限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第40回目)『歴史の壮大な三角測量』

2010-01-27 23:55:45 | 日記
以前アメリカのイエローストーン国立公園に行った時のことです。夏の終わりにもかかわらず、夕暮れにはすでに、吐く息がまっ白になり、夜はジャンパーなしでは、外は歩けませんでした。ロッジから少し歩くとそこは全くの暗闇です。目が慣れてくるにつれて、満天に天の川が現出し、流れ星が幾つも黄色い筋を引いて暗闇の山のかなたへと落ちていくのが見えました。古代の人達は私と違って、流れ星のようなささいな天体の変異をも真剣に観察し、克明に記録を取っていたようです。中国やギリシャ・ローマの歴史書を読んでいるとよく天文に関する記録に出会います。彼らは天文的事象、つまり日食、月食、隕石、流れ星などが人の隠し事や未来を暗示し、あるいは神の意図を表わすと考えていたからです。残された記録から歴史的な事件が起った日を確定できることがあります。アテネとスパルタが覇権を争ったペロポネス戦争当時シシリー島でアテネ海軍がシラクサ軍に全滅させられる悲劇が起りました。そのきっかけはアテネ軍が出航予定の当日の夜、月食起こったからです。その夜は満月でかつ月食があった、ということからこの事件はBC413年8月 27日と判明したのでした。

また記録には空に太陽が三つ輝いたとか、星が雨の如く降ったとか文面からだけだと信じ難いような現象もあります。しかし、これらの事象は現在の天文学によればまんざら嘘ではなかったと言えそうです。



たとえば1054年7月4日に牡牛座の近くに非常に明るい星が突如現われ、三週間にわたって昼間でも肉眼で見える明るさで輝いたと中国の記録に残っています。

現在この所を望遠鏡で見ると中心部に暗い星がありそれを取り巻くカニ形のガスの雲だけが見えます。それから判断して、このケースは太陽の様に輝いていた星が急に不安定になって、爆発し、明るさが太陽のなんと百億倍!になった超新星爆発だと考えられます。その爆発で星の外側の部分は超高速で飛び去ってしまい、残った核の部分は重力でぎゅっと押しつぶされて小さくなったのでした。

このような深刻な話だけでなく、愉快な話も記録されています。光武帝(劉秀)は若い頃、厳光と一緒に勉強していましたが、帝位につくと厳光は権力に媚びるのを嫌って隠遁してしまいました。光武帝は人相書きをもたせて厳光を『物色』し、ようやく見つけた厳光を宮廷まで連れ帰り、一緒の部屋でごろ寝したそうです。翌朝ミーティングの折、秘書官が慌てたようすで、『昨晩、客星(彗星)が帝坐の領域を侵略しました』と報告したのですが、光武帝はからからと笑って、『昨晩、厳光がわしの腹の上に足を載せたのじゃ』と説明したとか。

ところで私達は、星というのは何光年も遠方(かなた)にあることを知っていますが、星への距離はどのようにして測定するのかご存知でしょうか?いろいろな方法があります。星からの光をスペクトル分析して測定する方法もあります。しかし素人的に一番理解しやすいのは、三角測量の原理を適用した幾何学的方法でしょう。公転している地球が、太陽を挟んで対極にある夏至と冬至の地点を結ぶ直線を底辺として目的の星とを結ぶ壮大な三角形を想像してみてください。

その底辺の二点から目的の星を測定するとほんのわずかですが見える角度(視角)が異なります。底辺の長さとその視角の差から三角形の頂点の角度が計算できるので、三角形の高さ、つまり星までの距離が測定できる、というからくりです。

さて、私は中国やギリシャ・ローマの歴史や書物を読むのが好きですがそれは空間的ではなく時間的に壮大な三角形を描くためなのです。

人としての生き方、社会のありかたなどいろいろな問題を現代人の立場と古代人の立場の両方から多面的に見るための視点を過去の歴史的事実に求めているのです。私達現代人の、それもいわゆる先進諸国の人間の考え方で全てを判断するのは非常に危険です。言うまでもなく9・11事件以降のアラブ諸国と先進諸国の対立などを見てもそうですが、それぞれの民族が正義と考える事が現代の世においてすらこれほど意見が対立するのであれば、本当に正しい考え方をするために視点はもっと広げなければならないと言えます。三角測量のように立体的に測量することで、距離が正しく測定できるのであれば、同様の理屈で時間的なスパンを広げることで一層正しい問題認識ができるのではないかと私は考えています。

ローマの歴史から例をとって説明しましょう。紀元前390年にガリア人が北イタリアから怒涛のごとくローマに進軍してきました。ローマ軍は敗北を重ね遂にカピトリウムの丘の砦を除いて蛮族に占領されてしまいます。カピトリウムの丘は急峻な崖に守られて難攻不落と信じられていたのですが、ふとしたきっかけで敵に抜け道を知られてしまいました。ある晩、ガリア人の決死隊がその崖を攀じ登ってきました。ローマの守備兵は油断して眠りこけ、危うく敵兵が砦に雪崩れ込もうかというその時、食糧不足にもかかわらず殺されずに飼われていた鵞鳥の一群が忍びこんできた敵の侵入に気づき大声を立てたのでした。

その声に跳ね起きたマンリウスは真っ先に駆けつけ敵に当たりました。騒ぎを聞きつけて味方の兵士が次々と駆けつけ、ようやくの事でガリア兵を撃退し、砦を守りきったのでした。さて、問題はここからです。翌朝民会が開かれ、守備兵の怠慢が非難され、全員を処罰すべきだという意見が出されました。しかし反対が多く、結局守備隊長一人だけを処罰することに決着したのでした。隊長は、皆の見守るなか国事犯として、タルペイア崖から突き落とされたのでした。

私はこの部分(リヴィウスのローマの歴史、第5巻・47章)を読んでいた時に傷ましい気分になりました。つまりせっかく敵を退け、皆が祝っているのに一人だけ仲間に殺された、ということに対してです。しかし、古代ローマ人にとって誰もが納得する判決だったという事から、私の考え方、感じ方に彼らと相容れない点があるのだと知らされました。さらに考えて『もしこれが、古代中国で起ったらどうしただろうか?』、と想定問答してみました。想像するに、『夷三族』というもっと重い罰が適用されるでしょう。この刑とは、本人はもちろんのこと両親も含む本人の家族、本人の兄弟が老若男女かかわりなくすべて処刑されるというとてつもなく、酷い罰です。

一方奈良・平安時代の日本だったらどうでしょうか。日本書紀や大鏡などに記載されている事件から類推するに、一度は責任を取らされて島流しにされるものの、数年経てば、何も無かった如くまた呼び戻される、といった非常に温情的な処置がとられると考えられます。例えば、大鏡によると、藤原道長の甥の伊周は道長によって大宰府へ島流しされますが、わずか一年で京に呼び戻されています。時代は下り江戸時代では、本人は遠島、家族は恥を忍んでひっそりと生きるということにでもなるのでしょう。

現代のアメリカだったらどうでしょう。ほとんど間違いなく本人は裁判で無罪を主張するでしょう。陪審制度の下では法の厳正な適用より陪審員の情緒が刑を決めるようです。最後に、現代の日本では本人が改悛の情を示すと、周りの人たちは、今度からしっかりせよ、と励まして終わりかもしれません。

このように、一つの事件に対して、複眼的な視点で考えることで始めて物事が正しく認識できます。そのためには、私達の常識が通用しないような遠い過去の時代、および文化を知る必要があると私は考えます。法体系が現在のように整備されていなかった時代にまさに生死を懸けて行動した人たちの倫理観、正義感、人物鑑定眼などは最近のように価値基準が混沌としてきた時代には改めて見直す必要を感じます。

世間では、従来そして今なお歴史や文学は縦方向(つまり民族別)にしか見ていませんが、私が興味を持つのは歴史を横断的に見た場合の各民族に共通の(つまり人間としての普遍的な)価値観なのです。西洋か東洋の一方しか知らない、あるいは近代のできごとしか知らないでいると言うのは、片目をつぶってボクシングするようなものでまったく立体感、距離感がとれなく、危うい限りです。

古代中国やギリシャ・ローマの歴史書の原典には彼らの価値観を知るのに不可欠な事例が善行も悪行もどちらも数多く記載されています。こういった観点から、現代人が書いた『歴史書もどき』ではなく、当時の人達が当時の価値観で綴った(そして今なお時の流れに超然と屹立している)本物の『史書』を繙く必要性を私は強く感じています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする