限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第43回目)『40年前のあの時に戻れたら...』

2010-04-09 00:09:30 | 日記
NHKのドキュメンタリー番組、プロジェクトXは日本人の琴線に触れる部分が多いせいでしょうか、大好評でしたが、歴史上のプロジェクトXといえば奈良時代の大仏建立があげられるでしょう。その大仏の開眼が、今から1258年前の今日、4月9日です。

聖武天皇が盧舎那仏造営の詔を発したのが、天平十五年(743年) 10月15日です。『尽国銅而鎔象。削大山以構堂』(全国にあるだけの銅を溶かして、像を鎔(い)、大きな山全部の木を切って堂を構えよ。)と国家の威信を賭け国力を総動員せよと号令した詔に決意の程が分ります。それから、10年の歳月を経て、ようやく天平勝宝四年(752年)4月9日に盧舎那大仏が完成し、開眼式が挙行されました。当日は元旦の儀式のように皆礼服で式に臨み、読経僧が1万人も招集されたと言います。

その様子を現代的に表現すれば、『フォークダンスを踊るグループもあれば、クラシックバレーも上演された。コーラス隊が東西に分かれて、演奏を競った。楽団も会場のあちこちで演奏していてその素晴らしい様子はとても映像なしには伝えられない。』
(既而雅樂寮及諸寺種種音樂竝咸來集。復有王臣諸氏五節。久米舞。楯伏。踏歌。袍袴等哥舞。東西發聲。分庭而奏。所作奇偉不可勝記。佛法東歸。齋會之儀。未嘗有如此之盛也)
このように、続日本紀では当日の様子が活き活きと描写されています。



続日本紀は日本の歴史書としては、古事記、日本書紀についで三番目の国史ですが、上述の引用文からも分かりますように、原文は漢文で書かれています。しかし幸いなことに現代語訳が講談社学術文庫から出ています。道鏡の専横とそれに引きずられていく孝謙女帝、そしてその急落などはまるで一篇の短編小説です。また、遣唐使で唐に渡り、玄宗皇帝に寵遇されて出世し唐名を晁衡(ちょうこう)と称した阿倍仲麻呂の日本に残された離散家族は貧乏で葬式費用もだせなかったとか。学校で習っていた時には乾いた暗記物にしかすぎなかった事柄が、ここでは活写されています。

しかし、中国の史書と比べると、正直なところ面しろみが少ないと言うのが私の実感です。(中国の史書が面白すぎるのです!)しかし日本民族本来の特性を知る上に於いて必読の書だと思います。現在でも私達の周りで見られる諸現象(罰則の穏和な適用、理より情にほだされる、一律昇進、一律賞与支給、など)がすでに1500年前から(いや多分もっと前からでしょうが)脈々と繋がっていたことを発見させられます。

当時朝鮮半島を経由してあるいは直接中国からいろいろな文物が流入しているはずですが、おどろいたことに全国的規模で見ると図書が大幅に不足していたようすが分ります。大宰府に三史(史記、漢書、後漢書)が完備していなかったので、都から一部を送って欲しいと嘆願したことが神護景雲三年(769年)の項に書かれています。外交の表玄関であり、『天下之一都会也』(天下有数の都会である)と誇っていた大宰府ですらこのありさまですから、ましてや他の都市では、推して知るべしです。

三史は(三国志を加えて前四史と呼ばれることもありますが)中国の史書では、唐代に科挙の試験に出題されたこともあって士大夫必読の書です。私も学生時代に北京の中華書局から出版されている本でこれらに出会いました。数年前『毛沢東の読書日記』(サイマル出版会)を読み、毛沢東が戦後、中華人民共和国の文化水準の向上のため、過去の文化遺産であるこれらの史書を読みやすい形式(標点本)で提供するよう指令したことを知りました。また彼の読書の範囲やその深さなど、とても並の学者など足元にも及ばない位自国の歴史・文学に通暁していることも知りました。彼は『愚公山を移す』や『百家争鳴』など、古典から数多く警句に満ちた語句を講話や談話に引用しています。

さて、今から約40年前、その博識の毛沢東に日本の首相が一杯食わされる事件が起こりました。

1972年9月、田中角栄首相、大平正芳外相が中国に飛び、周恩来総理らと会見し、歴史的な日中国交回復を成し遂げました。当時高校生だった私には、最後の晩餐会で和やかな雰囲気の中、茅台酒で乾杯をする様子だけが記憶に残っています。しかし、その裏では、知恵の駆け引きがあったのでした。

安岡正篤(やすおか・まさひろ)氏は終戦時の天皇の詔勅を起草したり、戦後には歴代首相の指南役と言われ、晩年には平成の元号を案出した人です。彼の本のなかに次の記述があります。田中首相は交渉終了後、毛沢東と周恩来から色紙を贈られました。そこには、『言必信、行必果』(言は必ず信用でき、やりかけた事は必ず果たす)と書いてありました。田中首相は決断力と実行力を看板にしていただけにこの文句が気に入りその色紙を土産にして得々と帰国したのでした。後日安岡氏がその文句を聞いて『あの読書家の大平がついていながら、なんたるざまよ』とあきれ返ったといいます。(『宰相の指導者、哲人安岡正篤の世界』講談社+α文庫)

というのはこの文句は論語にあるのですが、その続きの句が『經經然(こうこうぜん、本当は石偏)たる小人かな』と言うのです。つまり、『言必信、行必果』と言うのは、一国の首相レベルの高い徳を言うのではなく、チンピラごとき狭い了見での徳だという訳なのです。後日首相にもなった大平外相は政界随一の読書家だと自他ともに認めていたのですが、この文句が論語にあることすら気づかなかったのです。

私が始めてこのことを知ったのは二十年前でしたが、その時から妙にこの駆け引きが気に掛かっていました。つまり、毛沢東、周恩来がどのような意図でこの文句を田中首相に渡したのだろうか、本当にチンピラごとき、と見くびっていたのか?また孔子が言ったこのフレーズの本来はどういうニュアンスで言われたのか?また『言必信、行必果』は当時、一般的にはどのように評価されていたのだろうか?

その後いろいろと中国の古典を読み自分なりの結論を出すことができました。まず、『言必信』は本来、ポジティブに評価されていた言葉だと言っていいと思います。儒教の聖典である尚書には『朕不食言』(私は言ったことは必ず守る)とあります。また呂氏春秋にも同じ意味で『天子無戯言』(天子は戯れ言は口にしない)とあります。いづれも、一旦口にした言葉にたいする責任の重さを言ったものです。また淮南子には、『言而必信,期而必当』(約束は守る)は天下の高行なり、と称揚しています。韓非子には、『言必信』の重要性を次のようなショートストーリに仕立てています。曾子の妻が子供が町中で泣くので、あやす口実として、『泣かずにいたら、帰ったら豚を殺して料理を作ってあげるよ』と言ったのですが、家に帰ってから知らん振りをしていました。曾子はそのような妻の態度をなじり、約束どおり豚を殺して子供に嘘をついてはいけないことを実地に教えたとあります。ダメ押しに言いますと、唐の建国の功臣、魏徴の述懐の詩では『季布に二諾なく、侯贏(こうえい)は一言を重んず』と『言必信』に命をかけた義人を頌(たたえ)ています。ちなみに有名な『人生、意気に感ず、功名誰かまた論ぜん』とはこの述懐が出典です。

以上のことから判断するに、『言必信、行必果』は一般的には必ずしも孔子がけなすほどの悪い意味にとられていなかったことが分りました。そうすると、孔子はどうして、信義を守る人をけなしたのか?という疑問が出てきます。世間では孔子やイエスなどを聖人とあがめて、全く欠点がないように考えがちですが、私は彼らにしても人間的欠陥があって、時と場合によっては、心にもないことや、わざと反発した意見を吐いたはずだと考えます。論語をよく読むと分りますが孔子は情熱的な反面、怒りっぽい一面もあったようです。その一例として弟子の宰予が昼寝をした(つまりこっそりラブホテルに入った)ので、孔子が『朽木は彫るべからず、糞土の牆は塗るべからず』と吐き棄てるように言ったと書かれています。よほど虫のいどころが悪かったのだろうと想像します。

こういった孔子の性格からして『言必信、行必果』をけなした時この宰予のように善人を衒い、自分は言ったことは必ず果たす、と標榜しておきながら、けしからぬ行為をした人が間近にいたのではないかと想像します。それで、ついその人に対する個人攻撃のつもりで言ったことが千古不易の一般論として書き留められてしまったのではないでしょうか。

さて、このような歴史的背景を熟知した上で、しかしながら既に否定的なニュアンスが確立しているこの言葉を色紙に書いて、はるばると友好関係を樹立しにやって来た日本の首相に送った毛沢東、周恩来はどういった意図だったのでしょうか?安岡氏のように人を小ばかにしている、と憤慨する人もいるようですが、中国の古典を読むつど、善悪こもごも常にその懐の広さに感嘆させられている私は彼らには、決して田中首相を馬鹿にする意図は無かったものと思っています。これは一種のなぞかけの余興とも言うべきものだと考えられます。つまり、戦後長らく訪問してこなかったの隣国の首相がようやく訪問してきたので、ひとつ小手試しに相手がどのようなやつらか見てやろうと二人でひそひそと話しあったに違いありません。怒れば怒ったで、その対応はあったでしょうし、苦笑いされればまた別の対応を考えていたに違いありません。細工は流々、仕上を見ようと、当日は国交回復の交渉以上に二人はわくわくしながら反応を期待していたはずです。

しかし、彼らの期待はずれもいいところで、田中首相がにこにこしながらその色紙を収めてしまったものですから、彼らは内心がっくりしたに違いありません。いたずら小僧がせっかく仕掛けたわなをすっぽかされた時の気持ちだったでしょう。

さすれば彼ら二人のワナを知った上で田中首相としては、どういう対応をすればよかったのでしょうか?幾つか案を考えて見ました。

1.【切り返えし】
『今の中国の政治に携わる人は如何?』と問い返す。

これは、『言必信、行必果』の節の最後の一句に子貢が『それでは今の政治家はどうでしょうか?』と聞いたのに対し、孔子が『まるで小物で話にならん!』と切り捨てています。この論語の文句を使い、日本よりおたく(中国)の政治家の質は私のレベルより低いのでは?と逆襲したらどうだったでしょうか。

2.【さらりとかわす】
誰か目下の人間にその色紙をくれてやる。

『言必信、行必果、の下の句は經經然(本当は石偏)たる小人かなとあるから、この色紙は私(角栄)にではなく、君へだ』と言って誰かに渡すとします。

もらった人は、『私にではないですよ、(そんな小物ではない!)』と大げさに(演技で)反発し、その色紙を随員の間にたらい回しにします。それを見て、思わず会場が大爆笑となる次第。
『OK、OK、好好了!』

3.【一枚上手をいく】
学のあるところを見せる。

私の本では、と言って、孟子の言葉を引用します。孟子曰く、大人は,『言不必信、行不必果、惟義所在』(言は必ずしも信ならず、行いは必ずしも果たさず、ただ義あるままにす)。孔子亡き後、『言必信、行必果』のフレーズは当時の人々も疑問に思ったらしく、孟子も弟子から本件について質問を受けていたのでしょう、孟子が孔子の本意を解説しています。つまり、不適切な言行なら約束どおり実行しない方がよろしい、と。

4.【真っ向から対決する】
論語を引いて反論する。

もらった色紙の文句はマジックで傍線を引いて消し、同じく論語にある、『訥於言、敏於行』(言は訥に、行には敏)という文句に訂正したらどうだったでしょうか。つまり、『毛沢東さんよ、論語をもっとしっかりと読んではどうですか。一国の首相に与える言葉として適切なのはこちらですよ。』とたしなめるのです。

5.【堂々と述べる】
学だけでなく、識のあるところをみせる。『言必信、行必果』の節の最初の一句に士とは『使於四方,不辱君命』(四方に使いして、君命をはずかしめず)とあります。つまり、外交折衝で相手と堂々とわたりあえる人が立派な士と言えると孔子が誉めています。それを利用して、堂々と『角栄雖不敏、不辱国命』(角栄、不敏といえども、国命を辱しめず)とセレモニーホール一杯に響き渡る声で述べてはいかがだったでしょうか。これには流石の毛沢東、周恩来も『これはあなどれんわい』と心のなかでかぶとを脱いだことでしょう。

もし、40年前のあの日中国交回復の席上に戻れたら私は角さんにこのように助言してあげたいと思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする