中島城は滋賀県長浜市小谷丁野町にあり、中島砦とも言われます。
今回は「図解 近畿の城郭Ⅲ」を資料として見ながら、現地案内板も参考に見学しました。
資料によれば、織田信長による小谷城攻撃に備えて援軍の朝倉氏の勢力によって丁野山城と同時に築かれた可能性が高いとされます。中島城は、北西に続く尾根上に丁野山城があり、東に伸びる尾根にはいくつもの古墳がありました。
中島城 主郭①と虎口でつながる西側の曲輪②の虎口③付近に案内板が設置されている
資料の縄張図よりも20年以上前に描かれた縄張図です、後に四阿が建てられているとみられることなどから推測すると、その後の変化が多少あったのかもしれません。。
中島城 城址北側から登ると東方向に浅い堀切越しに四阿が見えてくる
この地点から西(反対側)に進むと丁野山城があります。中島城は一部が公園化され多少の改変はありそうでしたが、主だった遺構はハッキリと原形を保っていました。
中島城 城道を登ると曲輪②へ入る虎口に出る
虎口③付近の地形が案内板と資料では微妙に差があるようでしたが、遊歩道的な歩きやすい道になったのかもしれません。点線方向に行くと主郭北下の横堀と土塁がありました。
中島城 曲輪②の虎口 奥に案内板が見える
曲輪②の虎口③を登ると案内板が立っています。虎口の遺構は往時のままではないかと思えるほど、くっきり残っていました。
中島城 虎口③を登って曲輪②に入る。 主郭の土塁上から見下ろす。 曲輪周囲の土塁が残る。右手の虎口④から主郭へ
主郭①の西下にある曲輪②の周囲を囲む土塁も良く残っていました。外周には堀がないようでした。主郭には東と北に横堀がありますので、曲輪②の防禦は主郭よりも厳重でなくても良いという判断がされていたのでしょうか? 丁野山城との関連があったとも考えられそうですね。
中島城 主郭①
虎口④で主郭に入ります。四周を囲む土塁がよく残っていました。人物の背後の土塁は、資料によると櫓台状と評価されています。曲輪内部には目立った地形や遺構はなさそうでした。
中島城 主郭①の東下の横堀と土塁 右手の上に主郭①
主郭の東下と北下には横堀が有りました。一部は通路として使われていたようです。外側の土塁は堀の土を盛り上げた程度で高くないものでした。
中島城 東尾根の土橋と堀切⑥ 左側の堀切は竪堀になって山すそ近くまで下っている
主郭の東側の尾根には、大きな堀切と土橋がありました。写真左手(北側)の堀切は竪堀となって尾根の裾まで堀切られていました。土橋は往時のままか、後世の山道として埋められたものか、現状では判断できませんが資料では埋められたとすれば、木橋がかかっていてもおかしくないとされています。
中島城 土橋を渡った先の尾根上にはいくつもの古墳がある
東の尾根には古墳が点在し、平坦面もありました。往時にこの辺りが軍事的に使われていたのか判然としませんが⑥の厳重な堀切を見ると一時的な兵の駐屯は有ったかもしれませんが⑥の東側は城外だったのではないかと思いました。
中島城は、隣接する丁野山城と一緒に見学出来ましたので、二つの城郭の明確な遺構見学を楽しめました。