限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【麻生川語録・14】『20倍違うと世界が違って見える』

2010-04-16 17:59:46 | 日記
物事には定性的に考えないといけないことと、定量的に考えないといけないことの二つがある。定性的とは、ものの性質に関することである。例えば、家を建てるのに木造にするか鉄筋コンクリートにするかプレハブにするか、材質によって建て方が異なる。定量的というのは、ものの量に関わることで、ランチに牛丼の大盛りを頼むか普通サイズでいくかという問題がその代表だ。大抵の場合、定量的な問題はそれだけで解決することがあり、定性的な問題とは交差しない。(牛丼を頼むと決めたら、その量を決めれば注文できるということ)

しかし、ある時には、定量的な問題が定性的な問題にすり替わる時がある。それは、量がだいたい20倍を超えた辺りというのが私の感覚である。



例を取って説明しよう。

大阪から東京まで新幹線で行くことを考えてみる。現在『のぞみ』だと約2時間40分で、運賃は1万4千円である。これがそれぞれ20倍安くなったとするといくらになるだろうか?なんと、8分と700円となるのである。

考えてみるとこのスケールであると、例えばタクシーに乗るとすると私の勤務する京都大学からは三条まで、東京であれば、御茶ノ水駅から東京駅までの時間と運賃に該当する。つまり、スケールが20倍異なるというと大阪<==>東京があたかも一駅程度の近さになるのだ。ついでに日本からパリまでの飛行時間は大体14時間である。これも20倍早くなると、40分足らずで行けることになる。ちょっと喫茶店に入ってコーヒーをすすっている間にパリに着くのだ。

このように、量的に20倍も変わってしまうと、考え方の根本から考えなおさないといけないことになるというのが、私の言う『20倍違うと世界が違って見える』という意味である。

ここ30年の間、コンピュータは計算速度、記憶容量、通信速度、いずれをとっても、連続的に驚異的な性能の向上が見られた。それはここでいう20倍どころではないのだが、残念ながら現在の我々のコンピュータはその性能アップの恩恵を充分受けていない。単にシステムを起動するだけに数分もかかるという某社のOSなどは私の感覚から言えば、あたかも新幹線が幼児の三輪車に追い抜かれているような遅さと苛立ちを感じる。それにもましてうんざりするのは、15年前に某社のXX95なる万人向けのユーザーインターフェースを備えたパソコンが出現してから、20倍以上の性能アップにも拘らず質的変化が全くないことである。本来は量的な向上が質に転化されるべきであるのにその革新が起こっていない。どこか力のいれる方向が間違っているように感じる。
コメント
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