昨年(2015年)出版した『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』には、「従来型リベラルアーツは捨てよう」と題して、私の考えるリベラルアーツ観を示した。そのなかで、観念的な物事の理解や止めて「手触り感」をもって理解することを強調した。そして「手触り感」をもって歴史的事項を理解する例としてフランス革命と遣唐使を挙げた。
ここでは「手触り感」を別の観点から説明してみよう。
『幽霊の正体見たり枯れ尾花』ということわざがある。暗闇のなか、ぼお~っと薄白く見えるのが幽霊だと怖がっていたが、勇気を出して近づいてみると、「な~んだ、ススキの穂」だった、という意味だ。
このことわざを下敷きとして、どこかに幽霊が出たという噂が広まった状況を考えてみよう。噂を聞いた人々は、幽霊を見ていないにも拘らず、あわてて幽霊が出たと言われる所から逃げ出すだろう。しかし、一人だけが皆が走るのとは逆の方向に走り出したとする。彼は逃げ出してくる人に次々と、幽霊はどこに出たとのか、と聞いてどんどんと幽霊の噂の発生源に近づいていった。そして遂に、最後の人に、幽霊はあの藪の中にいるとの話を聞いて、勇気を出して藪のなかに入っていった。そこで、彼がみたものは、白い褌が樹の枝に掛かって風に揺られている光景であった。「な~んだ、これが幽霊なのか」と一人納得した。
さて、翌日の新聞を見ると次のような記事が載っていた。「某市に、昨日、幽霊が出ました。住民はパニックになって走り出したため、数名のけが人が出た模様。皆さんも幽霊が出た時には、落ち着いて避難してください。」
この幽霊騒動を例にとって、世の中で一般的に言われているリベラルアーツと「手触り感」のあるリベラルアーツの差を説明しよう。
世の中でいうリベラルアーツとは、あたかも幽霊が出たとの情報を鵜呑みにするかのように、世の中に流布している定説や既成概念の本性を確認することなく、伝聞や権威者の言うことをそのまま述べているような個所が多い。とりわけ文明論のように、カバーする範囲が広いテーマを扱っているような場合、得てして常識的な知識の延長、あるいは現代の状況を過去にそのまま投影して、結論づけているようなケースが、一流の学者にも間々見られる。すなわち、誤謬やクリシェ(cliche)の拡大再生産をしているのだ。その上ご丁寧にも、それに自分の見解を付け足しているのが、一般的なリベラルアーツ教育の実態と言っていいだろう。
それとは逆に、幽霊の噂の出所(でどころ)に向かって走りだした人のように「手触り感」のあるリベラルアーツとは、定説をそのまま信用するのではなく、常にその源流に遡ることを信条とする。定説の根拠をチェックしていくと、中には確証がなく、単なる仮説や思い込みに過ぎないものをベースにして立論しているものがいかに多いかに気づく。(例:和辻哲郎の『風土』)
結局、自分なりに納得する人生観と世界観を構築するには、ここで示したように、定説の源流まで遡るリベラルアーツに依る必要がある。
【参照ブログ】
百論簇出:(第144回目)『リベラルアーツを極めるための読書法』
ここでは「手触り感」を別の観点から説明してみよう。
『幽霊の正体見たり枯れ尾花』ということわざがある。暗闇のなか、ぼお~っと薄白く見えるのが幽霊だと怖がっていたが、勇気を出して近づいてみると、「な~んだ、ススキの穂」だった、という意味だ。
このことわざを下敷きとして、どこかに幽霊が出たという噂が広まった状況を考えてみよう。噂を聞いた人々は、幽霊を見ていないにも拘らず、あわてて幽霊が出たと言われる所から逃げ出すだろう。しかし、一人だけが皆が走るのとは逆の方向に走り出したとする。彼は逃げ出してくる人に次々と、幽霊はどこに出たとのか、と聞いてどんどんと幽霊の噂の発生源に近づいていった。そして遂に、最後の人に、幽霊はあの藪の中にいるとの話を聞いて、勇気を出して藪のなかに入っていった。そこで、彼がみたものは、白い褌が樹の枝に掛かって風に揺られている光景であった。「な~んだ、これが幽霊なのか」と一人納得した。
さて、翌日の新聞を見ると次のような記事が載っていた。「某市に、昨日、幽霊が出ました。住民はパニックになって走り出したため、数名のけが人が出た模様。皆さんも幽霊が出た時には、落ち着いて避難してください。」
この幽霊騒動を例にとって、世の中で一般的に言われているリベラルアーツと「手触り感」のあるリベラルアーツの差を説明しよう。
世の中でいうリベラルアーツとは、あたかも幽霊が出たとの情報を鵜呑みにするかのように、世の中に流布している定説や既成概念の本性を確認することなく、伝聞や権威者の言うことをそのまま述べているような個所が多い。とりわけ文明論のように、カバーする範囲が広いテーマを扱っているような場合、得てして常識的な知識の延長、あるいは現代の状況を過去にそのまま投影して、結論づけているようなケースが、一流の学者にも間々見られる。すなわち、誤謬やクリシェ(cliche)の拡大再生産をしているのだ。その上ご丁寧にも、それに自分の見解を付け足しているのが、一般的なリベラルアーツ教育の実態と言っていいだろう。
それとは逆に、幽霊の噂の出所(でどころ)に向かって走りだした人のように「手触り感」のあるリベラルアーツとは、定説をそのまま信用するのではなく、常にその源流に遡ることを信条とする。定説の根拠をチェックしていくと、中には確証がなく、単なる仮説や思い込みに過ぎないものをベースにして立論しているものがいかに多いかに気づく。(例:和辻哲郎の『風土』)
結局、自分なりに納得する人生観と世界観を構築するには、ここで示したように、定説の源流まで遡るリベラルアーツに依る必要がある。
【参照ブログ】
百論簇出:(第144回目)『リベラルアーツを極めるための読書法』