限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第253回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その96)』

2016-04-28 23:19:34 | 日記
前回

【195.博聞強識 】P.3746、AD422年

『博聞強識』とは、「知識豊かで記憶力のよい」をいう。現在の日本語では『博覧強記』という言い方が一般的であろう。

しかし、中国古典では、『博○強△』の言い方には様々なバリエーションがある。二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索した結果、多い順に並べると、
 3回以上:博聞強記 博聞強識 博学鴻儒 博学強記 博覧強記 博学強識
 2回:博物強記 博物強識 博文強識
 1回:博識強記 博識強正 博渉強記 博通強記 博聞強学 博学強覧 博学強覧



この表から分かることは、「博覧強記」という日本で知られている言い方は、『宋史』と『元史』でしか見られないということである。つまり、鎌倉時代に宋や元に行った禅僧(道元など)によってもたらされたのではないかと推察される。

また『博通強記』という言い方もあるが、これは二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)には見当たらず、顔師古が漢書などに付けた注の中にわずかにみられる。ひょっとして、顔師古が間違って書いたのかもしれない。

『博聞強識』は資治通鑑では2回使われているが、2回目の個所を見てみよう。時は南北朝時代で、北には北魏があり、南には宋(劉宋)があった。北魏の2代目皇帝・拓跋嗣は名臣が多いと自慢していた。

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拓跋嗣(北魏・明元帝)は大いに悦んで侍臣に次のように言った。「長孫嵩は徳の高い旧臣であり、四人の君主に仕えて社稷(国)をよく支えてくれた。奚斤は頭の回転が早い上に、智謀があり、その名声は四方に鳴り響いている。安同は世情に通じていて事務処理能力も高い。穆観は政務に熟達していて、わしがいわんとする所をぴたりと当てる。崔浩は博聞強識(もの知りで記憶力が抜群)であり森羅万象を詳しく観察する。丘堆は特段優れている所があるわけではないが、宮廷ではどっしり構えているので、皆安心できる。この六人で太子を補佐してくれるので、わしはお前たちと国境を巡行して、服従しない者どもを成敗すれば、天下を得たと言えよう。」

大悦、謂侍臣曰:「嵩宿徳旧臣、歴事四世、功存社稷;斤弁捷智謀、名聞遐迩;同暁解俗情、明練於事;観達於政要、識吾旨趣;浩博聞強識、精察天人;堆雖無大用、然在公専謹。以此六人輔相太子、吾与汝曹巡行四境、伐叛柔服、足以得志於天下矣。」
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北魏は王朝としては150年程度の、どちらかというと短命の部類であるが、文化的には独自のものをもっていた。仏教文化では、雲崗や龍門の石窟寺院が有名だし、書道の観点から言えば碑文の字体に独特の味がある。

大学時代、中央公論の書道全集を見ていたころ、北魏の石碑のなんともごつごつした字体は野暮ったく、稚拙で粗野のように思われ、全く好きになれなかった。私の一番の好みは、欧陽詢と褚遂良であった。欧陽詢の凛とした端正さ、褚遂良の流麗な筆使いにしびれていた。それで、北魏の石碑だけでなく、マツコ・デラックスのような肉太の顔真卿の字体も好きではなかった。

それから、うん十年たった今では、もちろん欧陽詢と褚遂良は依然として大好きであるが、北魏の石碑もマツコ・デラックスの顔真卿も一面では素晴らしいと感じる。許容範囲が広くなったのか?感性が鈍ったのか? はたまた、書の真髄を悟ったのか?

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第20回目)『その時歴史が、ズッコケた』

続く。。。
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【座右之銘・93】『ego vero bona mea mecum porto』

2016-04-24 21:10:08 | 日記
『古事記』に、兄と夫の板挟みになった女性の哀しい話が載っている。

沙本毘売命(狭穂姫命ともいう)は垂仁天皇の皇后であったが、兄の狭穂毘古が垂仁天皇を殺して帝位を奪おうと企み、妹に短剣を渡して、昼寝している間に刺せと命じた。垂仁天皇が沙本毘売命のひざまくらで昼寝をしている時に刺そうとしたが、どうしても刺し殺すことができず、涙を流してしまった。その涙で昼寝から醒めた垂仁天皇は事情を聞いて、狭穂毘古の館を攻めた。妹の沙本毘売命は、兄の館に逃げ込んだ。垂仁天皇は戻ってくるよう説得したが、沙本毘売命の兄と運命を共にする決心は変わらなかった。結局、館は火に包まれて燃え、兄妹とも焼死してしまった。自分の子供や夫より兄を大切にしたのだ。



話は変わるが、古代のギリシャやローマの戦いでは、決まって大きな町が狙われる。町を何万にも兵で包囲し、食糧攻めにする。籠城している側の食糧が尽きるか、あるいは戦意を無くすまで待つのが攻め手の常套手段であった。陥落すると、町は略奪され、町の住人は殺されるか、命は助かるものの奴隷として売り飛ばされるか、どちらかであった。

どの町の出来事は記憶が定かでないが、あるギリシャかローマの町が陥落した時、攻撃した側の将軍が人情味あふれ太っ腹で、男どもは皆殺しにするが、女達は自由に町から出て行ってよいとの許可を与えた。その上、自分の力で持てるだけのものを持ち出してもよいとまで言った。その時、女たちはみな、力を振り絞り、それぞれの夫を背負って行ったという。(ただし、未婚の女達が誰を背負ったのかは、確かではないが。。。)

古代、ヨーロッパの女たちは、沙本毘売命と違い、兄よりも夫を大切にしたということだ。

さて、本題の『ego vero bona mea mecum porto』とは、紀元前後のローマの文人、ウァレリウス・マクシムス(Valerius Maximus)の『著名言行録』(Facta et dicta memorabilia)の巻7-2 に載せられている。

その昔、ギリシャの都市、プリエネ(Priene)が敵に攻められた時、市民は皆、家財道具や金銀財宝を山と積んで逃げたが、ただ一人、ビアス(Bias)だけは手ぶらで逃げた。その様子をみた人が、ビアスに「あなたはどうして何も持っていないのですか?」と尋ねた。
するとビアスが
 "ego vero bona mea mecum porto"
 「とんでもない、財産は全て持っていますよ!」
と答えた。ビアスにとって唯一の財産とは、金銀財宝でも、他の誰でもなく、彼自身であったのだ。流石にビアスはギリシャの七賢人の一人と言われるだけのことはある。
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想溢筆翔:(第252回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その95)』

2016-04-21 22:27:12 | 日記
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【194.掌握 】P.933、BC37年

『掌握』の文字通りの意味は「手の中(掌)に握る」ということである。二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)では下記の表から分かるように、合計で76回見える。初出は史記であるので、相当古い単語だ。ただし『春秋左氏伝』には見えないので、戦国時代以降の単語であると分かる。また、近代になるとあまり用いられなくなることから、どちらかというと古代に多く用いられた単語であると分かる。



資治通鑑では14回見えるが、その中でも初期のケースを見てみよう。

時は、前漢末の元帝の時代。蕭望之を始めとする儒者と宦官の間の政権闘争が激しくなり、結果的には宦官が実権を握ることになる。その中でも石顕の勢いは並ぶ者がない程であった。その様子を見てみよう

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石顕の威光は日々に高まっていき、公卿を始めとしてみな石顕を恐れて、一足歩くにもびくびくしていた。石顕と同じ宦官仲間で中書僕射の牢梁、同じく宦官仲間で少府の五鹿充宗らと盟友関係を結んだ。彼らにすり寄ってくるものは皆、高い官位を得た。それで、世間では次のようなざれ歌をつくった。「牢や、石や、五鹿客や!大臣の印章はぞろぞろ、紐はぶらぶら!」

石顕威権日盛、公卿以下畏顕、重足一迹。顕与中書僕射牢梁、少府五鹿充宗結為党友、諸附倚者皆得寵位。民歌之曰:「牢邪、石邪!五鹿客邪!印何纍纍、綬若若邪!」
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資治通鑑では石顕の羽振りの良さをこのように、述べたあと、石顕の内心の不安を次のように描写する。
 『石顕は政界の頂点にいて、全ての事柄を掌握しているとは自負していたものの、天子が周りの者たちの意見に動かされて、自分を遠ざけるのではないかと恐れていた。』
 (石顕内自知擅権、事柄在掌握、恐天子一旦納用左右耳目以間己…)


石顕は自分の力はあくまでも皇帝の支持があればこそ、ということをよく知っていた。元帝の死去と共に石顕の権力も砂上の楼閣のごとく崩れ落ちた。最後は、家族と共に故郷に戻る途中、憂悶死した(石顕与妻子徙帰故郡、憂懣不食、道死)。

続く。。。
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百論簇出:(第187回目)『チャート式脳の弊害(補遺)』

2016-04-17 22:23:07 | 日記
以前のブログ
 百論簇出:(第139回目)『チャート式脳の弊害』
では「古典を読むのが難しい」という若者の悩みから、現代日本の教育の欠陥について論じた。これに関連して最近、また別の若者(女性)から「漢文の読み方をマスターするために、韓非子を自分で吹き込んだが、挫折した」という悩みを聞いたので、それについて考えたことを書いてみたい。

そもそも彼女がなぜ漢文を自分の声で吹き込もうとしたのかについては、次のブログ、
 沂風詠録:(第179回目)『リベラルアーツとしての漢文』
を参照してもらうことにして、問題の「韓非子の読み方」に焦点を絞って話をしたい。

「韓非子」とはいうまでもなく、中国の戦国時代の弁論の雄・韓非が書いたといわれる本である。古来、多くの注釈や現代語訳が出ている。一番入手しやすいのは、原文、書き下し文、現代語訳の三拍子が完備した岩波文庫の4冊であろう。(もっとも、私の個人的な好みは、大正末期から昭和にかけて刊行された『国訳漢文大成』シリーズだ。これは、旧漢字・旧かなであり、現代語訳は付いていないが、漢字のフォントが微妙に小太りで何とも落ち着きのある字体だ。それに語釈が極めて少なく、下段に追いやられているので、本文を通して読むのが極めて快適である。もっとも、現代の若者にとっては、語釈が不親切な上に、現代語訳がないので全く読みづらい本だと感じるであろうが。。。)

さて、彼女は岩波文庫を買ったのであるが、第一冊めの巻1から吹きこんでいったという。

韓非子・巻1の冒頭を見てみよう。
 「臣、聞く。知らずして言うは不智、知りて言わざるは不忠。人の臣と為りて不忠なるは死に当たり、言いて当らざるも、亦(また)死も当たる。然りといえども、臣、願わくば悉(ことごとく)聞くところを言わん。ただ大王、その罪を裁せよ。。。」
 (原文:臣聞不知而言不智、知而不言不忠、為人臣不忠当死、言而不当亦当死。雖然、臣願悉言所聞、唯大王裁其罪。。。)

このような文を読んで、文章の妙を味わえるようになるには何度も韓非子を通読しなければならない。(この点については、『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』(祥伝社)のP.288のコラム「古典の読み方 -- 3回目でチューリップが満開」を参照)つまり、初心者にとって、皆目、意味が分からない文章が延々と文庫本300ページ続くのが韓非子なのである。「ベンチャーのデスバレー」という言葉があるが、韓非子に限らず、古典と言われているものにはたいてい、死ぬほど面白くない文がところどころに潜んでいて、そこに足をとられると全く進まず、沈没してしまう。

韓非子の場合もそうで、初心者が読む場合には、冒頭から読めば、 99.9%、途中で脱落するだろう。そうならないために、興味のわかない所は、見向きもせずエイッとすっとばし、第2冊目の『説林 上・下』や『内儲説 上・下』、さらには、第3冊目の『外儲説 上・下』などの逸話(エピソード)集から読み始めることだ。この辺りの話は、日本でいうと「講談」に類する。話の内容がどの程度、真相であるかの詮索は野暮で、このような話では、韓非が一体何を主張したかったのかという大枠をつかむことだ。そうすると、彼の肉太の思想が秀逸なエピソードと共に長く記憶に残るだろう。

前回の『チャート式脳の弊害』
でも述べたが、現代の日本人はあらかじめ「ここが重要」というマークなしには読書ができないように育てられている。つまり、レールが敷かれていないとだめなのだ。場所と順序が固定化されたものを最初からきちんきちんと順番通りに真面目にこなすことが習い性となっている。あたかも、ランチは必ず焼肉定食、旅行は必ずパッケージツアー、と決めているようなものだ。定められたルートを外れることに非常に不安感を感じる。言い換えれば、自分の頭で自分に一番ぴったりとするやり方をさがそうとせず、誰かが決めたやり方に安直に、かつ、盲目的に従おうとする。



吉川英治の宮本武蔵『円の巻』には、愚堂禅師が土下座する武蔵の周りに杖で円を描いて立ち去ったとある。この円の意味を考えて、武蔵は二刀流に開眼したと言われるが、「地面に描かれた円」というのは、自分(武蔵)が勝手に作っていた自分の限界のことであろうと想像する。自分が円の中でしか生きることができないと考えていたが、そのような円は自分の妄想であって、自分の行動を束縛するものではないのだ、と悟った。

「既存のしきたりや概念を打ち破る」、これは言うは易し、行うは難しである。「リベラル(自由)」が、未だ日本では正しく理解されていないと、『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』(祥伝社)(第1章)に述べた。それに随伴して言うと、リベラルアーツが日本人にとって修得しにくいのは、子供のころからのぎちぎちのカリキュラムによって、『チャート式脳』になってしまった人が、欧米に比べて割合的に多いからではないかと私は感じる。

(尚、上の文中で、「盲目的」という単語を使ったが、これは blindly の意味であり、障碍者に対しての差別用語ではない。また「しょうがいしゃ」は「障碍者」あるいは「障礙者」と書くべきで、「障害者」、「障がい者」のどちらも正しくないと考える。)

【参照ブログ】
 百論簇出:(第112回目)『目に余る、単語の魔女狩り』
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想溢筆翔:(第251回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その94)』

2016-04-14 23:09:37 | 日記
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【193.軽率 】P.3726、AD419年

『軽率』とは「態度や性格が軽はずみで、そそっかしい」ことをいう。辞海(1978年版)には『軽率』とは「謂不慎重」(慎重ならざるをいう)と説明する。二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で『軽率』をチェックすると、初出は晋書であることが分かる。またどちらかと言えば、中世(南北朝、唐宋時代)には使われたが、近代になるとあまり使用されなくなった単語だということも下表からも分かる。



さて、資治通鑑で最初に「軽率」が使われている場面は、南朝の宋の建国者・劉裕が王位を奪おうとして晋の王族の司馬氏を殲滅しようとしたが、ひとり司馬楚之は強運にも生き延びた。劉裕は刺客を放ち、司馬楚之を殺そうとしたが。。。

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司馬楚之は子供のころから胆がすわっていたにも拘らず、人にへりくだっていたので、数多くの兵士が集まってきた。長社に本拠を構えた。劉裕は刺客の沐謙に司馬楚之を殺すよう命じた。沐謙は身分を偽って司馬楚之のもとに来たが、そうとは知らない司馬楚之はいつものように沐謙を丁寧にもてなした。沐謙は司馬楚之を刺すチャンスを狙っていたがなかなかよいタイミングを見つけることができなかった。それで、一計を案じて、病気だと偽って寝床に伏せると司馬楚之なら必ずやってくるので、その時に刺そうと考えた。案の定、司馬楚之はわざわざ自ら薬とお湯をもって見舞いにやってきた。そして、本当に思いやり深い言葉をかけたので、沐謙は心動かされとうとう殺すことができなかった。そこで、短剣を椅子の下から取り出して、刺客として来た事情の一部始終を話してから、「劉裕は将軍を誰よりも殺したいと願っています。どうか、軽率な振る舞いをなさらず自分を保全してください。」と言った。とうとう、沐謙は劉裕から乗り換えて、司馬楚之の腹心の部下となって、司馬楚之の身辺の防衛に尽力した。

司馬楚之少有英気、能折節下士、有衆万余、屯拠長社。裕使刺客沐謙往刺之。楚之待謙甚厚。謙欲発、未得間、乃夜称疾、知楚之必往問疾、因欲刺之。楚之果自齎湯薬往視疾、情意勤篤、謙不忍発、乃出匕首於席下、以状告之曰:「将軍深為劉裕所忌、願勿軽率以自保全。」遂委身事之、為之防衛。
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劉裕は王位を簒奪し、後顧の憂いをなくすために司馬一族を根絶やしにしようとしたが、司馬楚之だけは逃がしてしまった。司馬楚之が凡庸であれば、そのままにしておいたのだろうが、いかんせん、司馬楚之はなかなかの人望があり、油断していると自分の方が危ないかもしれないと劉裕は考えたのであろう。ゴルゴサーティーンもどきの沐謙を司馬楚之暗殺に送ったのだが、沐謙は司馬楚之の本心からの手厚いもてなしに、逆に司馬楚之の腹心の部下となってしまった。そういえば、自分を暗殺に来た者を心服させたという話は、勝海舟と坂本龍馬にもあった。



刺客が暗殺すべき人物の仁徳に惚れ込んでしまったため、殺せなかった有名な例は春秋左氏伝の宣公・2年にある。

時は、春秋時代、晋の霊公は無道なふるまいが多かったので、宰相の趙盾が何度も諫めたが、霊公はうっとうしくなって、趙盾を殺そうと刺客の鉏麑を仕向けた。

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 春秋左氏伝 宣公・2年

ある朝早く、鉏麑は趙盾の家に忍びこんだ。趙盾は朝廷に出仕しようとして正装を着込んでいたが、まだ時間が早いので椅子に座って仮眠を取っていたところであった。その様子を見た鉏麑は、趙盾の立派さにこころをうたれてこう独り言を言った。「恭敬を忘れない態度こそ、大臣に相応しい。その立派な大臣を殺すのは、不忠ということだ。しかし、君命に背くのでは、信用をなくす。こうなったら、自分が死ぬしかない!」と言って、庭にあった槐(えんじゅ)の樹に頭をぶつけて自殺した。

晨往、寝門闢矣。盛服将朝、尚早、坐而仮寐。麑退、歎而言曰「不忘恭敬、民之主也。賊民之主、不忠。棄君之命、不信。有一於此、不如死也。」触槐而死。
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儒者は「義」とは何かについて、滔々と議論するが、いづれも頭のなかだけでこねくりまわした観念論の域をでない。しかるに、この2人の刺客(沐謙と鉏麑)は本当の意味での「義」とは何かを確かに理解していた。

続く。。。
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