理由として、「軍費調達のための略奪」をあげておこう)
2:ヴェネツィア商人の陰謀
3:周辺国の反ビザンツ感情の煽り

(SA)『これは聞き間違いかも知れない』という意見について
この議事録は学生にメモってもらったものであるので、その感想がそのまま書かれている。
私の授業の中では、必ずしも本質でない点について、『正解』を求めないし、それを実証しようとはしない。それよりも、全体としての議論の立てかた、聴衆の説得力、反論に対する冷静な対応など、いわば実践的な弁論力を試している。従って、今回も、そして今後も内容的には、必ずしも世間で言われている『正解』を示してはいないことを了解されたし。

「コンスタンティノープルは何文化の中心地?」

A:ギリシャ正教の中心地。

(というより、ビザンティン文化の中心地。ギリシャ=ローマ時代の流れをそのまま保持していたと考えられる。
 ここでは長期にわたってアリストテレスなどのギリシャ哲学の研究がなされていたが、このギリシャ文化、ビザンツから直接西欧に渡ったわけではない。
 詳しくは後の授業で明らかになろう。いや、世界史履修者ならば常識である)

「何故中心になったのか?」

A:ローマ帝国の東西分裂以後の流れ。

「じゃあ、東西は仲が悪かったのか?」

A:当然悪かった。
(1054年に東西教皇は相互破門を宣告。直接の原因は「偶像崇拝」か?)
「昔の政治は、金か、宗教で相手を屈服させるのが基本」

「何故、十字軍はエルサレムを奪還しないといけなかったのか?」
A:イスラムが占領したから。
A:エルサレムは聖地だから。
A:コンスタンチノープルが、フランスに救援を求めてきた。
(ローマ教皇の「教皇権」の危機の予感も重要なファクターである。
 支配者というものは世論に振り回されがちであり、自分に対する不満が高まりかけた時、何かを共通の敵としたがる。
 そうすればある程度の世論の評価は得られるからである)

「何故フランスか?」
A:フランスが一番強かった。
A:イギリスに対抗したかった。
(ちなみに、十字軍の時期、その主力軍を務めた3国のうち、イギリスではジョン王の「離婚問題」、ドイツは神聖ローマ皇帝による代々のイタリア政策、
 という、ローマ教皇との関係を悪化させる問題があった。フランスとの間はおそらく、そうした問題が少なかったのであろう)

「12世紀の問題は、『富がどこにあったか』。ヨーロッパとイスラムでは、どちらが富んでいたか?」

A:ヨーロッパはまだ産業革命に至っていない。
A:地中海から中国への交流を盛んにしていた。
「シルクロードをわたるのは厳しい。
 どうやってイスラムは貿易したか?」

P:海路?
「海路貿易があった。ペルシャ~インド~東南アジア島嶼部
 イスラムになっている国は、中国への中継地点であった。
 イスラムは海洋貿易で発展した」



中世ヨーロッパの生活について

Q1「農村に住んでいた人の割合は?」
P:8割強ではないか。

『中世農村の生活』
A:農村以外は教職者しかいない。したがって、9割だろう。
「人々はみな、農民であり、一生の間にどこまで住んだ?」

P:生まれてから死ぬまでその共同体ですごした。
(昔のローマ時代のコロヌスなど、移動の自由を制限されていたのはよくある。
 そもそも現在とは違い、移動しにくいのである。
 また、封建時代の荘園制もこの移動の自由を大きく制限する要素となった)

ヨーロッパは農村文明。イスラムは都市文明という理解がないと中世のヨーロッパとイスラム諸国の関係、およびこの両文化圏の対立は理解できない。

 「どういう生活をしていたのか?」

A:封建にしばられて、動けない。

「ホテルに泊まらないといけない。あったのか?」
A:農村での生活がいっぱいいっぱい。
A:修道院に泊めてもらえた。
A:領主が回るための宿は用意していたが、一般市民は無理だった。

A:働いてもらったほうがよい。また、生活が苦しくなるので、旅行は無理であった。
(ちなみに、封建時代は貨幣というものがほとんど流通せず、したがって商人がほとんどいないのである。
 この当時のもっとも手っ取り早いホテル商売は、商人を相手にするものであることを想像出来るだろうか。移動し続ける商人を相手にホテルを営むのが一番簡単で、採算が取れると考えると、やはりこの時代にはホテルなんてものはなかったのではないかと、私は授業中考えていた。まぁ、この考えもその後打ち砕かれることになったのだが)

『DAILY LIVING IN THE 12TH CENTURY』

「ホテル自体は、紀元前に名称自体が登場。したがって、あることはある。
 ただし、領主を説得し、旅行手形を得る必要があった。
 また、いいホテルじゃなければ安全は保証できなかった。」

「イギリス…方言は各都市で違っていた。40Kmほど離れると別の方言になる。
つまり、住民はたいてい一生、自分の村から外へ出て行かなかった、ということだ。
 日本…参勤交代により、日本語の標準化が進んでいた」

Q2「農村での共同作業」
「日本は共同作業得意。では、中国人はどうなのか?」

P:不得意ではない。
A:得意だと思う。中華街があった。
A:血のつながりを重視。地縁もあった。
A:不得意だと思う。民族のぶつかり合いが多く、競争社会だったので、共同ではなく自分を重要視していた。
A:違う民族同士なら対立するので、やはり不得意だったのではないか。
A:得意だったと思う。
A:家族道徳を今は教えられているが、昔は簡単に人を殺したのではないか。
A:同じ民族だったら得意。
A:漢民族としてはまとまりがある。他人を蹴落とすよりも、自分を磨く。

「蒋介石の言葉…1人なら日本人に勝てる。ただし、3人では日本には勝てない。なぜなら、中国人は砂のようだからだ。
 ・・・個人を大事にする。
 ここでいう団結力は、血のつながったもの同士の団結力か、まったく別人の団結力か。
 ところでヨーロッパではあったのだろうか。

P:基本的にはあった。三圃式農業ができていたということは、行けたのではないか。

「イギリスには山らしい山がない。芝さえ刈れば全部ゴルフ場になる。
 何故こういう地形になったのか」
P:よくわからない。
A:古期造山帯と、偏西風による風化のせいと思う。
A:大陸氷河の下にあった。
A:最近の氷期は2万年前。

「2万年前は日本はとても寒かった。ヨーロッパはもちろん氷河に覆われていた。
 氷河の威力…ヨセミテ国立公園。1000mもある岩が、削られている。…氷河の絶壁
 ノルウェーのフィヨルド、ニュージーランド
 日本は氷河に覆われなかったので、土地が豊か。
 ただし、ヨーロッパは、3年に1度休ませないといけないくらい、地力が低い。これのせいで、1700年代、アイルランドで飢饉に」

A:ジャガイモが取れなくなって、餓死者が大量に発生。人口が半分に。
(この飢饉によってアイルランドからアメリカへの移民が激増したことは有名)「地中海などは、完全に岩ばかり。共同作業をやらないと、みんな死んでしまう」

「物事の原因の捉え方は人それぞれである。

正しい前提から間違った結論を出す推論について
 『蚤のサーカス師と蚤のジャンプ』

蚤の足を2本ずつとっていくと、4本、2本の時は飛んでいたが、
足が0本になったら飛ばなくなった。何故彼は飛ばなくなったのか?
蚤のサーカス師は、蚤は耳が聞こえなくなったのだ、という推論をした。
誰が考えても、この推論はおかしい。しかし、こういう類の間違った推論は頻繁に起こっている。

もし、このような推論結果に納得できなければ、その事を、心に留めておけ。なまじっか納得したふりをすると、自らの推論能力だけでなく、おかしいことをおかしい、疑問と感じる感受性(sensitivity)が無くなってしまう。結果的に、思考能力と思想がどんどんと細っていく。

Q3「城壁は何のために、いつ築かれたか」「何故城壁は必要?」
A:外敵侵入(フン族の流入、ゲルマン人の流入)に対抗するために、作った。
A:商業を行っていたが、そこに侵入して略奪する人間がいたので、作った。
A:見通しがよくて敵に襲われやすい
A:そこがすむべき場所だ、となっていた。
A:勝手に出る人がいたので、それをチェックする必要があった。
A:権力者が自分の力を示すため
「フン族の来なかったところは、何故城壁ができたのか?」
P:ヴァイキングに襲われないようにするため、ヴァイキングが軍事基地として利用するため、があげられるのでは。
「イギリスならヴァイキングがありえるだろう。
 城壁でお金を取る、ということがあった。昔は日本でもやっていた。
 モーツァルトもヨーロッパの演奏旅行をするときに、各関所で税を取られていた。」

Q4「ごみ、糞尿はどうしていたのか?」
P:垂れ流しにしていた。
A:道の真ん中に捨てていた。
A:肥料になっていた。
A:町の中に捨てて、疫病の原因に。
「おまるにトイレをして、窓から道へ捨てる。
 また、川に捨てる。どこかで溜まっていく」

『チベット旅行記』川口慧海
「チベットでは、この中世ヨーロッパのように、道路へ糞尿を捨てる、ということを行っていた。雨が降ると、糞の海になる。歩けない。と報告している。」

 「ヨーロッパでは、糞尿は何故、肥料として使えない?」
A:気温などのせいで発酵してくれない。
A:都市から農地まで運んで行けないのでは。
A:肥料として使うことを考えなかったのではないか。
A:保存しておく場所がなかったのではないか。
A:肥料として使う知識の欠落

「日本は高温多湿なので、雨が降ると、糞が雨に溶けて土地に染み込んでいく。ヨーロッパはそうではない。ほうって置くと、パリパリに固まってしまい、肥料とならない。

 「ヨーロッパの大きな都市は?」
P:パリ・ヴェネツィア・ジェノバ

「そこに何万人住んでいた?」
P:20~30万人ではないか。

「現代人は中世ヨーロッパの大都市と言うとパリやイタリアの諸都市を思い浮かべるが、フランドル地方も当時は非常に大きな産業と都市であったことを発展を忘れないで欲しい。
 何故発展した?」

A:羊毛

「フランドルは今でも裕福。富が蓄積されている。
 さて、大都市には何万人いる?」

パリ:20万以上
   10万以上…多数の学生が手をあげる。
    5万以上

「実は2万5000人しかいない。その理由は、土地がやせていることと、城壁。
 防衛のためには、城壁の中に資源がないといけない。篭城戦に耐えるためには、人をあまりいれられない。
 イスラムはそうではない。
 バグダッドが800年ぐらいに襲われたとき、何人いたか?」
10万人
30万人
100万人

「50万~100万。この繁栄とくらべると、中世ヨーロッパの諸都市は、かわいそうなほどみすぼらしい。
 今、とくに、9・11以降、イスラムが悪くて(暴力的)、欧米が正しい(正義)と思っている人が多いが、歴史を繙けば、この二者の態度はそれほど簡単に結論づけられない。公平にみて、どっちもどっちという気がする。いずれにしろ、中世では、ヨーロッパはイスラムに比べて後進国であった。」

Q6「日本は農耕民族といわれる、ヨーロッパは狩猟民族?」

P:狩猟によって、日々の食材を得るか、農耕によるか?
「deer(鹿)、Tier(動物)。語源は一緒。何故?」

A:食べるものが鹿だった。
A:目の前にいたのが鹿ばっかり。

「目の前にいたのが鹿。動物といえば鹿ばっかりだった。
 人間は鹿ばっかり食べていたのか?」

P:いろいろだった。パンが主食で、魚なども食べていた。
「ヨーロッパ人をなんと言えばいいのか?」

P:農耕狩猟民族。だと思う。
A:牧畜民族だと思う。

「基本的にはヨーロッパというのは農耕である。ただし、日本との違いは農耕+家畜を飼っていたという点にある。世間で言われているような、日本=農耕、ヨーロッパ=狩猟、というdichotomy(二分分割)は正しくない。
 中世ヨーロッパでは、日本人が想像するほど肉を食べていない。平民は、雑穀と野菜しか食べることができなかった。祭りなどで初めて肉が食べることができた。たんぱく質は日本人のほうがよく食べている。
 米は完全食品。麦はなんといわれている?」
P:不完全。単一の栄養素だけ。

「人間の生存に必要な栄養素、アミノ酸が麦には欠けている。
ほかにも、『ヨーロッパの家は石造り』というのも嘘。
ヨーロッパ各地に、今でも中世の家がそのままの形で残っているが、天井が低い(180cm以下)家が多かった。今のオランダ人男性の平均身長:185cmぐらいある、ということは、最近になってヨーロッパ人の身長が伸びた。また一つの証拠は、博物館で見ることのできる鎧兜。身長が 170cm 前後ばかりの鎧が多い。」

Q9「ゲルマン人とガリア人の差は?」
P:ガリア人とゲルマン人は似たようなもの?
「ローマ人のガリア遠征や、ゲルマン民族の大移動以降、ヨーロッパ人はごちゃごちゃになった。」
「メロヴィング王朝」などを読むと、当然フランス人の立場で書かれているので、フランス人(ガリア人)は優雅であるが、フランク人(ゲルマン人)は粗野で、すぐかっかとして喧嘩になり、ずるい、と評されている。また、ゲルマン人は忍耐力に欠けるという記述も多い。

Q10「Q1-10: 近世のヨーロッパ人と中世ヨーロッパ人の性格の比較」

P:中世ヨーロッパは、宗教の迷信にとらわれがちだった。近世では啓蒙によって迷信から解放されていた。
A:今でも迷信は続いているのではないか。「神はいる」
A:中世は排他的。近世はEUなど、まとまりが出来てきた。
「共同体意識はいつできた?」
P:第二次大戦後ではないか。
A:中世ヨーロッパは、自然を恐れてきたが、近世は自然を利用していた。
(和辻哲郎の著書『風土』でヨーロッパ人は『自然を征服する』風土とされた。 つまり、自然を利用していたのであり、後の自然科学の発展にも貢献したいえるだろう。

A:第一次世界大戦後にも共同体意識は芽生えていたのではないか。
A:中世と近世にあまり差はなかったのではないか。
A:中世はキリスト教絶対主義。近世は自然科学を重視していた。
「じゃあ、中世のほうが人間的に素直なのか?」
A:中世は神性を人々が信じていた。だが、近世は自然科学による説明を人々は求めた。

「ホイジンガーの意見『中世の秋』。『デカメロン』、『カンタベリ物語』を参照せよ」
一言でいうと中世の人々は「節度を知らぬ奔放さと檄しやすい」性格であったと書かれている。つまり、キリスト教が貞節や自制を強調していたのとはうらはらに、実態は人々は性的に奔放であり、かつ粗野であったということだ。
コメント (5)
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