限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第35回目)『中国四千年の策略大全(その 35)』

2023-07-30 08:32:27 | 日記
前回

日本人は外交ベタといわれるが、外交関係というのは、言ってみれば譲れるところは譲ってお互いに納得できる利益(ウィン)で妥協を目指すのであって、筋を通すだけが能ではない。外交のように、人の交渉では当意即妙な機転を効かせ、無用な混乱、誤解を避けることを心がけるべきだ。つまり、「筋を通す」などという小さな節義に律儀にこだわらず『大行不顧細謹、大礼不辞小譲』(大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を辞さず)というおおらかな心構えが肝要ということだ。

そういった例を2つ取り上げよう。

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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 764 / 韓億】(私訳・原文)

韓億が契丹に使者に出た。この時、副使は太后の外戚で、太后の内輪の訓戒を勝手に契丹に伝えて、次のように言った「宋と契丹は仲良くしないといけない。これを子孫に伝えたい」と。韓億は副使がそういった話を契丹にばらしたのを知らなかった。

宴会の席で契丹の帝が韓億に尋ねた「宋の皇太后は契丹と婚戚関係を結びたいと言っているそうだが、何故、大使である貴卿がそのことを言いださないのだ?」韓億が答えていうには「我が国では遣使の都度、皇太后が皆を呼んで、契丹と仲良くせよと訓戒しますが、その意図が間違って契丹に伝わると困るのでそういった話は絶対にするな、と言われています」と答えた。契丹の帝は「それでこそ、両方の王朝が安泰であるのだ」と喜んだ。この時、副使は話をとりつくろうことができず、黙っていた。世間では、副使の失言で、逆に韓億はよい答弁をしたと誉めた。

億奉使契丹、時副使者為章献外姻、妄伝太后旨於契丹、諭以南北歓好、伝示子孫之意。億初不知也。

契丹主問億曰:「皇太后即有旨、大使何不言?」億対曰:「本朝毎遣使、皇太后必以此戒約、非欲達之北朝也。」契丹主大喜曰:「此両朝生霊之福。」是時副使方失詞、而億反用以為徳、時推其善対。
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契丹の帝はどうして宋と婚戚関係になるのが嫌だったのだろうか?

推測するに、大国・宋からの皇女が来ると、契丹の宮廷で、親宋派と反宋派の対立が起こるに違いない。そうなれば、国が乱れてしまう。契丹の帝は、宋の皇太后が婚戚関係を望んでいると聞かされて、実は内心困っていたはずだが、宋の使節には面と向かって言い出しにくい。それを察した韓億は咄嗟の判断で「仲良くする、という意味は婚戚関係になるということではない」と説明し、契丹の帝の心配を取り除いてあげた。

皇太后の本当の意図や、副使が本当はどのように伝えたのかは分からないが、ここで述べられているのは韓億の当意即妙の言い返しで、契丹も宋も両方のメンツが立ったということだ。韓億のような人が論語にいう「使於四方、不辱君命」(四方に使いして、君命を辱めず)と言えるだろう。



次は、司馬光の話。司馬光とは資治通鑑の編者として有名なので、現代的表現では「歴史学者」となるが、本職は、科挙に合格した高級官僚である。儒者は策略など弄せず正々堂々を事を運ぶが、やはり正攻法ではうまくいかない時もある。その時、どうするかが見ものだ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 766 / 邵雍】(私訳・原文)

司馬公一日見康節曰:「明日僧顒修開堂説法。富公、呂晦叔欲偕往聴之、晦叔貪仏、已不可勧;富公果往、於理未便。某後進、不敢言、先生曷止之?」康節唯唯。

明日康節往見富公、曰:「聞上欲用裴晋公礼起公。」公笑曰:「先生謂某衰病能起否?」康節曰:「固也,或人言『上命公、公不起;僧開堂、公即出』、無乃不可乎?」公驚曰:「某未之思也!」〈〔時富公請告。〕〉

司馬光がある時、邵雍(字は康節)に次のように言った。「明日、僧侶の顒が新しくお堂を開き、説法をします。そこに富弼公や呂晦叔など、大臣たちが皆一緒に行って説法を聞くようです。呂晦叔は仏教に凝っているので止めようがないのですが、富弼公が出席するとなると厄介なことになります。私は、若輩ものなので直接、富弼公をお止め立てする訳にはいきません。先生なら止めて頂けるでしょうか?」邵雍は「うんうん」と頷いた。

翌日、邵雍が富弼に会いに行って言うには「聞くところによると、帝が裴度を新たに設置する官職に起用して、貴公をその後釜に据えようと考えているそうだ」。富弼は笑って「先生は私が病気をおして職に就けとでもおっしゃるのでしょうか?」と尋ねた。邵雍は「その通り。世間の人は『帝が富弼公を起用しようとすると、公は病気だと言って出てこない。しかし、僧侶の説法には喜んで出かけて行った』と言うことでしょう。それでもいいですか?」富弼はあわてて「そこまで智恵が回りませんでした!」と謝った。
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この物語の背景には、儒者と仏者の対立がある。

宋代は、いわゆる「士大夫」といわれる文人・儒者が輩出した時代である。科挙に合格して高級官僚になった文人たちは、白居易や蘇軾のように仏教に傾倒した人たちもいるが、概してアンチ仏教派であった。一時代前の唐の韓愈は徹底したアンチ仏教派で、時の皇帝の憲宗が仏骨をうやうやしく戴くのを徹底的に非難したため、あやうく殺されそうになったほどだ。

司馬光は韓愈ほどではないにしろ、儒者の立場から、国の高級官僚たちが仏教に染まることを嫌っていた。それで、富弼が仏教の儀式に参加するのを阻止するために邵雍に説得させたという話だ。見事、帝の命令をだしにして、富弼が仏教の式典にでることを阻止した。正論ではうまくいかないが、策略を使うことで、見事に目的を達成した。

続く。。。
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百論簇出:(第273回目)『根源的な観点から考える国際関係論の授業』

2023-07-23 16:38:05 | 日記
先月、ある人の紹介でこの9月の秋学期から某大学のリモート講義で2科目を教えることになった。ひとつは国際政治がらみの国際関係論、もうひとつは現在の自然科学について、である。授業の設計はかなり自由に任せてくれるとのことであった。前者の科目はこれまでも数多くの機会に話してきた「リベラルアーツ・グローバルリテラシー」の内容に近代史の要素を加えればよく、後者も、半分は科学技術史、もう半分は各テーマ(例:科学と技術、科学と社会、天文学、物理学、生物学、医学など)ごとの話をしようと考えている。しかし、せっかく教えるのであるから、出席する学生が「この授業を受けてよかった!」と思ってくれるものにしたいと考えている。

とりあえず、上で述べた授業方針は立てたものの、「国際関係論」というのは世間では一体どのような内容を教えているのか、と各大学の「国際関係論」のシラバスをチェックし、文献として挙げられている教科書・参考書などを一応当たってみた。驚いたことに私がチェックした範囲では、「国際関係論」は半数以上、女性の先生が教えている。ことさら男女比をいう積りはないが、国際政治という、いわば「お固い」テーマであるだけに、この分野の女性研究者が多いことに不思議な思いがした。

さて、シラバスに書かれている内容をチェックすると、ウェストファリア条約から始まるのがほとんどで、一般的には1900年以降、それも第一次大戦と第二次大戦とその後の国際連盟、国際連合の話が大半を占めている。何のことはない、高校の世界史や日本史で端折られた部分をカバーしているに過ぎないような内容だ。確かに、この年代になると政治舞台がヨーロッパ一極ではなく、北米、南米、アフリカ、アジアと広大な世界を舞台にしているので、黙っていても世界史的な話は国際関係論にならざるを得ない。それで、研究ならいざしらず、授業で教える分にはネタに困ることはないし、新たな機軸を打ち出す必要もなかろう、と考えられる。



しかし、私が学生の立場であれば、そのような陳腐な授業内容は御免蒙りたい!私が望むのは、そもそも政治とは一体何を目的とした行為なのか、何故、戦争は止むことがないのか、自由・奴隷・人権とは何か、社会的生存権とは一体どのようなものであるべきなのか、SGD's やLGBT、気候温暖化、環境問題にどう取り組めばよいのか、など人間社会の根源的・本質的なテーマについて、考え、議論することである。理性的に考えれば、世界が一致団結して解決しなければいけないはずの環境問題についてすら、どうして国によって態度が大きく異なるのか、その背景は何か、またこういった問題は理性的な解決法が見つかるべきものなのか、など、覚えることよりも、考えるべきことの方がずっと多いはずだ。

たしかに国際関係論は、現在のウクライナ戦争もそうだが、現在視点での考えが非常に重大であることは間違いないが、私は敢えて現在視点をを離れることが重要だと考えている。

例えば、ベトナム戦争について考えてみよう。は私が高校生から大学生ごろ、つまり1960年から1970年代にかけて、ベトナム戦争は非常に大きな問題で、毎日のようにベトナム戦争の報道で溢れていた。しかし、現在ベトナム戦争について熱っぽく語る人は老齢のジャーナリストを除いては、ほとんどいないであろう。つまり、ベトナム戦争の個別の戦闘は今や語るべき価値を持たない。しかし、アメリカとの戦争も含め、ベトナムの歴史を貫く「ベトナム民族の国家防衛の敢闘精神」について考えることは、将来にわたっても非常に重要な示唆を含む。

というのは、私は数年前、漢文で書かれたベトナムの歴史書『大越史記全書』を読んだことがあり、この「ベトナム民族の国家防衛の敢闘精神」に鮮烈な印象を受けた。ベトナムはご存じのように、隣の超大国である中国から紀元前後から何度も占領され、掠奪され続けた悲惨な歴史を持つ。しかし、いつもいつもやられっ放しではない。世界中を怒涛の如く進撃した元軍を白藤江河口の海戦で打ち破り大勝利を得たこともあったほどだ。日本へ攻めて来た元寇では戦闘で負けたのではなく、台風にやられてしまった、いわば不運の敗戦であるが、ベトナムでの敗戦は、完全にベトナム人の智謀による勝利である。

つまり、国際関係論とは、このように単に、ウェストファリア条約以降、定式化された国民国家という枠組みで国際関連を読み解くのではなく、民族というものを根本から理解することが重要だと私は考え、そのような授業をしようとしている。

現在では、水戸黄門の印籠のごとき不可侵性をもつ「自由、平等、民主主義」は国や民族ごとに理解は異なる。これらの概念が意味を持つためには、人々がこれらの概念が己が命にも匹敵するぐらい重要だと認識している必要がある。

しかし、だれもかれもが同じ感覚でこれらの抽象概念を理解しているとは言えない。それは自由のありがたさを考えてみれば分かる。自由という抽象概念だとわかり難いがアルコールに喩えてみると納得するだろう。もし、あなたが、一家全員、誰もアルコールが飲めない家庭に育ったとしよう。そうすると、たとえアルコールが目の前に置かれても何とも思わないし、ましてやわざわざ手に取って飲もうとは思わないだろう。しかし、ある時たまたま飲んで陶酔感を味わってしまうと、もはや離せなくなるに違いない。自由というのはまさにアルコールのような効果を持つものだ。

すでに各種の報道で知られているように、北朝鮮では、信じられないほど自由が抑圧されているにも拘わらず、一向に反乱や暴動が起こらない。これは不思議でも何ともない。というのは、かの国の人たちは、生まれてから一度も自由を味わったことがないのだ。つまり、上のアルコールの喩のように、味わったことのない自由の状態が理解できないため、命を懸けてまで自由を掴みとろうという気が起こらないないのだ。もっとも、以前読んだ『高麗史節要』では、奴婢の万積が「将軍や大臣は誰でもなれる!」(将相相、寧有種乎)と叫んで挙兵したが、仲間に裏切られて失敗したので、将来的には北朝鮮でも自由を求めて革命が起こらないとも限らない。

私の「国際関係論」の授業は国家、政権、人権、自由、平等などについて根源的な観点から、受講生が自らの考えを樹立する授業を目指す。
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智嚢聚銘:(第34回目)『中国四千年の策略大全(その 34)』

2023-07-16 10:09:01 | 日記
前回

高価な玉を盗んだとの疑いを掛けられて、半殺しの目に遭っても「俺には舌だけあればよい」と嘯いたのは戦国時代の雄弁家・張儀だ。自分の価値は弁舌にあるとした自信あふれることばだ。中国は、張儀をはじめとして、知恵と弁舌で世渡りをする智者が昔から数多く輩出している。彼らの知恵やウィットに富んだ話しぶりは、『戦国策』『説苑』『晏子春秋』などに数多く載せられている。その一例を以下に挙げよう。

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 馮夢龍『智嚢』【巻19 / 741 / 王維】(私訳・原文)

呉の使者・張温が蜀を訪問した。役人が全て集まったが、秦宓ひとりだけが遅れてやってきた。張温が孔明に「彼はなんという人か?」と尋ねると「学士の秦宓です」と答えたので、張温は秦宓に「君は学問をするのか?」と聞いた。秦宓は「蜀では子供でも皆学問をします。私も同様です。」そこで、張温が秦宓に問かけて「それでは聞くが、天には頭はあるか?」「ある。」「どこにある?」「西の方にある。《詩》に『乃眷西顧』(すなわち、眷として西に顧みる)とあります。」張温は続けて「天に耳はあるか?」「あります。天は高きにあって低きを聴きます。《詩》に『鶴鳴九皐、声聞於天』(鶴、九皐に鳴き、声、天に聞こゆ)といいます。」さらに「天に足はあるか?」「あります。《詩》に『天歩艱難』(天の歩みは艱難)、足がなくては歩けないでしょう」。「天に姓はあるか」「あります。」「どういう姓だ?」「姓は劉です。」「どうして分かる?」「天子の姓が劉だからです。」さらに続けて「日は東に生まれるのか?」「東に生まれますが、西で死にます」。と、すべての問いに対して、響きのように即答したので、その場にいた者は皆驚いた。

呉使張温聘蜀、百官皆集。秦宓字子敕、独後至。温顧孔明曰:「彼何人也?」曰:「学士秦宓。」温因問曰:「君学乎?」宓曰:「蜀中五尺童子皆学、何必我?」温乃問曰:「天有頭乎?」曰:「有之。」曰:「在何方?」曰:「在西方。《詩》云、『乃眷西顧』。」温又問:「天有耳乎?」曰:「有。天処高而聴卑、《詩》云、『鶴鳴九皐、声聞於天。』」曰:「天有足乎?」宓曰:「有。《詩》云:『天歩艱難』、非足何歩?」曰:「天有姓乎?」宓曰:「有姓。」曰:「何姓。」宓曰:「姓劉。」曰:「何以知之?」宓曰:「以天子姓劉知之。」温曰:「日生於東乎?」宓曰:「雖生於東、実沒於西。」時応答如響、一坐驚服。
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馮夢龍はこの部分に次のような評を付けている。

「秦宓の受け答えは声に響が応じるようだ。それゆえ、尊重され、記録に残された。もし彼がしゃべらないとしたら、何の取柄もない。」(其応如響、能佔上風、故特録之。他止口給者、概無取。)

この話は中国の正史である二十四史の『三国志』の《蜀・巻38》にも載せられているので、かなり有名な話であったようだ。現代風にいえば、秦宓の当意即妙の答えはまるでビートたけしのようだといえるだろう。



次は、高慢な権臣の鼻を一言でぺしゃんこにした呉瑾の話。権臣とは朝廷の内外に絶大なコネを張り巡らし、時には君主をも凌ぐような権力の持主をいう。そのような者にちょっとでも逆らうと、あっという間に首が飛んでしまいそうであるが、探せば弱点はあるものだ。権臣相手にどのような弁舌を駆使して引きずり下ろしたか、呉瑾のお手並みを拝見してみよう。

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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 752 / 呉瑾】(私訳・原文)

明の石亨は「奪門の功」で功績を挙げたため英宗から寵愛をうけ、非常に驕っていた。ある時、英宗が翔鳳楼に登って、石亨の新築で豪華な大邸宅を見、振り返って恭順侯の呉瑾と撫寧伯の朱永に「これは誰の邸宅か?」と聞いた。朱永は「存じ上げません」と答えたが、呉瑾は「これはきっとだれか王の邸宅に違いありません。」英宗は笑って「そんなはずはないだろう」と答えた。呉瑾は、お辞儀をして「もしだれかの王の邸宅でなければ、どうして王の邸宅であるような構えをするのでしょうか?」英宗は無言であったが、これから始めて石亨の忠誠を疑うようになった。

石亨矜功〈〔奪門功〕〉、恃寵。一日上登翔鳳楼、見亨新第極偉麗、顧問恭順侯呉瑾、撫寧伯朱永曰:「此何人居?」永謝不知、瑾曰:「此必王府。」上笑曰:「非也。」瑾頓首曰:「非王府、誰敢僭妄如此?」上不応、始疑亨。
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石亨の大邸宅に招かれた朱永は余計なことを言って権臣の石亨ににらまれるのが恐さに「知らない」と逃げをうったが、呉瑾はきわどく石亨の傲慢さをあてこすった。皇帝の英宗はそれまで、石亨に全幅の信頼を寄せていたのだが、呉瑾の言葉に目覚め、石亨を疑うようになった。、呉瑾の一言が石亨と英宗の間に抜き差しならぬ楔を打ち込んだのだ。これ以降、石亨は英宗から見放されて最後は獄死することになるのであった。

続く。。。
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百論簇出:(第272回目)『常識をくつがえす旅行記』

2023-07-09 09:37:43 | 日記
現在の高校までの学校教育は文科省の定めた科目と学習指導要領にがんじがらめに縛られている。それに輪をかけているのが、大学受験だ。しかしそもそも教育とは社会生活を送るに必要な知識だけではなく、人生を豊かにする知恵を与えるためにあるはずだが、現在の偏差値教育に端的に示されているように、限られた範囲の断片的な知識の暗記が教育だとされている。

私自身もかつてはこういった教育を受けてきたが、大学に入学して初めて、自分の好きな方面の知識探求ができることに大きな喜びを感じた。その一つが旅行記・滞在記(以下、簡便的に「旅行記」という)を読むことだ。現在では、映像が発達しているので世界各地の様子をわざわざ文章で読む必要がないといっていいほどだが、映像が残っているのはたかだか近年100年程度で、過去の映像がない時代のものは遺跡の写真であるが、それでは人々の生きざまが分からない。過去の生活の実態は文章で読む方が生々しく感じる。それも、時代が遡れば遡るほど、現代的感覚や法規制に制約されない、全く別世界が見えてくる。

たとえば、ローマの文人・タキトゥスが紀元前後時代のゲルマン人の習俗を描写した『ゲルマニア』(第17節)には彼らの服装は至って簡素で、「一枚の布を腰のところで紐で結わえているだけの全くの裸であった(cetera intecti)」との記述が見える。

時代はぐんと下って、ダーウィンが進化論を思いつくきっかけとなったビーグル号の航海で立ち寄った南アメリカの先端のパタゴニアの土着民は、「わずかの着衣しかなく、ほぼ裸状態で、極寒の冬を過ごした」と記す。

さらに、20世紀にまで下って本多勝一の三異境シリーズの一つ『ニューギニア高地人』では、赤道直下のニューギニアでも高地であるため夜には摂氏5度まで下がるが、それでも現地人は、昼と全く同じ恰好、つまり真っ裸で過ごしている、と驚いている。

我々現代人は、服装だけでなく空調設備のある生活に慣れているので、人間が全くの裸で 0度近くの寒さに耐えられることを奇蹟のように考えるが、人間以外の動物はすべて生れながらにして裸のままで、酷暑にも極寒にも関係なく過ごしていることを考えると、人間が裸で過ごすことは、不思議でもなんでもないことに想到し、いかに我々の感覚が歪んでいるかに気づくだろう。



また、旅行記ではないが昔の歴史には、尋常とは異なる天変の記録が残されていることが多い。例えば、昼に太陽がいくつも見えた、であるとか、夜中に火柱が立ったとかいう記述がある。私は、昔、これらの記述を読んだ時、「昔の人はなんと眉唾で大げさな作りごとをいう、迷信深い人たちなんだろう!」と考えていたが、近年の科学技術の知識ではそれらは超新星爆発や隕石の落下であり、妄想ではなく実際に起きていたことであったことが分かる。我々も経験したが、2013年にロシアのチェリャビンスク州に隕石が落下した時は、落下の一部始終がビデオに撮られていたので、古代人が驚いた天変現象の記述は決して大げさでないことが分かった。

我々の持つ常識を再点検し、知的平面(intellectual horizon)を拡大するためにも、過去と現代の旅行記を読むことは一般社会人だけでなく、学校教育にも是非とも入れるべきであると私は考える。
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智嚢聚銘:(第33回目)『中国四千年の策略大全(その 33)』

2023-07-02 08:43:23 | 日記
前回

夢占い(oneiromancy)は世界各国にあるごくありふれた伝統だ。夢は神的なインスピレーションであり、人のしらないことや未来を告げてくれると考えられた。その中でも、栄光の未来があるとの予言は、誰にとってもうれしいはずだ。中国の三人の皇帝は夢のお告げを得た。

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 馮夢龍『智嚢』【巻18 / 706 / 成天子】(私訳・原文)

北斉の文宣帝(高洋)がまさに禅譲を受けようとしていた時、自分の額に筆で点をうたれる夢を見た。王曇哲が祝賀していった。「『王』の上に点を加えると、『主』という字になります。位が更に進むということです」。

隋の文帝がまだあまり位が高くなかった時、ある川沿いの町に宿泊していた晩に左手がなくなった夢をみた。目覚めてから、非常に気分が悪かった。川岸を登ってみると一軒の庵があった。中に老僧がいて、品格が極めて高かそうだったので、夢の内容を細かく説明した。老僧は立ち上がり祝して言うには「左手がないということは、拳が一つということです。これは天子になるということでしょう」。後、文帝が位についてから、ここの庵があった場所に吉祥寺を建てた。

唐の太宗と劉文静が謀議を重ねていた晩、高祖がベッドから落ち全身をウジ虫にたかられている夢をみた。非常に気味悪く思ったが安楽寺の智満禅師に夢解きをしてもらうと禅師がいうには「公は天下を手にするでしょう!ベッドの下(牀下)というのは、陛下のことで、ウジ虫にたかられて食われているというのは、皆が公一人の力に頼って活きるということです」。高祖はこの言葉を喜んだ。

北斉文宣将受禅、夢人以筆点額。王曇哲賀曰:「『王』上加点、乃『主』字、位当進矣。」〈〔呉祚《国統志》載熊循占呉大帝之夢同此。〕〉

隋文帝未貴時、嘗夜泊江中、夢無左手、覚甚悪之。及登岸、詣一草庵、中有一老僧、道極高、具以夢告之。僧起賀曰:「無左手者、独拳也、当為天子。」後帝興、建此庵為吉祥寺。

唐太宗与劉文静首謀之夜、高祖夢堕牀下、見遍身為虫蛆所食、甚悪之。詢於安楽寺智満禅師、師曰:「公得天下矣!牀下者、陛下也;群蛆食者、所謂群生共仰一人活耳。」高祖嘉其言。
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夢解きで高位に昇りうることを知った例は朝鮮にもある。

高麗では、顕宗の母が自分の息子が国王になることを夢で知った。(高麗史節要 巻2・992年)その夢とは、顕宗の母が鵠嶺に登ってみると、国中に水が溢あふれ出て一面銀色の海となった。夢占いをしてみると「お子さんが生まれますが、国の王となるでしょう」と告げられた。

また、李氏朝鮮では、創業者の李成桂が夢で国王になることを知った。李成桂が或る夜、小さな寺で寝ていると夢のなかで古い家に居て、突然家が崩れてきた。そこから逃げ出した時3本の柱を背負っていた。李成桂のアドバイザーの、無学大師は夢解きをし、李成桂が新たな王朝を創設することを予言した。

中朝のこれらの例に共通するのは、一見凶夢のようであるが、実は天下を取るという吉夢だったということ。


【出典】How to find dinosaur fossils

迷信深い中国人は、競って吉祥を求める。とりわけ、皇帝は躍起になって、不老長寿の薬や吉祥を求める。その使い走りの宦官は皇帝の威光をバックに尊大な要求を庶民につきつけるので、多大な迷惑となっていた。そのような高圧的な要求をどのように逸らすのかが知恵の見せ所だ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻19 / 741 / 王維】(私訳・原文)

明・孝宗の時、官職を得たいと望む者があって山西省の紫碧山は寿命を延ばす石胆を産出すると言いふらした。宦官が派遣されて長年探したが、見つけることができず、探索に駆り出された庶民ははなはだ困っていた。按察使の王維は石胆に似た小石を探し出させて宦官に差し出した。宦官は本物の石胆でないので、怒って「これは偽物ではないか!石胆はいろいろな書物に記載されているのに、どうして見つからないというのか?」。王維が答えて言うには「鳳凰や麒麟はどれも古い書物に記述がありますが、果たして見た人はいるのでしょうか?」

弘治時、有希進用者上章、謂山西紫碧山産有石胆、可以益寿。遣中官経年採取、不獲、民咸告病。按察使王維〈〔祥符人〕〉、令彩小石子類此者一升、以示中官。中官怒、曰:「此#642A;塞耳、其物載諸書中、何以謂無?」公曰:「鳳凰、麒麟、皆古書所載、今果有乎?」
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中国に心酔している学者は、儒教は理性的だというが私には、そうは思えない。例えば『孔子家語』巻4に次のような話が載せられている。

地下から大きな骨が見つかったが、孔子はこれを「昔、禹が群臣を会稽の山に呼んだが、防風氏が遅れて来たので、殺した。その死体の骨を積むと車が一杯になった。」(丘聞之、昔禹致群臣於会稽之山、防風後至、禹殺而戮之、其骨専車焉、此為大矣)と説明した。

現在の我々は、これは恐竜の化石であるとすぐに分かるが、儒者は、聖人である孔子が述べた言葉だからといって検証しない。

続く。。。
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