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三河・木和田古屋敷と木和田城 

2021-08-06 | 歴史

木和田古屋敷と木和田城は愛知県新城市作手木和田にあります。木和田地区には木和田古屋敷、木和田城、木和田城ケ根城がありますが名称の混乱が有り、伝承されている城主や来歴なども「諸説あり」のようです。
 また木和田城の位置については資料により異なっていて、今回の見学では明確な城郭遺構を探し当てることが出来ませんでした。
 参考資料は (1)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997  (2)「史跡散策 愛知の城」山田柾之著1993  (3)「作手村誌」作手村教育委員会1982 (4)「続つくで百話 新輯版」作手高原文化協会1979 です。
 作手菅沼氏の祖木和田氏がここに住み木和田氏を名乗り後に作手菅沼に移ったという説、作手奥平氏の家老桜井氏が領したという説などがあるようです。
 木和田の語源は「涯田」でキワダと読み木和田の字を宛てたのではないかとされているようです。


木和田地区 城塞位置と旧道 旧道は明治24年の旧地図より
 旧道は往時の道とは異なっているかもしれませんが、現在の車の道とも異なった歩く道で、現在は踏跡もほとんど残っていませんでした。木和田地区の城塞と旧道の関係は明確にはわかりませんが木和田古屋敷は三河山間部の奥まった谷間にあり現在は過疎化が進んでいました。
 木和田地区の見学は二度目ですが前回は資料(1)で示された木和田城の遺構を発見できず今回再挑戦でした。


木和田城 前回とは異なるルートで表示の場所を訪れた
 資料(1)の縄張図を頼りに地形観察をしましたが、図に該当する地形が見つけられません・・・


木和田城 資料の図に該当しそうな地形を探す
 資料で示された場所の周囲も含めて歩き回りましたが、該当する地形が見当たらず、結局今回も断念して、地図上で付近の平場がありそうな尾根のC地点へも足を延ばしてみました。

  
木和田城 図1 C地点 尾根を削平して段のある大きな平場があった
 真夏の山中を歩き回ること2時間で、C地点にたどり着いたころにはヘトヘトでした。C地点には尾根を削平した段のある広い平場がありました。ヒョットすると期待しましたが、資料(1)の木和田状の地形ではありませんでした。・・・・というところまでで退散しました。結局今回も木和田城の発見は出来ませんでした。 一休みして気を取り直し、木和田古屋敷に向います。


木和田古屋敷 付近のお宅は木和田さんさんだらけ
 木和田古屋敷の周辺にお住まいの方は木和田姓の方がほとんどで、木和田氏に関係するの子孫の方々とすれば、作手菅沼の祖がここに住んだという説も「有り」のような気がしますがどうでしょう。
 オオヤシキ、モンスケヤシキ、分家1、分家2は往時の屋敷跡とされますが今は分家1以外は田地となっていました。 ※それぞれの名称は、以前見学に来た時に付近の方にお聞きしたものです


木和田古屋敷 モンスケヤシキとと分家1 東上から
 モンスケヤシキは耕作地となっていますが、一番広い面積がありそうでした。


木和田古屋敷 オオヤシキと分家2 東から
 オオヤシキと分家2は耕作地となっていました。オオヤシキは背後に光林寺がありますが屋敷跡としては一番高い位置にありました。往時は集落の奥まった高所に屋敷を構え一帯を支配していたのではないかと想像しました。


木和田古屋敷 オオヤシキ背後の光林寺跡の石垣
 光林寺の堂宇は残されていませんが石垣が残っていました。光林寺跡の周囲には墓地跡らしき平場や耕作地などが残っていますので、城郭遺構のような地形の雰囲気がありました。


木和田古屋敷 付近の沢 水量が豊富で山田の収穫も多かったか 
 平野部の水田を見慣れた眼には、今は過疎化が進む山間僻地の狭い棚田と見えますが、往時としては木和田の地は水が豊かな山田で収穫が多かったのではないかと思いました。

木和田城は再び敗退しましたので、帰りがけに作手歴史民俗資料館に立ち寄って資料をいくつか見せていただきました。
 その結果、図1のAまたはB付近に木和田城が所在する可能性が在りそうだとわかりました。機会があれば、改めてリベンジしたいと思います。

※木和田城ケ根城は別の日に見学しましたので別途記事にしたいと思います。




 

 

 


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