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竹谷城 三河 絵図と照合して往時の姿を想定する 東海古城研究会の見学会で見学

2023-03-27 | 歴史

竹谷城は愛知県蒲郡市竹谷町にあります。2023年2月21日に東海古城研究会の見学会で訪れました。当日資料によると、松平宗家三代目信光の長男守家が竹谷の地を与えられ、竹谷松平を名乗ったとされます。築城は十六世紀初頭と伝えられているようです。今回の参考資料は(1)見学会当日資料   (2)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997  (3)広島市中央図書館所蔵 浅野文庫「諸国古城之図」より「三河宝飯 竹ノ谷」  (4)「愛知の山城ベスト50」愛知中世城郭研究会・中井均編2010  などです。


竹谷城 占地は埋立て前の三河湾に近く街道も城の南側を通っていた
 鵜殿氏の上ノ郷城が北東約2kmにあり、竹谷に進出した松平氏と共存していた時期があった思われ、港には約200mと近く、東西を結ぶ主街道とも接していましたので軍事的にも経済的にも重要な場所だったのではないでしょうか。 ※上ノ郷城は→こちら


竹谷城 広島市中央図書館所蔵 浅野文庫「諸国古城之図」より「三河宝飯 竹ノ谷」
 竹谷城は諸国古城之図に描かれ、現状の地形とかなり一致している様に思えましたので、絵図を参照して往時の姿を想定してみました。 ※諸国古城之図は広島市中央図書館の画像提供・掲載承諾で掲載しています


竹谷城 絵図にあるが現況ではBCDEの遺構は失われている 
 絵図に描かれている地形は住宅地が造成されるまでほぼ残されていたと思われますので、絵図を参照して遺構を想定してみました。堀はAが現存しますが堀B、道Cは失われているようです。堀は水堀の部分もあった可能性もありそうですが、現況では判断できませんでした。Ⅰ郭の南西隅の方形遺構Dと橋Eは現地では見当たりませんでした。Ⅰ郭北西部の小曲輪⑤は失われたようです。


竹谷城 Ⅱ郭 南から ソーラーパネルが設置された 奥にⅠ郭
 Ⅱ郭は近年ソーラーパネルが設置され立ち入りできませんが、平面地形は残されていました。絵図によるとⅡ郭には東側からの通路が描かれていますが、後世の改変で南側からの道が付けられていました。Ⅱ郭からは階段状の通路で小曲輪⑧へ登るように絵図では描かれています。


竹谷城 堀A 東から  右にⅠ郭  左に土塁⑦  
 絵図にある堀の多くは宅地造成などで失われましたが、堀Aは明確に残り往時の姿を想定する手掛かりとなりました。絵図では堀Aに橋が描かれていましたが現地で確認できませんでした。


竹谷城 堀切AからⅠ郭切岸を見る 西から      ※人物と比較して高さを確認
 Ⅰ郭の周囲を取り巻く堀によって造り出された高さ5mを超すような切岸が竹谷城の守りの要となっていたと想定出来ました。


竹谷城 小曲輪⑧ 一部が削られて土塁状に残る 東から
 資料(2)作成時点では小曲輪⑧がかなり残っていた様ですが、現況ではかなり削り取られて土塁状の地形となっていました。


竹谷城 小曲輪⑧と堀A  奥にⅠ郭    この辺りに橋Eが在った?
 絵図にはⅠ郭と小曲輪⑧の間に橋Eが在ったように描かれていますが、現況では確認が出来ませんでした。


竹谷城 土塁⑪ 今は道となったか 東から
 絵図によるとⅠ郭南東隅から延びる太い土塁が描かれていますが、現況の見学路となっている道がこれにあたると想定しましたがどうでしょう。


竹谷城 Ⅰ郭に建つ城址碑
 見学路を登ってⅠ郭に入ると城址碑が建っていました。資料(4)によるとⅠ郭では発掘調査で柱穴や遺物が多数検出され、周囲の堀底は一部が石敷きで通路としての使用の可能性が指摘されていました。


竹谷城 Ⅰ郭 南から 今は一部がミカン畑
 Ⅰ郭の周囲は土塁で囲まれていたと想定できそうですが、現況では北西隅に土塁が一部に残っているのが見られました。蒲郡地区はミカンの栽培が盛んで、上ノ郷城もそうですが竹谷城も一部がミカン畑に利用され土塁のほとんどが削り取られたのではないかと思いました。


竹谷城 Ⅰ郭 北西隅の通路  右に道② 左に道③  手前に平場④    北から
 絵図には描かれていませんが、資料(2)(4)では道③が描かれていました。現況では道②もありましたので道②は最近のもののようですね。絵図の通りだとすると、曲輪⑤が孤立していますのでヒョットするとⅠ郭との間に通路が在ったのかもしれません。もし有ったとすれば平場④を通る折れのある道③だったと思われます。写真右に土塁①左に土塁⑥が写っています。


竹谷城 Ⅰ郭 西辺の通路⑩ 東から
 Ⅰ郭の西辺には通路⑩がありましたが絵図にも資料(2)(4)にも描かれていませんでした。近年の通路かもしれませんが、最近は使われていないようでした。


竹谷城 Ⅰ郭 西辺 北から    堀跡か   左にⅠ郭切岸
 Ⅰ郭西辺の曲輪⑤付近ですが、今は宅地となり遺構は失われました。切岸の下に往時は堀Bが在ったと想定できそうでした。


竹谷店 Ⅰ郭 北辺切岸の平場⑨ 東から 左上にⅠ郭
 Ⅰ郭北辺には幅の狭い腰曲輪がありました。絵図では描かれていませんが、資料(2)(4)では示されていました。


竹谷城 Ⅰ郭東辺の切岸   北から  右上にⅠ郭
 絵図では切岸の下には堀Bが描かれています。現況は住宅が建ち、地形は大きく改変されていましたが、高くて急な切岸は確認できました。

竹谷城は城址碑の建つ主郭部が残るだけのイメージを持っていましたが、見学会を機に絵図を参照しながら想定してみると、意外に往時の姿を明確に思い描くことが出来て良かったです。
 ※東海古城研究会の見学会案内・問合せは公式Twitterで(当ブログのPCサイト版右下にリンクがあります)。