限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第193回目)『源流へと遡るリベラルアーツ』

2016-08-14 22:02:38 | 日記
昨年(2015年)出版した『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』には、「従来型リベラルアーツは捨てよう」と題して、私の考えるリベラルアーツ観を示した。そのなかで、観念的な物事の理解や止めて「手触り感」をもって理解することを強調した。そして「手触り感」をもって歴史的事項を理解する例としてフランス革命と遣唐使を挙げた。

ここでは「手触り感」を別の観点から説明してみよう。

『幽霊の正体見たり枯れ尾花』ということわざがある。暗闇のなか、ぼお~っと薄白く見えるのが幽霊だと怖がっていたが、勇気を出して近づいてみると、「な~んだ、ススキの穂」だった、という意味だ。

このことわざを下敷きとして、どこかに幽霊が出たという噂が広まった状況を考えてみよう。噂を聞いた人々は、幽霊を見ていないにも拘らず、あわてて幽霊が出たと言われる所から逃げ出すだろう。しかし、一人だけが皆が走るのとは逆の方向に走り出したとする。彼は逃げ出してくる人に次々と、幽霊はどこに出たとのか、と聞いてどんどんと幽霊の噂の発生源に近づいていった。そして遂に、最後の人に、幽霊はあの藪の中にいるとの話を聞いて、勇気を出して藪のなかに入っていった。そこで、彼がみたものは、白い褌が樹の枝に掛かって風に揺られている光景であった。「な~んだ、これが幽霊なのか」と一人納得した。

さて、翌日の新聞を見ると次のような記事が載っていた。「某市に、昨日、幽霊が出ました。住民はパニックになって走り出したため、数名のけが人が出た模様。皆さんも幽霊が出た時には、落ち着いて避難してください。」

この幽霊騒動を例にとって、世の中で一般的に言われているリベラルアーツと「手触り感」のあるリベラルアーツの差を説明しよう。

世の中でいうリベラルアーツとは、あたかも幽霊が出たとの情報を鵜呑みにするかのように、世の中に流布している定説や既成概念の本性を確認することなく、伝聞や権威者の言うことをそのまま述べているような個所が多い。とりわけ文明論のように、カバーする範囲が広いテーマを扱っているような場合、得てして常識的な知識の延長、あるいは現代の状況を過去にそのまま投影して、結論づけているようなケースが、一流の学者にも間々見られる。すなわち、誤謬やクリシェ(cliche)の拡大再生産をしているのだ。その上ご丁寧にも、それに自分の見解を付け足しているのが、一般的なリベラルアーツ教育の実態と言っていいだろう。

それとは逆に、幽霊の噂の出所(でどころ)に向かって走りだした人のように「手触り感」のあるリベラルアーツとは、定説をそのまま信用するのではなく、常にその源流に遡ることを信条とする。定説の根拠をチェックしていくと、中には確証がなく、単なる仮説や思い込みに過ぎないものをベースにして立論しているものがいかに多いかに気づく。(例:和辻哲郎の『風土』)

結局、自分なりに納得する人生観と世界観を構築するには、ここで示したように、定説の源流まで遡るリベラルアーツに依る必要がある。

【参照ブログ】
 百論簇出:(第144回目)『リベラルアーツを極めるための読書法』
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3 コメント

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マルテンサイト千年ものづくりイノベーション (サムライグローバル鉄の道)
2024-08-30 16:26:23
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるようなどこかなつかしい多神教的発想と考えられる。
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科学と宗教の文明論的ダイナミクス (歴史国際政治学関係)
2024-09-28 23:57:43
一神教はユダヤ教をその祖とし、キリスト教、イスラム教が汎民族性によってその勢力を拡大させたが、その一神教の純粋性をもっとも保持し続けたのは後にできたイスラム教であった。今の科学技術文明の母体となったキリスト教は多神教的要素を取り入れ例えばルネサンスなどにより古代地中海世界の哲学なども触媒となり宗教から科学が独立するまでになった。一方でキリスト教圏内でも科学と宗教をむしろ融合しようとする働きにより、帝国主義がうまれた。宗教から正当化された植民地戦争は科学技術の壮大な実験場となり、この好循環により科学と宗教を融合させようというのである。その影響により非キリスト教圏で起きたのが日本の明治維新という現象である。この日本全土を均質化した市場原理社会する近代資本主義のスタートとされる明治維新は欧米などの一神教国が始めた帝国主義的な植民地拡張競争に危機感を覚えたサムライたちが自らの階級を破壊するといった、かなり独創的な革命でフランス革命、ピューリタン革命、ロシア革命、アメリカ独立戦争にはないユニークさというものが”革命”ではなく”維新”と呼んできたのは間違いない。しかしその中身は「革命」いや「大革命」とでもよべるべきものではないだろうか。
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日本人の誇り (鉄鋼材料エンジニア)
2024-11-09 16:19:54
それにしても古事記はすごいよな。ドイツの哲学者ニーチェが「神は死んだ」といったそれよりも千年も前に女神イザナミ神についてそうかいてある。この神おかげでたくさんの神々を生まれたので日本神話は多神教になったともいえる。八百万の神々が出雲に集まるのは、イザナミの死を弔うためという話も聞いたことがある。そしてそこから古事記の本格的な多神教の神話の世界が広がってゆくのである。私の場合ジブリアニメ「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」の感想を海外で日本の先進的な科学技術との関連をよく尋ねられることがあった。やはり多神教的雰囲気が受けるのだろうか。
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