限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

通鑑聚銘:(第36回目)『まぶたに蛆を生ずるも死んだふりを続けた杜根』

2010-04-14 06:22:12 | 日記
1937年(昭和12年)7月7日に発生した盧溝橋事件をきっかけとして勃発した日中戦争は、当初、日本陸軍が華北を破竹の勢いで進撃し、中国全土の制圧も時間の問題かと思われていた。それは、中国の軍隊に戦意が見られず、さしたる抵抗もなく首都南京も攻略できたからであった。しかし、その後の経緯が示すように、中国(国民党)軍は共産党とも戦いながらも日本軍に決定打を与えなかった。一言でいうと中国は非常にしぶとかったのである。

中国人のこのしぶとさを示す例を取り上げよう。

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資治通鑑(中華書局):巻50・漢紀42(P.1609)

以前から、太后が政治をし切っていた。杜根は宮中の護衛係りの郎中であったが、同僚と一緒になって『安帝が成人されていますので、太后は政界から退き、安帝が政治を担当すべきである』との要望書を提出した。太后はそれを見て、かんかんに怒った。宮中に絹袋を大量に運ばせてマットにしてその上に不届きな要望書に書名した杜根らを寝かせて棍棒で打って殺し、死体を都の外に運んで捨てさせた。杜根は打たれはしたが、死にきっておらず、息を吹き返した。しかし、疑い深い太后は使いを出して、捨てた死体の様子を毎日チェックさせた。杜根は死んだふりをし続けていたが、3日経つとまぶたに蛆虫がわいてきた。それでもじっと横たわっていたら、太后の使いがこなくなった。それでようやく逃げ延びることができたのだった。

初,太后臨朝,根爲郎中,與同時郎上書言:「帝年長,宜親政事。」太后大怒,皆令盛以絹嚢,於殿上撲殺之,既而載出城外,根得蘇;太后使人檢視,根遂詐死,三日,目中生蛆,因得逃竄

初め、太后、朝に臨む。根、郎中たり。同時の郎とともに上書して言く:「帝、年長ぜり、宜しく政事を親しくすべし」、と。太后、大いに怒る。皆、令じて絹嚢をもって盛り、殿上にてこれを撲殺す。既にして、載せて城外へ出す。根、蘇するを得。太后、人をして検視せしむ。根、遂に詐わりて死し、三日、目中に蛆を生ずるも、よりて逃竄するを得。
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先日も『40年前のあの時に戻れたら...』に書いたように、中国の史書が面白すぎる、というのはこの(三日,目中生蛆)ような記述に見られるように、状況が非常に活き活きと描写される点にある。古今東西を問わず、読み次がれてきた歴史書の古典(例:ヘロドトス、リヴィウス、史記)にはこのような些細な点に至るまで、作者の配慮が感じられる。

ところで、資治通鑑の文章の元になっているのは正史であるが、文句の変更や削除が適宜なされている。そういった編集が有効であることも多いのだが、ここの部分では数語削除されているため、文のつながりが分かりにくくなっている。この部分、後漢書の元の文章では次のように書かれている。

。。。於殿上撲殺之。『執法者以根知名,私語行事人使不加力』既而載出城外,根得蘇。。。

この省略された部分を訳すと
『法を執る者、根の知名をもって、私に、事を行う人に語り、力をくわえざらしむ』(『執法者以根知名,私語行事人使不加力』)
つまり、杜根の評判がよかったこと知っていた獄の番人が棒たたきの時、手抜きをして、強く打たなかったので杜根が死なずに済んだという訳だ。

中国人には、金のためなら何でもする、という風潮が伝統的に見られる一方で、義のためなら命を投げ出す、という人としての生き方の鑑ともすべき人もいる。資治通鑑にはその実例が数多く挙げられている。
コメント (1)
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