限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

希羅聚銘:(第15回目)『ローマ王政の最後の王、タルクィニウス』

2010-01-02 08:31:48 | 日記
Livy, History of Rome (Livius, Ab urbe condita)

(英訳: "Everyman's Library", Translator: Canon Roberts, 1905)

ローマはロムルスが建国して、王位についてから二百数十年もの間、王が治めてきた。しかし王は常にパトリキ(patricii)と呼ばれる貴族達によって構成される有力者のグループ(英:conscript fathers、羅:patres conscripti) -- 一般的には、元老議員(senatores)と呼ばれている -- と協議して統治してきた。その意味で王政といっても、独裁政権ではなかった、と言える。王政のよしあしはなんと言っても、一人の治世者の資質に大きく依存していることは否定できない。よい資質の持ち主が王である場合は、最良の体制であることは、夙にプラトンも『国家論』で述べているところだ。しかし、そうでない場合は、全国民が惨めな目にあう。ローマ人もこの政体の欠陥には気づいていたに違いないが、実際上その体制を変革しなければいけない、とまでは感じていなかった。しかし、一人の暴君の出現によって体制変革を真剣に考えざるを得なくなった。

ルキウス・タルクィニウスは第6代王であるセルウィウス・トゥリウスの娘、トゥリアを妻にした。ところがこのトゥリアは策略家で、自分の夫をそそのかして、父であるセルウィウスを殺害させた。

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Book1, Section 48

(その上)トゥリアは彼女の馬車で父親の死体を轢いた。

... Tullia per patris corpus carpentum egisse fertur,...

【英訳】 It is said that Tullia,... drove right over her father's body, ...
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このように血塗られたスタートを切ったルキウス・タルクィニウスの王政であったが、本当の恐怖はこれからだった。



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Book1, Section 49

かくしてタルクィニウスの治世は始まった。その政治姿勢から、いつしか『傲慢漢』というあだ名が奉られた。というのは、一つには、セルウィウス・トゥリウスを埋葬することを許可しなかった。建国のロムルスでさえ埋葬されていない、という屁理屈でへこました。更には、セルウィウス・トゥリウスに心情的に近かったと思われる元老院を次々と粛清していった。

Inde L. Tarquinius regnare occepit, cui Superbo cognomen facta indiderunt, quia socerum gener sepultura prohibvit, Romulum quoque insepultum perisse dictitans, primoresque patrum, quos Servi rebus favisse credebat, interfecit.

【英訳】Lucius Tarquinius now began his reign. His conduct procured for him the nickname of "Superbus," for he deprived his father-in-law of burial, on the plea that Romulus was not buried, and he slew the leading nobles whom he suspected of being partisans of Servius.
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こういったことから、このタルクィニウス王は、タルクィニウス・スペルブス(傲慢)王と呼ばれるようになった。そして、元老院を完全に無視して暴走しだした。それでもローマの人々は耐えていた。しかしある事件をきっかけにローマの政体を大きく転換させる事態に発展したのであった。
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