匈奴は、車師の軍と共同でまたもや、耿恭を攻めた。
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資治通鑑(中華書局):巻45・漢紀37(P.1469)
耿恭は兵卒を励まして、防御につとめた。数ヶ月して、食糧が尽きたので、革製の鎧や弓に巻いている皮革を煮て食べた。耿恭は兵士達は死生を同じくしようと誓いあったので、誰も裏切るものがいなかった。しかし、次々と衰弱して死に、とうとう数十人しか残らなくなった。匈奴の王、単于は耿恭が困窮したのを知り、必ず投降するだろうと思い、使者を送ってこういわせた。『もし投降するなら、王に任じた上に娘をやろう』。耿恭はわざと了解したふりをして使者を招き寄せ、一撃で殺して、城壁の上で、その使者の死体を焼いた。単于はかんかんになって怒ってますます兵を増強して攻めに攻めたが、なんともしても攻め落とすことはできなかった。
恭率士衆御之,數月,食盡窮困,乃煮鎧弩,食其筋革。恭與士卒推誠同死生。故皆無二心,而稍稍死亡。餘數十人。單于知恭已困,欲必降之,遣使招恭曰:「若降者,當封爲白屋王。妻以女子。」恭誘其使上城,手撃殺之,炙諸城上。單于大怒,更益兵圍恭,不能下。
恭、士衆を率して、これを御すること数月,食、尽き窮困す。乃ち、鎧弩を煮て,その筋革を食す。恭、士卒と誠を推し、死生を同じくす。故に、皆、二心なし。しかるに稍稍(だんだん)死亡す。余り、数十人。単于、恭の已困を知り,必ずこれを降さんと欲し、使いを遣りて、恭を招いて曰く:「もし降りなば、まさに封じて白屋王となし、女子をもって妻(め)あわさん。」と。恭、その使を誘いて、城に上らせて、手づからこれを撃殺すし、諸城の上に炙る。単于、大いに怒り,さらに兵を益し、恭を囲むも下すあたわず。
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この節でひかるのは、『皆無二心』の句だ。というのは、中国の歴史では(そして、我が日本の歴史でも)苦しくなると寝返る者が必ず出てくる。しかし、耿恭の部下の兵士には、そういった者が一人もいなかった。よほど一致団結していたといえる。しかし、そうは言ってもいつまでも食糧がない状態でこの数十人が城を守りきれるはずはない。
別の城で同じように包囲されていた関寵がひそかに救援を求める使者を漢におくることに成功した。連絡を受けた漢の朝廷では、張掖、酒泉、敦煌の三郡などの兵隊7000人を救援に向かわせた。敵をうち破ったあと、ようやく范羌が耿恭の城に大雪の夜に到着した。
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資治通鑑(中華書局):巻46・漢紀38(P.1475)
夜中に兵馬の声が聞こえたので、籠城している耿恭たちは、てっきり敵襲だと思った。范羌が、城壁の下からおもいっきり叫んだ。『安心してください、私は范羌ですよ。漢の軍をつれてきました。』城の皆は万歳を唱え、門を開け、お互いに抱き合って泣いた。翌日、迎えの兵と共に帰路についたが、またもや敵が襲ってきたので、戦いながら行軍しなければいけなかった。兵達はもともと衰弱していたので、城を発った時は26人いたのが、玉門に帰り着いた時には、わずか13人に減っていた。衣服も履(くつ)もあなだらけで、その姿といえば、立ち枯れた木のようであった。
城中夜聞兵馬聲,以爲虜來,大驚。羌遥呼曰:「我范羌也,漢遣軍迎校尉耳。」城中皆稱萬歳。開門,共相持涕泣。明日,遂相隨倶歸。虜兵追之,且戰且行。吏士素饑困,發疏勒時,尚有二十六人,隨路死没,三月至玉門,唯餘十三人,衣履穿決,形容枯槁。
城中、夜に兵馬の声を聞き、虜の来たるかとおもい、大いに驚く。羌、遥かに呼びて曰わく:「我は范羌なり。漢、軍をつかわして校尉をむかうのみ。」城中、皆、万歳を称す。開門し、ともにあい持して涕泣す。明日、ついに相い随いてともに帰る。虜兵、これを追う。且つ戦い、且つ行く。吏士、もともと饑困す。疏勒を発つの時,なお二十六人あり。路にしたがいて死没し、三月、玉門にいたるに,ただ十三人のみ余す。衣履、穿決し、形、枯槁のごとし。
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耿恭の軍は、籠城すること半年にもわたった、そして帰路にも生き残りの半数が死亡し、結局13人しか生きて漢の地を踏めなかった。この後、漢は西域に駐屯していた将兵を引き上げることにした。
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資治通鑑(中華書局):巻45・漢紀37(P.1469)
耿恭は兵卒を励まして、防御につとめた。数ヶ月して、食糧が尽きたので、革製の鎧や弓に巻いている皮革を煮て食べた。耿恭は兵士達は死生を同じくしようと誓いあったので、誰も裏切るものがいなかった。しかし、次々と衰弱して死に、とうとう数十人しか残らなくなった。匈奴の王、単于は耿恭が困窮したのを知り、必ず投降するだろうと思い、使者を送ってこういわせた。『もし投降するなら、王に任じた上に娘をやろう』。耿恭はわざと了解したふりをして使者を招き寄せ、一撃で殺して、城壁の上で、その使者の死体を焼いた。単于はかんかんになって怒ってますます兵を増強して攻めに攻めたが、なんともしても攻め落とすことはできなかった。
恭率士衆御之,數月,食盡窮困,乃煮鎧弩,食其筋革。恭與士卒推誠同死生。故皆無二心,而稍稍死亡。餘數十人。單于知恭已困,欲必降之,遣使招恭曰:「若降者,當封爲白屋王。妻以女子。」恭誘其使上城,手撃殺之,炙諸城上。單于大怒,更益兵圍恭,不能下。
恭、士衆を率して、これを御すること数月,食、尽き窮困す。乃ち、鎧弩を煮て,その筋革を食す。恭、士卒と誠を推し、死生を同じくす。故に、皆、二心なし。しかるに稍稍(だんだん)死亡す。余り、数十人。単于、恭の已困を知り,必ずこれを降さんと欲し、使いを遣りて、恭を招いて曰く:「もし降りなば、まさに封じて白屋王となし、女子をもって妻(め)あわさん。」と。恭、その使を誘いて、城に上らせて、手づからこれを撃殺すし、諸城の上に炙る。単于、大いに怒り,さらに兵を益し、恭を囲むも下すあたわず。
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この節でひかるのは、『皆無二心』の句だ。というのは、中国の歴史では(そして、我が日本の歴史でも)苦しくなると寝返る者が必ず出てくる。しかし、耿恭の部下の兵士には、そういった者が一人もいなかった。よほど一致団結していたといえる。しかし、そうは言ってもいつまでも食糧がない状態でこの数十人が城を守りきれるはずはない。
別の城で同じように包囲されていた関寵がひそかに救援を求める使者を漢におくることに成功した。連絡を受けた漢の朝廷では、張掖、酒泉、敦煌の三郡などの兵隊7000人を救援に向かわせた。敵をうち破ったあと、ようやく范羌が耿恭の城に大雪の夜に到着した。
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資治通鑑(中華書局):巻46・漢紀38(P.1475)
夜中に兵馬の声が聞こえたので、籠城している耿恭たちは、てっきり敵襲だと思った。范羌が、城壁の下からおもいっきり叫んだ。『安心してください、私は范羌ですよ。漢の軍をつれてきました。』城の皆は万歳を唱え、門を開け、お互いに抱き合って泣いた。翌日、迎えの兵と共に帰路についたが、またもや敵が襲ってきたので、戦いながら行軍しなければいけなかった。兵達はもともと衰弱していたので、城を発った時は26人いたのが、玉門に帰り着いた時には、わずか13人に減っていた。衣服も履(くつ)もあなだらけで、その姿といえば、立ち枯れた木のようであった。
城中夜聞兵馬聲,以爲虜來,大驚。羌遥呼曰:「我范羌也,漢遣軍迎校尉耳。」城中皆稱萬歳。開門,共相持涕泣。明日,遂相隨倶歸。虜兵追之,且戰且行。吏士素饑困,發疏勒時,尚有二十六人,隨路死没,三月至玉門,唯餘十三人,衣履穿決,形容枯槁。
城中、夜に兵馬の声を聞き、虜の来たるかとおもい、大いに驚く。羌、遥かに呼びて曰わく:「我は范羌なり。漢、軍をつかわして校尉をむかうのみ。」城中、皆、万歳を称す。開門し、ともにあい持して涕泣す。明日、ついに相い随いてともに帰る。虜兵、これを追う。且つ戦い、且つ行く。吏士、もともと饑困す。疏勒を発つの時,なお二十六人あり。路にしたがいて死没し、三月、玉門にいたるに,ただ十三人のみ余す。衣履、穿決し、形、枯槁のごとし。
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耿恭の軍は、籠城すること半年にもわたった、そして帰路にも生き残りの半数が死亡し、結局13人しか生きて漢の地を踏めなかった。この後、漢は西域に駐屯していた将兵を引き上げることにした。