後漢の第三皇帝の章帝は、実母ではなく馬太后に養われた。馬太后とは以前この項でも取り上げたあの『賢と謙』の人だ。
章帝は養育してくれた恩に報いようとして、馬太后の親戚(外戚)に封侯(領土と爵位)を与えようとしていたがなかなか言い出せなかった。
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資治通鑑(中華書局):巻46・漢紀38(P.1477)
たまたま日照りが続き、雨が降らなかった。それで、官吏の中で、この日照りは外戚に適切な領土を与えなかったせいだ、と言い出す者が現れた。それを漏れ聴いた太后はそれに反発してこういった。『こういう事を言い出す者は、私にとりいろうとする下心のある連中だ。昔は王氏の伯叔父が同日に封ぜられた時には、黄砂が天一面を覆ったと聞いたことはあるが、それで雨が降ったとは聞いたことがない。そもそも、外戚が威張って王朝が安泰だったことはない。それで、先帝の明帝は自分の伯叔父を要職に授けなかったではないか。。。』
會大旱,言事者以爲不封外戚之故,有司請依舊典。太后詔曰:『凡言事者,皆欲媚朕以要福耳。昔王氏五侯同日倶封,黄霧四塞,不聞注雨之應。夫外戚貴盛,鮮不傾覆;故先帝防愼舅氏,不令在樞機之位。。。』
大旱に会う。事を言う者、おもえらく、外戚を封ぜざるが故なりと。有司、旧典に依らんことを請う。太后、詔して曰く:『およそ、事を言う者、皆、朕に要福をもって媚んと欲すのみ。昔、王氏の五侯、同日、ともに封ぜらるも、黄霧、四塞し、注雨の応を聞かず。それ、外戚、貴盛にして傾覆せざることすくなし。ゆえに、先帝、舅氏を防慎し、枢機の位にあらしめず。。。』
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馬太后が例にひいた五侯とは、前漢の成帝が母・孝元皇太后の伯叔父、五人を同日に一度に封じたことを言う。(五人同日封,故世謂之「五侯」)この五侯以来、王氏の勢力が強くなり、ついには、王莽が漢の王朝を簒奪して新を建国することになる。その二の舞にならないように、と馬太后は章帝を固く諌めたのであった。
中国では伝統的に、自分の論理を強めるには、単にロジックやレトリックだけでなく、必ず典故を引用するのが好まれた。というより重要視された。この伝統は現在の中国でも脈々と息づいている。典故を持ち出して相手を説得するのが、水戸黄門の印籠に匹敵することを、残念ながら、ほとんどの日本人は知らずにいる。この意味で、私は漢文を理解することの方が、現代中国語を知るよりもはるかに重要だと考えている。
さて、章帝は今度は泣き落とし作戦に出た。
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資治通鑑(中華書局):巻46・漢紀38(P.1478)
章帝は、その詔を見て、嘆き悲しんで再度、太后に頼んだ。『伯叔父を封ずるのは、ちょうど皇子を王に任ずるのと同じように漢の伝統である。太后が辞退される謙虚さは尊いが、それでは私の気持ちがおさまらない。私の伯父たちは年かさるにも拘らず、位たるや極めて低い。もし、このまま伯叔父が死んでしまえば、私のこの不孝は取り返しがつかない。どうか私の願いを聞いて欲しい。』
帝省詔悲歎,復重請曰:「漢興,舅氏之封侯,猶皇子之爲王也。太后誠存謙虚,奈何令臣獨不加恩三舅乎!且衛尉年尊,兩校尉有大病,如令不諱,使臣長抱刻骨之恨。宜及吉時,不可稽留。」
帝、詔をかえりみて悲歎し、また重ねて請いて曰く:「漢、興りて、舅氏の封侯、なお皇子の王になるがごときなり。太后、誠に謙虚にそんすも,いかん、臣をして、ひとり三舅に恩を加えざらしめんとするや!かつ、衛尉、年、尊し,両校尉、大病あり。もし、諱まざらしめば、臣をして長く、刻骨の恨みを抱かしめん。宜しく吉時におよび、稽留すべからず。」
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馬太后は、再度、その不可なる理由をあげて章帝を諭した。それでようやく章帝もあきらめた。馬太后は、自分の親戚を高官につけなかっただけでなく、贅沢を排除し、法を厳格にまもった。誠に中国では、何百年に一人出るか出ないかの賢婦人であった。
私が中国の歴史で感心するのは、親子間でも熱心な議論がなされ、それが記録として残っていることだ。一面では、煩瑣で空疎な教義論争に陥る危険性もなきにしもあらずだが、それでも議論することをためらってはいない。そうして、お互いに十分論述したあとで、始めて妥協点を見出している。
章帝の時代に、できた『白虎議奏』(別名:白虎通義)という書がある。これは、章帝の面前に学者が一同に会し、五経の内容や文字の異同について議論したのをまとめたものである。良い・悪いの評価は別として、このように公開討議で議論を尽くすという伝統は、日本には根づかなかったようだ。
章帝は養育してくれた恩に報いようとして、馬太后の親戚(外戚)に封侯(領土と爵位)を与えようとしていたがなかなか言い出せなかった。
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資治通鑑(中華書局):巻46・漢紀38(P.1477)
たまたま日照りが続き、雨が降らなかった。それで、官吏の中で、この日照りは外戚に適切な領土を与えなかったせいだ、と言い出す者が現れた。それを漏れ聴いた太后はそれに反発してこういった。『こういう事を言い出す者は、私にとりいろうとする下心のある連中だ。昔は王氏の伯叔父が同日に封ぜられた時には、黄砂が天一面を覆ったと聞いたことはあるが、それで雨が降ったとは聞いたことがない。そもそも、外戚が威張って王朝が安泰だったことはない。それで、先帝の明帝は自分の伯叔父を要職に授けなかったではないか。。。』
會大旱,言事者以爲不封外戚之故,有司請依舊典。太后詔曰:『凡言事者,皆欲媚朕以要福耳。昔王氏五侯同日倶封,黄霧四塞,不聞注雨之應。夫外戚貴盛,鮮不傾覆;故先帝防愼舅氏,不令在樞機之位。。。』
大旱に会う。事を言う者、おもえらく、外戚を封ぜざるが故なりと。有司、旧典に依らんことを請う。太后、詔して曰く:『およそ、事を言う者、皆、朕に要福をもって媚んと欲すのみ。昔、王氏の五侯、同日、ともに封ぜらるも、黄霧、四塞し、注雨の応を聞かず。それ、外戚、貴盛にして傾覆せざることすくなし。ゆえに、先帝、舅氏を防慎し、枢機の位にあらしめず。。。』
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馬太后が例にひいた五侯とは、前漢の成帝が母・孝元皇太后の伯叔父、五人を同日に一度に封じたことを言う。(五人同日封,故世謂之「五侯」)この五侯以来、王氏の勢力が強くなり、ついには、王莽が漢の王朝を簒奪して新を建国することになる。その二の舞にならないように、と馬太后は章帝を固く諌めたのであった。
中国では伝統的に、自分の論理を強めるには、単にロジックやレトリックだけでなく、必ず典故を引用するのが好まれた。というより重要視された。この伝統は現在の中国でも脈々と息づいている。典故を持ち出して相手を説得するのが、水戸黄門の印籠に匹敵することを、残念ながら、ほとんどの日本人は知らずにいる。この意味で、私は漢文を理解することの方が、現代中国語を知るよりもはるかに重要だと考えている。
さて、章帝は今度は泣き落とし作戦に出た。
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資治通鑑(中華書局):巻46・漢紀38(P.1478)
章帝は、その詔を見て、嘆き悲しんで再度、太后に頼んだ。『伯叔父を封ずるのは、ちょうど皇子を王に任ずるのと同じように漢の伝統である。太后が辞退される謙虚さは尊いが、それでは私の気持ちがおさまらない。私の伯父たちは年かさるにも拘らず、位たるや極めて低い。もし、このまま伯叔父が死んでしまえば、私のこの不孝は取り返しがつかない。どうか私の願いを聞いて欲しい。』
帝省詔悲歎,復重請曰:「漢興,舅氏之封侯,猶皇子之爲王也。太后誠存謙虚,奈何令臣獨不加恩三舅乎!且衛尉年尊,兩校尉有大病,如令不諱,使臣長抱刻骨之恨。宜及吉時,不可稽留。」
帝、詔をかえりみて悲歎し、また重ねて請いて曰く:「漢、興りて、舅氏の封侯、なお皇子の王になるがごときなり。太后、誠に謙虚にそんすも,いかん、臣をして、ひとり三舅に恩を加えざらしめんとするや!かつ、衛尉、年、尊し,両校尉、大病あり。もし、諱まざらしめば、臣をして長く、刻骨の恨みを抱かしめん。宜しく吉時におよび、稽留すべからず。」
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馬太后は、再度、その不可なる理由をあげて章帝を諭した。それでようやく章帝もあきらめた。馬太后は、自分の親戚を高官につけなかっただけでなく、贅沢を排除し、法を厳格にまもった。誠に中国では、何百年に一人出るか出ないかの賢婦人であった。
私が中国の歴史で感心するのは、親子間でも熱心な議論がなされ、それが記録として残っていることだ。一面では、煩瑣で空疎な教義論争に陥る危険性もなきにしもあらずだが、それでも議論することをためらってはいない。そうして、お互いに十分論述したあとで、始めて妥協点を見出している。
章帝の時代に、できた『白虎議奏』(別名:白虎通義)という書がある。これは、章帝の面前に学者が一同に会し、五経の内容や文字の異同について議論したのをまとめたものである。良い・悪いの評価は別として、このように公開討議で議論を尽くすという伝統は、日本には根づかなかったようだ。