限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第272回目)『将来を遠望した、鴻鵠の志』

2016-05-29 21:52:00 | 日記
宋は歴代の中国の王朝のなかでもとりわけ名臣が多い。それらの人々の生き生きとした、言行がまとめられているのが、『宋名臣言行録』である。現在、日本語でいくつかの本が出ているが、残念ながら、いずれも抄訳でしかない。かつて、大正末期から昭和にかけて国訳漢文大成という中国の古典書のシリーズががあった。『宋名臣言行録』もその一つで原文と書き下し文だけではあるが、全文(といっても僅かに欠けているようだが)が載せられていた。私は、20年近く前に、神保町の古本屋でたまたま見つけて購入したが、稀覯本であるので、1万数千円とかなり高かった。しかし、内容は非常に素晴らしく、何度か読み返した。

その後、全体が欲しくなったが、単体ではなかなか見当たらず、しかたなく朱熹の『朱子全書』(全27冊)を買う羽目となった。(もっとも、朱子全書は、いわゆる朱子学の本体が全て入っているので、これはこれで、いろいろなことが分かって有用ではある。)まだ『宋名臣言行録』の全編には目を通していないが、いずれ時間をみて読みたいとは思っているが。。。



さて、『宋名臣言行録』に王旦の話が載っている。父の王祐が息子の王旦の出世を予言して、「我が家から必ず、宰相の位に登る者が出てくる」と言って、手づから三本の槐(えんじゅ)の木を植えた。その予言通り、王旦は大尉の位まで出世し、死後、魏国公を贈られた。
 【原文】知其必貴、手植三槐于庭、曰「吾子孫、必有為三公者已」而果然。天下謂之「三槐王氏」云

宋の王祐と同じく、将来の出世を予言して予め手を打った人がいた。晋の時代の王濬だ。

家は裕福であったので、多くの書籍を渉猟することができた。ただ、美男子であったので、女漁りに熱心な遊び人であった。後年、素行を改め、世の中を変えようという大志を抱いた。それで家を新築する時に、門の前に広さ数十メートルもの大きな広場を設けた。人が「一体なんのためにこんな馬鹿でかい空き地を作ったのかい?」と問うと、「ここに、大軍を整列させるためだ!」と返事した。聞く者は皆、あざけり笑った。それに対し、王濬は「その昔、陳勝も『燕雀、いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや』(燕雀安知鴻鵠之志)と言い返したよ」と応えた。」
 【原文】王濬字士治、弘農湖人也。家世二千石。濬博渉墳典、美姿貌、不修名行、不為郷曲所称。晩乃変節、疏通亮達、恢廓有大志。嘗起宅、開門前路広数十歩。人或謂之何太過、濬曰:「吾欲使容長戟幡旗。」衆咸笑之、濬曰:「陳勝有言、燕雀安知鴻鵠之志。」

「卑下もせず、傲慢にもならず。常に志を高くもつ。」二人の生き様から、そういったメッセージが聞こえてくる。
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想溢筆翔:(第257回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その100)』

2016-05-26 20:46:44 | 日記
前回

【199.繁昌 】P.3757、AD423年

前回は『零落』を取り上げたので、今回はその反対の『繁昌』を取り上げよう。

『繁昌』は現在と同じ意味で、辞源(1987年版)では「繁栄、茂盛」と説明する。(もっとも、この程度の解説では、単なる同義語の羅列に過ぎないが。)この意味以外に、現在の安徽省にある地名であるともいう。辞海(1978年版)では、『繁昌』は地名の項しかない。実際、二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑+清史稿)で検索すると、合計で71回使われているが、その大半は地名の『繁昌』である。

話は変わるが、その昔、北海道の国鉄(日本国有鉄道)の赤字路線の駅が一躍有名になったことがある。『幸福駅』という名前で、近くに愛国駅があったため「愛国から幸福ゆき」という切符を買い求める人が殺到した。切符を買って乗るよりも、記念品としたようだ。

「たかが名前だけじゃないか!」というが中国人は日本人以上に名前にこだわる民族であるようだ。

例えば、晋の文人・陸機(陸士衡)の《猛虎行》という詩(楽府)がある。そこには、名前を聞くだけで毛嫌いしたことが述べられる。
 渇すれども盗泉の水を飲まず、熱すれども悪木の陰(かげ)に息(いこわ)ず
 (渇不飲盗泉水、熱不息悪木陰)

この詩句の原典は『淮南子』の次の文である。
 孔子の弟子の曾子は孝を重んじた。それで「勝母」という名の村は避けて通らなかった。節約家の墨子は音楽を否定した。それで、「朝歌」の村には足を入れなかった。曾子はさらに廉(けじめ)を重んじた。それで、いくら喉が渇いても「盗泉」の水は飲まなかった。
 (曾子立孝、不過勝母之閭;墨子非楽、不入朝歌之邑;曾子立廉、不飲盗泉。)

つまり、名前が不吉や汚らわしいのはそれだけで避けるべき、というのが中国の人たちの考えであった。当然、その逆の現象、つまり縁起の良い名前は、皆がこぞってつけたであろうことは容易に想像できる。それの一つの例が『繁昌』であったを私は推測する。

さて、地名ではなく現代の我々が用いている繁栄の意味での『繁昌』が使われた資治通鑑の個所を見てみよう。

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蛮族の王である梅安が悪党の首領を数十人引き連れて北魏に朝貢した。この蛮族たちはもとは、長江と淮水の間に住んでいた。その後、人口が増えて、数州にまたがる程の大部族となった。東は寿春まで、西は巴蜀まで、北は汝潁まで住居範囲を拡大した。魏の時代には、まだ大人しくしていいたが、晋の時代になるや、次第に繁昌し、ついには寇暴が問題となるほどになった。その後劉裕や石虎が中国を混乱に陥れると、これらの蛮族も遠慮することなく横暴や略奪を極め、徐々に南から北へと移動した。そして、伊闕の南側の山間に満ち溢れた。

蛮王梅安帥渠帥数十人入貢于魏。初、諸蛮本居江、淮之間、其後種落滋蔓、布於数州、東連寿春、西通巴、蜀、北接汝潁、往往有之。在魏世不甚為患;及晋、稍益繁昌、漸為寇暴。及劉、石乱中原、諸蛮無所忌憚、漸復北徙、伊闕以南、満於山谷矣。
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「中国の混乱につけこんで蛮族どもが増長して悪さをしやがって」と、いまいましさが行間に迸るような文章だ。



ここで蛮族と言うのは盤瓠(あるいは、槃瓠ともいう)の子孫だと胡三省は注をつける。『後漢書』巻86の《南蛮西南夷列伝》よると盤瓠(後漢書では、槃瓠)という名前の由来には怪談めいた伝承がある。

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【要約】その昔、帝の高辛氏は犬戎からの攻撃に頭を悩ませていた。それで、敵の呉将軍の首を持って来た者には莫大な褒美(黄金千鎰、邑万家)を取らせた上に、娘の皇女を嫁にやると触れた。当時、帝には槃瓠という犬がいたが、しばらくすると人の首を運んできた。調べてみると呉将軍の首であった。帝はおお喜びしたが、まさか犬に娘をやるわけにはいかないと、褒美の件も含め、知らんぷりをきめこんだ。

さて、皇女がこの事を聞いて、父に、帝が一旦口にしたことは翻すことはできないと諭し、犬の嫁になると言い張った。帝も仕方なく娘を槃瓠に与えたが、槃瓠は娘を背にのせて山中に入っていった。その後、二人は睦まじくくらし、3年の内に子供が12人も生まれた。(まるで、犬の子供のようだ!)

夫の槃瓠が死んでから、皇女と子供たちは宮廷に呼び寄せられたが、子供たちの衣装はけばけばしく、また言葉も田舎じみていた。そして、宮廷のような場所を嫌い、山や谷が大好きであった。追々、子孫も増えたので、「蛮夷」と名付けた。外見は、知能が足りないようでありながら、腹の中には邪悪な考えが満ちていた。

昔高辛氏有犬戎之寇、帝患其侵暴、而征伐不剋。乃訪募天下、有能得犬戎之将呉将軍頭者、購黄金千鎰、邑万家、又妻以少女。時帝有畜狗、其毛五采、名曰槃瓠。下令之後、槃瓠遂銜人頭造闕下、群臣怪而診之、乃呉将軍首也。帝大喜、而計槃瓠不可妻之以女、又無封爵之道、議欲有報而未知所宜。女聞之、以為帝皇下令、不可違信、因請行。帝不得已、乃以女配槃瓠。槃瓠得女、負而走入南山、止石室中。所処険絶、人跡不至。於是女解去衣裳、為僕鑒之結、著独力之衣。帝悲思之、遣使尋求、輒遇風雨震晦、使者不得進。経三年、生子一十二人、六男六女。槃瓠死後、因自相夫妻。織績木皮、染以草実、好五色衣服、製裁皆有尾形。其母後帰、以状白帝、於是使迎致諸子。衣裳班蘭、語言侏離、好入山壑、不楽平曠。帝順其意、賜以名山広沢。其後滋蔓、号曰蛮夷。外痴内黠、安土重旧。
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オス犬が人間の女と結婚して、子供ができるなど、まるで、南総里見八犬伝のような話だが、なんとも侮蔑的、否定的な言辞のオンパレードだ。これが、非文明的人種である「東夷・西戎・南蛮・北狄」に対する ― 今はどうか知らないが ― 当時の中国人の偽らざる本音であろう。

続く。。。
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百論簇出:(第189回目)『熟成を必要とするリベラルアーツ』

2016-05-22 20:24:31 | 日記
私は大学では機械工学を学んだ。当時、機械工学と電子工学の融合のメカトロニクスが盛んにいわれだしたころであり、ロボットなどがその典型であった。私は子供ころから工作が大好きなメカ少年で、中学校ごろまでの机の引き出しは、文具や参考書など全くなく、ネジや銅線、モーター、ねじ回し、サンドペーパー、などがはち切れるばかりにつまった工具箱そのものであった。それで、大学の専門の授業の中には興味深い科目が数多くあった。ただ、ちまちました物性関係の科目は、材料学や化学など、すべて大の苦手であった。現在はどうか知らないが、幸いなことに、私が在籍していた昭和50年前後の京都大学の機械工学科では、学生紛争の余慶(?)で、必修科目が全廃されていた。それで、機械工学者には必須の知識であるはずの材料学の講義などは、わずか5分間だけ授業を聞いて、「こりゃ、ついていけん!」(なぜか、ここだけ広島弁)と内心、悲鳴をあげて、さっさと退室した。

それでも、いくつかの授業で今でも、記憶に残っているのは、流体力学の授業である。飛行機の翼の形はだれでも知っているが、あの形は、私は(そして、多分、読者の皆様も)適当に作ったのであろうと、考えていた。ところが、流体力学の授業で、流体の基本的性質である「流体は物の表面を沿って流れる」という単純な話から徐々に進展して、ついに「ジュコーフスキーの翼理論」で翼の形が、写像変換の結果として理論的に導き出された時には(大げさに聞こえるかも知れないが)この世の隠された秘密が目の前に広げられた気がした。そもそも、流体の運動はナビアーとストークスが夙に19世紀に基本方程式(Navier-Stokes)を導出しているので「今さら流体力学?」という雰囲気はなきにしもあらずだが、それでも私にとっては、まさに目が醒める話であった。

【参照ブログ】
 二次元翼理論(等角写像とジューコフスキーの仮定)

翼理論だけでなく、目を開かされたのは(多分)機構学の授業で、西部劇のカーボーイたちが馬を繋ぐ時に、手綱を横杭に2,3回巻くだけでいいのかという理由も教わった時であった。綱を杭にまきつけると、全周の摩擦力がかかるため、簡単に巻いただけの手綱も、実に 200Kgから300Kgの力をかけないと、抜けないのだ。まったく、びっくりポンの話だ!



また、風が吹くとどうして、電線から「ピューピュー」という音が出るのか?これは、電線の周りに互い違いの渦、カルマン渦(Karman's vortex)が発生し、そのため渦音(Lighthill の渦音方程式)がピューという音を出すのだ。このような自然現象の理論的な説明は私にとっては非常に興味深かった。それ故、後日、私の博士論文では流体力学をベースにして、人間の声が渦音であることを方程式とコンピュータシミュレーションで明らかにした。

もっとも、これらの授業で得た知識は、リベラルアーツ研究家の現在の活動では、残念ながら活用する機会はあまりない。ただ、その中でも今でも役に立っていることがある。機構学(それとも材料力学?)で習ったことで、本棚を置く時に、壁に少しでももたれかけると ― 具体的数値は忘れたが ― 地震などの振動に対して何倍も強いということであった。実際、私の東京のマンションにはかなり多くの本棚が置いてあるが、全て、すこ~しばかり傾けて置いてある。それで、この前の2011・3・11日の大地震では、多少の本は落ちたものの、本棚自体は全く被害がなかった。

さて、このような昔話をしていても退屈するだろうから、そろそろ本論に入ることにしよう。

熱力学では潜熱(latent heat)という概念がある。簡単にいえば、薄いアルミ鍋をコンロにかけるとすぐ沸くが、分厚いスキヤキ鍋では、水はなかなか沸かないということだ。鍋に加えている熱量は始めのうちは、水を沸かすことに使われるのではなく、鍋を温めるのに費やされるからだ。コンロの熱が目に見える形の熱にならないところから、「隠された熱」と命名された(latent = hidden)。

スキヤキを分厚いスキヤキ鍋で炊くとき、誰でも鍋が温まるまで時間がかかることを知っているので、じっと辛抱している。リベラルアーツも熟成までにが時間がかかる。それは、鍋の潜熱と同じだ。スキヤキ鍋であれば、温まらないからといってすぐに火を止めないが、リベラルアーツとなると、その辛抱ができないようだ。リベラルアーツを、総体として理解するには、大量の情報が必要だ。まず、大量の情報を溜めるのに時間がかかる。さらに、それが熟成するにも時間がかかる。それは、数日、数ヶ月というスケールではなく、十年単位で数えるべきものだ。

ちっとも温まらないスキヤキ鍋に我慢しきれなくなって、火を止めると永久に美味しいスキヤキが食べられないのと同様、リベラルアーツも「まるで進展しないではないか!」と短気をおこして途中で放り投げると、いつまで経っても熟成しないとしたものだ。と、遅ればせながら、ようやくこのごろ得心できるようになった。

【参照ブログ】
 百論簇出:(第12回目)『熟成を必要とする教養』
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想溢筆翔:(第256回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その99)』

2016-05-19 23:18:34 | 日記
前回

【198.零落 】P.3756、AD423年

『零落』とは「さびれること」という意味が一般的であるが、本来は「草木の葉が枯れて落ちる」ことをいう。辞海(1978年版)には王逸が屈原の《離騒》につけた注の説明文として『零落』を次のように説明する。
 『零落、皆おつるなり。草を零といい、木を落という』(零落、皆堕也。草曰零、木曰落)

ただ、この説明文のすぐ後に、「また、木も零とも言うし、草も落とも言う」と付けたす。要は、草も木も葉が落ちることは、「零」「落」のどちらでもよいということだ。これに限らず、中国の古典籍に付けられている注にはデタラメとまでは言わないが、個人の思いつきで書いたようなものもたまには見かける。根拠が多少あやふやでもとにかく「言った者勝ち」の雰囲気が感じられる。それ故、いつもいつも注釈に頼って読むことが最善だと考えるのは、いかがなものかと私は秘かに思っている。(と開き直った態度をとると、漢文の専門家からは大目玉くらうこと間違いなしだが。。。)



さて、この『零落』を二十四史(+清史稿+資治通鑑+続資治通鑑)で検索してみると、上表のように、初出が『漢書』であることがわかる。ただ、この漢書は巻22の《礼楽志》なので、紀元後の後漢時代に書かれた部分だと分かる。さらに、近代になるにしたがって使用頻度が落ちていることも分かる。ざっと見、ピークが隋唐以前である。つまり、西暦0年ごろから 600年ごろまでに使われている単語であるのだ。日本には、中国の古い時代の建物や着物などが、かなり変化せずに保存されているが、単語においても言える。

さて、資治通鑑で『零落』が登場するのは、南北朝時代、南宋の武帝(劉裕)が薨去したのをチャンスとみた、北魏の明元皇帝(拓跋嗣)が攻め込んできた場面だ。

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魏主の拓跋嗣が盟津に到着した。于栗磾は舟で浮橋を冶阪津につくった。魏主は兵を率いて河を渡って北上してから、西に方向を変えて河内に向かった。将軍の娥清、周幾、閭大肥たちが各地を制圧しつつ、湖陸に着いた。高平の民が集まってきて、矢を射かけた。娥清たちは高平地方の県は全て撃破し、数千家の人々を皆殺しにした上に、一万人以上を捕虜とした。 兗州長官(刺史)の鄭順之は湖陸に駐屯していたが、僅かの兵士しかいなかったので、出陣せず、敵のなすままに任せた。魏主はまた、遣并州長官(刺史)の伊楼抜に奚斤を助けて虎牢を攻撃するよう命令した。虎牢を守っていた毛徳祖は臨機応変に防御したので、北魏の兵が多く死んだ。それで、北魏の将軍や兵士たちはいささか意気消沈(零落)した。

魏主至盟津。于栗磾造浮橋於冶阪津。乙丑、魏主引兵北済、西如河内。娥清、周幾、閭大肥徇地至湖陸、高平民屯聚而射之。清等尽攻破高平諸県、滅数千家、虜掠万余口;兗州刺史鄭順之戍湖陸、以兵少不敢出。魏主又遣并州刺史伊楼抜助奚斤攻虎牢;毛徳祖随方抗拒、頗殺魏兵、而将士稍零落。
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北魏の兵は連戦に次ぐ連戦で、意気が上がっていたが、宋の毛徳祖の頑強な抵抗にあってかなり多くの死傷者がでたので、いささかげんなりしたということだ。

ここで、『随方』という語句が見えるが、諸橋の大漢和辞典には説明がない。しかし、資治通鑑の巻162に胡三省が「諸軍乃随方各散」(諸軍、すなわち随方、各散す)につけた注では次のように説明する。「諸軍がめいめい好き勝手な所からやってきて、またそれぞれ散っていく」(諸軍各随所来之方散去也) つまり、機動部隊・遊撃隊を盛んに活用したということと解釈できる。冒頭で述べたのと逆にこのような時には、流石に注は役にたつ。

続く。。。
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沂風詠録:(第271回目)『英語力アップは英英辞典から』

2016-05-15 22:30:28 | 日記
英語力、とりわけ語彙力をアップさせるには、英英辞典を使うことが良いと私は実感している。この事については、すでに数多くの識者も指摘しているので、とりたてていうことはないが、私のささやかな感想を述べてみたい。

以前のブログ『私の語学学習(その36)』で述べたように高校に入って最初の英語の授業で、開拓社の『Idiomatic and Syntactic English Dictionary (ISED)』という英英辞典(縮刷版)を先生から紹介された。早速、購入して使いだしたが、当時(高校一年)の私の英語力ではまだまだ難しかった。それでも、辞書が小ぶりで片手で持てるのと、至るところに、かわいいいイラストが入っているため、瞬く間にすっかりとこの辞書に魅入られた。



当時の使い方といえば、知らない単語を調べると、説明のなかで何個か、また知らない単語が出てくる。仕方がないので、今度はそれを調べるという具合に、一つの単語の意味を理解するのに10分や20分程度はかかったのではないかと思う。ただ、高校生のことなので、時間はたっぷりはあり、実に根気よく使った。その内に語彙力が伸びてくるに従って、単語を引くに要する時間は少しずつ短くなったが、それでも高校卒業の最後まで英和辞典よりは時間がかかっていた。

この私のやり方を効率の点から考えると、非常に非効率であるように考えられるかもしれない。確かに、単発的に一文の意味を理解することだけで競えば、英和辞典の方が圧倒的に効率がよい。しかし、当時からすでに感じていたのだが、英語の単語を日本語で理解するのは、あたかも三角のおにぎりを四角い弁当箱に詰めるようなぎこちなさが付きまとう。どうも、翻訳された日本語のどこかにニュアンスの欠落や歪を感じていた。

英英辞典を使うと、英単語の意味は完全には分らないものの、その単語のニュアンスがまとわりつくような感じを受けた。つまり、英英辞典で知らない英語の単語を別のいくつかの英単語で説明されるというのは、説明している単語群が作り出す観念のいわば重なりあった部分(集合論でいう積集合)ということになる。つまり、英英辞典を使うというのは、単語の一つ一つの意味を正確に知る、というよりも、重なりあった雲のようなもやっとした単語群をボリューム的に獲得するというような感じなのだ。

つまり、一つの単語を引くのにかかった一見「余計な時間・非効率な時間」はこの単語群の雲(つまり、thesaurus)を構築するのに使っていた時間と解釈できるのである。それで、一個、一個の単語の意味を獲得するには時間はかかるものの、何百個もの単語をトータルで獲得する点から考えると、実は非常に効率がいいのである。私も初めはこのことには全く気付かなかったのであるが、英英辞典を使っているうちに、この「単語群の雲」の理解のおかげで、ある時から急に英単語のニュアンスが肌感覚として分かるようになってきたことにびっくりした。

もやっとした意味しか分からない単語同士が、ある時を境にして互いの関連がはっきりと、付き出すのだ。それはあたかもドミノ倒しのように、一つの単語の輪郭がくっきりと浮かびだすと、それと関連した他の単語の意味もやはりくっきりと浮かびだすのである。そうなると、日本語では当たり前であった、単語の陰影(英語ではこれを positive connotation, negative connotation という)がすうっと浮かび上がってくるのが分かる。

さて、この肌感覚を獲得できた一番大きな成果といえば、「英文と日本文の間に翻訳がいらない」という点であった。よく、「まず日本語で考えてから、英語に翻訳する」という話を聞くが、英英辞典を使っていると、日本語という邪魔者(あるいはクッションとも言えるかも?)が存在しないので、英文や英単語が直接、脳にささるのである。その結果、その単語のニュアンスが単語と直結した形で、ぼやっとではあるが、確かに記憶される。逆に英文を作る場合「このような感じの単語」というので頭の中をサーチすると、いくつかの単語群が湧いてくる。それらの単語群ではそれぞれの単語が互いに何らかの結びつきを持っている。それを頼りに、芋づる式に、他の類似の単語を探すことができる。

もっとも、いつもいつもこのように上手く行くわけではなく、和英辞典の厄介になることも多いが。。。

昨年出版した『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』には、語学に関してもかなりのページ数を割いて、結果的に英語上達につながるヒントをいろいろと書いた。その内の一つに「TOEIC 730 点を目指して」と題するコラム(P.367)では、とにかく5000ページを読むという多読と、その時に英英辞典を使うことを勧めているので、是非その部分だけでも読んで頂きたい。

さて、『荘子』の《庚桑楚篇》に『吾日計之而不足、歳計之而有余』(吾れ、日に計ればすなわち足らざるも、歳に計れば、すなわち余りあり)ということばがある。つまり、一日毎に集計すれば、収入より出費が多いが、一年をトータルで見れば逆に、収入の方が多かったという意味だ。本ブログでも述べているように、目先のささいな時間節約に囚われず、辛抱してでも英英辞典を日常的に使うと、時間が経つにつれて英語力は確実に上る。どうも世の中の人は英語に関しては実に天邪鬼で、荘子が皮肉ったように長期的に見ると得する方向には、行かないようだ。

【参照ブログ】
 沂風詠録:(第102回目)『私の語学学習(その36)』
 【2011年度授業】『ベンチャー魂の系譜 7.言語に魅せられた辞書作り』
 【2011年度授業】『ベンチャー魂の系譜 12.アメリカ活力の源泉、ベンチャー魂』
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