限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

『ベンチャー魂の系譜(10))-- Part2』

2010-01-10 14:06:56 | 日記
【ベンチャー魂の系譜 10.昭和のベンチャー】

本クラスの議論を別の学生がまとめたものを掲載する。取り上げた起業家は同じく次の5人
1.安藤百福
2.本田宗一郎
3.石橋正二郎
4.小林一三
5.竹鶴政孝

同じクラスの内容でも、前回のものとかなり印象が異なり、議論が活発に行われている様子がわかる。

 *************************

モデレーター:セネカ3世(SA)
パネラー: ゑとせとら、 ソフィ       

(SA)図書の紹介も兼ねて、昭和のベンチャーの人物の略歴などを紹介しながら、冒頭にいろいろ雑駁な話をした。
 =========================                 
ベンチャー企業は100社に数社ぐらいしか成功しない。その他のベンチャーは、もし倒産すれば、悲惨な目にあうことも多い。

ベンチャーを起こすのに自分がむいているかどうかを見極める必要がある。重要なのは、ベンチャーを起こすことではなく、常にチャレンジ精神をもち、自分の確固とした信念を培い、積極的に発言することである。

松岡正剛「千夜千冊」を紹介した。この中で日本創業者列伝明治~昭和に関しての実業家の本がいろいろと紹介されている。(第千百三十四夜【1134】2006年4月17日

本田宗一郎(~1990後半)と藤沢武夫2人は性格が違っていたから補完ができて成功した。

竹鶴(ニッカ)、1980年ごろ、ドイツでは、サントリーのウィスキーは品質チェックに不合格で輸入できなかったという噂があったが、ニッカは輸入できた。ニッカの方が良心的な作りであったように感じる。

小林一三阪急グループの創業者・・・宝塚を作った。もとは山梨県の生まれ。

和田一夫 -- ヤオハンの創業者。中国に進出して倒産してしまった。 1990年ごろ、NHKの朝のニュースで、香港の港の豪華なヨット上でインタビューに応じていた。ヤオハンが潰れてからも、こせこせせずに堂々と生きていた。
講演で、「ヤオハンを弟に任せたが、自分のチェックが甘くて、失敗したしまった」と言って後悔で涙ぐんでいた。
その後九州に活動の拠点を移した。現在は、香港へと移している。
「人はいくらでもたちなおれるんだ」
母は有名な「おしん」。(視聴率60%!)

カーネギーメロン時代の体験談 -- 新聞を1ヶ月まとめて読むときに、最新の日付の新聞から読むと、結論がわかっているから、物事の推移が非常に良く見える。逆転の発想。

当時(1983年/1984年)、東京で雪が7cmしか積もってないないのに、東京の交通網が麻痺するというニュースを読み、唖然とした。アメリカやヨーロッパでは平気なのに、と思った。

 =========================                 



Q.このテーマを選んだ理由は?
(ゑとせとら):昭和の時代というのは、人たちは人々が前を向いて過ごしていた。身近な時代なので、どうしてそういう風に前向きに生きてこれたのかに、興味があった。
(ソフィ):車(本田宗一郎)と酒(竹鶴)に興味があったので。父方の祖母が竹鶴と同郷の広島。

(SA)今回のテーマ・・・「ニッポンの国際化」をこれらの事業家はどのように達成していったか。

松下幸之助は企業家としては、大いに尊敬できるが、ベンチャー魂という点では、他の人の方に比べて弱い。その理由で、取り上げない。

【1.安藤百福】
安藤日清食品の創業者。カップヌードルなどのインスタントラーメンを開拓した。

Q. なんで食品事業に志したのか?
A.もとは繊維業。戦後資材がすべて焼ける。戦後の食品不足の時代に食品の重要さが身にしみた。

Q.なぜラーメン?
A. GHQ下で西洋化が進んでいるのに対抗し、東洋の文化である麺類を進めた。

Q.なぜうどんじゃダメなの?というテーマを議論した。パネリスト、聴衆、からいろいろな意見が出た。
A.当時手に入る小麦はラーメンが合ったのではないか。
添加材料(かんすい)が手に入りやすかったから。
乾麺だから保存がきく。
ラーメンは高速に作れる。
ラーメンは麺類の王道じゃないか!
ラーメンはアレンジがきくしカロリーが高めだし。
うどんよりラーメンのほうが腹持ちがいい!

Q.チキンラーメン発売とラーメンブームのどちらが先だったか?
A.やっぱりチキンラーメンのほうが先じゃね?

(SA)学生時代には、一乗寺にはラーメン屋はほとんど何もなかった。やっぱりチキンラーメンのほうが先で、それが引き金となってラーメンブームがおこり、次いでおいしいラーメンのブームが到来したような経緯だと思う

(SA):学生にくだらない意見でもともかくも、何かを考えて発言することが重要というために、次のような話をした。
『トムとジェリーの中に入っているアイデアってすごい。くだらないかもしれないアイディアを、ともかくたくさん考えて、頭を回転させることが重要。』

(ゑとせとら)インスタントラーメンを作る苦労。ラーメンの乾燥が難しい。とくにカップヌードルが難しい。カップを構成する素材が何がいいかを最初から検討した。発泡スチロールがいいのではないかと、気がついた。

Q.誰が発泡スチロールに考え付いたのか?
A.米国で文化の壁を感じたから。日本ではチキンラーメンのコピー商品が飽和した。アメリカに売出してみた。けどアメリカにはどんぶりがなくって変なくい方していた。たまたまアメリカ人が発泡スチロールを使っていたのを利用した。

Q.また、カップの形はなんであの形になったのか?
A.紙コップの形をしていることでいくつかの利点がある。先細りの形をしているので麺が浮かんでお湯のまわりがよくなるそうだ、と実験でわかった。また、容器の中に浮いていることで、輸送時にも割れにくいと分かった。

Q.カップヌードルの具にはどのような工夫が盛り込まれているのか?
A.「砂漠の食物」のようなもの・・・砂漠の生き物が水がきたときに急に膨らむ という性質を達成させている成分をエビ、ネギなどを乾燥させる時に加えている。

【2.本田宗一郎・藤沢武夫】
静岡県浜松市出身。自動車産業が強い地方である

Q.なぜ中部地方(浜松、豊田)で本田やトヨタ、ヤマハ、カワイ、などの機械産業が輩出したのか?
A.立地的に安くて東京に近い。
タイヤの実験するには高地が便利だという意見→でも、タイヤの製造は福岡(ブリジストン)という反駁がでる。
(石油コンビナートの関係)海に近いから輸送に便利であるから
静岡には東海道が通っているので日本各地に運べるから。
工業製品には水が必要だが、あの付近では結構地下水が豊富。
渋沢栄一が静岡にいろいろと事業を設立したため。

(SA)室町時代から、中部地方には、刀鍛冶などの金属加工技術が発達していた。それが、鉄砲の伝来以降、更に磨かれ、ついには、からくり人形を専門に作る職人が集まってきた。本田、トヨタ、河合楽器などは、これら手作りの伝統を引き継いだ。

【3.石橋正二郎】
ブリジストンの創業者。石橋財団など。

Q.タイヤ事業を始めたきっかけは?
A.仕立て屋と足袋製造を持っていた。しかし仕立て屋は事業拡大ができないのでたたんだ。次に何をするか考えているうちにタイヤ産業がいいと思った。(1930年代のこと)これからモータリゼーションの時代だと考えた。戦争が始まったためバカ売れした。炭鉱夫、農夫が利用する地下足袋にはゴムが必要なため、ゴムの技術が高まった。

(SA)ブリジストンは約30年前にファイアーストーンという会社を買収し、世界進出を開始した。当時の世界のタイヤメーカーはグッドイヤー・ミシュラン・ファイアストンの時代。ブリジストンは当時純利益1000億円台の時代。それで、落ち目になっていたファイアストンを買収した。しかし、買収直後にフォードにつけていたファイアストンのタイヤが死亡事故を起こしたことで、多額の賠償責任を負わされた。当時は、誰もがブリジストンの没落を危惧したが、ブリジストンは辛抱し、見事勝った!!!

(SA)日本の国債の話。現在、一人頭、800万円以上の債務を負っている。民主党もこれを解決できない。

【4.小林一三】
アイデアマン。もとは小説家志望。考えることがすきだった。阪急グループの創業者。アイデア商法。
1873年、山梨県の裕福な農家の下に生まれる。うだつのあがらない銀行員→証券会社→鉄道会社→起業出身は慶応大学。

Q.彼はなぜ関西に来たのか?
A.東京は鉄道が飽和状態、関西を切り開くぜ、という意欲に燃えていたのかも。
証券会社をやるなら近畿がいいぞ!という噂を聞いた。しかし当時のミニ恐慌のため証券会社を作れなかった。妻子を養うためにつてをたどって電車にいった。(消去法的)なぜ鉄道に?→銀行の仕事が好きでなかった。

(SA)普通大成功した人は最初からちゃんと道筋を決めているように見える。しかし本当はふらふらしていて、結果的に成功した人もけっこう多いものだ。

(ソフィ)銀行員時代は会社をずる休みまでしていたぐらい、うだつの上がらなさであった。

(SA)小林一三は慶応大学出身者で、いろいろなすばらしい人に好かれた。人に好かれる事は人生において重要なファクターである!人の輪をつくってそこに好かれるのは重要だ。そのためには、Give & Takeの関係をどうやって作るかは社会人としては重要なこと。

(ゑとせとら)住宅ローンのシステムを始めた。都市では住宅を借りるしかなかった時代。「普通のサラリーマンでもマイホームがもてるようになった!」

(SA)当時家をもつことでえられるステータス:商売をしているOR大金持ちのみ。当時の社会状況は使用人とかも多かった時代。明治時代はまだ士農工商の意識が根強く残っていて、階級の格差が激しい。7割の人は持ち家ではなかった。

(ソフィ)大家と店子があり、店子は家を持てる身分ではなかった。阪急は箕面とかいうものすごい田舎だった。副業として家とかを売れれば収入あがる。

(ゑとせとら)「乗客は電車が創造する」電車に乗る人々にサービスを提供していくことで、どんどん儲かってゆく。

(SA)東京版小林一三 ・・・五島慶太(東急)。小林一三と似たことを行っている。小田急を買収。田園調布に高級住宅街を作る。(宝塚のモノマネ)
堤康次郎(西武)もいる。

(SA)堤はかなりの数の妾を囲っていた(艶福家)といわれている。現在の小市民的な評価基準でこのような大企業家の評価をすべきではない。

(ソフィ)小林一三の最後:商工大臣に就任。(第一次近衛内閣)その後、GHQによる公職追放。「宝塚とブレーブスは俺が死んでも売るな!」ブレーブスは売られちゃったけどね。 60年代、70年代に電車業界はすこしずつ落ちていった。

(ゑとせとら)小林一三のアイディア電鉄を利用して都市開発を行い、相乗効果を狙った。

【5.竹鶴政孝】
1894-1979 明治末から昭和半ば。広島県。家業は酒造業。卒業後、摂津酒業で洋酒を作り始める。
当時の洋酒消費は全体の10%未満のはず。

Q.なぜウィスキーに取り組んだのか?
A.洋酒の王様だから。通はウィスキーでしょ!!

(SA)幕末に来日したペリーとかハリスは、日本人をもてなしたときに葡萄酒を出していた。日本人はワインを好んで飲んだと記録に残っている。ウィスキーは記録にはあまり出てこない。

(SA)ワインを作るのは難しい。日本の土地には合わない。ワインは皮についてる酵母を利用しているため、土地柄で味が決まる。ぶどうは同じ場所でも数m離れるだけで味がちがうと言われる。

(ソフィ)スコッチウイスキーを研究しにグラスゴーへ行く。現地に2,3年いた。現地で結婚し、子供が生まれる。(当時の国際結婚は反発がおおきかった)同じ境遇にあったひとに、新渡戸稲造がいる。森鴎外も。
鳥井信治郎は、ウィスキー作るなら竹鶴がいいと聞いて、雇った。しかし、サントリーは当時、ウィスキーは作っていず、赤玉ポートワインを作っていた。(砂糖とかのまぜものをいれてた)サントリーに入って、6年後にサントリーウィスキー「白札」をつくるが、日本人の口にあわず失敗。経営不振に陥り、ビール事業を手放す。
1930年にコトブキヤを蹴って別の会社へ。

(ゑとせとら)ニッカの主力工場を北海道の余市に建設。北海道の気候とスコットランドの気候は非常に似ていたので、余市を選んだ。

(SA)竹鶴政孝は工場建設にあたり、本場スコットランドで見た工場を忠実に再現しようとして、レンガをスコットランド輸入するなどのこだわりを見せた。こういった気質であったので、竹鶴政孝はサントリーはウィスキーに力を入れていないと感じ、辞めたと思われる。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする