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三河・小代城 久保城の対岸にあり、古城の地名と砦の伝承が残る

2020-02-24 | 歴史

小代城は愛知県岡崎市石原町古城にあります。古城も小代も こじろ と呼びます。
 小代城のあった場所は、現在小学校となり、遺構はありませんが地名の古城(こじろ)地内になっています。図1の砦も伝承の場所ですが、小代城の詰の城としての存在が考えられそうです。
 今は小学校だけになりましたが、以前は中学校も同じ敷地内にありました。
南側を流れる男川を挟んだ対岸には久保城があります。久保城は以前のブログ(2019/3/7)で紹介していますが今回は小代城を中心に紹介します。
 今回の資料は「宮崎村誌」1932 と「奥平氏と額田」2005です。


小代城と砦 図1  国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆  旧道、高橋、曲淵、内久保橋を加筆
 小代城は久保城を築いた奥平氏との関連が有ったと思われますが小代城の存在の確実な文書はないようで、昔から久保城の地を城山、小学校の地を古城と呼んできたとされます。旧宮崎村地内には大代(おおじろ)の地名が残りますので大代との関連で小代の文字を後に宛てたのかもしれないと思いますが、どうでしょう。
 旧道は男川を高橋で渡り久保城の下を巻くように通り中金へ抜けていました。古くは中金には奥平氏の一族が住していました。今は内久保橋が建設され高橋も旧道も失われました。


小代城と砦 右に小学校、左に砦の尾根
 学校を建設するときに東側を大きく拡張し北側も少し削り取ったようですので、往時の地形とはかなり変わってしまったと思われますが、砦のある尾根は耕作地となって残されていました。


小代城と砦 砦の地には昭和の時代に舗装の林道が開発され住宅も建った
 林道が作られるまでは、尾根上の砦の耕作地には南側の市場側から登る道があったようですが、今は新しい林道が開発され住宅が建っていました。「市場」地名が小代城と関連しているかは不明ですが、市場には奥平氏重臣の末裔の名字の家が今でもあるようです。


小代城と砦 砦があった尾根の耕作地 最近は使われていないようだ
 古くには砦の削平地があった尾根を耕作地として利用したのか、後世に耕作地として拡張削平したかは分かりませんでしたが、尾根の先端まで広い平坦地がありました。砦の遺構は見当たりませんでした。


小代城と砦 砦から見下ろすと急峻な崖が小学校まで切れ落ちている
 砦は小学校の西側の尾根上にあります。尾根から小学校までは急角度の崖になっていました。砦があったとすれば小代城からの道があったはずと思い付近を捜してみましたが、小学校側から砦へ登る道は見つけられませんでした。

【 曲渕の伝説 】図1の久保城直下の男川に曲渕(まがりふち)があります。奥平氏が久保城を築城して、その後「曲渕甲斐守」が久保城の城主になった。曲渕甲斐守は貧弱な城主で、時折村人にものを貰った。正月に餅を搗くとその音を聞きつけて餅を奪いに来るので、住民は餅臼の下にワラやムシロを敷いて音がしないようにして餅をついた。(「宮崎村誌」1932を要約)
 曲淵は川の曲淵から付けたのでしょうが、甲斐守は甲斐の武田のことではないかと思います。奥平氏は武田氏と敵対して、多くの犠牲を払ったので「甲斐守は貧弱な城主」という武田氏を揶揄する伝説を生み出したのではないかと思いますが、どうでしょう。

※小代の地名は各地にあり「小さな田んぼ」の地とされますが、ここでは古城の地名から小代城とし、久保城と区別するようになったのではないかと想像しました。