(前回)
【195.博聞強識 】P.3746、AD422年
『博聞強識』とは、「知識豊かで記憶力のよい」をいう。現在の日本語では『博覧強記』という言い方が一般的であろう。
しかし、中国古典では、『博○強△』の言い方には様々なバリエーションがある。二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索した結果、多い順に並べると、
3回以上:博聞強記 博聞強識 博学鴻儒 博学強記 博覧強記 博学強識
2回:博物強記 博物強識 博文強識
1回:博識強記 博識強正 博渉強記 博通強記 博聞強学 博学強覧 博学強覧
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/cd/4d1427f248620d560c70c4ec1d0b2d49.jpg)
この表から分かることは、「博覧強記」という日本で知られている言い方は、『宋史』と『元史』でしか見られないということである。つまり、鎌倉時代に宋や元に行った禅僧(道元など)によってもたらされたのではないかと推察される。
また『博通強記』という言い方もあるが、これは二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)には見当たらず、顔師古が漢書などに付けた注の中にわずかにみられる。ひょっとして、顔師古が間違って書いたのかもしれない。
『博聞強識』は資治通鑑では2回使われているが、2回目の個所を見てみよう。時は南北朝時代で、北には北魏があり、南には宋(劉宋)があった。北魏の2代目皇帝・拓跋嗣は名臣が多いと自慢していた。
+++++++++++++++++++++++++++
拓跋嗣(北魏・明元帝)は大いに悦んで侍臣に次のように言った。「長孫嵩は徳の高い旧臣であり、四人の君主に仕えて社稷(国)をよく支えてくれた。奚斤は頭の回転が早い上に、智謀があり、その名声は四方に鳴り響いている。安同は世情に通じていて事務処理能力も高い。穆観は政務に熟達していて、わしがいわんとする所をぴたりと当てる。崔浩は博聞強識(もの知りで記憶力が抜群)であり森羅万象を詳しく観察する。丘堆は特段優れている所があるわけではないが、宮廷ではどっしり構えているので、皆安心できる。この六人で太子を補佐してくれるので、わしはお前たちと国境を巡行して、服従しない者どもを成敗すれば、天下を得たと言えよう。」
大悦、謂侍臣曰:「嵩宿徳旧臣、歴事四世、功存社稷;斤弁捷智謀、名聞遐迩;同暁解俗情、明練於事;観達於政要、識吾旨趣;浩博聞強識、精察天人;堆雖無大用、然在公専謹。以此六人輔相太子、吾与汝曹巡行四境、伐叛柔服、足以得志於天下矣。」
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/b9/0810e29b01b6cc62cb1cf5d421354089.jpg)
北魏は王朝としては150年程度の、どちらかというと短命の部類であるが、文化的には独自のものをもっていた。仏教文化では、雲崗や龍門の石窟寺院が有名だし、書道の観点から言えば碑文の字体に独特の味がある。
大学時代、中央公論の書道全集を見ていたころ、北魏の石碑のなんともごつごつした字体は野暮ったく、稚拙で粗野のように思われ、全く好きになれなかった。私の一番の好みは、欧陽詢と褚遂良であった。欧陽詢の凛とした端正さ、褚遂良の流麗な筆使いにしびれていた。それで、北魏の石碑だけでなく、マツコ・デラックスのような肉太の顔真卿の字体も好きではなかった。
それから、うん十年たった今では、もちろん欧陽詢と褚遂良は依然として大好きであるが、北魏の石碑もマツコ・デラックスの顔真卿も一面では素晴らしいと感じる。許容範囲が広くなったのか?感性が鈍ったのか? はたまた、書の真髄を悟ったのか?
【参照ブログ】
想溢筆翔:(第20回目)『その時歴史が、ズッコケた』
(続く。。。)
【195.博聞強識 】P.3746、AD422年
『博聞強識』とは、「知識豊かで記憶力のよい」をいう。現在の日本語では『博覧強記』という言い方が一般的であろう。
しかし、中国古典では、『博○強△』の言い方には様々なバリエーションがある。二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索した結果、多い順に並べると、
3回以上:博聞強記 博聞強識 博学鴻儒 博学強記 博覧強記 博学強識
2回:博物強記 博物強識 博文強識
1回:博識強記 博識強正 博渉強記 博通強記 博聞強学 博学強覧 博学強覧
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この表から分かることは、「博覧強記」という日本で知られている言い方は、『宋史』と『元史』でしか見られないということである。つまり、鎌倉時代に宋や元に行った禅僧(道元など)によってもたらされたのではないかと推察される。
また『博通強記』という言い方もあるが、これは二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)には見当たらず、顔師古が漢書などに付けた注の中にわずかにみられる。ひょっとして、顔師古が間違って書いたのかもしれない。
『博聞強識』は資治通鑑では2回使われているが、2回目の個所を見てみよう。時は南北朝時代で、北には北魏があり、南には宋(劉宋)があった。北魏の2代目皇帝・拓跋嗣は名臣が多いと自慢していた。
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拓跋嗣(北魏・明元帝)は大いに悦んで侍臣に次のように言った。「長孫嵩は徳の高い旧臣であり、四人の君主に仕えて社稷(国)をよく支えてくれた。奚斤は頭の回転が早い上に、智謀があり、その名声は四方に鳴り響いている。安同は世情に通じていて事務処理能力も高い。穆観は政務に熟達していて、わしがいわんとする所をぴたりと当てる。崔浩は博聞強識(もの知りで記憶力が抜群)であり森羅万象を詳しく観察する。丘堆は特段優れている所があるわけではないが、宮廷ではどっしり構えているので、皆安心できる。この六人で太子を補佐してくれるので、わしはお前たちと国境を巡行して、服従しない者どもを成敗すれば、天下を得たと言えよう。」
大悦、謂侍臣曰:「嵩宿徳旧臣、歴事四世、功存社稷;斤弁捷智謀、名聞遐迩;同暁解俗情、明練於事;観達於政要、識吾旨趣;浩博聞強識、精察天人;堆雖無大用、然在公専謹。以此六人輔相太子、吾与汝曹巡行四境、伐叛柔服、足以得志於天下矣。」
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北魏は王朝としては150年程度の、どちらかというと短命の部類であるが、文化的には独自のものをもっていた。仏教文化では、雲崗や龍門の石窟寺院が有名だし、書道の観点から言えば碑文の字体に独特の味がある。
大学時代、中央公論の書道全集を見ていたころ、北魏の石碑のなんともごつごつした字体は野暮ったく、稚拙で粗野のように思われ、全く好きになれなかった。私の一番の好みは、欧陽詢と褚遂良であった。欧陽詢の凛とした端正さ、褚遂良の流麗な筆使いにしびれていた。それで、北魏の石碑だけでなく、マツコ・デラックスのような肉太の顔真卿の字体も好きではなかった。
それから、うん十年たった今では、もちろん欧陽詢と褚遂良は依然として大好きであるが、北魏の石碑もマツコ・デラックスの顔真卿も一面では素晴らしいと感じる。許容範囲が広くなったのか?感性が鈍ったのか? はたまた、書の真髄を悟ったのか?
【参照ブログ】
想溢筆翔:(第20回目)『その時歴史が、ズッコケた』
(続く。。。)