限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第364回目)『漢字は哲学するのに不向き?(前編)』

2024-08-18 11:21:14 | 日記
私は中学時代に英語を学んでから、ずっと外国語関心をもってきた。外国語といっても、別に外国語を専門にしていなかったので、1970年代に学生時代の私にとっては、外国語とは西洋語と同義語であった。中高校では、英語はかなりできた方だが、受験英語で求められるような、発音や細かい文法規則などは覚える気がしなかったので、学内の試験はともかく、一般の模擬テストはさほど良くなかったが、英文読解の力は時間をかければ独力でも伸ばすことができた。

大学に入ってすぐに、第二外国語のドイツ語は当初まったく手を抜いていたので、簡単な名詞の変化形が全く言えず『鬼の高木』にこっぴどく怒鳴られた。それから一念発起してドイツ語文法を完全にマスターしたので、学生時代、工学部に属しながらドイツ語の本ばかり読んでいた。3回生になり専門課程に進学してからも、道路をまたいで教養部に行き、フランス語の授業にも出席して単位を取った。ついでに、ひやかしに取っていたドイツ語会話のクラスが私の運命を大きく変えた。
詳細は:沂風詠録:(第72回目)『私の語学学習(その6)』

その後、幸いなことにドイツに留学でき、プラトンやセネカに強くひかれるようになりドイツ語の本をまとめて数多く購入した。プラトンやセネカをドイツ語で読んでいる時に、文章表現が極めて現代的であることに驚いた。2000年も前の文章でありながら、文章の組み立てや論旨の展開が現代の文章と比べてもまったく遜色ない立派な出来栄えであったからだ。この点は特に、ローマ最大の雄弁家・キケロの文章を読んでいる時に強く感じた。ドイツ留学直後だったので、ドイツ語の読解力は十分あったものの、ラテン語はほんの少ししか分からず、ギリシャ語に至っては「It's Greek to me」のありさまだったので、キケロ(やプラトン、セネカ)の文章表現が素晴らしいのは、もともとの文章がよいのか、それとも現代ドイツの訳者が、現代風に意訳しているためかの判断ができなかった。

ともかく、ドイツ語を通じて知った、西洋古典の名著、とりわけプラトン、セネカ、キケロの原書から著者たちの生の声を聴くと同時にこの疑問を解決したいと強く思うようになった。その思いが実現したのは、それから20年ほど経てからであった。数ヶ月、古典ギリシャ語とラテン語を独習して原書をある程度、読めるようになってからこの疑問が解決できた。それは、私が読んでいるのはたいてい古典ギリシャ語とドイツ語、あるいはラテン語とドイツ語の対訳本であるので、ドイツ語の部分の翻訳を理解してから、原文の対応部を見ると、元の文章がすでに立派な文章であることが納得できたからであった。つまり、西洋語は2000年前にすでに現在でも十分通用する込み入った内容の文章表現を可能としていたのである。



話は変わって中国古典。

私は、ドイツ留学後、工学研究科に進学していたが、ほぼ毎日ドイツ語の本を読んでいた。(とはいっても、誤解のないように言っておきたいが、学期末のテストやレポートを提出し、修士論文作成のために計測器の制作や理論式も導き出していた)ところが、ある時に司馬遷の史記の現代語訳をよみ、中国古典にもはまっていった。荘子は高校時代から好きではあったが、本格的に中国古典を読みだしたのは大学院に入ってからであった。それからドイツ語と漢文で、東西両方の古典を読むことに力を注いぎ、後になって漢文訓読を耳から学ぶことで、たいていの漢文は読めるようになった。
詳細は:沂風詠録:(第90回目)『私の語学学習(その24)』

このようにして、哲学に関しては万全とは言えないまでも、西洋と東洋(中国のこと)の両方のものをそれぞれ原語で読めるようになった。

そこで、哲学そのもの関してではなく、哲学表現に関して東西の古典籍をつらつら比べてみるに、正直なところ中国の思想書・哲学書で使われている哲学表現はかなり曖昧なように思われる。それは、漢文のSyntax(統辞法)が古典ギリシャ語に比べて粗いためである。端的にいえば、単語に時制がなく、複雑な文章を作るには必須の形容詞句がなく、関係代名詞も単純な構造でしかないことがいえる。確かに、漢字は概念を綺麗な語句・表現にまとめあげることはできるが、それは必ずしも概念の内容が明確になっている訳ではないということだ。つまり概念定義をあいまいなまなかっちりとした漢語表現を使うことができるのである。それに反し、ギリシャ語では、とりわけソクラテスでは意味不明の表現などは至って少なく、文法規則に従って語句の明確な意味を理解することができる。

これを思うと、どうしてギリシャで哲学が発達したのかが次のように推察できる。彼らが思想表現に駆使した古典ギリシャ語では指示内容の明確な文章表現が可能であるので、間違いない論理展開が可能となる。それに反し、漢語では多少意味不明や意味曖昧でも、巧みに組合せることによって内容豊富(コンテンツ・リッチ)な文章に仕上げることができてしまうのではなかろうか。

後編では、この推察の是非を実際の文章で確認して見よう。!』

続く。。。
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