限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第71回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その6)』

2012-05-31 18:52:35 | 日記
 『1.06  敵に囲まれた危急事態でも部下と労苦を共にする。』

ドイツへの旅行者の多くは、ロマンティック街道にあるローテンブルクを訪問するだろう。そして、分厚い城壁をくぐり街中に入り、落ち着いた中世の佇まいにうっとりとすることであろう。しかし、先ほどくぐった城壁は何も情緒を醸すための飾り道具などではなく、市民の命と全財産が懸っていた最後の防御壁であったことを思い起こすと感じ方も異なるはずだ。

ローテンブルクに限らずヨーロッパの都市はたいてい城壁に囲まれている。城壁はヨーロッパのみならず、中東、インド、中国、朝鮮など、かつての文明国の都市には必ず見ることができる。文明国でありながら、都市に城壁が無かった国は日本ぐらいなものだ。

日本では、都市全体を城壁で守るという発想は昔から無かった。遣唐使で数多くの日本人が中国や朝鮮の地で城壁を目にして帰ってきたはずなのに、日本では城壁のある都市が作られたことはなかった。

中世になって、城という戦士の館だけが、濠や石垣で守られるようになった。城壁は大阪城や熊本城のように壮大さを誇示するために特別に念入りに作られたのを除いては恒久的な耐久性は乏しかったように思える。例えば、太平記の一つの見せ場である、千早城の攻防では城壁の堅固さで防衛したというより、楠正成の奇想天外の策略によって鎌倉軍が攻めあぐねたにすぎない。

一方、ヨーロッパや中国の城壁が堅固で聳え立つばかり高さを誇っているのは、城内の何千人、否、何万人もの生命や財産を守るためである。戦争ともなれば、都市が丸ごと攻撃されるので、戦闘員であろうと、一般民のような非戦闘員であろうと関係なく生命の危機にさらされるのだ。その為に、城壁はどのような攻撃にも耐えるように強固に作られている。それで攻める方も攻城道具の準備にも時間がかかる上に戦死者も極めて多い。孫子の兵法にあるように城を直接攻めるは最後の策なのだ。

つまり城攻めと言えば、その周りを取り囲み、外部からの食糧、情報を遮断し、兵糧攻めにするのが一般的だ。ローマの例を挙げれば紀元前52年にカエサルのガリア遠征に行った折、アレシアの山上に立てこもったウェルキンゲトリクス(Vercingetorix)の軍を全長21キロメートルもの濠で取り囲こんだ。数か月にわたる攻防のすえ、ようやく相手を降伏させることができた。



中国でも、BC284年、燕の将軍・楽毅が斉に侵攻した時に、斉の70余城は早々と陥落したが、ただりょと即墨だけが残った。即墨を守っていた斉の将軍・田単は防御に徹した。数か月の包囲に燕軍の気が緩んだすきをついて、夜中に牛の角に松明を燃やして城壁から放つと、燕の軍は大混乱に陥った。その混乱に乗じて城内から斉の壮士5000人が敵陣に切り込み、ようやくのことで勝利を収めることができた。

籠城では、包囲が数か月や、長い時には数年にわたるため、やがて食糧や水がなくなってしまう。この際の困窮を表現する慣用句が『易子而食、析骨而炊』(子をかえて食し、骨を折りて炊ぐ)である。つまり、食べ物がなくなって、仕方なく、自分の子供と他人の子供を取り換えて、殺してその肉を食べ、また煮炊きするための薪がないので、死人の骨を燃やす、という意味である。目も向けられないような地獄絵がかつては本当にあったのだ。

食べものだけでなく、飲み水もなくなるが、どうするのだろうか?雨水をためて飲むというのが一般的だが、究極のケースでは馬の糞汁を絞って飲むということもあったようだ。

参照ブログ
 通鑑聚銘:(第23回目)『馬糞汁を飲み、籠城に耐える』
 通鑑聚銘:(第24回目)『半年の籠城に耐えた26人、漢土を踏んだのは13人』

いずれにせよ、籠城のような時には、リーダーは指導者としての力量が問われるだけでなく、部下と同レベルの労苦を分かち合えるか、という不屈の忍耐力も問われる。
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【麻生川語録・32】『ブーメラン論法』

2012-05-27 21:05:13 | 日記
大倉喜八郎大倉財閥を一代で築いた明治の巨商の大倉喜八郎は自著の『致富の鍵』で、『楽しんでしまった渣滓(かす)が富である』との名言を残している。この論法を、読書に適用すると『読書とは、楽しんでしまった渣滓(かす)が知識や教養となる。』と言えるのではないだろうか。
【参照ブログ】  
 百論簇出:(第32回目)『財界人の伝記』

ところで、私の読書の流儀は、どちらかというと濫読である。時々の気分に応じて本を選ぶため、常に数冊の本を並読している。つまり、何冊もの本が読みかけのまま、新たな本を手にするのである。このやり方は喩えてみれば諸国漫遊のようなもの。この反対の読書としては、たとえば締切のある論文を書かないといけない学生や学者の読書であろう。観光に喩えると、厳密な旅行の計画を立て、飛行機や新幹線で最短距離で現地へ行くようなものであろう。現地に着いて観光するにも、タクシーをすっ飛ばして目的地へ一直線に向かい、途中の風景などは目もくれないようなもの。

私の読書の仕方は、生まれつきの性向に由来していると思われるが、一面、私が好んで読んだプラトンやモンテーニュの考え方、書き方に感化されたとも思える。彼らの本を読むと、中心テーマが何であるか、なかなか分からない。読み進むと、かならずいくつかの脇道があったり、分かれ道に出くわす。そしていつの間にか、また本道に戻ってきている。

私はこのような論述の仕方を『ブーメラン論法』と呼んでいる。あたかもブーメランが初めはとんでもない方角へ向かって飛んでいくように、話があちこちに飛んで予想がつかないが、ブーメランは最後には必ず目的の獲物に当たるように、話も狙いをつけた結論にぴたりと着地するのである。世の中には、このような『ブーメラン論法』を分かりにくい、とけなす傾向が見受けられる。枝道をばっさりと切り落として、本筋だけを分かりやすく書くことが推奨され、そのような本がベストセラーとなる。



しかし、私はこういった現代の風潮には、味気ないものを感じる。

速読や効率的な読書は、あたかも道を歩く時に、常に金目のものが落ちていないかだけを期待して、周りの景色を全くみないで、ひたすら下を見ながら歩いているようなものである。読書とは、何かを知るという直接的な目的以上に、筆者自身も考えなかったような事柄を読者に考えさせる刺激を与えてくれるものだと私は思っている。そのためには、夾雑物や引用が多く、話の筋がしばしば脱線する本を読むことが必要だ。この意味で、今読んでいる Gibbon(ギボン)の "The History of the Decline and Fall of the Roman Empire"(ローマ帝国衰亡史)は流石に名作と呼ばれるにふさわしく、イギリス人特有の皮肉まじりの警句や、正統な歴史書には載せないようなエピソードも多く含み、話題が曲折に富む。
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【座右之銘・70】『Scribendi recte sapere est et principium et fons』

2012-05-24 21:43:24 | 日記
以前のブログで、『Habent sua fata libelli』(本はそれ自身の運命を持つ)という言葉を紹介した時、最後の節で、私が西田幾多郎の文章を理解できないのは、私の方の責任かもしれない、との疑念を述べた。

しかし、また別の格言に邂逅して、やはり私の元の考えが間違いではなかったことを確認した。この点について述べよう。

何回か、このブログでも述べたように私は学生時代からドイツの哲学者・ショーペンハウアーに惹かれている。彼の哲学に心酔している訳ではなく、そのメリハリの効いた文体に魅了されている。彼の文体は確かに多少ごつごつしている感じはするが、論旨が明確な上、巧みな比喩や警句で読む人を惹き込んむ魔力に富む。一言でいえば、華やかさを感じさせる。

彼のエッセーの『読書について』(Ueber Schriftstellerei und Stil)では、例のごとく、目の敵にしていた哲学者たち(ヘーゲル、フィヒテ、シェリング)は凡庸な上に『唐人の寝言』のような文章を書きなぐるとけなしている。そして、多分自分の文章を念頭に置いているのであろう、次のように言う。
『読者の誰もが理解できないように書くほど容易なことはない。それに引きかえ、高尚な思想を誰もが理解できるように書くほど難しいことはない。。。ちょうど、ホラティウスが言い表しているように。。。』
Und doch ist nichts leichter, als so zu schreiben, daß kein Mensch es versteht; wie hingegen nichts schwerer, als bedeutende Gedanken so auszudrücken, daß Jeder sie verstehn muß. ... und bestätigt allezeit den Ausspruch des Horaz:



このように言ってから、ホラティウスの次の句を引用してこの節を締めくくっている。
Scribendi recte sapere est et principium et fons. [De arte poetica, 309]
 考え抜くことが、優れた文を書く基本であり、源泉でもある。
 英訳:Knowledge is the prime source of good writing.
 独訳:Die Weisheit ist Grundlage und Ursprung des guten Schreibens.

私の考えるところ、ショーペンハウアーがホラティウスのこの句を引用して言いたかったのは、次の点にある。
『文章が分かりにくいのは、まだ考えが練り足りないからだ。徹底的に考えると、必ず分かりやすい表現に行きつくはずだ』

いやしくも物を書いて自分の考えを世の中に知らしめようとするなら、透徹した考えを、読者の誰でもが理解できるように表現する義務があるというのだ。徹底的な思索と平易な表現、このどちらも欠かすことができないというのがショーペンハウアーの主張であった、と私には彼がこう言っているように聞こえる。こう考えると、日本で初めて本格的な西洋哲学の授業を行ったケーベル博士は、ショーペンハウアーの愛好者でもあったことから、西田幾多郎に対するネガティブな評価も、故なしとしない。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第42回目)『モナリザの沈黙と恥じらい』
 沂風詠録:(第84回目)『私の語学学習(その18)』
 百論簇出:(第93回目)『ケーベル博士曰く、ソクラテスは最大の教育者、の意味』
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想溢筆翔:(第70回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その5)』

2012-05-20 15:01:03 | 日記
 『1.05  盗人が盗品を返すまで悠然と待ち構える。』

『大人の風(ふう)あり』とは、中国の人物評にしばしば現れる言葉である。(このコンテキストでは大人は『おとな』ではなく、『たいじん』と読む。)しかし、この言葉は、日本ではあまり聞かない。何故だろうか?

この理由のひとつは以前のブログ
 百論簇出:(第43回目)『陽明学を実践する前にすべきこと』
でも述べた、次の点にあると私は考える。
。。。このように見てくると、陽明学の特徴が、『真誠、猛進』にあることが分かるが、これは実は中国では、『青い』とけなされている性情なのだ。中国人は所謂、老獪を評価する心情を持っている。それを表すのが、『唾面自乾』と『韜晦無露圭角』という言葉だ。いずれも耐えてチャンスを伺えという趣旨である。このような国民性の中国人には陽明学の性急な行動力は逆に胡散臭く写ったといえよう。しかし、あるいはそうだからこそ、この性急な行動力が日本人の心情にフィットして、陽明学がもてはやされるのではないか、と私は思っている。。。

中国人は老獪をポジティブに評価するのに対して、日本人は『真誠』を評価する。大人というのは、この老獪をよい意味で漂わせている人である。次の語句も大人が持つ風格を表現している。
 『水至清則無魚、人至察則無徒』(水、至って清ければ則ち魚なく、人、至って察ならば則ち徒なし)

つまり、『清らかすぎる水辺にはプランクトンや水草が生えないので魚が棲めない、それと同様、人もあまりにも厳格すぎると人が集まらないのでリーダーとしては失格だ』ということである。

この言葉は一見すると、無為自然を標榜し、人為を否定的に見た老荘の言葉であるように思われるかもしれないが、実は、儒教の書である『孔子家語』に由来する。両派とも、中国人としての共通認識として大人の風格を称揚するのだ。



大人の風格の実例を唐の宰相、裴度に見てみよう。

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資治通鑑(中華書局):巻243・唐紀59(P.7848)

裴度が役所(中書)の長官であった時、部下が官印が無くなっていると慌てて知らせにきた。それを聞いた周りの者は真っ青になったが、裴度は落ち着いて酒を飲んでいた。暫くして、また部下が『官印は見つかりました。』と言ったが裴度は返事をしなかった。ある人がその理由を問うと、裴度がいうには、『官印は小役人が勝手に証書に官印を押すために黙ってもちだしたに違いない。いそいで探せば盗みがばれるのを恐れて川に投じるか、燃やしてしまうだろう。じっと待っておれば、用事がすめば元の所に返すものだ。』それを聞いた人は裴度の『識量』に感服した。

裴度在中書,左右忽白失印,聞者失色。度飲酒自如;頃之,左右白復於故處得印,度不應。或問其故,度曰:「此必吏人盜之以印書券耳,急之則投諸水火,緩之則復還故處。」人服其識量。

裴度、中書にあり。左右、たちまち印を失えりともうす。聞く者、色を失う。度、酒を飲むこと自如たり。しばらくして、左右、復た故処に印を得たりともうす。度、応えず。或るひとその故を問う。度、曰く:「これ必らず、吏人のこれを盗み、もって書券に印するのみ。急げば、則ち、これを水火に投ぜん。緩くすれば、則ち、復た故処に還えさん。」人、その識量に服す。
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裴度は人間(というより中国人)の心理をよく読んでいる。つまり、官印を盗んだのは何らかの後ろめたい理由でこっそりと官印を押す必要があったからだと即座に理解した。これは、日本の現行の刑法では『公文書偽造』という罪に当たろう。しかし、裴度は敢えて犯人を捜さず、軽犯罪はむしろ見過ごす方が、よいとが判断したのであった。

私が指摘したいのは、裴度のこの態度を当時の人たちが『識量あり』とポジティブに評価した、という事実である。現在の日本であれば、法律上あるいは道義上、上司としての監督責任が問われるような姿勢が唐代の中国では逆に尊敬を集めたのである。

私は、この相反する評価を、単に時代や国柄が異なるだけだ、と切り捨てるべきではないと考える。というのは現在の日本の政治形態(民主主義や法治主義)が必ずしも最善ではない以上、人としての正しい生き方を考えた場合、現在の法秩序から見て過去の行為がたとえ違法だとしても、それは必ずしもその行為自体が悪い訳ではないことを理解すべきだ。このような事例に出会った場合、一旦は現在の価値観や法体系から離れて、過去の人々が下した価値判断に耳を傾け、本来的に人はどう行動すべきかを考える必要があると私は思っている。

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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想溢筆翔:(第69回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その4)』

2012-05-17 22:01:30 | 日記
 『1.04  目の前に矢が飛んできても顔色を変えず。』

リーダーの資質のひとつとして、しばしば『沈着冷静』が挙げられる。これに異論を唱える人はいないであろう。しかし、沈着冷静でなければいけないと観念的には分かっていても、いざ実際の場面でどういう行動をとればよいのか、具体的なイメージがわかないであろう。

論語や孟子のような経書からは残念ながら、具体的な例を引き出すことは難しい。しかし資治通鑑のような史書では具体例が数多く載せられている。

資治通鑑から『沈着冷静』の例を3つ紹介しよう。

光武帝をたすけて後漢の建国に貢献した王覇は蘇茂や周建の大軍と対峙していた。数では押されていた。しかし、壮士数十人が決死の覚悟で敵の後背を衝いたため、敵は慌てふためき退却し、双方とも兵を引き上げた。しかし。。。

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資治通鑑(中華書局):巻41・漢紀33(P.1323)

蘇茂と周建はまた兵を集めて挑戦してきた。王覇は陣地を固めて守りに徹し、兵士をあつめて宴会を開いた。蘇茂は矢を雨のごとく放った。一本の矢が王覇の目の前の酒樽に命中したが、王覇は全く動ずる様子を見せなかった。将校たちが『蘇茂は昨日負けているので、今撃ってでれば易々と勝てる』と口をそろえて言った。王覇は『そうではない。蘇茂の援軍は遠くからきて食べ物がない。それで何度も挑発し、すこしでも勝機を見出したいと考えている。今は、陣地を固めて兵を休めるのがベストだ。これが『戦わずして敵の兵をやっつける』ということだ。』

茂、建復聚兵挑戰,覇堅臥不出,方饗士作倡樂;茂雨射營中,中霸前酒樽,覇安坐不動。軍吏皆曰:「茂前日已破,今易撃也。」覇曰:「不然。蘇茂客兵遠來,糧食不足,故數挑戰,以徼一時之勝。今閉營休士,所謂『不戰而屈人兵』者也。」

茂、建、復た兵をあつめて挑戦す。覇、堅く臥して出ず。まさに士を饗して倡楽をなす。茂、営中に雨のごとく射る。霸の前の酒樽にあたる。覇、安坐して動かず。軍吏、皆な曰く:「茂、前日すでに破る。今、撃ちやすきなり。」覇、曰く:「然らず。蘇茂の客兵、遠来し,糧食、不足す,故にたびたび挑戦し,以って一時の勝を徼えんとす。今、営を閉じ士を休むべし。所謂『戦わずして人の兵を屈する』ものなり。」
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三国志の呉の武将、呂蒙は、若いころは全くの勉強嫌いであったが、後年は見違えるほどに学問に精通した。その成長ぶりに感嘆した魯粛に対し、『士別三日、即更刮目相待』(士、別れて三日なれば、即ち、刮目して相い待つべし)と言い放った。さて、赤壁での戦いや、豪傑の関羽を討ち取るなどの功績を挙げた呂蒙だったが、43歳の若さで死の床につくことになった。孫権に後継者を聞かれた呂蒙は朱然を推薦した。孫権は朱然に江陵を守備を命じたが、そこに魏の曹眞が攻めてきた。

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資治通鑑(中華書局):巻70・魏紀2(P.2211)

曹真らが江陵を囲み、孫盛を撃ち破った。呉王・孫権は諸葛瑾を出動させ、囲みを解こうとしたが却って夏侯尚に負かされ退却した。それで、江陵城の中外の連絡が途絶えてしまった。城中の多くの兵士は皮膚病に罹ってしまい、戦える兵はわずか五千人にすぎなかった。曹真は城壁の周りに土山を築いたり、地下道を掘り、土山には塔を建て、そこから雨のごとく矢を射った。城内の兵士は真っ青になったが、朱然は落ち着きはらって平気な顔をしていた。兵士を励ましながら、チャンスを見計らい、出陣して敵の二団を打ち破った。

及曹眞等圍江陵,破孫盛,呉王遣諸葛瑾等將兵往解圍,夏侯尚撃卻之。江陵中外斷絶,城中兵多腫病,堪戰者裁五千人。眞等起土山,鑿地道,立樓櫓臨城,弓矢雨注,將士皆失色;然晏如無恐意,方吏士,伺間隙,攻破魏兩屯。

曹真等の江陵を囲み,孫盛を破るにおよび、呉王、諸葛瑾等の将兵を遣わし往いて囲みを解かしめんとす。夏侯尚、撃ちてこれを卻く。江陵の中外、断絶す。城中の兵に腫病、多し。戦いに堪える者わずか五千人。真ら土山を起こし,地道を鑿り,楼櫓を立て城に臨む。弓矢、雨のごとく注ぐ。将士、皆な色を失う。朱然、晏如し恐意なし。方に吏士をまし,間隙を伺い,攻めて魏の両屯を破る。
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南北朝と言えば、日本では14世紀、室町初期の60年弱の時代を言うが、中国では、5世紀中ごろから6世紀末にかけての約150年間、華北一帯と揚子江一帯の地域で、北は鮮卑族が支配し、南は漢人が支配して対立した時代を指す。

その南朝の宋から梁にかけて活躍した軍人に楊公則がいる。まだ子供(弱冠)のころ父親と出陣したが、父親が戦死した。それで父の死骸を棺桶に入れ、背負って故郷まで歩いて帰ったという逸話がある。(南史、巻55:楊公則斂畢、徒歩負喪歸郷里、由此著名。)

楊公則が斉の東昏侯(本名:蕭宝巻)と対戦している時のことである。

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資治通鑑(中華書局):巻144・ 齊紀10(P.4501)

楊公則が領軍府の砦の北楼を占拠して南掖門にある敵と対峙した。或るとき見張り台の上って戦いを望見していた。城中の兵が、楊公則の上の大きな日傘を見て、大きな弩で矢を射かけてきた。矢が楊公則の腰掛を貫いた。周りの者は青ざめたが、楊公則は『すんでのとこで、わしの足に当たるところだったわい!』と笑い飛ばした。

楊公則屯領軍府壘北樓,與南掖門相對,嘗登樓望戰。城中遥見麾蓋,以神鋒弩射之,矢貫胡牀,左右失色。公則曰:「幾中吾脚!」談笑如初。

楊公則、領軍府の塁の北楼に屯し、南掖門と相対す。嘗て、楼に登りて戦いを望す。城中、遥かに麾蓋を見,神鋒弩をもってこれを射る。矢、胡牀を貫く。左右、色を失う。公則、曰く:「ほとんど吾が脚にあたらんと!」談笑、初めのごとし。
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日本の例を挙げると、よく知られているいるように、日露戦争のクライマックス、日本海の海戦では、東郷平八郎元帥は、戦艦三笠に乗り、敵の砲弾を受けるのも恐れず、終始、露天艦橋に立ち指揮を執ったと言われている。

リーダーシップが問われる、切羽詰まった状況において勇猛果敢な行動を起こさせるのは、理屈ではなく胆力である。そしてとっさの判断には、このような先人の行動の例を思い出すことがおおいに役立つであろうと私は思っている。

【参照ブログ】
 通鑑聚銘:(第10回目)『雨射營中、安坐不動』

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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