本居宣長は言わずとしれた国学者である。当時国学者と言えば、(そもそも文がまともに読み書きできるには)まずは漢文がしっかりできないとなれなかった。従って、宣長も人一倍頑張って漢文を読み込んだはずだ。しかし、どうも漢文の根底に流れている思想が、その内、鼻につきだした。偏執狂の宣長は一旦嫌いだ、と思ったらとことん毛嫌いするようだ。そこから彼の本領が発揮されるのであった。本居宣長の儒教および『漢意(からごころ)』に対する非難は彼が当時の知識階級(武士)が日本本来の優しき心ばえを忘れたことに対する非難であると考える。(現代用語でいうと『グローバルスタンダード』に対する無批判的な盲従を戒めたのである。)
どの宗教、教団(とにかく開祖と言うものを祭っている集団)は全てにおいて開祖そのものの言葉や意図は開祖の死後急激に廃れてしまう定めにある。開祖がふと気まぐれに言ったことも何か深遠、かつ永続的な意図があるかの如く、深読みをしてしまい、それを墨守しようとするところに、教団の堕落が始まるのである。孔子しかり、ソクラテスしかり、ブッタしかり、イエスしかり。教祖自身は非常にオープンなものの言い方をしている。現存の記録に多少の誇張や権威付けがあるのは承知の上で言うとこれら教祖の言動を記録を読む限りでは後世これら教団の狂信的かつ権威主義は感じられない。
本居宣長の意識も儒教の本尊である孔子その人を批判したのではなく、その後の教団活動としての儒教、あるいは中国文化の代表としての儒教を、文化背景の異なる日本人が無批判的に受け入れることの、理性の欠如、という観点からの批判であった。
そもそも中国の歴史を読めば(本居宣長だって当然知っていたはずだが)儒教は官僚になるための一つのポーズ(必需品)であり、中国社会は儒教の掟の埒外にある(本質的に)肉感的、世俗的、快楽的な要素に満ち満ちていたのがよく分かる。そういった現実の中国にとっては儒教の教えというのは、現代的表現をすると高速道路の制限速度の看板程度の意味しかなかったといっても過言ではなかろう。
以上の論点から本居宣長の批判対象は中国という当時の先進国に盲従する日本の指導者階級であったのだ。
このような観点から漢意を排撃し、その代替として『もののあわれ』という概念を持ち出したのが彼一流の論法(レトリック)である。従って、この『もののあわれ』の代表として、世の中では源氏物語を推挙するが、私にはどうも納得しかねる。源氏物語は一言で言ってしまえば、先ごろ映画化された渡辺淳一の『失楽園もどきの不倫物語』である。その上ご丁寧にも、源氏が桐壺帝に犯した不倫の因果応報が柏の宮からはね返ってくるという落ちまでついている。更には源氏亡き後の宇治十帖ではその不倫の落し胤の薫の君と源氏の孫・匂宮が浮舟をめぐって不倫騒動の結果、浮船が自殺未遂を起こすと言うキワドイ話で盛り上げられている。現在もしこれが本当に起こったら、ワイドショーに連日取り上げられること間違いなしの宮家の大々的なスキャンダルである。
本居宣長がこのような筋(プロット)を知りつつそれでもなお源氏物語が日本人の心情を代表する作品だというのであれば、私は納得する。というのは、名のみ高くして、最近はついぞ読まれることのない大日本史には、奈良朝、平安朝の天皇家、藤原摂関家のスキャンダル(醜聞)が思いの他たくさん盛り込まれている。その上、驚くことに、儒教では厳禁されているはずの近親結婚(叔父と姪、叔母と甥、異母兄妹同士)が非常に多く記録されている。つまり、中国文化の輸入総元締めの天皇家自身が儒教を含む中国文明のうち、自分達にとって都合の悪い所は全く無視して、必要なところだけをつまみ食いをし、自国に足りない制度を補った。そして男女関係は古来日本の伝統に則ったおおらかな性的自由(フリーセックス)を享受しているのであった。
客観的に評価すれば、彼らは当時のグローバルスタンダードの選択権は自分達(日本人)にあるという確固とした主体性を持っていたことを物語る。
つまるところ、本居宣長の主張は、『外国文化(グローバルスタンダード)は主体性をもって取捨選択せよ。けっして盲従するな』と言うことと解釈してよいのではないかと私は考える。国学者の平田篤胤は、本居宣長の主張を引き継いで、唐ごころをしきりと批判している。しかし、その著書である『古史徴』では前文を漢文で書いているというのはなんとも皮肉である。もし、意図して漢文で書いたのだとすれば、平田篤胤も『おぬしも相当の悪よのお!』
どの宗教、教団(とにかく開祖と言うものを祭っている集団)は全てにおいて開祖そのものの言葉や意図は開祖の死後急激に廃れてしまう定めにある。開祖がふと気まぐれに言ったことも何か深遠、かつ永続的な意図があるかの如く、深読みをしてしまい、それを墨守しようとするところに、教団の堕落が始まるのである。孔子しかり、ソクラテスしかり、ブッタしかり、イエスしかり。教祖自身は非常にオープンなものの言い方をしている。現存の記録に多少の誇張や権威付けがあるのは承知の上で言うとこれら教祖の言動を記録を読む限りでは後世これら教団の狂信的かつ権威主義は感じられない。
本居宣長の意識も儒教の本尊である孔子その人を批判したのではなく、その後の教団活動としての儒教、あるいは中国文化の代表としての儒教を、文化背景の異なる日本人が無批判的に受け入れることの、理性の欠如、という観点からの批判であった。
そもそも中国の歴史を読めば(本居宣長だって当然知っていたはずだが)儒教は官僚になるための一つのポーズ(必需品)であり、中国社会は儒教の掟の埒外にある(本質的に)肉感的、世俗的、快楽的な要素に満ち満ちていたのがよく分かる。そういった現実の中国にとっては儒教の教えというのは、現代的表現をすると高速道路の制限速度の看板程度の意味しかなかったといっても過言ではなかろう。
以上の論点から本居宣長の批判対象は中国という当時の先進国に盲従する日本の指導者階級であったのだ。
このような観点から漢意を排撃し、その代替として『もののあわれ』という概念を持ち出したのが彼一流の論法(レトリック)である。従って、この『もののあわれ』の代表として、世の中では源氏物語を推挙するが、私にはどうも納得しかねる。源氏物語は一言で言ってしまえば、先ごろ映画化された渡辺淳一の『失楽園もどきの不倫物語』である。その上ご丁寧にも、源氏が桐壺帝に犯した不倫の因果応報が柏の宮からはね返ってくるという落ちまでついている。更には源氏亡き後の宇治十帖ではその不倫の落し胤の薫の君と源氏の孫・匂宮が浮舟をめぐって不倫騒動の結果、浮船が自殺未遂を起こすと言うキワドイ話で盛り上げられている。現在もしこれが本当に起こったら、ワイドショーに連日取り上げられること間違いなしの宮家の大々的なスキャンダルである。
本居宣長がこのような筋(プロット)を知りつつそれでもなお源氏物語が日本人の心情を代表する作品だというのであれば、私は納得する。というのは、名のみ高くして、最近はついぞ読まれることのない大日本史には、奈良朝、平安朝の天皇家、藤原摂関家のスキャンダル(醜聞)が思いの他たくさん盛り込まれている。その上、驚くことに、儒教では厳禁されているはずの近親結婚(叔父と姪、叔母と甥、異母兄妹同士)が非常に多く記録されている。つまり、中国文化の輸入総元締めの天皇家自身が儒教を含む中国文明のうち、自分達にとって都合の悪い所は全く無視して、必要なところだけをつまみ食いをし、自国に足りない制度を補った。そして男女関係は古来日本の伝統に則ったおおらかな性的自由(フリーセックス)を享受しているのであった。
客観的に評価すれば、彼らは当時のグローバルスタンダードの選択権は自分達(日本人)にあるという確固とした主体性を持っていたことを物語る。
つまるところ、本居宣長の主張は、『外国文化(グローバルスタンダード)は主体性をもって取捨選択せよ。けっして盲従するな』と言うことと解釈してよいのではないかと私は考える。国学者の平田篤胤は、本居宣長の主張を引き継いで、唐ごころをしきりと批判している。しかし、その著書である『古史徴』では前文を漢文で書いているというのはなんとも皮肉である。もし、意図して漢文で書いたのだとすれば、平田篤胤も『おぬしも相当の悪よのお!』