限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【座右之銘・135】『使功不如使過』

2022-11-27 13:54:18 | 日記
以前、京都大学の産官学連携本部で、ベンチャー関連の調査をしていた時、シリコンバレーを訪問したときに聞いた次のフレーズが印象深く心に残った。
 Failure is not personalized.

この文章は、表面的に理解したのでは、何を言っているのかさっぱり見当がつかないだろう。しかし、発言者の前後関係からこのフレーズは次のように理解できる。

 失敗は確かに、失敗した個人の経験となるが、それは単に個人の経験に止めておくのではなく、次からは皆が失敗しないように、その人の経験を皆で共有すべきだ。

このフレーズを聞いてから、あまり間を置かず、アメリカ領事館で聞いたシリコンバレーのベンチャーに関する講演では
  Failure is celebrated.

というフレーズを耳にした。つまり、失敗すると必ず教訓を学ぶので、次からは失敗しないと、シリコンバレーでは考えるというのだ。それで、『失敗すると皆から、誉められ、祝福される(celebrated)』のだという。



さて、このようなフレーズが出てくるのは、アメリカの、それも特にシリコンバレーのような冒険心にとんでいる地域だから可能だ、と考える人もいるだろう。ところが、それは現代のアメリカに特有な現象ではなく、古代中国でもあったというのが、今回の話である。

後漢書の列伝71に次のことばが登場する。
【原文】夫使功者不如使過(それ、功ある者を使うは、過あるを使うにしかず)
【私訳】成功した者を使うより、失敗した者を使う方がよい。
【英訳】we'd better employ those who are willing to make amends for previous faults than those who pride themselves on their merits.

後漢書・列伝71は《独行伝》という。世間の常識に囚われず、自分が正しいを信じた道を行く人たちのことだ。索盧放(さく・ろほう)という人の伝記を見てみよう。

 ***************************
【大意】索盧放は《尚書》を教授していたが、門人が1000人もいた。地方の小役人をしていたが、後漢成立の少し前の更始年間(AD23-25)、中央から派遣された使者が地方を視察した折、索盧放のいた県の失政があったとして太守が処刑されることになった。索盧放は直ちに進みでて抗議した。「近年、王莽のでたらめ政治に庶民は苦しんでいて、今ようやく漢に心を委ねようとするのはまさに仁愛あふれる寛大な政治を期待してのことです。しかるに、恩恵を施すのではなく、太守を厳罰に処するようなことがあれば、庶民はまた反乱を起こすやもしれません。《夫使功者、不如使過》(失政をした太守を継続して任務に就ける方が過失の全くない太守より良い)と思います。処罰は太守ではなく私に課して下さい。」このように言って、肩脱ぎとなり、処刑してくれといわんばかりの態度を取った。使者は索盧放の義溢れる態度に感激して、太守を放免し、索盧放もまた名声を得た。

索盧放字君陽、東郡人也。以尚書教授千余人。初署郡門下掾。更始時、使者督行郡国、太守有事、当就斬刑。放前言曰:「今天下所以苦毒王氏、帰心皇漢者、実以聖政寛仁故也。而伝車所過、未聞恩沢。太守受誅、誠不敢言、但恐天下惶懼、各生疑変。夫使功者不如使過、願以身代太守之命。」遂前就斬。使者義而赦之、由是顕名。
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索盧放は、太守を処刑する代わりに自分を、と申し出たのだ。口先だけでいうのは簡単だが、本当に自らの命を差し出した。もっとも、中国人の倫理観とすれば、この行為に義を認め、索盧放はおろか、太守までも赦されることは索盧放の計算には入っていたのかもしれないが。。。

いづれにせよ、このフレーズ『使功不如使過』(後漢書だけ「使功者不如使過」)がここが初出で、また24史の中でもあまり使われていないが、含蓄の深い言葉だ。(清史稿まで含め、計7回)

【参照ブログ】
百論簇出:(第63回目)『ベンチャー起業家よ、失敗を誇れ?!』
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惑鴻醸危:(第64回目)『騎虎から下りられない習近平(補遺)』

2022-11-20 16:23:24 | 日記
先日投稿した
 惑鴻醸危:(第63回目)『騎虎から下りられない習近平』
に続編を希望する人が数人いたようなので、言い足りなかったことを書いてみようと思う。

最近(2022年11月15日、16日)インドネシアで開催された、G20の会議では、習近平が西側各国の首脳(アメリカ、日本、カナダ、オーストラリア、韓国)たちとにこやかに握手をしている様子が報じられ、メディアでは、総書記の3期目に突入した余裕だとの説明があった。

こういった報道に接するたびに私が思うのは、あまりにも西側的、日本的な心情で中国の事情を推し量ろうとしているのは残念だ。中国人の思考回路は、我々日本人には考えられないあくどい策略や奸計の連続だ。私の『世にも恐ろしい中国人の戦略思考』(小学館新書)には資治通鑑に見えるあくどい戦略の数々が登場する。日々このような策略が周りに張り巡らされている中国の生活に、大多数の日本人には耐えきれないであろう。多少の誇張はあろうが、中国の宮廷ドラマはこのような雰囲気を味わうにはぴったりだ。(近年の中国ドラマ、『如懿伝』『瓔珞』『明蘭』『宮廷の諍い女』『大宋宮詞』)こういったメンタリティは日本以外のアジアの地域(東南アジア、朝鮮)では当たり前であり、独り日本だけが稚拙な策略しか考えつかない。

前回も書いたように、今期は共青団(団派ともいう)から見放されて、習近平は内心は非常に心細いに違いない。というのは、経済的、あるいは外交的な失敗があれば、もう他の派閥になすりつけることはできないからだ。全ての責任を負って、いわば薄氷を踏む思いの毎日であろうと推察する。とりわけ、習近平が恐れているのは軍の不服従(あるいは反乱)であろう。というのは、前回述べたように、習近平は軍関係者の利権漁りをかなり手厳しく摘発したからだ。

ここで過去の主席(総書記)と軍の関係をみてみよう。

初代の毛沢東から鄧小平までは、日中戦争や国民党との戦争では実際に軍を率いたので、軍部を完全掌握することができた。しかし、江沢民以降の主席にはそういった、戦争経験がないので、軍から本当の忠誠を得ることはできないと私は見ている。江沢民は軍の支持を得るために、敢えて利権漁りを黙認した。その後、総書記になった胡錦濤は腐敗まみれの利権ばらまきを主導するには清潔すぎた。しかし、胡錦濤時代にも軍にかぎらず、共産党幹部の利権あさりは止まることがなかったことは、習近平の登場で一挙に明らかになった。つまり、江沢民は積極的腐敗を行い、胡錦濤は消極的腐敗を行ったといってよかろう。そのような金権まみれの軍部の体質を無理やり浄化した習近平には軍の忠誠心を得ることは不可能だ。

さて、中国の党派対立を歴史的観点から眺めてみよう。

北宋の新法と旧法の争いは、新法は王安石をリーダーとし、旧法は司馬光をリーダーして、数年もの間、何度か攻守を変えて対立した。このような政争は何も北宋だけに限らず、唐の牛李の党争も数十年続いた。つまり、中国の政争は数年で決着が付くものではないということだ。体制が入れ替わるというのは、あたかもオセロのように、一遍に善玉と悪玉が入れ替わるのだ。つまり、中国の政権争いは5年や10年程度の短いスパンで見ても、本当のところは分からない。50年スパンで見ないといけない。従って、政権を握ってからまだ10年しか経っていない、習近平体制と他派の抗争の決着はまだつかない、と見るべきである。

中国人のしぶとさは我々日本人には想像できない。史記の巻108に韓安国が牢獄に入れられた時、獄吏が安国に無礼な行いをしたので怒って「火の気の無い灰でも、再び燃えることもあるぞ」(死灰独不復然乎?)と言い、実際、韓安国は再度権力を手にした。前回、「薄熙来や周永康がまだ牢獄の中で生きている」と言ったのはまさにこの事を指している。



さて、冒頭で触れたG20に於ける習近平のにこやかな態度だが、私は一抹の不安を感じる。というのは、中国の政治家が対外関係で一番恐れているのは「漢奸」というレッテルの貼られることだ。「漢奸」は日本語の「国賊」「売国奴」に相当するが、ニュアンス的には極悪人の中の極悪人という感じだ。しかし、過去の「漢奸」たちの言動を見ると、国際協調などで、国の為に良かれ、と思ってした行動でも、敵方に媚びているとみなされ「漢奸」のレッテルを貼られることが往々にしてある。一番有名な例は、南宋の初期の宰相・秦檜であろう。金との抗争終結するため、あくまでも戦争継続を主張する岳飛を殺したため、1000年以上経った今なお、「漢奸」のレッテルははがれない。

以前、習近平が安倍首相と渋い顔で握手する写真が流れたが、それは日本にすり寄っている、と見られるのを習近平が恐れたからだと私は考える。近年、習近平はしばしば「偉大な中国」という言葉を口に出したが、それは本心からそう思っているのではなく、国内の反習近平勢力にけちを付けられる口実を封鎖するためであるはずだ。

結局、中国の成句の「水至って清ければ則ち魚棲まず、人至って察なれば則ち徒なし」(水至清則無魚、人至察則無徒)が正しいとすれば、習近平の派閥はまだまだ脆弱で、共産党という巨大な組織を完全には掌握していない。それで、自分が抜けてしまうと、この10年の賄賂追放で痛めつけてきた連中に、一派はあっという間に潰されてしまうと思って細心の警戒をしているはずだ。
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沂風詠録:(第348回目)『読者からの質問 ― アラビア語からラテン語への翻訳書の運命』

2022-11-13 10:04:09 | 日記
先日(2022/11/7日)林哲也さんから、下記の 4点について質問を頂いた。
=================== 
1. トレドでギリシア/ローマの著作がラテン語に翻訳されたが、その後、その翻訳がヨーロッパでどの程度活用されたか。

2.現代の西洋古典学の研究者は、イスラム圏で付加された注釈をどの程度参照しているか。

3.ギリシア語/ラテン語の現代の辞書で動詞の見出し語が1人称単数なのに、西洋近代語の辞書の見出し語ははなぜ1人称単数ではなく不定形なのか。

4.アラビア語の辞書が3人称男性単数を見出し語としているのか。
=================== 

質問の順序とは異なるが、3. と 4.に関しては、はっきりとは分からないが、少しだけ返答したい。

3.この点に関して、文法書を見ても記述が見当たらない。それで、専門的に調べたわけではないので責任は持てないが、次のような事情ではないかと私は考える。
「古典ギリシャ語もラテン語も、1人称・単数・現在形tから不定形は必ず一意的に(間違いなく)作れるが、逆はできない」

申し訳ないが、実際のケースが思い浮かばないので、架空のケースとして挙げることにする。(尚、単語の記述には、アクセント、気息記号は省き、ギリシャ語にローマ字表記を併記する)

能動態の不定詞 λεγειν (legein) からは λεγω (lego) という形のほかに λεγεω (legeo)も可能だ。同様に、中動態の不定詞 εποσεσθαι (eposesthai) からは επομαι (epomai) という形のほかに、επομι (epomi) も可能だ。これと同じことはラテン語についても言える。(例:同じく架空のケース、不定詞 canere から canoと caneo の可能性がある)

4.に関しては、アラビア語の入門書を読むと、「3人称、男性、単数、完了形」がもっとも簡単な形である、と書いてある。それで、辞書の見出し語にした、ということのようだ。

【ラテン語への翻訳書の運命】

さて、本題である上記1、2のテーマについて述べることにしよう。

そもそも、アラビア人というのは、現在の国名でいうサウジアラビアに住む遊牧の民(ベドウィン)を指す。彼らは、本来、哲学のような形而上学的興味を全く持たなかった。ところが、ムハンマドが 613年にイスラム教を創始して以降、アラブ人は次第にイスラム教徒に宗旨替えした。そして、750年に文化興隆に熱心なアッバース朝が始まると文明の先達であるシリア、ギリシャから外来の学問として、哲学、論理学、医学、薬学、天文学、数学、化学、錬金術など、多くの学術を受け入れた。これから逆算するに、アラブ土着にはこれらの学問分野が全く欠落していたことが分かる。そして、実質150年ほどの間に、これら先進文明国のうち、彼らが重要とした学問、つまり哲学と科学、に関する書物をアラビア語に翻訳した。この時、ラテン語の文献は(私の知る限りでは、ほとんど)翻訳対象とはならなかった。これによって、急に文化大国になったイスラム圏(中東、北アフリカ、スペイン)は、文化的に遅れていたヨーロッパ人の憧れの的となったのである。

それゆえ、8世紀から15世紀にかけてスペインで行われたレコンキスタによって、スペインのアラビア文化をそっくり手に入れたヨーロッパ人はアラビア語に翻訳されたギリシャの書物を手にして驚いた。これらの書物に魅せられたヨーロッパ人は、 12世紀から13世紀にかけてアラビア語、あるいは原典のギリシャ語の書物をラテン語に翻訳した。その一覧を下にしめす。




【出典】『十二世紀ルネサンス』伊東俊太郎 講談社学術文庫 P.200- 203

上で述べたようにギリシャの書物の内、アラブ人が関心を示したは哲学と科学であり、同時にアラブでもこの分野、とりわけ科学が発達した。それゆえ、ヨーロッパ人がアラビア語原典の書物を訳したのも、コーランを除けば、哲学と科学に限定されていたといっていいであろう。

以下、多くの文献を紹介するが、文献が多いことを「自分の知識をひけらかすために、わざと数多くの文献を挙げている」ととらえる御仁もいるようだが、私の意図はそれではない。たとえば、監視カメラのない街中で傷害事件が発生し、犯人が逃走したとしよう。早速、警察は現場近くにいた複数の目撃者に犯人の人相を聞き、モンタージュ写真を作る。ここでのポイントは一人の意見から犯人像を作るのではなく、複数の人を集積するということだ。つまり、多面的、多角的な視点からの像の方がより真実に近くなるという経験則がある。これと同様、今回のように複数の文献にはそれぞれ視点が異なる意見が述べられている。それをすこしずつ取り込みながら自分の中でこれらをつなぎ合わせて、なるべく実態に近い像を作業することが求められる。それ故、数多くの文献を調べる必要があるというのが私の観点である。

 ===================

【文献リスト一覧】17点
【1】『十二世紀ルネサンス』伊東俊太郎 講談社学術文庫
【2】『近代科学の源流』伊東俊太郎 中央公論社
【3】『科学思想のあゆみ』シンガー 岩波書店
【4】『岩波講座 世界歴史 8』《中世 2》岩波書店
【5】『地中海世界のイスラム』W.モンゴメリ・ワット ちくま学芸文庫
【6】『アラビア文化の遺産』ジクリト・フンケ みすず書房
【7】『イスラームの哲学者たち』ナスル 岩波書店
【8】『アラブの歴史 上・下』フィリップ・ヒッティ 講談社学術文庫
【9】『イスラーム思想史』井筒俊彦 中公文庫
【10】『ヨーロッパとイスラム世界』サザーン 岩波現代選書
【11】『ファーラービーの哲学』ファフレッティン・オルグネル 幻冬舎ルネッサンス
【12】『イスラーム・スペイン史』 W.M.ワット 岩波書店
【13】『アラビアの数学』アリー・アル=ダッファ サイエンス叢書
【14】『アリストテレス』 G.E.R.ロイド みすず書房
【15】『アリストテレス』 ジャン・ブラン 白水社(文庫クセジュ)
【16】『中世の覚醒』リチャード・ルーベンスタイン 紀伊國屋書店
【17】『世界の名著 トマス・アクィナス』中央公論社

 ===================

【回答概要】

【質問1.】トレドでギリシア/ローマの著作がラテン語に翻訳されたが、その後、その翻訳がヨーロッパでどの程度活用されたか。

【回答】以下の【参考文献の参照個所】に示すように、ギリシャの著作は数多く利用されたことが言える。ローマの著作はそもそも(私の知るかぎりでは)ほとんどアラビア語に翻訳されなかった。ヨーロッパ人は、アラビア語に翻訳されたギリシャの古典を当初はアラビア語からラテン語に翻訳して大いに利用していた。それだけではなく、イスラム(アラブ)で独自に発展した、数学、天文学、医学はギリシャより一層高度なレベルに達し、その成果を取り入れたおかげでヨーロッパの科学は大きな飛躍を遂げた。アラビア語に翻訳されたギリシャ哲学は、ほぼアリストテレスに尽きるといってもいいだろう。そこからラテン語に翻訳されたアリストテレスは、それぞれアヴィセンナ・アリストテレス、あるいはアヴェロエス・アリストテレスというように、イスラムの哲学者の解釈の色に染まったものであった。当初は、それに満足していたが、次第にアリストテレスその人に肉薄するようになった。

【質問2.】現代の西洋古典学の研究者は、イスラム圏で付加された注釈をどの程度参照しているか。

【回答】これに対して直接的に答えてくれている文献はまだ目にしていない。それで、私の推論になるが、次のような事情ではないだろうか:

イスラム圏でのギリシャ哲学への注釈は、つきつめればアリストテレスだけしかない。それらの注釈が活用されたのは13世紀のトマス・アクィナスごろが最後といえよう。というのは、14世紀以降はヨーロッパ人はギリシャ語原典が読めるようになったので、イスラム教的な色をもつアラビアの注釈を嫌い直接ギリシャ原典に向かったからだ。従って現代の西洋古典の研究者は、イスラム圏で付加されたアリストテレスの注釈は歴史的観点から参照することはあっても、本義を理解する上では、もはや参照していないのではないだろうか。

 ===================

【参考文献の参照個所】

【1】『十二世紀ルネサンス』伊東俊太郎 講談社学術文庫
P.172―P.188 トレドだけでなく、合計で南ヨーロッパの4個所で翻訳事業があったこと説明。
P189―P.199 ここに、ラテン語訳された図書がどのように活用されたかについて説明されている。

【2】『近代科学の源流』伊東俊太郎 中央公論社
この本は【1】と著者が同じなので、内容はほぼ似ている。 P.219― P.233に12、13世紀のラテン語への翻訳事業の様子が書かれている。
P234―P.256 第9章 西洋ラテン科学の興隆に、ラテン語訳された図書がどのように活用されたかについて説明されている。

【3】『科学思想のあゆみ』シンガー 岩波書店
P.155―176 イスラムの科学者たちの業績の説明がメインで、若干西洋への影響にもふれる。
P.176―191 翻訳に関しては、ユダヤ人も参加したと述べる。スペインではアラビア語とラテン語の両言語に堪能なユダヤ人が多くいたからだという。
P.181 数学と天文学に関して、アラビア語からラテン語訳された本が大いに影響した。
P.183 アリストテレスの生物学に関して、アラビア語からラテン語訳された本が大いに影響した。

【4】『岩波講座 世界歴史 8』《中世 2》岩波書店
P241―245 ギリシャ語の原典が失われアラビア語訳でしか伝わらないものがあった。つまりアラビア語からラテン語に訳されたものの価値が非常に高かったということになる。

【5】『地中海世界のイスラム』W.モンゴメリ・ワット ちくま学芸文庫
P.68―91 著者のワットのアラビア・イスラムびいきを差し引いても、アラビア科学とアラビア哲学は近代ヨーロッパの科学発展の引き金となった。
P.87 イスラム思想に大きな影響を与えたのはギリシャ哲学であった。
P.120―142 科学と哲学両面でのアラビア語訳によってヨーロッパ人が始めてギリシャ科学と哲学を知るに至った。
P.140 ヨーロッパの学者のアリストテレスの理解は、アヴェロエス(本名、イブン・ルシュド)の注釈による。

【6】『イスラーム・スペイン史』 W.M.ワット 岩波書店
P.177 …アヴェロエスの偉大な功績の一つは、真のアリストテレスを再発見し、その思想を西欧につたえたことにある。この功績はスペインのキリスト教とユダヤ教の学者が、アヴェロエスの諸注釈をラテン語またはヘブライ語に翻訳した時に現実化された。西欧へのアリストテレスの移入は、トマス主義という大きな成果を産むために貢献した主要な要因の一つである。

【7】『アラビア文化の遺産』ジクリト・フンケ みすず書房

一冊全てが【回答 1.】に対応する内容の重要な本。

P.64 現在使われている星の名前のほとんどがアラビア起源。つまり、ギリシャの天文学書がアラビア語に訳される時にアラビア名をつけたため。
P.91 アラビア人はギリシャ数学を受け、更に発展させて、最終的にルネッサンスの数学の教師となった。
P.137―138 (中世の)優秀なキリスト教徒はアラビア語しかしらない、と。…アラビア人の(医学)書はヨーロッパのあらゆる大学において教科書とされた。(麻生川注:アヴィセンナの『医学の正典』やアヴェロエスの『医学大全』のこと)
P.152 中世ヨーロッパ人は、医学に関してはギリシャ人の書物よりアラビア人の書物から医学知識を得た。
…などなど

【8】『イスラームの哲学者たち』ナスル 岩波書店

著者のナスルはイラン人。この本は、欧米人向けの講演の書籍化。
P.50―54 ラテン世界に、アヴィセンナの影響があり、「アヴィセンナ化したアウグスティヌス主義」と言われる。

【9】『アラブの歴史 上・下』フィリップ・ヒッティ 講談社学術文庫

著者のヒッティはシリア人。この本は、今でもアラブの歴史の名著の誉れあり。

下巻 P.414―48440章《知的貢献》の章には、イスラムの学者の業績とヨーロッパ文化への影響が多くの分野ごとに詳細に述べられている。
下巻 P.472 …かくしてスペイン=アラブの学芸は全西欧に浸透したのである。

【10】『イスラーム思想史』井筒俊彦 中公文庫
P.327―406 第4の《スコラ哲学―西方イスラーム哲学の発展》にイスラム哲学の発展と西欧への影響についての記述が多くみられる。
P.327 イスラム哲学を理解するには、東(ペルシャ)のアヴィセンナと西(スペイン)のアヴェロエスの2人を知ればよい。
P.386 イスラム哲学はアヴィセンナの系統で発展した。一方、アヴェロエスはイスラムの思想にほとんど影響を与えなかった。アヴェロエスは13世紀以降、西欧(特にパリ大学)で多くの信奉者を輩出した。

【11】『ヨーロッパとイスラム世界』サザーン 岩波現代選書
P.75 「13世紀の神学の中にイスラムの著作家の影響の跡を広範囲に見つけ出しております。しかも、調べれば調べるほどその範囲はますます広がっていくのです。… ラテン・アヴェロエス主義は、 13世紀後半では大きな影響力をもち…」

【12】『ファーラービーの哲学』ファフレッティン・オルグネル 幻冬舎ルネッサンス

著者のオルグネルはトルコ人。
P.187 ファーラービーの著『学問の数』は 12世紀に西欧にラテン語訳されて紹介された。13世紀には英語、ドイツ語などに翻訳され、ベーコンなどのルネサンス期の文人が参照した。

【13】『アラビアの数学』アリー・アル=ダッファ サイエンス叢書

著者のアリー・アル=ダッファはサウジアラビアの大学教授。

数学に特化して、ギリシャ数学を受けたイスラム数学の発達と西洋への還流についてのべる。とりわけ、イスラムで高度に発達した数学によってはじめて近代西洋の数学があるという論調。

以下の4冊は、イスラムで熱狂的に支持されたギリシャ哲学、およびその影響をうけた中世ヨーロッパを理解する上で必読の書。

【14】『アリストテレス』 G.E.R.ロイド みすず書房
イギリスの哲学者、ロイドが本書を出版したのは、35歳の時であるが、内容は日本の碩学ですら及びもつかない程、広く深い。学説を羅列するのではなく、種々の著作からアリストテレスの思想の全体像をみせてくれる。

【15】『アリストテレス』 ジャン・ブラン 白水社(文庫クセジュ)
私はアリストテレスの解説書をかなり読んだが、なぜアリストテレスがまずはイスラムで、継いで中世ヨーロッパで熱狂的に支持されたのかの根本理由が分からなかったが、この本によって始めて納得した。アリストテレスの哲学関連の書物だけでなく、自然科学の本に関しても総合的見地から、アリストテレスがヨーロッパとイスラムの神学の基礎的概念を提供したことが分かる。

【16】『中世の覚醒』リチャード・ルーベンスタイン(小沢千重子 )紀伊國屋書店 2008
本題の「中世の覚醒」とは「イスラム世界で受け継がれてきたアリストテレスが 12世紀にアラビア語からラテン語に翻訳されることで、中世ヨーロッパが終わり、近代ヨーロッパが目覚めた」という意味である。中世ヨーロッパが主テーマでありながら、イスラムの役割も公平に評価している。結局、中世ヨーロッパの文化人たちがアリストテレスを求めたのは、イスラム同様、宗教論争に打ち勝つための論理の精緻化と知識の拡充ためであると分かる。ヨーロッパ文明を理解する上では、アリストテレスの理解が必須だということがよく分かる。

【17】『世界の名著 トマス・アクィナス』中央公論社
イスラム哲学の西欧哲学に対する最大の貢献は、トマス・アクィナスの『神学大全』を産んだことであろうと私は思っている。トマスがアリストテレスを短期間に正しく理解しえたのもイスラム哲学者たちの(多少は歪曲もあったが)アリストテレス理解がベースになっていると私には思える。

以上
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智嚢聚銘:(第17回目)『中国四千年の策略大全(その 17)』

2022-11-06 14:55:58 | 日記
前回

ときたま日本語と中国語では、同じ漢字を使いながら微妙にニュアンスの異なることがある。一例として「城郭」や「官吏」がある。日本語で「城郭」といえば、「お城の外囲い」という意味だが、中国語では「城」と「郭」という2つの異なった区域の総称である。つまり「郭」は「城」の一部ではないのだ。城とはその地域を治めている首長とその側近部隊の居る場所で、郭とは城壁で囲まれ、庶民の暮らす地域である。城は二重の城壁の内側の部分である。つまり、敵から攻められたとき、外側の城壁を突破されて庶民が殺されても、内側はまだ安全だということになる。日本の場合、例えば大坂城は外堀、内堀の2つがあったが、堀内は武士だけしかいない。面積的にも大きな差がある。


荊州の大都市「襄陽」

また、「官吏」というのも「官」と「吏」は天と地ほどの身分格差がある。「官」は科挙に合格して、中央政府から派遣された役人で国から高給が支給される。一方、「吏」とは一般人で、先祖代々、その地の官庁で事務サービスを請け負っているが、正式な役人ではないので、給料は支給されない。事務サービスの都度、手間賃を事務依頼者から徴収する。むかし、日本では教習所の近くに、免許証の書き換えの申請書を書く事務所が多く見かけられた。自分で書けばいいのだが、始めての人は書き方が分からないので、そういった事務所でお金を払って代書(多くはタイプ打ち)してもらっていた。これは考えてみれば、ここで説明したような中国の「吏」の仕事だろう。つまり、サービス料金で生活しているのである。考えても分かるが、依頼者から安い金額をもらってもすんなりと仕事はしてくれない。事務処理費に積み増す賄賂が必要なのだ。中国のこのような仕組みは、古くから存在するので、共産党政権になったといっても、役人には常に役得(袖の下)が当たり前という意識が根強い。以下の話を読むと、このことがよく分かる。

 ***************************
 馮夢龍『智嚢』【巻10 / 427 / 向敏中】(私訳・原文)

北宋時代、向敏中が洛陽の知事であった時のこと、一人の僧が日が暮れてから一軒の家に泊めてくれるように頼んだが断られた。仕方ないので、その家の車庫の軒下で寝ることにした。夜になって、物音に目を覚ました僧は、その家の婦人が泥棒に袋に入れられて垣根を超えていく場面を目撃した。僧は、このままここに居たなら明日の朝に婦人と財宝が盗まれていることに気付いた主人に捕まって、泥棒にされてしまうと思い、急いで走り去ったが、誤って枯れた井戸に落ちてしまった。そこには、既に先ほど泥棒に連れ去られた婦人の死体があった。

翌朝、主人が血痕の跡を辿って井戸までやってきて僧を捕まえて役所に突きだした。僧は身に覚えのない罪を自白させられた。つまり「婦人を誘惑して家から逃げ出したが、追手が恐ろしくなって、婦人を殺して井戸に投げ込んだ。しかし、暗闇で足元がよく見えず自分も井戸に落ちてしまった」と。「盗んだ財宝は井戸の近くに置いたが、誰かに盗まれてしまった。誰の仕業かは分からない」と答えた。役所では、僧が犯人だとした調書を作成し、誰もが一件落着と考えた。ただ、向敏中だけは盗まれた財宝を僧が全く持っていないことに疑念を感じて、自分で僧を尋問して、事件の全貌をつかんだ。

そこで、向敏中は信頼する下役に近くの村に行って、身分を隠して調査をするよう命じた。ある食堂に入ると、店のばあさんは下役が役所のある町から来たと聞いて「あの僧の一件はどうなりましたか?」と聞いたので、下役はわざと「ああ、あの僧は昨晩、鞭打ちで死にましたよ」とウソを言った。ばあさんは「それなら、もし今、犯人が見つかったとしたらどうなります」と尋ねたので下役は「もう結審したので、たとえ真犯人が捕まってもどうしようもありませんな」と答えた。「それなら、言っても誰にも害は及ばないということですね。あの婦人をさらって殺害したのはこの村の少年某ですよ」と、少年の家を指さした。下役は役所に戻ると警察をつれてきて少年を逮捕した。尋問すると、少年は罪を認め、また盗まれた財宝も見つかった。ようやくのことで僧は釈放された。

【馮夢龍の評】
前代(宋代)には明察なる官僚がいたが、往々にして有能な下役のサポートのおかげで事件が丸く解決した。それは、下役の採用は国家で決めていたからだ。しかし、今(明代)の下役というのは金をだせば手に入る職業なので、下役という職業は普通の商売とまるで変わらない。こっそりと牢獄を訪問したいという依頼や、差し入れしたいという依頼に対して、あくどく賄賂を要求するようになった。下役だけでなく、政治を担う官僚たちも同じだ。これではどうして公正な裁判が受けられるだろうか?

向敏中在西京時、有僧暮過村求寄宿、主人不許、於是権寄宿主人外車廂。夜有盗自牆上扶一婦人嚢衣而出、僧自念不為主人所納、今主人家亡其婦人及財、明日必執我。因亡去。誤堕眢井、則婦人已為盗所殺、先在井中矣。明日、主人蹤跡得之、執詣県、僧自誣服、誘与倶亡、懼追者、因殺之投井中、暮夜不覚失足、亦墜;贓在井旁、不知何人取去。獄成言府、府皆平允、独敏中以贓不獲致疑、乃引僧固問、得其実対。敏中密使吏出訪、吏食村店、店嫗聞自府中来、問曰:「僧之獄何如?」吏紿之曰:「昨已笞死矣。」嫗曰:「今獲賊何如?」曰:「已誤決此獄、雖獲賊亦不問也。」嫗曰:「言之無傷矣、婦人者、乃村中少年某甲所殺也。」指示其舎、吏就舎中掩捕獲之。案問具服、並得其贓、僧乃得出。

〔馮述評〕前代明察之官、其成事往往得吏力。吏出自公挙,故多可用之才。今出銭納吏、以吏為市耳、令訪獄、便鬻獄矣;況官之心猶吏也、民安得不冤?
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馮夢龍の評では、宋の時代には「吏」も国家公務員(あるいは地方公務員?)であったかのような書き方だが、宮崎市定氏の『九品官人法』や『中国の官吏登用法』(宮崎市定全集・7)では、宋でも胥吏と呼ばれた地方の下役人は、上で説明したような人種であったようだ。それを差し引いても、馮夢龍のいうように、明代には胥吏の倫理観が宋代に比べずっと低劣になっていたということだろう。それが、そのまま現在にまで至っているとしたら、考えるだけでも空恐ろしいことだ。

【参照ブログ】
想溢筆翔:(第110回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その45)』

想溢筆翔:(第380回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その223)』

続く。。。
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