宋は歴代の中国の王朝のなかでもとりわけ名臣が多い。それらの人々の生き生きとした、言行がまとめられているのが、『宋名臣言行録』である。現在、日本語でいくつかの本が出ているが、残念ながら、いずれも抄訳でしかない。かつて、大正末期から昭和にかけて国訳漢文大成という中国の古典書のシリーズががあった。『宋名臣言行録』もその一つで原文と書き下し文だけではあるが、全文(といっても僅かに欠けているようだが)が載せられていた。私は、20年近く前に、神保町の古本屋でたまたま見つけて購入したが、稀覯本であるので、1万数千円とかなり高かった。しかし、内容は非常に素晴らしく、何度か読み返した。
その後、全体が欲しくなったが、単体ではなかなか見当たらず、しかたなく朱熹の『朱子全書』(全27冊)を買う羽目となった。(もっとも、朱子全書は、いわゆる朱子学の本体が全て入っているので、これはこれで、いろいろなことが分かって有用ではある。)まだ『宋名臣言行録』の全編には目を通していないが、いずれ時間をみて読みたいとは思っているが。。。
さて、『宋名臣言行録』に王旦の話が載っている。父の王祐が息子の王旦の出世を予言して、「我が家から必ず、宰相の位に登る者が出てくる」と言って、手づから三本の槐(えんじゅ)の木を植えた。その予言通り、王旦は大尉の位まで出世し、死後、魏国公を贈られた。
【原文】知其必貴、手植三槐于庭、曰「吾子孫、必有為三公者已」而果然。天下謂之「三槐王氏」云
宋の王祐と同じく、将来の出世を予言して予め手を打った人がいた。晋の時代の王濬だ。
家は裕福であったので、多くの書籍を渉猟することができた。ただ、美男子であったので、女漁りに熱心な遊び人であった。後年、素行を改め、世の中を変えようという大志を抱いた。それで家を新築する時に、門の前に広さ数十メートルもの大きな広場を設けた。人が「一体なんのためにこんな馬鹿でかい空き地を作ったのかい?」と問うと、「ここに、大軍を整列させるためだ!」と返事した。聞く者は皆、あざけり笑った。それに対し、王濬は「その昔、陳勝も『燕雀、いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや』(燕雀安知鴻鵠之志)と言い返したよ」と応えた。」
【原文】王濬字士治、弘農湖人也。家世二千石。濬博渉墳典、美姿貌、不修名行、不為郷曲所称。晩乃変節、疏通亮達、恢廓有大志。嘗起宅、開門前路広数十歩。人或謂之何太過、濬曰:「吾欲使容長戟幡旗。」衆咸笑之、濬曰:「陳勝有言、燕雀安知鴻鵠之志。」
「卑下もせず、傲慢にもならず。常に志を高くもつ。」二人の生き様から、そういったメッセージが聞こえてくる。
その後、全体が欲しくなったが、単体ではなかなか見当たらず、しかたなく朱熹の『朱子全書』(全27冊)を買う羽目となった。(もっとも、朱子全書は、いわゆる朱子学の本体が全て入っているので、これはこれで、いろいろなことが分かって有用ではある。)まだ『宋名臣言行録』の全編には目を通していないが、いずれ時間をみて読みたいとは思っているが。。。
さて、『宋名臣言行録』に王旦の話が載っている。父の王祐が息子の王旦の出世を予言して、「我が家から必ず、宰相の位に登る者が出てくる」と言って、手づから三本の槐(えんじゅ)の木を植えた。その予言通り、王旦は大尉の位まで出世し、死後、魏国公を贈られた。
【原文】知其必貴、手植三槐于庭、曰「吾子孫、必有為三公者已」而果然。天下謂之「三槐王氏」云
宋の王祐と同じく、将来の出世を予言して予め手を打った人がいた。晋の時代の王濬だ。
家は裕福であったので、多くの書籍を渉猟することができた。ただ、美男子であったので、女漁りに熱心な遊び人であった。後年、素行を改め、世の中を変えようという大志を抱いた。それで家を新築する時に、門の前に広さ数十メートルもの大きな広場を設けた。人が「一体なんのためにこんな馬鹿でかい空き地を作ったのかい?」と問うと、「ここに、大軍を整列させるためだ!」と返事した。聞く者は皆、あざけり笑った。それに対し、王濬は「その昔、陳勝も『燕雀、いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや』(燕雀安知鴻鵠之志)と言い返したよ」と応えた。」
【原文】王濬字士治、弘農湖人也。家世二千石。濬博渉墳典、美姿貌、不修名行、不為郷曲所称。晩乃変節、疏通亮達、恢廓有大志。嘗起宅、開門前路広数十歩。人或謂之何太過、濬曰:「吾欲使容長戟幡旗。」衆咸笑之、濬曰:「陳勝有言、燕雀安知鴻鵠之志。」
「卑下もせず、傲慢にもならず。常に志を高くもつ。」二人の生き様から、そういったメッセージが聞こえてくる。