限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第35回目)『フランス語も流暢な中国文学者・狩野直喜』

2010-01-05 07:10:43 | 日記
暫く前から、狩野直喜博士の本を読みかけている。購入した10冊の内、5冊読み終えたのだが、まだ5冊残っているが、途中経過としての感想を書いてみたい。

狩野氏は、明治・大正期の京都大学の教授で中国文学が専門であるが、なかなか、どうしてそのような枠に収まる人ではない。中国に関しては専門の文学はもちろんのこと、歴史、哲学など非常に幅広い領域に於いて造詣が深い。さらには、日本のことについても一見識を有する。

私が狩野氏に感心したのは、著書の『支那文学史』に述べられている、中国の文人の評価である。古代(春秋戦国時代~漢)の文人の中で、『荘子、韓非子、戦国策、司馬遷』を非常に高く評価している。私も実は、ずっとこれらの人たちの文章は素晴らしいと個人的に思っていたのだが、現在の中国文学の専門家達からは一向にこの人たちの文章の『こく』を誉める意見が聞かれなかったので、私は自分の評価が間違っているのかな、と訝っていた。しかし、狩野氏の評価を読み、私の感覚が正しかったことを確認でき、非常にうれしく感じた。
(関連ブログ:【座右之銘・15】『行莫大於無悔也』

この背景を考えてみると、狩野氏のように、子供のころに徹底的に幅広く漢文を読みこんだ人は、文学だ、歴史だ、哲学だ、と分野関係なく、全てを読みこなした上で、漢文の味わいというものを体得した人であった。これに反し、大正以降、中国文学者たちは、学問として取り組んだため、中国文学以外のものを素通りして、純粋に耽美的観点から評価するようになったと私には思われる。そういう育ちをしたものだから、純文学以外の夾雑物があるこれらの文章(荘子、韓非子、戦国策、史記)を毛嫌いするようになったのだと、推察する。

更に、狩野氏とそれ以降の中国文学専攻の学者との比較で言えば、狩野氏は、西洋語、とくにフランス語が非常に出来たことである。(京都大学・文学部で同僚であった桑原隲蔵氏も西洋語はかなり読み込んでいる。)つまり、狩野氏は中国一辺倒でないのだ。



現在、私は、授業や個人的な談話を通じて京都大学の文学部の学生達と接触する機会が多くあるが、ほとんどと言っていいほど日本、中国関連の専攻志望の学生は、英語を初めとした西洋語が出来ない、あるいは嫌っている。高校の時に英語ができなかった、という消極的理由で、専攻を東洋に振り向けているのだ。この消去法的傾向は、学生のみならず、残念ながら一部の教官にも見られる。

かつて森鴎外が、『日本人とは、漢文だけできる、あるいは西洋語だけできる人を言わない。そういう人はニッポンジンではなくイッポンジンだ。日本人は須らく、両方をマスターすべし』と言ったと伝えられる。西洋語ができないということは、日本や中国・韓国のことをグローバルにアピールする手段を持たないということになる。これは、単に日本の損失であるだけでなく、日本文化の特性を世界が受容できない、という点を考えると、世界の大いなる損失でもある。私は、日本および中国・韓国を専攻する人たちは逆に英語などの西洋語で発表し、グローバルな視点で、我々東洋の特質、長所、短所を議論してもらいたいと念願している。

今後中国経済が日本を抜いて世界第二になり、通商問題、エネルギー問題、人権問題、環境問題、のいずれにおいても中国の動向が世界の注目の的になる。そうすると当然のことながら、中国とその近隣の日本を含むアジア諸国の動向がグローバルな視点で議論されるようになる。その時に日本、中国、韓国の文化に詳しい日本人の専門家が蚊帳の外でただただ傍観していて、発言する言葉をもたないとは、なんとも情けない話だと私は思うのだが。。。
コメント
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