限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第196回目)『リベラルアーツとしての哲学(その8)』

2013-01-20 22:03:31 | 日記
前回から続く。。。

ここまで、私の哲学遍歴を辿りながら、主として西洋と東洋の哲学者について述べてきた。当然、哲学とはその他の文明(エジプト、メソポタミア、インド、イスラム、ユダヤ、ペルシャなど)にもあるが、私はあまりよく知らないので省略する。

【リベラルアーツの観点からの哲学】

さて、いよいよリベラルアーツの観点から哲学を考えることにしよう。『リベラルアーツの観点から』という意味は、哲学の教理そのものではなく、哲学が社会に与えた影響を考えることだ。宗教が社会に与えた影響は、例えば日本における奈良時代や平安末期・鎌倉時代の仏教の普及を考えても分かるように、非常に大きい。(しかし、これは日本人が仏教の教義を納得したと言うことを意味しない。奈良時代の仏教の普及は仏教と共にもたらされた中国の華やかな物質文明に幻惑させられたからであり、平安末期・鎌倉時代の仏教の普及は末法からの救いを求めた極めて現世利益志向がその主たる理由であった、と私は考えている。)

日本では哲学の影響というとあまり思いつかないかもしれないが、以前のブログ、沂風詠録:(第173回目)『グローバルリテラシー・リベラルアーツ・教養(その4)』に述べたようにそれは、日本人が本来的に思弁的でないため、形而上学的な言説を胡散臭いと感じるからである。しかし、世界的基準(グローバルスタンダード)からみると日本人のような非思弁的な民族はマイノリティといえる。三大宗教のキリスト教やイスラム教はいうまでもなく、大抵の民族には死んでも譲れない強固な理念がある。あるいは、理念のためには死をも辞さない。さらには、理念の為に死ねことは祝福されるべきことだとまで考える人達がいる。

哲学が社会に与えた影響をリベラルアーツの観点から考えてみよう。

【西洋】

ギリシャ哲学は紀元後1,2世紀、ローマ帝国内に、ストア派、エピクロス派の形で広まった。この二つの流派に共通しているのは、清貧、克己、寡欲、人類愛、理性重視である。私の理解では、この二派は社会と個人の係りあいにおいてのみ対立する。ストア派は社会へ積極的に関与すべしと言うのに対して、エピクロス派はあくまでも個人の内面的充実を優先する。しかし、社会と全くの没交渉ではなく、優先順位が個人が社会より先に立つだけの話だ。その上キリスト教の倫理観とも、神への帰依を除き、かなりの部分オーバーラップする。ただ、この二派は人間はあくまでも理知的な存在であるのに対して、キリスト教は神への信仰にすがることで悩みから救われると教えた。理性と信仰、この差が、ローマのインテリ階級にしか広まらなかった二派と、階級や民族関係なく広範な普及をみせたキリスト教との決定的な差であった。

歴史が示すように、毎日の生活に呻吟していたローマの下層階級を中心としてキリスト教が広がり、とうとう 380年にはテオドシウス帝によってキリスト教がローマ帝国の国教となった。しかし、この時点のキリスト教は教義の点ではプリミティブであった。磨かれざるダイヤモンドであったのだ。それをギリシャ哲学に造詣深いビザンティンのキリスト教父たちがアリストテレス的論理を駆使してキリスト教の教義を磨き上げることで、荘厳なキリスト教神学が完成した。その結果、本来的に人間性豊かな(キリスト教的観点からは猥雑な)ギリシャ・ローマ哲学がキリスト教の皇帝から首根っこを押さえられ窒息させられた。例えば、プラトンが紀元前387年に創設した哲学の殿堂のアカデメイア(Akademeia)も529年に閉鎖を命じられ、900年にもわたる歴史を閉じたのもこの余波であった。

棄てる神あれば拾う神あり、の諺どおり、幸いにもヨーロッパ世界でお払い箱になったギリシャ・ローマ哲学は別天地、アラビアのイスラム教徒に救い挙げられ、息を吹き返した。イスラム圏では9世紀のアッバース朝にギリシャ哲学をはじめとするギリシャ文明の精華が次々と翻訳され、注釈を付けられ、伝承されていった。11世紀末になって、突如、ヨーロッパと中東を巻き込んだ一大厄災の十字軍が勃発したが、その混乱のおかげで -- あるいはささやかな余慶、と言うべきか? -- イスラム世界で大切に保存されていたギリシャ・ローマの哲学と医学が実に千年ぶりにヨーロッパに里帰りした。そして 12世紀以降、かつてのギリシャ哲学の懐疑主義、実証主義がヨーロッパの乾いた精神風土に蘇り、ここにヨーロッパの近代科学的合理主義が芽生えた。『思えば、遠い回り道をしたものだ!』と言うべきか。

【中国・朝鮮】

中国では、天命の思想が儒教(正確には孟子)によって『易姓革命』として理論化される。その後、この『易姓革命』理論が反政府運動家のご用達、いわば水戸黄門の葵のご紋のように、いつでも、どのような環境においても通用する手形となった。民衆が不満を爆発させるのは天の意思だと勝手に唱えることが正当化されたのだ。言ってみれば、孟子の一言が、その後の中国2500年の混乱の発火点となったのだ。

朱子学は西洋では Neo-Confucianismと呼ばれる。Neo という意味は、孔子の言説を朱子が当世風に言い直したということだ。具体的には、儒教が金科玉条とする三綱五常や華夷秩序を朱子が理気二元説や性即理の理論として再構築した。朱子の『理』をまともに理解しようとしてノイローゼになったため、遂には朱子の理論に反旗を翻したのが王陽明であった。朱子の『性即理』は間違いだと否定し、その代わり『心即理』であるべきだとした実践重視の陽明学を樹立した。感性に軸足を置く陽明学は、理に主軸を置く朱子学が世を席巻していた中国や李氏朝鮮ではまったく振るわなかった。

【日本】

日本においては江戸初期に中江藤樹が陽明学に心酔してから、熊沢蕃山、大塩平八郎、佐久間象山、山田方谷、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、等々、綺羅星のごとく数多くの優れた陽明学者が現れ、幕末、明治維新に計り知れない貢献をした。

【参照ブログ】
 百論簇出:(第43回目)『陽明学を実践する前にすべきこと』
 百論簇出:(第120回目)『陽明学を実践する前にすべきこと(続編)』

日本では儒者と並んで実務者が評価された。例えば、日本人で、安積澹泊(あさか・たんぱく)や佐藤一斎(さとう・いっさい)は知らなくとも杉田玄白や伊能忠敬を知らない人はいない。しかし、安積澹泊は水戸藩の彰考館の総裁に就任し、『大日本史』の編纂に多大な貢献をした碩学であり、一方の佐藤一斎は徳川幕府の東大の総長ともいうべき昌平黌の大学頭という儒者としては最高位に昇った人であった。この二人に比べると、杉田玄白や伊能忠敬は単なる一民間であったので、社会的地位や学識においては前二者に遥かに及ばない。しかし、実利を重視する日本の風土では、杉田や伊能のような実務派の人達でも立派な業績をあげれば高く評価される。しかし、朱子学に凝り固まり、実務や技術を蔑視した中国や李氏朝鮮では一度として実務者を評価することはなかった。

リベラルアーツの観点から考えると、哲学(朱子学)が社会の発展に非常にネガティブな重大な影響を与えた、と言うことになる。



【東西の観念論者の宇宙論】

ヨーロッパにしろ中国・李朝にしろ観念論が思想界を牛耳ったために、社会が停滞した例は、これ以外にも、彼らの唱えた『宇宙論』に見ることができる。観念論者と言うのは、自然現象をじっくり観察することなく、頭のなかだけで宇宙論を捏ねくる。

例えば、アリストテレスは次のような宇宙論をもっていた。

『地球は宇宙の真ん中にあって不動である。』(『天体について』Book2, Section 14)
It is now clear that the earth must be at the center (of the universe) and immobile.

中国でも朱子の宇宙論はアリストテレスばりの観念的なものであった。
『氣之清者便爲天,爲日月,爲星辰,只在外,常周環運轉。地便只在中央不動,不是在下。』(『朱子語類』 巻1―23)
(私訳:澄んだ気が天となり日月となり星辰となっていつも外側をぐるぐる回っている。地は真ん中にあって動かない。下にあるのではない。)

客観的事実に基づかない原理をベースとして宇宙を考えるため説明が尽くデタラメで妄想と変わらない。一歩譲っても、論理的妥当性に欠けるサイエンスフィクションだ。演繹的思考が馬脚をあらわしたと言えよう。

私が子供のころ火星人の形状がいろいろと議論されていた。大人たちがどの程度真面目に火星人の存在を信じていたのか、当時の私には分からなかった。ただ、火星の重力は地球の1/3しかないので、火星人というのは頭でっかちで、ひょろながい腕と脚をもっていると想像されていた。しかし、近年の惑星探査機、Mars Pathfinder(マーズ・パスファインダー)で、火星人の存在が否定された。つまり今や火星人の形状を議論することは全く意味がない。ましてや、火星人の文明や家族生活などの議論は滑稽そのものだ。精密な観察データをベースとしない、アリストテレスや朱子などの観念論者の議論は火星人についての議論同様の滑稽さを感じる。

続く。。。
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2 コメント

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神はサイコロ遊びをする (ああいえばこういう熱力学)
2024-03-25 02:18:58
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。なつかしい日本らしさというか多様性を秘めた多神教的魂の世界の力によって。
ビジネスにおける多様性 (グローバルサムライ)
2024-04-06 21:37:15
ひるがえってみると明治維新が起こらなかったら今のような多神教的な先進国としての日本はなかったのではと思ったりもします。

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