限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

翠滴残照:(第19回目)『読書レビュー:教養を極める読書術(その18)』

2021-09-26 15:19:39 | 日記
前回

〇「宗教に対する疑問」(『教養を極める読書術』P.114)

私は宗教的雰囲気の少ない環境に育ったため、宗教に対するこだわりが全くない。つまり、どの宗教に対しても等距離にいる。

大学生になってから、いわゆる教養書を読んでみて、宗教に対して一応の理解をもっておくことが必要だと感じた。そしていくつかの入門書を読んだが、どれも自分の宗教がベストであると主張していた。韓非子には矛盾という説話があるが、それと同じく、世界で一番の宗教がそれこそいくつも存在している。本書にも書いたように「果たしてどの宗教が正しいのか?」を納得できるようになりたいと考えて、宗教を調べだした。

このように当初は、宗教に関していわばオーソドックスな論法である、各宗教の教義に関心があった。いくつかの宗教関連の書物を読み、疑問が一層深まったのは、どの宗教も教義に関してはだいたい同じことを言っていることだった。要点は「人に親切に、我欲を少なく、正直に」生きよと説いていた。確かにそれぞれの宗教にはそれぞれ固有の流儀があり、それがそれぞれの特徴となっていることは否定しない。卑近な喩えでいえば、最近、各地で農産物のブランド化が進んでいる。米でいえば「コシヒカリ」「ひとめぼれ」「あきたこまち」など数多くの種類があるが、私にとっては別段騒ぐほどの味の差を感じない。

教義はとりあえず横において、問題は「大きな差が無いにも拘わらずどうして広まる宗教・宗派とそうでないものができるのだろうか」「そもそも宗教が広まるときに人々はどのようにそれを受容するのだろうか」といういわば、動態調査の観点に興味が湧いてきた。この観点からいうと、教義について調べるのは静態調査と言えるだろう。



冒頭でも述べたように私は「宗教的雰囲気の少ない環境に育った」といっても仏教に関しては身近にいろいろと実例があるので、まず仏教に関する動態調査にとりかかった。

経緯を省略して、結果だけをかいつまんで述べれば次のようになる。
1.宗教はこの世(現世)とあの世(来世)の合算システム
2.日本の仏教は釈迦がインドで説いたものとは違う。
3.宗教は文化全体の乗り物のようなものだ。
4.宗教が広まったのはなにも人々が教義に賛同したからではない。
5.各民族が遥か昔からもっていた土着の信仰は必ず生き残っている。


以上の点について説明しよう。

1.に関しては本書のP.146以降に詳しく書いたので省略する。

2.日本の仏教は釈迦がインドで説いたものとは違う。

仏教は、インドに生まれ、中国でかなり変容を受け、それが朝鮮半島を経由して日本に入った。それゆえ、日本の仏教は本来のものとかなり異なっているが、本家インドの仏教を知る手段のなかった近代以前の日本人はそのことを知るすべがなかった。

簡単に比較をしてみよう。
行為 インド 日本
埋葬 火葬 土葬
無し 有り
先祖供養 無し 有り
戒名 無し 有り

この差は日本で起こったのではなく、中国で儒教的観念が仏教に取り入れられた結果である。ざっくりいって、日本人が仏教の儀式と考えているものの大半は儒教の儀式であるということだ。

3.宗教は文化全体の乗り物のようなものだ。

上でも述べたように、日本の仏教は中国化されたものであるが、これは何も概念だけが入ってきたわけではない。抽象的な概念は一人歩きすることはできない。抽象的概念は、具象化されない、伝達されない。一例として仏像を考えてみよう。仏像にはいろいろな種類がある:智恵を表す文殊菩薩、慈愛溢れる弥勒菩薩、苦しみから救ってくれる地蔵菩薩、など。抽象概念をそれぞれ具象化して、仏像という目に見える形にすることで初めて人々が理解することができる。

この時、仏像を作るという作業には技術・工芸が必要だ。例えば、木造の場合、仏像を彫るだけでなく、表面に漆を塗ったり、金銀の縁取りもしないといけない。また仏像を据える台座や、いろいろな小道具を入れる厨子も必要だろう。このように考えると仏像一つをとってみても、そこには当時の中国の技術・工芸が集大成されていることが見て取れる。仏像だけでなく、経典や仏寺など、仏教に関わる全てのものが当時の中国にあった技術・工芸や文芸が総動員されてできていることが分かる。

つまり、仏教が日本に広まるということは、仏教の宗教的な観念が、ファイル転送のように、中国人の脳から日本人の脳に、ダイレクトに転送された訳ではなく、必ず具体的な物(tangible matter)を通して伝えられた。つまり、仏教の伝来というのは、インドで釈迦が説いた教義ではなく、中国の技術・工芸の集大成が、いわば「仏教という大きな船」に載せられて日本に到着したと考えないといけない。これは、何も仏教に限らず他の宗教に関しても同じことが言える。

4.宗教が広まったのはなにも人々が教義に賛同したからではない。

上で(3.)で述べたように、宗教はそれが育った場所の物質文明と一緒に伝播していくものであるので、技術・工芸の落差が大きければ大きいほど、その宗教はより広く伝播していくだろうことは容易に想像できる。つまり、宗教が広まるためには、まずはその場所の物質文明が他の場所より高くなければならない。つまり、その物質文明が伝播する先の人々があこがれる、何かを持っていないといけない。逆にいうと、その土地・民族だけで完結して、外に出ていかなかった宗教(例:ユダヤ教、神道)にはそのような突出した物質文明ではなかったと言える。

別の面から、宗教の広まりを考えてみよう。

別の場所で発生した宗教というのは、必然的に言語が異なる。つまり、教祖がしゃべった言葉でかかれた原文は、他の場所の人間にとっては全く意味不明の言葉なのだ。文章だけでなく、概念的にも理解できないことが多いはずだ。印刷技術や紙が普及していなかった昔に、外国語の文章を理解するのは、容易なことではない。例えば、飛鳥時代に日本に到来したと言われる仏教の経典をどれほどの人がまず眼にすることができただろうか? 眼にしたとして、どれほど多くの人が膨大な仏教経典を読んで仏教の真髄を正しくつかめたのであろうか?

当時の日本人のほとんどが、仏教経典など眼にもしなかったし、仏教の教義など全く理解できなかったに違いないことは、別段証明する必要もないことだ。それでも仏教が日本に広まったとするなら、それは仏教という「大きな船」に載せられてきた技術・工芸に惹きつけられたと考えるのが妥当だ。

5.各民族が遥か昔からもっていた土着の信仰は必ず生き残っている。

この点は、本書の「民族固有の習俗と宗教の儀式」P.137で述べた。日本の例を付け加えるとすれば、修験道が挙げられる。仏教伝来以降、日本古来の山岳信仰が、仏教の教義を取り入れて実践的になった。

このように、当初、教義の上から各宗教の優劣を決めようと思っていたのであるが、調べていくうちに教義を知ることよりも、宗教が社会に及ぼした影響や、逆に社会が土着以外の新たな宗教を受容する時の人々の考え方の変化・不変化の方に関心が移ってきた。最終的には、本書P.142「宗教の開祖と宗教団体は別物」という結論に至った。

続く。。。
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想溢筆翔:(第442回目)『ギリシャ語とラテン語は日本の知識人の鬼門』

2021-09-19 22:06:18 | 日記
外国人、とりわけヨーロッパ人にとっては、日本と(中国、あるいは韓国)との差が分かりにくいようだ。ドラマや映画などで、日本の江戸時代の話であるはずなのに、中国式の飾り付けがあることも稀ではない。考えてみれば二百年ほど前までは、日本とヨーロッパとは文化的に互いにほとんど影響を与えてこなかった。それゆえ、互いの風習が分からないのも無理はない。そう考えれば、逆に、日本人がヨーロッパ文化を誤解していることが数多くあるかもしれないことに思い至るであろう。

最近読んだ本からその一例を示そう。

東大名誉教授の養老孟司氏は『バカの壁』を初め、警醒的な本を数多く出版しているが、元来は医学部教授で、解剖学者である。その意味で、『からだを読む』(ちくま新書)は氏本来の好奇心と学識がよくでている好著だ。解剖学関連の本というからには、医学的専門用語がずらずらと出ているのかとおっかなびっくりで拾い読みしてみると、人間の体を口から肛門にかけて縦に貫く一本の管について分かりやすく書かれていた。それも教科書的な知識に止まらず、氏が常々疑問に思ったことや、実際に解剖して得た知見も披露されていて、なかなか味のある本だ。

ところが、途中で一ヶ所だけひっかかる所があった。それは P.123 に見える、胃の入口(噴門)と出口(幽門)に関するの次の記述だ。

…ラテン語の国際用語では、噴門は cardia 幽門は pylorus と呼ばれ、これをラテン語辞書で引くと、それぞれまた胃の噴門、幽門という訳が与えられているだけである。ラテン語の原語が、噴とか幽とかに、とくに関係することばかどうか、私の辞書ではわからない。

氏は噴門と幽門の名称の由来について簡単に述べているが、ここで大きな間違いをしている(と私には思える)。それは噴門 cardia、 幽門 pylorus をどちらもラテン語だと勘違いしていることである。氏は解剖学の学者であるので、学生時代から専門用語とはずっと付き合っていたはずにも拘わらず、これらの単語は元来ギリシャ語であり、ラテン語が借用語としてギリシャ語から取り入れたことを全くご存じなかったようだ。

とりあえず、この2つの単語に関して、漢和、英語、ラテン語、ギリシャ語の辞書を見てみよう。

1.諸橋大漢和辞典
噴門 ― 生理学用語。胃の上口、食道に続くところ。
噴には「吐く、吹く、とばす」などの意味がある。

幽門 ― 胃の腑の下のくち。胃から腸に通ずる口。
幽門には「くらい、かすか」という意味がある。また、には「静かな門」という説明も見える。

2.英語辞書(Oxford English Dictionary)
噴門 cardia ― The upper or cardiac orifice of the stomach,where the oesophagus enters it.



cardia の語源の説明にギリシャ語のκαρδιαが挙げられている。

幽門 pylorus ― The opening from the stomach into the duodenum,which is guarded by a strong sphincter muscle; also, that part of the stomach where it is situated.



pylorus の語源の説明では先ず、後期ラテン語の pylorus が示され、次いでギリシャ語のπυλωροσ、πυλουροσが挙げられて、それは門番(gatekeeper, porter)の意味であるという。(πυληが門、ουροσが見張り、との説明がある)

3.ラテン語辞書(Lewis and Short)
噴門 cardia ― L&Sに(及び、Oxford Latin Dictionaryにも)見当たらず。
幽門 pylorus ― πυλωροσ、the lower orifice of the stomach.英語も同じ綴りと説明する。


4.ギリシャ語語辞書(Liddell and Scott)
噴門 cardia ― καρδια, cardiac orfice of the stomach.



幽門 pylorus ― πυλωροσ、πυλουροσ, lower orifice of the stomach
pylorus は第一義的には、文字通り「門番」の意味である。胃から十二指腸へ消化物が流れるのを監視するという意味が見て取れる。



結局、これらの辞書から、養老氏の疑問に対しては次のように答えることができる。
1.噴門も幽門も、西洋医学の命名とは無関係の命名である。
2.噴門の西洋語 cardia は心臓と関連している。
3.幽門の西洋語 pylorus は胃から十二指腸に消化物の流通を見張るという意味。


養老氏の疑問解決はさておき、冒頭で述べたように、日本人のヨーロッパに対する知識には抜けが多い。とりわけ、西洋古典語に対する知識はかなり拙い。養老氏だけでなく、日本で知識人と称される人でも英語以外の言語となるとトンチンカンなことをいうことが多い。問題なのは、日本人がギリシャ語由来の語彙とラテン語由来の語彙の区別に対し、全く注意を払わないということだ。ヨーロッパ人(に限らず、アメリカ人)にとって、この2種の語彙は明らかに雰囲気が違って感じられる。それ故、日本人が無邪気に間違って、何ら痛痒に感じない神経が信じられない(と推測される)。

日本語に置き換えてみると、日本語では仏教の漢語は呉音で読む習慣がある。例えば、日本文化に詳しいと自称する外国の知識人が、勇壮な御柱祭で有名な長野県の「諏訪大明神」を「すわ・だい・めいしん」と発音したとしたらどう感じるだろうか?「大明神の発音すら知らずに日本文化に詳しいと、よく言うよ!」と思わないだろうか?この一言で、他の知識についてもなんだか胡散臭く思えてこないだろうか?

ヨーロッパ人(やアメリカ人)にとって、ギリシャ語由来とラテン語由来の語彙の差を知らない日本人の発言はこのような感情を引き起こすに違いない、と私は推測する。

ところで、養老氏は医学の専門家であるので、これら2つの単語は医学用語だから、先ずはギリシャ語由来と考えてみなかったのだろうか?さらに単語の綴りに py, ph, th, ps があれば、ともかくギリシャ語由来の単語ではないかと考えてみる感覚を持ってほしい。このような感覚が欠落する理由は、総じて日本人は英語以外の外国語にほとんど関心をもたないし、英語に関しても語源まで関心を広げないところにある。世界を舞台にして文化的発信を考えているなら、日本人にとってはどうでもいいことでも、ヨーロッパ文化において重要な意味をもつギリシャ語、ラテン語の語彙の鬼門を克服して欲しいものだ。
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翠滴残照:(第18回目)『読書レビュー:教養を極める読書術(その17)』

2021-09-12 14:36:30 | 日記
前回

〇「哲学するとは『自ら考えること』」(『教養を極める読書術』P.110)

「私は現代の哲学がギリシャ時代にもっていた本来の姿から逸脱しつつあるという危機感を感じている」と本書で述べた。別にカントを持ち出すまでもなく、人間は感覚を通して外界を知る。つまり感覚がないもの(物体)は存在しないも同然である。科学技術の進展で人間本来の感覚を外延する形でさまざまな人工的な感覚器官が作られた。視覚を例にとると、細部を見ることができる顕微鏡や、遠方を見ることのできる望遠鏡が発明された。それによって、今まで存在しないと考えられていた細菌やウィルスの存在が確認された。また、人間が本来持っていなかった電磁気に対する新たな感覚器官を発明することで、遠くの星や地下資源の様子が手に取るように分かるようになった。逆に、感覚がないにも拘わらず、人間が認識するような怪奇現象(神様の降臨が見えた、天使と話をした、死者の霊と会話した、など)も知覚プロセスが明らかになることで、脳の一部が暴走を起こした結果、あたかも視覚や聴覚から受け取った信号だと感じるのだと解明された。

このように、人はそもそも世界や人間に関する真実・真理を直接知ることはできないので、感覚から得られるものをどのように解釈するかが「物の実体を知る」ということと等値だと理解される。アリストテレスは『形而上学』で人間が「物のことわり」を理解する方法論として質料と形相という認識の枠組みを提示した。ところが、上で述べたような怪奇現象についても、感覚経由で得た情報だと誤解したまま、その実体についてこの枠組みを使って考察を始めた。そうして、もはや本当の感覚経由かそれとも似非感覚経由のものかは関係なく、考察の中だけで通用する論法で論理矛盾することなく緻密に論理を組み上げていったのが、最終的に「神学論」や「形而上学」と呼ばれる体系だ。そのうえ論理矛盾がないというそれだけの理由で、その論理は正しい(はず)との結論に至った。



哲学発祥のギリシャに戻って考えてみよう。哲学本来の役割は人間に本来備わっているだけの知性、感覚、感情を使って人間界の動き理解し、いかにして人生を有意義に送っていけるかを考えさせる場を提供するものであったはずだ。それがいつしか、人間本来の感覚ではつかむことのできない怪奇現象にまで首をつっこみ、本筋から外れて脇の細道にはまり込んで、にっちもさっちも行かなくなってしまった。ヨーロッパの歴史を考えるとキリスト教がヨーロッパ全体に広まって以降、暇を持て余した知能の高い教父や修道士たちが、自分たちの信仰を庶民から隔絶して絶対的な地位に押し上げるため、無理に無理を重ねて(ついでに妄想にも駆られて)煩瑣な形而上学(哲学)を援用して、壮大な神学理論を構築した。しかし、それらは科学的見地からすれば、基盤が信仰という極めて情緒的で不確実なものの上に建てられた「砂上の楼閣」に過ぎない。そして、挙句のはてにこじつけにも等しい教理をもちだし、異端者の大規模殺戮という宗教戦争を招来した。

哲学の役割はそのような論理の暴走に「待った」をかけることである。端的には「世の中に正しいことは一つしかない」などということは真っ先に疑わなければいけない。量子力学を持ち出すまでもなく、存在とか真理は、 0/1(ゼロイチ)ではなく、せいぜい「どうもこっちの方がよさそうだ」という確率の問題である。喩えていえば、哲学(そして神学も!)は水墨画であって細密画ではないということだ。世間では、哲学者の難解な言葉つかいに幻惑されて、哲学理論は緻密な細密画のように感じているかもしれないが、丁寧に細部を点検してみると、単語自体がすでに定義が明確でないし、文章構成も考えられている程、論理的でもない。つまり、哲学理論は最後の一線や一点に至ってみると水墨画と同様、かなりぼやけているということだ。

学生時代にプラトンから哲学の手ほどきを受けて以来、かなり多くの哲学書を読んだ。その結果分かったのは「哲学をする」というのは、何も今までの哲学者の理論をこと細かく知る必要は全くなく、世間の意見や論調、とりわけ多数によって支持されている世論に迎合することなく、常に「本当にその考えは正しいのか? それ以外に考えられないのか?」と健全な懐疑心をもって世界、人生を考えることであるということであると納得した。

こういう自立的な思考をすると、しばしば多数意見に賛同できないケースが起こる。日本では、こういった姿勢は伝統的に「和を乱す」と歓迎されなかったし、現在もその風潮は強い。しかし、日本でそうであるからといって、グローバル社会でも同じように否定的に見られるとは限らない。それどころか、逆にグローバル社会では、個人個人が自立的な意見をもち、自律的に行動することに対して高い評価が与えられる。スウェーデンの少女で積極的な環境活動をしている、グレタ・トゥーンベリのような人物が評価される。(但し、その活動が本当に正しいかどうかはここでは問わない。)この意味で今後の若い日本人はグローバル社会の一員として自立した思考力を身につけてもらいたいと願っている。

続く。。。
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沂風詠録:(第340回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その45)』

2021-09-05 21:15:56 | 日記
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X-2-1 "Brockhaus Enzyklopädie"

"Encyclopedia Britannica" がイギリスを代表する百科事典であれば、ドイツを代表するのが今回紹介する"Brockhaus Enzyklopädie"である(以下、Brockhaus)。 Brockhausを「意識的」に初めて目にしたのは、1977年にドイツに留学した学生寮(Newman Haus)の図書室であった。辞書類(レファレンス)が数多くあり、 Brockhausもあった。ドイツ留学前に、ドイツ語の語学テープを借りに京大教養部のドイツ語教室に何度か行ったので当然そこにあったはずだが、覚えていなかった。最新刊のBrockhaus20巻がずらりと並んでいるのは壮観であった。手にとってみると予想以上にずっしりと重い。日本の百科事典は片手でも楽々に持ち上げられるだが、Brockhausは片手だと手首を痛めるような重量感があった。ただ、 Brockhausのドイツ語は普段接しているようなドイツ語と勝手が違い、理解するのに少し苦労した記憶が残っている。

このような大百科事典は大学や公共機関が備え付けるべきで、個人で所有するのは極々限られた研究者だけであろう、とその時思った。ドイツ留学から帰国し、大学院を修了後、社会人となった。この間、ずっとドイツ語は欠かさず読んでいたが、ついぞBrockhausのお世話になることもなく、20数年が経った。さて、2004年12月のこと、当時、会社が神田にあったが、夕方、神保町で会合があったので九段通りを急ぎ足で歩いていた。洋書の古本専門の崇文荘の軒先に旧版のOED(Oxford English Dictionary)が数万円程度で売りに出されているのが目に止まった。OEDは名前は知っていたものの、私でも買えるような値段だとは思いもしなかったので、びっくりした。ぱらぱらと見たところ、紙質も印刷も申し分なかった。じっくりチェックしたかったのだが、時間が無かったので店中に入って、即、購入し、翌日の宅配便で届いた。以前、友人宅で縮少版のOEDは見たことはあったのは、以前のブログ
 想溢筆翔:(第29回目)『1円OED(Oxford English Dicitionary)顛末記』
に書いたが、間近に見る「本物の」OEDの実在感は圧倒的に勝っていた。



このOEDを暫く使っている内に、他の大規模な事典類も探してみようという気がむくむく湧いてきた。当時、神保町でこのような古本の洋書事典類を置いている店は数店あった:明倫館、一誠堂書店、北沢書店、田村書店。軒並みチェックしていった。田村書店は1階が和書で、2階が洋書専門だ。2階に上がる階段はもともと狭いにも拘わらず大部の事典類が置いてあるので、更に狭くなっている。体を横にしてカニ歩きをしないとのぼって行くと、ドイツ留学時に見たのと全く同じ1966年の第17版で、薄灰色の装丁のBrockhausがそこにはあった。 20数年ぶりの対面のBrockhausはなんと、4万円という、これまたOED同様の破格値であった。出版されてからすでに50年以上経つにもかかわらず製本は非常にしっかりしていて、未だに本の体裁は全く崩れていない。ドイツの職人魂を感じる。

古い百科事典など意味がないと考える人はいるだろうが、実際に使ってみると、古い故の長所・利点も見つかる。例えば、掲載写真から数十年前の人の暮らしぶりや、建物、都市の景観、自然風景など、過去の姿を直接見ることができる。現在のものと比較すると、時代の変化を感じる。例えば1977年秋から翌年の夏まで留学で滞在していたミュンヘンの過去を現在を比べてみると、日本の大都市と異なり、大きな変化が見られないことに驚く。





さて、念願のBrockhaus を手にいれて暫く使っていたが、その内に不満を感じ始めた。その理由は、Britannica の「大項目主義」と異なり、Brockhaus の記載が「小項目主義」であるからだ。「小項目主義」とは、個別項目についてピンポイントの説明をする用語辞典のような感じだ。大項目主義のBritannicaの記事はあたかも本を読んでいるような感じで対象項目の背景や他の項目との関連も幅広く知ることができる。すでにBritannicaに慣れてしまっていた私は、小項目主義の Brockhaus の記述は細分化された知識の断片の集積のように思えてきた。一般化できるかどうかは自信はないが、ドイツ語の百科事典は「小項目主義」であるようだ。例えば Brockhausと覇を競った Meyers Enzykkopädisches Lexikon を調べてみたが、やはり小項目主義であった。

以上は私の主観的観点からの小項目主義の欠点を述べたが、客観的には小項目主義のBrockhausの欠点の一つは索引がないことだろう。これは、小項目主義の事典であるから、項目が網羅的に挙げられているという理念から索引が不要という建前のようだ。しかし、実際に使ってみると、索引がないと、当該項目が関連している記事の全体像が見えないので非常に不便だと感じる。



いずれにせよ、200年もの長きにわたり発展を遂げてきたBrockhausに近年強力なライバルが出現した。 Wikipediaのドイツ語版であるが、かなりの充実度で、 Brockhausに見られるたいていの項目は載っている。私も調べものをする時は、たいていWikipedia(https://de.wikipedia.org/wiki/)ですますが、それでも最終確認はBrockhausですることが多い。その理由は、確実な情報を得たいためと、もう一つは、Wikipediaは時に情報過多であるので、本筋がつかめないからである。この意味で、プロの編集者がまとめた文章が載っている百科事典を参照する意味は今なお健在といえる、と私は確信している。ただ、世の中の趨勢は如何ともし難く、このような大部の事典・辞典類はもはや買う人も少なくなってきたので、出版社もおいそれとは改訂できないようだ。それで、今後は新規に改訂することはないであろうと考え、1999年に刊行された第20版を一誠堂書店で見つけて購入した。これには大型で大部の世界地図帳が付いていたのがうれしい。

という訳で、学生時代には、個人所有など到底ないだろうと考えていたBrockhausを2つも持つことができるようになった次第だ。これは、現在が住宅事情や英語以外の外国語の不人気などが重なったため、紙媒体の大型の事典・辞書類の需要が底であるという、私にとっては、まさしく千載一遇の機会であるからだとうれしく思っている。

【参照資料】
●ブロックハウスの版のリスト(Liste der Ausgaben des Brockhaus-Konversationslexikons)
●「大項目主義と小項目主義」について

続く。。。
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