『1.06 敵に囲まれた危急事態でも部下と労苦を共にする。』
ドイツへの旅行者の多くは、ロマンティック街道にあるローテンブルクを訪問するだろう。そして、分厚い城壁をくぐり街中に入り、落ち着いた中世の佇まいにうっとりとすることであろう。しかし、先ほどくぐった城壁は何も情緒を醸すための飾り道具などではなく、市民の命と全財産が懸っていた最後の防御壁であったことを思い起こすと感じ方も異なるはずだ。
ローテンブルクに限らずヨーロッパの都市はたいてい城壁に囲まれている。城壁はヨーロッパのみならず、中東、インド、中国、朝鮮など、かつての文明国の都市には必ず見ることができる。文明国でありながら、都市に城壁が無かった国は日本ぐらいなものだ。
日本では、都市全体を城壁で守るという発想は昔から無かった。遣唐使で数多くの日本人が中国や朝鮮の地で城壁を目にして帰ってきたはずなのに、日本では城壁のある都市が作られたことはなかった。
中世になって、城という戦士の館だけが、濠や石垣で守られるようになった。城壁は大阪城や熊本城のように壮大さを誇示するために特別に念入りに作られたのを除いては恒久的な耐久性は乏しかったように思える。例えば、太平記の一つの見せ場である、千早城の攻防では城壁の堅固さで防衛したというより、楠正成の奇想天外の策略によって鎌倉軍が攻めあぐねたにすぎない。
一方、ヨーロッパや中国の城壁が堅固で聳え立つばかり高さを誇っているのは、城内の何千人、否、何万人もの生命や財産を守るためである。戦争ともなれば、都市が丸ごと攻撃されるので、戦闘員であろうと、一般民のような非戦闘員であろうと関係なく生命の危機にさらされるのだ。その為に、城壁はどのような攻撃にも耐えるように強固に作られている。それで攻める方も攻城道具の準備にも時間がかかる上に戦死者も極めて多い。孫子の兵法にあるように城を直接攻めるは最後の策なのだ。
つまり城攻めと言えば、その周りを取り囲み、外部からの食糧、情報を遮断し、兵糧攻めにするのが一般的だ。ローマの例を挙げれば紀元前52年にカエサルのガリア遠征に行った折、アレシアの山上に立てこもったウェルキンゲトリクス(Vercingetorix)の軍を全長21キロメートルもの濠で取り囲こんだ。数か月にわたる攻防のすえ、ようやく相手を降伏させることができた。
中国でも、BC284年、燕の将軍・楽毅が斉に侵攻した時に、斉の70余城は早々と陥落したが、ただりょと即墨だけが残った。即墨を守っていた斉の将軍・田単は防御に徹した。数か月の包囲に燕軍の気が緩んだすきをついて、夜中に牛の角に松明を燃やして城壁から放つと、燕の軍は大混乱に陥った。その混乱に乗じて城内から斉の壮士5000人が敵陣に切り込み、ようやくのことで勝利を収めることができた。
籠城では、包囲が数か月や、長い時には数年にわたるため、やがて食糧や水がなくなってしまう。この際の困窮を表現する慣用句が『易子而食、析骨而炊』(子をかえて食し、骨を折りて炊ぐ)である。つまり、食べ物がなくなって、仕方なく、自分の子供と他人の子供を取り換えて、殺してその肉を食べ、また煮炊きするための薪がないので、死人の骨を燃やす、という意味である。目も向けられないような地獄絵がかつては本当にあったのだ。
食べものだけでなく、飲み水もなくなるが、どうするのだろうか?雨水をためて飲むというのが一般的だが、究極のケースでは馬の糞汁を絞って飲むということもあったようだ。
参照ブログ
通鑑聚銘:(第23回目)『馬糞汁を飲み、籠城に耐える』
通鑑聚銘:(第24回目)『半年の籠城に耐えた26人、漢土を踏んだのは13人』
いずれにせよ、籠城のような時には、リーダーは指導者としての力量が問われるだけでなく、部下と同レベルの労苦を分かち合えるか、という不屈の忍耐力も問われる。
ドイツへの旅行者の多くは、ロマンティック街道にあるローテンブルクを訪問するだろう。そして、分厚い城壁をくぐり街中に入り、落ち着いた中世の佇まいにうっとりとすることであろう。しかし、先ほどくぐった城壁は何も情緒を醸すための飾り道具などではなく、市民の命と全財産が懸っていた最後の防御壁であったことを思い起こすと感じ方も異なるはずだ。
ローテンブルクに限らずヨーロッパの都市はたいてい城壁に囲まれている。城壁はヨーロッパのみならず、中東、インド、中国、朝鮮など、かつての文明国の都市には必ず見ることができる。文明国でありながら、都市に城壁が無かった国は日本ぐらいなものだ。
日本では、都市全体を城壁で守るという発想は昔から無かった。遣唐使で数多くの日本人が中国や朝鮮の地で城壁を目にして帰ってきたはずなのに、日本では城壁のある都市が作られたことはなかった。
中世になって、城という戦士の館だけが、濠や石垣で守られるようになった。城壁は大阪城や熊本城のように壮大さを誇示するために特別に念入りに作られたのを除いては恒久的な耐久性は乏しかったように思える。例えば、太平記の一つの見せ場である、千早城の攻防では城壁の堅固さで防衛したというより、楠正成の奇想天外の策略によって鎌倉軍が攻めあぐねたにすぎない。
一方、ヨーロッパや中国の城壁が堅固で聳え立つばかり高さを誇っているのは、城内の何千人、否、何万人もの生命や財産を守るためである。戦争ともなれば、都市が丸ごと攻撃されるので、戦闘員であろうと、一般民のような非戦闘員であろうと関係なく生命の危機にさらされるのだ。その為に、城壁はどのような攻撃にも耐えるように強固に作られている。それで攻める方も攻城道具の準備にも時間がかかる上に戦死者も極めて多い。孫子の兵法にあるように城を直接攻めるは最後の策なのだ。
つまり城攻めと言えば、その周りを取り囲み、外部からの食糧、情報を遮断し、兵糧攻めにするのが一般的だ。ローマの例を挙げれば紀元前52年にカエサルのガリア遠征に行った折、アレシアの山上に立てこもったウェルキンゲトリクス(Vercingetorix)の軍を全長21キロメートルもの濠で取り囲こんだ。数か月にわたる攻防のすえ、ようやく相手を降伏させることができた。
中国でも、BC284年、燕の将軍・楽毅が斉に侵攻した時に、斉の70余城は早々と陥落したが、ただりょと即墨だけが残った。即墨を守っていた斉の将軍・田単は防御に徹した。数か月の包囲に燕軍の気が緩んだすきをついて、夜中に牛の角に松明を燃やして城壁から放つと、燕の軍は大混乱に陥った。その混乱に乗じて城内から斉の壮士5000人が敵陣に切り込み、ようやくのことで勝利を収めることができた。
籠城では、包囲が数か月や、長い時には数年にわたるため、やがて食糧や水がなくなってしまう。この際の困窮を表現する慣用句が『易子而食、析骨而炊』(子をかえて食し、骨を折りて炊ぐ)である。つまり、食べ物がなくなって、仕方なく、自分の子供と他人の子供を取り換えて、殺してその肉を食べ、また煮炊きするための薪がないので、死人の骨を燃やす、という意味である。目も向けられないような地獄絵がかつては本当にあったのだ。
食べものだけでなく、飲み水もなくなるが、どうするのだろうか?雨水をためて飲むというのが一般的だが、究極のケースでは馬の糞汁を絞って飲むということもあったようだ。
参照ブログ
通鑑聚銘:(第23回目)『馬糞汁を飲み、籠城に耐える』
通鑑聚銘:(第24回目)『半年の籠城に耐えた26人、漢土を踏んだのは13人』
いずれにせよ、籠城のような時には、リーダーは指導者としての力量が問われるだけでなく、部下と同レベルの労苦を分かち合えるか、という不屈の忍耐力も問われる。