限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第210回目)『リベラルアーツとしての科学史・東洋篇(その4)』

2013-09-29 20:29:02 | 日記
前回

○『夢渓筆談』

宋代(北宋:960 - 1127、南宋:1127 - 1279)は中国のルネサンスといわれ、市民社会と諸産業が勃興した。科学史においてはニーダムが『中国科学史における一座標』と評した『夢渓筆談』が沈括( 1029 - 1093)によって書かれている。

沈括は父祖の代から科挙合格者(進士)の家柄であったようで、その恩恵で官位に就くことができた(蔭位)。しかし当時、蔭位で官位についても肩身が狭いので、沈括は後に正式に科挙を受け、合格して官吏になった。

宋史・巻331によると、沈括は司天監(天文台長)に任命されるや、矢継ぎ早に組織改革を行ったようだ。
 『天体儀や日時計を設置し、水時計も修理して正しい時刻を刻むようにした。また暦の専門家である衛朴を招聘して改暦した。技術部門を増強するために才能のある技術者を広く募集した。』
(提舉司天監,日官皆市井庸販,法象圖器,大抵漫不知。括始置渾儀、景表、五壷浮漏,招衛朴造新暦,募天下上太史占書,雜用士人,分方技科爲五,後皆施用。)

各地での土木作業や職工の作業を見聞したものをまとめた本が『夢渓筆談』である。

『夢渓筆談』は合計で609条の記事が載せられている。(正編:26巻、続筆談:1巻、補筆談:3巻)その内容は多岐にわたる。
 科学技術(210条)、政治・経済・法律(170条)、逸話・伝聞(110条)、考古学・音楽・諸記録(110条)、本草(80条)、天文・暦法(40条)、数学(10条)、地質・鉱物(17条)、地理学(15条)、物理・化学(10条)、建築・土木・工学系(30条)

科学的記述としては次のような内容が挙げられる(巻・ページ数は東洋文庫本による)
 巻1・P.51: ピンホールで像が倒立する。
 巻1・P.177: 歳差は80年に一度ずれる。(巻3・P.160 )
 巻2・P.30: 閘門で水位を調節する運河(パナマ式運河)
 巻2・P.59: 人工の声帯で冤罪を晴らす。(顙叫子・のどぶえ)
 巻2・P.166: 立体の体積を求める公式、隙積法を考案
 巻2・P.211: 透光鑑 (Magic Mirror) -- 背面の文字が日光で透けて見える。
 巻3・P.19: 地磁気の偏角の存在。磁針はいつもやや東に偏寄る。
 巻3・P.159: 潮の満ち引きは月が原因
 巻3・P.190: 干ドックのアイデアを宦官の黄懐信が提案

『夢渓筆談』は中国・宋代の科学技術の水準の高さを示すが、文優位の中国にあってはあまり高く評価されなかったようだ。その証拠に宋史には沈括が65歳で没したと記した後で『夢渓筆談』に関して短く次のようにコメントする。
 『沈括は博学で、文が上手であった。また天文、方志、律暦、音楽、医薬、卜算、など知らないことはなく、多く論文を書いた。また普段、友人達と話したことをまとめて『筆談』を作った。ここには、朝廷の故実や古老の話などが多く載せられていて、今に伝わる。』
 (沈括博學善文,於天文、方志、律暦、音樂、醫藥、卜算,無所不通,皆有所論著。又紀平日與賓客言者爲筆談,多載朝廷故實、耆舊出處,傳於世。)

これを読むと沈括の本領は科学者というより文人(エッセイスト)であったような印象を与える。



沈括のような文人兼科学者は、後漢にも張衡(字:平子)の例がある。張衡は文人として、また科学者としても頭抜けていた。文人としての名声は、文選の巻2,3を占める『二京賦』(西京賦、東京賦)で千古に輝く。後漢書・巻49に張衡の伝があるが、約7000文字の内、科学者としての記述はわずか250字、つまり4%の分量しかない!

○中国に入ってきた西洋科学

東アジアにおいて、中国文明の水準が頭抜けていたため、科学のみならず文化面で外部から影響を受けることが少なかった。商人として中国を訪れ、定住したイスラム教徒から多少の影響はあったにしても、それは際立ったものではなかった。中国の科学史一つの大きな転回点をもたらしたのが、明末に西洋からキリスト教布教のために中国にやってきた宣教師たちだった。宣教師たちの多くは当時のヨーロッパの科学技術に関してもかなり確かな知識をもっていた。中国人はこれら宣教師から聞いたヨーロッパの数学について高い関心をもった。ユークリッド原典をはじめとして数学の専門書を数多く翻訳した。(この点に関しては、いずれ日本の科学史を説明する時に触れたい。)

ヨーロッパの科学との遭遇が中国人の世界観に及ぼした一つの例が、マテオ・リッチ(Matteo Ricci、利瑪竇、1552 - 1610)が中国語に訳した『坤輿万国全図』であろう。この地図によって中国人は初めて世界の地理について正しい認識を得ることができた。マテオ・リッチは1582年(30歳)に中国に到着してから、中国語(漢文)を勉強し、漢文を完璧に読みこなせるまでになった。経書を尽く読破し、中国の儒学者と対等に議論できるようになった最初のヨーロッパ人だと言われている。その語学力を生かして、儒教の経書をラテン語に翻訳したり、また逆にヨーロッパの科学書だけでなく、キリスト教の関係書も漢文に翻訳した。

マテオ・リッチをはじめとして明末、清初にはヨーロッパから数多くの宣教師が中国に来て科学の知識を広めたが、中国人の教養人(文人)たちがヨーロッパ言語を学び、原典から直接、知識を得るという所までは至らなかった。これが日本の蘭学者たちとの大きな差である。ここにも日本が明治以降、すみやかに近代化に成功したが、中国はそうではなかった理由が見てとれる。

○中国の科学史の特徴

ヨーロッパと比較して中国では科学も技術も文に比べると下だとする認識が古来からある。儒教の五経の一つ、礼記の巻19《楽記》には
 『徳成而上、藝成而下』(徳なりて上、芸なりて下)
という句が見える。こういった伝統のために、張衡にしろ、沈括にしろ史書では科学者としての業績より、文人としての業績が大書されていたのだ。

中国は地理的な大きさから言うとヨーロッパ全体に匹敵する。そういう広い面積をもつ国であるから方言は地方差が大きく、中国人同士でも互いに理解できなかった。ただ、文章語(文語)は共通していた。この意味で、文語は口語とかなり乖離はあったものの、ヨーロッパのラテン語同様、書籍を通じて知識の伝播と共有がスムーズに行われた。現代においても、Wikipediaの中国版や百度百科の文章を読むと、かなり伝統的な文語文に近いことがわかる。

○中国とヨーロッパの科学の比較、他

中国とヨーロッパの科学を比較してみると、中国がヨーロッパと同程度に発達分野は、占星術、薬学(本草学)、錬金術、などが挙げられる。一方、物理学、数学、化学、医学、に関しては中国の進歩はヨーロッパに一籌を輸す(負けている)。中国独自の観念論哲学と関連している似非科学としては、陰陽五行説、不老長寿(丹術)などが挙げられる。

たびたび言及しているニーダムの本『中国の文明と科学』は、タイトルこそ、科学であるが、内容的にはむしろ技術面の記述の方が多い。それは、ニーダムが中国の科学技術の高さを示すため、科学よりも技術に重心をおいて資料を集めたからだと私は思う。

こういう風に考えるのは、科学は本来的に西洋人の気質に合っているが、中国(および日本)には合っていないからである。そもそも科学は本来的に『根源的な原理の追及』を目指している。以前のブログ沂風詠録:(第205回目)『リベラルアーツとしての科学史(その4)』でも述べたように、
 西洋では『原理・法則の追求』するが、中国(および日本)はそうでない。
という西洋人の気質はまさに科学の目指すものと合致している。一方、中国(や日本を含む東洋)では根源的な追及より、実用で満足して止まってしまっている面が多くみられる。東洋流の科学的精神は科学(Sciences)よりもむしろ技術(Arts)に、より濃厚に表れていると私は考える。

この意味で、中国、日本(および朝鮮)は科学史より技術史を調べることの方が得るものが多いと私は想像している。

続く。。。
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想溢筆翔:(第137回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その72)』

2013-09-26 21:41:45 | 日記
 『6.05  中国の硬骨の臣、死を覚悟の上で諌める。(その1)』

今から20数年前の1989年6月4日に天安門事件は起こった。中国が今にも民主化しそうな革命前夜の興奮が天安門広場には溢れかえっていた。しかし突如として現れた戦車部隊によって学生・市民の多くが死傷し、一夜にして民主化の夢は潰えた。

翌日(6月5日)天安門広場から戦車部隊が一列縦隊になって引き上げようとした時、突如として一人の青年がその行手を遮った。戦車が若者を避けて右に行けば、青年も右に動き、左に行こうとすれば、左に行って戦車の通行を阻んだ。戦車は青年を踏みつぶそうとすればできたはずだが、命を張ってまで戦車に立ち向かう若者を殺すことはできなかった。その光景がビデオや写真に撮られ、全世界に配信された。青年は『無名の反逆者』(Tank Man)と名付けられた。


【出典】Tank Man

中国は古来から専制政治の国で言論が弾圧されていたように思っている人がいるかもしれないが、この考えは必ずしも正しくない。中国は日本とは違い、この Tank Man のように、自分が正しいと思ったことはだれでも表明することができた。しかし、権力者を怒らせば殺されることは覚悟しておかなければならない。

後漢の陳忠は過去の幾つかの例を引き合いにだして、『人民は死をも恐れずに正論を吐き、皇帝は寛大な心でその意見を聞き入れ反省すること』が理想だと述べた。(後漢書・巻46)
 『仁君は山藪の大を広くし、切直の謀をいれ、忠臣は謇諤の節を尽くし,逆耳の害をおそれず。』
 (仁君廣山薮之大,納切直之謀。忠臣盡謇諤之節,不畏逆耳之害。)

中国では、正論を述べることに命を懸けたケースは古来から数多い。その例を見てみよう。

 ****************************
資治通鑑(中華書局):巻32・漢紀24(P.1033)

もと槐裡村の長である朱雲が上書して意見を述べた。公卿を前にして朱雲はいった:「いまの朝廷の大臣たちは、上は主上を正すことができず、下は民の利益になる事業もせず、皆むだめしを食っている。これは孔子がいう『鄙夫はともに君につかうべからず。いやしくもこれを失わんことを憂えば、至らざる所なし』の者だ。私は馬を斬る大きな刀を頂いて、奸臣一人の首を刎ねて見せしめにしたい。」と言った。それを聞いて成帝が「それは誰だ」と尋ねた。「安昌侯の張禹です!」と朱雲が答えた。成帝は大いに怒って「こわっぱ役人が地位をわきまえず大臣を誹り、帝王の師を辱めるとは死刑だ!」護衛の役人が朱雲を引きずりだそうとしたが、朱雲は廊下の欄干をつかんだため、欄干が折れてしまった。朱雲がそれでもわめいて「私は死んで、過去の忠臣の龍逢や比干に黄泉で会えるなら満足です!私を殺せば帝の評判はどうなるでしょうか?」護衛の役人は朱雲を連れ去った。この時、左将軍の辛慶忌が冠を脱ぎ、腰の印綬を外して、階下の地面に頭を打ち付ける叩頭の礼をしていった。「この者は従来から奇矯な言動で知られている者です。もし言うことが当たっているなら、殺すべきではありません。一方、間違っていたなら寛大に赦してやるべきでしょう。私は自分の命を懸けて申し上げます。」辛慶忌は何度も地面に頭を打ち付けたので額から血が流れた。成帝もようやく落ち着いて、朱雲を赦した。後日、家来が欄干を修理しようとした所成帝が「取り替えずに、壊れた木を拾って修理せよ。直臣を顕彰したいのだ!」

故槐裡令朱雲上書求見,公卿在前,雲曰:「今朝廷大臣,上不能匡主,下無以益民,皆尸位素餐,孔子所謂『鄙夫不可與事君,苟患失之,亡所不至』者也!臣願賜尚方斬馬劍,斷佞臣一人頭以其餘!」上問:「誰也?」對曰:「安昌侯張禹!」上大怒曰:「小臣居下 *B053上,廷辱師傅,罪死不赦!」御史將雲下,雲攀殿檻,檻折。雲呼曰:「臣得下從龍逢、比干游於地下,足矣!未知聖朝何如耳!」御史遂將雲去。於是左將軍辛慶忌免冠,解印綬,叩頭殿下曰:「此臣素著狂直於世,使其言是,不可誅;其言非,固當容之。臣敢以死爭!」慶忌叩頭流血,上意解,然後得已。及後當治檻,上曰:「勿易,因而輯之,以旌直臣!」

もとの槐里の令、朱雲、上書して見えんことを求む。公卿、前にあり。雲、曰く:「いま、朝廷の大臣、上は主を匡すあたわず。下はもって民を益するなし。みな尸位素餐す。孔子の所謂『鄙夫は、ともに君につかうべからず。苟しくもこれを失わんことを患えば至らざる所なき』者なり!臣、願わくば尚方の斬馬の剣を賜りて、佞臣一人の頭を斬り、もってその余を励まさんとす!」上、問う:「誰ぞ?」こたえて曰く:「安昌侯の張禹なり!」上、大いに怒りて曰く:「小臣、下に居て上をそしり,廷にて師傅をはずかしむ。罪は死、赦すなし!」御史、遂に雲を将(ひき)いて去らんとす,雲、殿檻に攀る。檻、折る。雲、呼びて曰く:「臣、下に龍逢、比干に従いて地下に遊ぶを得ば、足れり!いまだ聖朝のいかんをしらざるのみ!」御史、遂に雲を将いて去る。ここにおいて左将軍・辛慶忌、冠を免じ、印綬を解き、殿下に叩頭して曰く:「此臣、もともと世の狂直たること著し。その言をして是ならしめば、誅すべからず。その言、非ならば固よりまさにこれを容るべし。臣、敢えて死をもって争う!」慶忌、叩頭っして流血す。上の意、解く。然る後、やむを得。後まさに檻を治むるにあたりて、上、曰く:「易(か)うなかれ。因りて輯(あつ)めよ。もって直臣を旌す!」
 ****************************

朱雲が命懸けで、成帝の寵臣である張禹を斬るべし、と進言した場面。

朱雲は自分の進言が受け入れられなかったがそれでも尚、廊下の欄干に取りすがってわめいた。引きずり下ろされた時、手すりが折れてしまった(『折檻』(せっかん)の出典)。成帝は自分の信頼する張禹を面罵されたので、激怒して朱雲を処刑せよと命じた。しかし朱雲の熱誠に感動した左将軍・辛慶忌のとりなしで成帝の気持ちも和らぎ、幸いなことに朱雲は処刑を免れることができた。

このように正論を述べることは命取りになる危険は高い。しかし、命懸けのリスクをおかすのではなく、謎かけのような言葉で、相手にそれとなく非を悟らせる方法もある。このテクニックは諷諌と言われている。

 ****************************
後漢書(中華書局):巻57(P.1853)

大戴礼に、君主を諌めるに5つの方法があるが、『諷諌』がベストと述べる。直接的に言わないで、別のものに喩えて反応を伺い、婉曲に言いたいことを述べる。そうすることで、発言自体で罪に問われることがなく、またそれを聞いた君主も反省できる。要は言葉でなく趣旨が伝わり、それで物事が正しくなればよいのだ。どうして、君主の間違いを暴き立てて、ごりごりと指摘し、自分の知識をひけらかして名前を売る必要があろうか?

論曰:禮有五諌,諷爲上。若夫託物見情,因文載旨,使言之者無罪,聞之者足以自戒,貴在於意達言從,理歸乎正。曷其絞訐摩上,以衒沽成名哉?

論に曰く:礼に五諌ありて諷を上となす。それ、物に託して情を見、文によりて旨を載す。言う者をして罪なからしめ、聞く者をしてもって自ら戒むるに足るがごとし。貴きは意、達し、言、従い、理の正に帰するにあり。いずくんぞ、その絞訐(こうけつ)にして上を摩し、衒沽もって名を成さんとするや?
 ****************************

この文は、後漢書・巻57の李雲に見える。李雲は正義感あふれる士で、当時、大将軍の梁冀を誅した功績で一躍、富と権力と握り横暴を極めた単超をはじめとする五中常侍を弾劾し、桓帝を厳しく批判した。正論ではあったが、桓帝の怒りに触れ李雲は投獄された。その上、李雲を弁護した杜衆も同じく投獄された。大臣達は彼らの批判は言葉使いこそは激しいものの、内容的には間違っていないとして助命を嘆願したが、桓帝は李雲と杜衆の二人を処刑した。後漢書の著者・范曄は李雲の短慮を批判し、物には言い方があることを知るべきだと評した。

私は中国の史書をかなりの分量読んだが、中国には命を懸けて正論を吐く人士が日本よりずっと多いと感じる。概して、中国の知識人は孔子や范曄が勧める穏やかな諷諌より、どちらかというと直截的にズバリと指摘する『指諌』(質指其事而諌也)を好むと言ってよさそうだ。(『直諌』や『正諌』ともいう。)

命懸けの諌言が資治通鑑にもかなり載せられているが、次回以降、幾つか紹介しよう。

【参照ブログ、参照サイト】
 想溢筆翔:(第81回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その16)』
 想溢筆翔:(第123回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その58)』

 (百度百科)『五諫についての説明』

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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沂風詠録:(第209回目)『リベラルアーツとしての科学史 ・東洋篇(その3)』

2013-09-22 20:36:03 | 日記
前回

5 ニーダムの疑問

中国は四大文明の一つであり、古来から科学・技術が発展してきた。古代において中国の科学技術のレベルは他の大文明と比較しても遜色がない。下図に中国の科学を精華をトピック的に挙げる。



さて、科学史において、ヨーロッパ以外の国々、文化圏に目を向けさせるのに、一番貢献したのが、ジョセフ・ニーダム(Joseph Needham, 1900 - 1995)であろう。ニーダムが中国の科学技術に興味を持ち、生涯のプロジェクトとして『中国の科学と文明』(SCC : Science and Civilisation in China)を立ち上げ、次々と今まで漢字文化圏以外には知られれることがなかった中国の科学技術の歴史を明らかにした。

ニーダムがこのテーマを追及したのは、いわゆる『ニーダムの疑問』(The Needham Question)を解決するためであった。
The Needham Question:
 "Why China had been overtaken by the West in science and technology,despite its earlier successes?"
『中国の科学技術は早い段階で高いレベルに到達していたにも拘わらずどうしてヨーロッパに負けたのか?』

中国の文明と科学を包括的に記述する、ニーダムプロジェクトは1948年に開始された。開始から60年以上経ってもまだ完結していない。これほど時間がかかっているのは、広範な原典を渉猟しつつ、漢文資料を忠実に英訳しているその誠実な姿勢にある。現時点(2013年現在)では、英文で27巻出版されているが、いずれの巻(Volume)も千ページ近くもある大冊だ。
Volumes: Science and Civilisation in China
 Vol. 1. Introductory Orientations.
 Vol. 2. History of Scientific Thought.
 Vol. 3. Mathematics and the Sciences of the Heavens and Earth.
 Vol. 4. Physics and Physical Technology.
 Vol. 5. Chemistry and Chemical Technology
 Vol. 6. Biology and Biological Technology
 Vol. 7. The Social Background

この英訳によって初めて中国の過去の科学技術の具体的内容とそのレベルの高さを知った世界の知識人たちは、驚愕した。『中国の科学と文明』はこの意味で、科学技術だけでなく、中国全般に関する世界の認識を一新したと言える。

残念なことに、日本語版はこの膨大な著書の一部しか訳していない。思索社が1974年(昭和49年)から刊行を開始した『中国の科学と文明』は、序論、思想史、数学、天文、地学、物理学、機械工学、土木工学、航海技術の全11巻で途絶している。噂では、このシリーズに多額の金をつぎ込んでしまったため、同社が倒産したと言われる。その後、どの会社も後続の巻を出版する意図はなさそうだ。当分の間(あるいは永久に)、日本語では、英文の原文の2割程度の内容しか読むことができない事態が続きそうだ。

私の手元には、全11巻があるが未読了の状態だ。ただぱらぱらとページを見るだけでも、原文も訳文も丹念に書かれていることが分かる。本文だけでなく注も非常に詳しい。引用にはもれなく出典が明記されている。引用の大部分は中国の書物であるのはもちろんだが、ローマのプリニウスの『博物誌』を始めとしてヨーロッパやイスラムの典籍にも及ぶ。訳された11冊を典拠を確かめつつ、著者たちの苦労と驚きを追体験しながら読むなら、読了するのに優に数年はかかるであろう。英文の『中国の科学と文明』(Science and Civilisation in China)は膨大過ぎる上に、人名や地名がローマ字表記(ピンイン、Pinyin)で書かれているため、煩雑でとても読めたものではないが、日本語に訳されたこれら全11巻だけでも是非とも読み終えたいものだと思っている。

【参照ブログ】
 沂風詠録:(第205回目)『リベラルアーツとしての科学史(その4)』

○中国の百科事典(類書)

中国人は古来から筆まめ、つまりメモ魔、記録魔、であった。全てにおいて記録することに情熱を傾けた。そして書かれたものに対しては非常な敬意を払った。印刷技術こそなかったものの、紙や筆など本を書くための道具は揃っていた。それで既に7世紀には、膨大な百科事典・『芸文類聚』できていた。このたぐいの本は『類書』と呼ばれ、現在の意味での百科事典ではなく、項目別に過去のいろいろな書物から記事を集めて編集したものだ。従って、記事のなかみは事物に関する具体的な説明というより、名称の由来・典故、名詞解釈などが主体の、一種のリファレンス的書物である。



日本でもこのような類書が9世紀に編纂されていた、と聞くとびっくりするかもしれない。千巻にもおよぶ、大部の『秘府略』は、 831年(天長8年)に滋野貞主らが淳和天皇の勅を受けて編纂を開始し、20年後の 852年(仁寿2年)にようやく完成した。六国史の一つ『文徳実録』の巻4にはその完成したことを次のように伝える。
 天長八年、勅を諸儒に与え、古今の文書を撰集し、類もってあい従わしむ。およそ一千卷あり。秘府略と名づく。
 (天長八年。勅與諸儒撰集古今文書、以類相從。凡有一千卷。名祕府略。)

残念なことに、この20年にわたる労苦の成果も現在ではわずか2巻しか残っていない。日本では浩瀚な百科事典を代々筆写するに十分な経済的・文化的環境が備わっていなかったということだ。

○中国の科学技術事典

科学技術に関する書籍としては、3世紀、晋の張華(232 - 300)の『博物誌』がある。もともと400巻近くあったようだが、あまりにも浩瀚すぎるというので、晋の武帝が簡略にするように命じた。それで、張華自身が10巻に削減したものが今に伝わる。

時代は、下り6世紀、北魏の賈思勰(かしきょう)は『斉民要術』という書物を著わした。この本は、一般的には農書に分類されているが、世間では中国最古の料理書としても重宝されている。農作物(穀物、野菜、果樹、竹木)や家畜、家禽、魚類の栽培や飼育の方法を丁寧に解説している。

明代に入ると産業(農業・手工業)の発展と符合するように、本格的な科学技術事典が編纂された。とりわけ次の三冊は実証的な記述とともに、図入りの詳しい解説で有名だ。
 三才図絵
 本草綱目
 天工開物


以下、簡単に紹介しよう。

『三才図絵』
著者、王圻(明、1529 - 1612)は1565年(36歳)で進士合格。地元の松江府では四大蔵書家の一人として有名である。三才図絵の三才というのは、天地人、すなわちこの世にある万物について解説するという意味をもつ。三才図絵(108巻)は1607年に完成し、1609年に出版された。

万物を14部門を106項目に分け記述した。
 天文、地理、人物、時令、宮室、器用、身体、 衣服、人事、儀巻、珍寶、文史、鳥獣、草木、など

三才図絵が日本に舶来され、その内容に刺激を受けた大阪の民間儒者の寺島良安が、この日本版として独力で『和漢三才図会』を書き上げ1712年に出版した。

『本草綱目』
著者、李時珍(明 1518 - 1593)は財力に乏しかったので、家族総出で版に文字や図を彫り30年をかけてようやく刊行にこぎつけた。全52巻、190万字という膨大な書籍だ。言及されている薬物は、1892種、薬の処方は、11096個にも及ぶ。内容としては、科学的な説明だけでなく、訓詁(語源的説明)、文学・歴史、地理にも及ぶ。分野も医学、薬学、生物学、鉱物学、化学、環境と生物、遺伝、など広範囲に及び、質量共に従前の書を遥かに凌駕する。

日本には、1603年の第二版が1607年に舶来された。日本でも人気を博したので、返り点や読み仮名などをつけた和刻本が1637年に作られた。貝原益軒がこの本に倣って、日本の植物の記述を主体とした『大和本草』を著し、1709年に刊行した。

『天工開物』
著者の宋応星(明 1590 - 1650)は科挙を受験したが、郷試に合格するも、進士に合格できなかった。その後、各地を旅行し実地に農業、手工業に関する知識を得た。農業、鉱業、工業、など中国の知識人が軽蔑していた分野について、宋応星の博識を盛り込んだのが『天工開物』で、1637年に出版された。中国では注目されることなく見捨てられていた。しかし、日本に舶来された同書が、明治時代に中国に逆輸入されてからようやく一般に知られるようになった。上で触れた、ニーダムの『中国の科学と文明』でも非常にしばしば引用されている。ニーダムの口吻から、『天工開物』の記述はヨーロッパ人の観点から見ても非常に実証的だと高く評価されていることが分かる。

この『天工開物』の書の運命を見ても分かるが、中国では技術に関する本(と技術者)は軽視されている。この本が韓国でも存在していなかった、ということは朝鮮も中国同様、伝統的に技術と技術者を蔑視していた結果だと考えられる。

現在、私の関心は科学史から技術史へ移っているが、今後、東西文明の技術史の比較していく中で、中国における技術の発展とその阻害要因についてもう少し詳しく調べてみる予定である。そして中国・朝鮮と日本の技術の発展の比較することで、私が以前から持っている仮説
 『日本の開国以降の近代化の成功は、職人は自己の技に対して誇りを持つ、という日本の古来からの伝統のお蔭である。』
を検証してみたいと思っている。

続く。。。
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想溢筆翔:(第136回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その71)』

2013-09-19 14:48:32 | 日記
 『6.04  皆が利益に狂奔するなかで、一人清廉に生きる』

西洋で大王の名前のつく王は多いが、中でもマケドニアのアレキサンダー大王(アレクサンドロス大王)は西洋だけでなく全世界から英雄と認められている。戦争に滅法強かっただけでなく、部下に惜しみなく財宝や土地を分け与えたことが彼の名声を支えたといえよう。

その太っ腹な性格を如実に示すエピソードがプルターク英雄伝には次のように書かれている。

 ****************************
プルターク英雄伝・アレキサンドロス 39-2 (Perseus, www.perseus.tufts.edu)

また、マケドニアの兵士が大勢いた中の一人が王の黄金を運ぶ騾馬を駆って来たが、この獣が弱ったので自分がその荷を担いで運んでいた。大王はその男が非常に疲れているのを見て、その話を聴き、荷を下そうとした時、『へこたれるな!そのままテントまで担いでいったら、お前の物にしていいぞ。』と言った。
 (河野与一訳、岩波文庫・巻9、P.58 -- 一部変更)

【原文】


【英訳】Again, a common Macedonian was driving a mule laden with some of the royal gold, and when the beast gave out, took the load on his own shoulders and tried to carry it. The king,then, seeing the man in great distress and learning the facts of the case, said, as the man was about to lay his burden down,"Don't give out, but finish your journey by taking this load to your own tent."
 ****************************

このように物惜しみしない性格であったが、前文に続いてプルタークは次のように述べる。
 『一般に物を要求する人々に対してよりも物を取らない人々に対して機嫌が悪かった。』
アレキサンダーの無邪気な自己顕示欲を鋭く指摘する。


【出典】Alexander the Great, Greek Bank Note of one thousand Drachmas.

片やアレキサンダーのように寛大に振る舞うことを信条としている者もいれば、片や必要以上の物は受け取らないことを信条としている者もいる。北魏の崔光の清廉ぶりをみてみよう。

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資治通鑑(中華書局):巻149・梁紀5(P.4645)

北魏は何世代にもわたって強盛を誇っていたので、東夷や西域からの貢ぎ物が絶えず、また交易所にも南からの財宝がもたらされてきたので非常に裕福になり、倉庫が満杯になった。あるとき、胡太后が蔵にある絹を下賜した。王公や嬪主の従者、約百人に持てるだけの絹を取ってよいと触れた。力自慢の者は、欲張って取っていった。少ない者でも絹・百匹は取った。尚書令で儀同三司の李崇や章武王の拓跋融は持っていた絹があまりにも重すぎて地面に倒れてしまった。李崇は腰を傷め、拓跋融は足を挫いた。胡太后は二人の絹を全て奪って蔵から出したので、人の笑い者となった。。。侍中の崔光はわずか二匹しかとらなかった。胡太后はあまりの少なさに驚いて尋ねた。崔光が答えていうには、『両手では絹2包しか取れませんよ。』それを聞いた皆は恥じ入ってしまった。

魏累世強盛,東夷、西域貢獻不絶,又立互市以致南貨,至是府庫盈溢。胡太后嘗幸絹藏,命王公嬪主從行者百餘人各自負絹,稱力取之,少者不減百餘匹。尚書令、儀同三司李崇,章武王融,負絹過重,顛仆於地,崇傷腰,融損足,太后奪其絹,使空出,時人笑之。。。侍中崔光止取兩匹,太后怪其少;對曰:「臣兩手唯堪兩匹。」衆皆愧之。

魏は累世、強盛にして、東夷、西域の貢献、絶えず。又、互市を立てもって南貨を致す。ここにおいて府庫、盈溢す。胡太后、かつて絹蔵を幸せんとし、王公・嬪主の従行者、百余人に命じて各自に絹を負わしむ。力を称すものこれを取る。少なき者も百余匹を減ぜず。尚書令、儀同三司の李崇,章武王の融、絹を負いて重を過ぎ、地に顛仆す。崇は腰を傷め、融は足を損足う。太后、その絹を奪い、空出せしむ。時人、これを笑う。。。侍中の崔光は両匹を取りて止む。太后、その少きを怪む。こたえて曰く:「臣の両手、ただ、両匹に堪うのみ。」衆、みなこれを愧ず。
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崔光は絹を取れるだけ取ってよいと言われたにも拘らず、わずか2包を取っただけで、両手が一杯、と満ち足りた表情をしていた。それを見て、人々は自分の貪欲さを恥じた。

尚、資治通鑑のこの部分は、楊衒之の『洛陽伽藍記』巻4の文を引用しているが、最後の文『衆皆愧之』の代わりに『朝貴服其清廉』(朝貴、その清廉に服す)とある。

ところで、李崇や章武王・拓跋融だけでなく、中国人の貪欲さやその裏返しとしての派手さは伝統的なものであった。始皇帝が作った咸陽は豪勢を極め、項羽によって焼かれた時は -- 多少の誇張があるとは思うものの -- 3ヶ月も燃え続けたと言われる。魏晋時代の世相を鮮やかな切り口の寸評でまとめた『世説新語』の汰侈篇(第 30)には奢侈の様子がいくつも活写されている。戦乱が続いたその後も人々の苦しみなど全く気にもかけない奢侈が続いた。資治通鑑には、崔光の言動を述べたあとに次の文が続く。

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資治通鑑(中華書局):巻149・梁紀5(P.4646)

当時は魏の王室のお気に入りの家臣たちは豪華三昧(奢侈)を競っていた。高陽王の元雍の富貴は魏国の中でも随一であった。彼の邸宅や庭は王宮と等しいほどであった。下僕が6000人、侍女が500人もいた。外出をするときには、行列の儀衛士が道を塞ぎ、家では連日連夜、管弦の音や歌声が絶えなかった。一回の食事には数万銭もした。李崇の富は元雍と等しかったが、ケチな性格でこう語っていた。『高陽王の一食はワシの千日分に相当する。』河間王の元琛は元雍と奢侈を競い、駿馬を十数匹飼っていたが、槽(飼いば桶)は銀製。窓の上には玉鳳銜鈴・金龍吐旆(ヒスイの鈴と金刺繍の旗)が懸っていた。かつて諸王を呼んで宴会をした時には、酒のデカンターはクリスタルガラス製、碗は瑪瑙製、杯は紅玉製で、見事な逸品ぞろいで、すべて舶来のものばかりであった。

時魏宗室權倖之臣,競爲豪侈。高陽王雍,富貴冠一國,宮室園圃,於禁苑,僮僕六千,伎女五百,出則儀衛塞道路,歸則歌吹連日夜,一食直錢數萬。李崇富埒於雍,而性儉嗇,嘗謂人曰:「高陽一食,敵我千日。」河間王琛,毎欲與雍爭富,駿馬十餘匹,皆以銀爲槽,窗戸之上,玉鳳銜鈴,金龍吐旆。嘗會諸王宴飲,酒器有水精鋒,馬腦碗,赤玉卮,製作精巧,皆中國所無。

時に魏宗室の権倖の臣、競いて豪侈をなす。高陽王・雍の富貴は一国に冠す。宮室園圃は禁苑にひとし。僮僕は六千、伎女は五百。出でては則ち、儀衛は道路を塞ぎ、帰りては則ち、歌吹すること日夜を連す。一食は銭数万にあたる。李崇の富は雍とひとしいも、性は倹嗇。かつて人に謂いて曰く:「高陽の一食は我が千日に敵す。」河間王・琛、つねに雍と富を争わんと欲す。駿馬、十余匹はみな銀をもって槽となす。窓戸の上には玉鳳銜鈴・金龍吐旆。かつて諸王を会し宴飲す。酒器に水精の鋒、馬脳の碗、赤玉の卮あり。製作は精巧にして、みな中国の無きところなり。
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崔光はこういった奢侈の風とは対極であった。その一生を資治通鑑(P.4676)は次のように評した。
 『光、寛和にて善を楽しみ、終日、怡怡とし、いまだかつて忿恚せず』
 (光寛和樂善、終日怡怡、未嘗忿恚)

北史・巻44によると崔光は後漢の清廉政治家の胡広や黄瓊の人柄を慕っていたとある。

胡広は司空、司徒、大尉、太傅という高位に登ったにも拘らず謙退を旨としたので、広く大臣から下級官吏まで慕われた。後漢書・巻44によると胡広が82歳で死去したとき、数百人が葬式に列席したという。漢が始まって以来、人臣でこのような盛大な葬式はなかった。(漢興以來、人臣之盛、未嘗有也。)

私は、現在の中国の社会悪(とりわけ、目を覆うばかりの環境破壊、政治腐敗、人権抑圧)に対しては批判的な考えを持っているが、だからと言って過去のこれら清廉な政治家たちを否定するものではない。我々現代の日本人は、中国の歴史からまだまだ学ぶことは尽きない。

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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沂風詠録:(第208回目)『リベラルアーツとしての科学史・東洋篇(その2)』

2013-09-15 22:03:40 | 日記
前回

○古代インドの薬学

インドだけでなく世界中どこでもそうだが、医学にとって薬学は縁の下の力持ちだ。アーユルヴェーダには三つの『サンヒター』とよばれる医学書がある。
 『チャラカ=サンヒター』
 『スシュルタ=サンヒター』
 『アシュターンガ=フリダヤ=サンヒター』


これらの本には総計、約600種の薬草の効用が記述されている。また、『チャラカ=サンヒター』では 165種類の動物について述べ、動物のいろいろな部位の薬効についても述べている。鉱物に関しても、64項目にわたって薬効について述べる。
 『古代インドの科学と技術の歴史』(2、 P.224)(東方出版)、デービプラサド=チャットーパーディヤーヤ(佐藤任・訳)

インド人は植物、動物、鉱物の医薬への利用を目的として熱心に研究し、分類した。ただ、薬がどのように効くかなど科学的な実証については興味をもたず、5元素の観念論に終始したようだ。彼らが名付けた、いろいろな植物・薬草の名前は中東・小アジアを経由して古代のギリシャに伝わり、ヒポクラテスの著作にもそれらの名前を見出すことができる、と言われている。

具体的に幾つかの例を示めそう。(左がギリシャ語、右がサンスクリット語)
 カルダモン(小豆蒄・καρδαμωμον) : Kardama
 ぺプリ(胡椒・πεπερι)    : Pippali 
 ジンギベリス( 生姜・ζιγγιβερισ) : Srngaveram

ついでに言うと、人体の器官の名前にもサンスクリット語由来の単語がある。例えば:
 ヴァルヴァ(女性の外陰部・βολβα) : Ulva
 フレグマ(粘液・φλεγμα)     : Slesma

私は個人的には、下の2つの単語はサンスクリット経由でギリシャ語に入ったというより、もともと印欧祖語に共通の語彙であったように感じる。何故なら、上の3つの植物はインド産でギリシャに見つからないが、下の2つの物はギリシャに無かったとは到底思えないからだ。(あるいは古代のギリシャ人は、みな男で粘液を持たなかったとでも言うのであろうか?)


【出典】Itoozhi Ayurveda

○インド科学史研究の発展

インド人は元来インドの科学史に関して興味を示さなかった。その暗闇の扉を開いたのが、 18世紀末、インドに上級裁判所の判事として赴任したウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)であった。彼はギリシャ語やラテン語を初めとして複数のヨーロッパ言語、およびアラビア語の知識があった。インドに来てサンスクリット語の文章を読んでいる内に、いくつかの単語がギリシャ語やラテン語と類似関係があることに気づいた。

彼はそこから、ヨーロッパ言語群とサンスクリット語は親戚関係にあり、それは遠い過去に同じ先祖から分れたものだと推定した。 1786年2月、ジョーンズがカルカッタでこの考えを発表すると、多くのヨーロッパ人は非常な興味をそそられ、これからサンスクリット語を含めてヨーロッパ言語全体を研究する比較言語学が発達した。言語研究をきっかけとしてヨーロッパ人はヴェーダやウパニシャッドのような古代のインド哲学の研究へと関心の領域を広げた。

このようにして始まったインド学であるが、ヨーロッパ人の関心は主として言語学と宗教・哲学に限定され、インドの科学史・技術史に対する研究はあまりなされなかった。

またインド人自体も自分達の科学史に対しては興味を示なかった。第二次世界大戦後の1950年代以降になってようやくインド人によるインド科学史の研究がスタートした。その成果は、1971年に発刊された分厚い "A Concise History of Science in India"に見ることができる。この本の内容に対しては、批判的な意見もある。(『逆説の旅』佐藤任 P.14)
(現時点では私はまだこの本は読んでいないのでこれ以上の言及は控える。)

○インドの古代科学史を読んだ感想

日本ではインドというと仏教をふくめ宗教関係やインド哲学に関する本はかなり多いが、インド科学に関する書物は極めて少ないのが現状である。ただ、これは日本だけの特異現象でなく、インドも含め、世界的にそのようだ。その数少ない、邦訳のインド科学史のかなり分厚い本を最近見つけた。

デービプラサド=チャットーパーディヤーヤが書いた2巻本で合計 1000ページ超のボリュームがある本だ。
 『古代インドの科学と技術の歴史』(佐藤任・訳) (東方出版)

タイトルに釣られて読み進んだが、全くの期待外れであった。読後感想を比喩的に表現すると次のようになる。

 旨い魚をたべさせてくれる店があるという。行ってみると、まず突出しがでた。次いで、サラダや煮物がでた。いろいろ出たが、メインディッシュが出ないまま、サケ茶漬けがでた。『旨い魚はまだか?』と尋ねると、『出ていますよ!』との答え。見ると、ゴマ粒大のサケの切り身が幾つか見つかっただけ。

この本は、タイトルこそ古代インドの『科学と技術』と謳ってはいるものの内容的には、『ウパニシャッド』などのヴェータ(哲学、宗教)の話が非常に多く、科学的・技術的な話題は極めて少ない。その上、同じ内容の繰り返しが多く、更には、言い訳や他人の言説批判、など冗長で非生産的な話が多い。確かに、科学や技術を背景の社会環境や基盤文化から切り離して論ずることはできないのは確かだが、もしこの本の中から純粋に科学・技術的な内容だけを抜粋すると、多分 1/10の分量、つまり 100ページにも満たない小冊子になると思われる。

インド人が科学や技術を論じる時になぜ、このような観念的な話多いのであろうか?

つらつら考えるに、インドは強固な階層社会であり、観念論・抽象論は高尚だ、と考える根強い伝統がある。社会の最上層であるバラモンは汗を流して働くことなく、高尚な思索にふける特権を享受している。それ故、バラモンの知的著作にはインドの最高の叡智であるヴェーダやウパニシャッドについてどの程度知っているかを証明する義務がある。言及しないというのは、筆者の知的レベルの低さを公言しているようなものだ。それ故、どのようなテーマの書物であれヴェーダやウパニシャッドに関する薀蓄の披瀝がインドの伝統なのだ。

○インド科学の他の文化圏との関連

古代インドと他の文化圏との科学分野における関係は、概していえばインドが外に対して影響を及ぼしている。例えば、医学で言えば、古代インドのアーユルヴェーダは既にBC 8世紀には確立していたと言われている。それに対して、ギリシャ医学は BC 5世紀ごろに確立したと言われているので、ギリシャはインドから影響を受けた可能性が高いと言われている。また中国医学に関しては仏教の伝来と共にインド医学が中国に伝えられたと推定される。

インドの科学技術の頂点は古代から少し時代は下がるがグプタ王朝(AD 320 - 550)であった。グプタ王朝は、ガンジス川流域の北部インド中心とし、商業、金融業、手工業が発展した。サンスクリット語を公用語とし、『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』の二大叙事詩を完成させ、後世のインド文化に多大な影響を与えた。また西方(ビザンチン帝国、ササン朝ペルシャ)や東方(東南アジア、中国)との交易を通じてインドの高度な科学技術が伝播した。

数学や天文学では多くの天才科学者の業績がイスラム圏に伝えられた。例えば、アールヤバタ (Aryabhata, 476 - 550)は半弦表を用いた三角関数を導入した。ブラフマグプタ( Brahmagupta, 598‐665)の数学と天文学の著書はアラビア語に翻訳され 8世紀のイスラムの天文学と数学に多大な影響を与えた。具体的には次のような項目だ。
 ゼロおよび負の数の記法
 二次不定方程式
 二平方恒等式
 円の内接四角形の面積の公式 
 三角関数の発展(正弦表の中間の角度の値の補間公式)


グプタ朝以降も、インド数学界は何人かの天才数学者生んだ。とりわけバースカラ2世 (Bhaskara, 1114 - 1185) の著作はインド古典派数学の頂点を示すと称された。その研究内容は近代西洋数学の先駆者とも言えるものであった。
 二次方程式、三次方程式、四次方程式の解法
 解析学や微分・積分の基本概念の発見
 三角関数の導関数の計算
 球面三角関数の展開


このように、インドには幾人かの科学者がいたが、それは線香花火にも似て単発的には天才的な煌めきを放つものの、総合力・団体力という観点からはヨーロッパとは比較にならない貧弱なものであった。このインド科学の停滞、そして衰退の原因は社会的要因に求めることができる。一言で言えば、
 『観念論に対する過度な崇拝と、それに比例して、工芸技術に対する不当なまでの蔑視』
が原因だ。手先や体を動かすことを厭い、汗をかく作業を避け、頭だけで物事を観念論的に考える上層階級(バラモン)の科学者。その対極にいたのが、体と道具を使い物を作り上げていく下層階級(シュードラ)技術者。この2つが階層的に分離していた。

以前のブログ、
 沂風詠録:(第180回目)『ニーダムの疑問への回答(補遺)』
に述べたように、本来的には、『技術の発展なくして科学の発展がなかった』のであるから、インドのようにいくら高い技術力を持つ技術者が数多くいても、科学者が自分の研究器具の制作の為に、彼らを有効に使うことができなければ、結局のところ科学の進歩もありえかった。この点では、カースト制度の基礎をなすジャーティ( Jati、排他的な職業・地縁的社会集団)の細分化とジャーティ間およびカースト間の互いに不干渉的な態度がインド科学の衰退を宿命づけたともいえる。

続く。。。
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